chapter5:大田探偵事務所
扉を開けると涼やかなベルの音が来客を報せるために鳴り響く。仕事熱心なのは感心だが生憎と私は来客ではなく此処の職員にして唯一の助手見習いだ。
此処は大田探偵事務所。
雑居ビルの二階に位置する何でも屋のような職場。
失せ物探しに素行調査、トラブルシューター、用心棒、色々な案件を取り扱っている――但し、引き受けるかどうかは探偵次第である。
大田シュウクロウ、このビルのオーナーにして大田探偵事務所の探偵でもある御仁は壮年の男性で銀に近い白髪に逞しい体躯、顔には傷痕と堅気には到底見えない人物で怪しさを凝縮したかのような人だと言える。
怪しい風貌とは違い仕事に真摯であり、短い期間ながら数多くの技術と心構えを私に教えてくれた尊敬できる先生でもある。
しかしながら先で述べたように怪しい風貌のためか人は寄り付かず、誰かに紹介されてくる依頼人が殆どで紹介された人も入って回れ右して帰っていってしまうなんてことさえあった。
地味に傷付いたらしく、その日はため息ばかり吐いていた。
背中からは哀愁を漂わせて。
そんなワケで助手も付かず一人でこの探偵事務所を切り盛りしていたのだが私がやって来たことによって晴れて助手ができたのである。まるで孫ができたことを喜ぶ祖父のように嬉しげな先生は「儂に君のような若い助手が出来るだなんて実に感慨深い」だなんて言っていた。
最初のうちは戸惑いつつ先生の仕事ぶりを横に付いて回る日々を過ごし、少しずつ雑用や電話対応などさせてもらっている。
分からないことがあれば気軽に聞いて欲しいと言われてはいるものの来客は少なく来たとしても大抵の場合が常連さんなのであまり役に立った例がなく専ら掃除や過去に扱った事件資料を読んで勉強することが私の日課となった。
『インスマスにおける連続失踪』
『人工知性による連続殺人』
『廃ビルの異音調査』
どの事例も共通点がある、それは人には犯行不可能な事件。
そう、この探偵事務所が引き受ける仕事は主に超常現象を扱う事件が多いのだ。
異世界からの来訪者が来る以前から先生は単独で怪異や異界からの侵略者、異能者と渡り合ってきた。
古今東西の伝承や慣習、民俗学から天文学など必要だと思った知識は貪欲に吸収し研鑽を常にされている。
予め対処法を用意し、滞りなく事態の処理を行う仕事人。そんな姿からか巨匠とも呼ばれているそうだ。
仕事机に広げられた各種新聞に目を通し、手元の手帳には何やら書き込みを行なっていたがこちらに目を向ける。
「少し早いね。おはようロベリア君」
「おはようございます先生。本日のご予定は?」
「なに、必要経費の請求書と午後に来客が一件あるくらいだ」
「了解です。何か気をつけることは……」
挨拶もそこそこに領収書の整理と来客について私は取り出した手帳にメモを取る、後から確認できるメモは重要だ。
午後に出せるようにお茶菓子の用意などもしておかねばならない、客人はアレルギーなどは無いのだろうか?
気になる点は逐一質問し、連絡を終えると早速事務所内の清掃から始める。それが終われば書類整理に勉強、過去の事件資料に目を通しておく。
分厚いファイルから顔を上げれば時間がかなり経過していた、来客用のお茶菓子だが既に先生がカケルに手配させていたので私にやることはない。
読み終えた資料を棚へ戻し、何をすればいいのか聞きに行く。
先生はパソコンを見つめ眉間に皺を寄せて唸っていた。
何かしら手違いがあったのか、はたまた予定が狂ったのか、良からぬことがあったことには間違いないだろう。
深々とため息を吐き、目元を解している。
「先生、事件資料を読み終えたのですが…どうされました?」
「もうそんな時間かね。ふむ、大したことではないのだが」
先生の大したことではないは大抵大したことだから困る、何でも出来ることの弊害のようなものだ。
今日の大したことのない一大事は何なのか、正直言って不安。
「神宿の裏路地で変死体が発見されたらしい、儂を直々に指名している以上は我々向けの仕事だろう」
大当たり、全然大したことだった。
そもそも死体相手の仕事は警察か葬儀屋が一般的で私たちが出張る以上は動く死体であったり動かせない死体辺りが現れたということだ、どっちにしたって御免被りたい。
崩れかけた生モノを鑑賞するなんて悪趣味は持ち合わせていないのだから。
しかしなから仕事は仕事、先生も午後に訪問する予定だった方に断りの電話をしている、個人的な付き合いだったようだ。
新しい助手の紹介をしたかったって――私のことか。
友人へのお披露目がしたかったのか、言ってくれたらお世話になっている以上、休みでも時間を作るのに。
兎に角、本日のこれからの予定は全てキャンセル。
急遽入った非常識な現場へと赴かなければならない、果たして何がオカシイ現場なのか気になるけど一応エチケット袋を用意しておこう。
なんてったって初現場入りですもの、資料では臭いとか感触とか空気は感じられないですしね。
マスク、手袋、エチケット袋、あとは……ピンセットとかビニール袋は鞄に一式収められているから大丈夫かな?
ネコミミの付いた革のキャスケットに上着を羽織り、私には少し大きい年季の入った革のトランクを持ち上げる。
必要な道具はトランクの中、勿論しっかり確認済み。
上着とネコミミ帽子は先生からのプレゼントだったりする。やはり此処の住人は私をマスコット扱いしているようだ。
「さて準備の方は?」
「問題ありません、先生」
「うむ、場所は此処から離れてはおらん。では行くとしよう」
扉には鍵をかけて、CLOSEの札を見えるように下げる。
まあ、お客なんてまず来ないだろうから意味はないだろうけど。
大きな鞄を手に階段を駆け下りて待っている先生の後を追う、はてさていったいどんな不可解な事件なのか……逸る気持ちを抑えてビルから飛び出した。
私たちが出た数分後、誰もいない事務所を前に御茶菓子を手にして途方に暮れる青年の姿があった。