怒り、そして――。
僚艦の艦長たちと出会った翌日の午前、鞍馬たちは右舷甲板でこちらに近づきつつある巨艦を眺めていた。
かの艦はジャームが誇る弩級戦艦ヴィルヘルム。
ヴィルヘルム級戦艦のネームシップであり、ジャーム海軍の総旗艦。
ネームシップとはいうが、2番艦の建造は遅々として進んでおらず、ジャームの誇る唯一の弩級戦艦だ。
47口径38.1cm連装砲を四基装備し、その威力はメリンゲンのどの艦でも敵わない。
その一方で、ジャームの伝統というべきか、防御力をおざなりとした設計であり、遠距離からの先制攻撃を行わねばならないというハンデも背負っている。
「提督、司令がそろそろこちらにいらっしゃるようです。弁明は先ほどの打ち合わせどおりにお願い致します」
「わかりました。えっと……俺の負傷と敵の挟撃、そして主砲の不調で撤退したという感じですね。ところで、司令って……どんな人ですか?」
鞍馬は顔に緊張を色濃くにじませ、かの艦の勇壮な姿を眺める。
「現在の司令はエトムント・アードラー元帥……その……なんとも説明しづらい方です」
歯切れの悪いエルザの言葉に一抹の不安を覚えながらも、鞍馬は一国の海軍全体を統べる人だから立派な人なのだろうという、淡い期待を抱いていた。
………
……
…
ヴィルヘルムがリューツォーに追いつき、全ての艦が機関を停止した。
ヴィルヘルムから降ろされた内火艇はリューツォーへと一直線に向かってきている。
そして、内火艇がリューツォーの舷門から伸びた階段へと横付けし、十人以上の人が降りてきた。
舷門とは甲板への出入口のようなもので、そこから階段を下ろし、艦への乗降を行う箇所だ。
艦内への唯一の出入口でもある。
内火艇から降りてきたのは全員が士官である。
きっちりと礼服を着こんでいるから軍人とわかるが、書類を片手に歩く姿は軍人というより、官僚のようだ。
その集団の先頭を行くのが、お腹の大きい中年の男性だ。
無造作にうねる脂っこい髪をオールバックにしているが、髪のうねりが強いせいか、上手くまとまっていない。
口には葉巻を加え、気持よさそうに紫煙をくゆらせている。
集団は舷門をくぐり、鞍馬の前へと歩を進める。
エルザが素早い動作で敬礼をしたので、それに習い、鞍馬も敬礼する。
(この人がエトムント司令か……)
遠目で見るよりも、その巨体は迫力があった。
大きなお腹によって、礼服ははちきれそうになっており、眼前の相手に威圧感を与える。
歳のほどは五十すぎくらいであろうか。
目の端や口元に刻まれたシワは年齢を伺わせた。
「貴様のような腰抜けのために、わざわざ内火艇に乗ってきたのだ。少し疲れてな。早速、部屋に案内してもらおうか」
突然の無礼な言い草に反感を抱いた鞍馬であったが、実感がないとはいえ自らの上司である。
グッと反論を飲み込み、エルザへと目配せをした。
「……こちらへどうぞ」
エルザは鞍馬のアイコンタクトに頷き、エトムントを公室へと促す。
エトムントはエルザの言葉にいやらしく微笑み、その体を舐めまわすように見つめた。
「……なにか?」
「なんでもない。案内したまえ」
エルザは嫌悪感を一瞬だけ顔に出したものの、それをこらえ、案内を開始した。
………
……
…
司令官と提督の会談とはいえ、こんなに人がいるものなのだろうか。
エルザが案内した公室には、内火艇から降り立った全ての士官が押しかけ、部屋の人口密度は非常に高くなっていた。
「……なんでこんなに人が多いんですか?」
司令とテーブルを介し、向かい合って席についた鞍馬。
副官として、その傍らに立つエルザへと小声で尋ねた。
「……それが慣習なのです。副官や従卒など様々な人員を伴って、上位の階級のものが相手のもとを訪ねるのが軍という組織での常識です」
「……なるほどです。はぁ……」
鞍馬は早くも疲れの色を見せていた。
海軍で最も偉い司令だけでなく、その付き人も十数人ついている。
その多くの視線にさらされているのだから、鞍馬の疲労も当然のものといえた。
「さて、本題に移ろうか。……貴様の敵前逃亡についてだったな」
「閣下、早速ですが、少々宜しいでしょうか」
エトムントが口を開くと、早速エルザが発言を求めて一歩前へと進み出た。
「なんだ、エルザ艦長? 私の愛人になる決心でもしたのか?」
エトムントの相手を完全に舐めきった言葉に、彼の付き人からはクスクスと笑いが零れる。
「そのようなことは私の人生において、何があってもございません。私が申し上げたいのは、敵前逃亡という表現は適切ではないということです」
「ほう……作戦を投げ出し、敵と交戦もせずに撤退したことのどこが敵前逃亡ではないというのだね?」
司令はエルザの言葉に、ニヤニヤとしたいやらしい笑みを崩そうともせず、尋ねる。
その視線は主にエルザの胸、それから脚を行き来しており、鞍馬は不快感を抱く。
「先日も説明した通り、主砲の不調、そして提督の負傷が原因です。さらに、敵に挟撃の意図が見えましたので、撤退を行いました。事実、撤退の道中で敵艦隊と遭遇しており、あのまま戦っていましたら、挟撃されることは必至でした」
「なるほど。ということは、撤退の判断は間違っていなかったと言いたいのだな?」
「はっ。ご理解いただき、光栄です」
エルザはそう言って、一歩後ろへと下がる。
「と、貴様の副官は言っておるが……どうなのだ?」
「……その通りです。前面に展開した敵の数は明らかに少数で、私は挟撃の可能性を感じました。更に主砲の不調、私の負傷が重なったので……」
「ふむ。それでおめおめと逃げ帰ったというわけか。まぁ、政治家を父に持つお坊ちゃんには、端から何も期待しておらん」
エトムントは鼻で笑いながら告げ、一度言葉を切る。
鞍馬はエトムントの嫌味を聞き流し、黙って次の言葉を待った。
「敵前逃亡か否かということだが……今回のは明らかな敵前逃亡だな。幸いにも他の部隊に人的被害はなかったが、作戦が全て台無しだ。エルザよ。貴様がついていて、とんだ失態だな」
嫌味ったらしいエトムントの言葉がエルザに及ぶと、鞍馬は反感を通り越して怒りすら覚える。
反論するために口を開こうとすると、それを制するようにエルザが頭を下げた。
「……申し訳ございません。ですが、敵前逃亡という言葉は撤回して頂けないでしょうか? 我が艦隊は挟撃しようとした敵艦を退けております」
「敵艦を退けた……とは、駆逐艦を沈めたことを言っておるのか? たかが駆逐艦、点数にはならんよ」
「しかし、敵艦との交戦の意思がなかったわけではないという証明にはなりえませんでしょうか?」
エルザは頭を上げ、エトムントを見据える。
鞍馬は二人のやりとりに介入できない不甲斐なさに、思わず唇を噛んだ。
「……撤退するために仕方なく敵と戦っただけだろうが。まぁよい、私は寛大だ。貴様らの敵前逃亡を不問にしてやっても良い。二つ条件を出してやるから、好きな方を選べ」
「条件、とは……?」
エルザが怪訝な顔で疑問を口にする。
それを見て、エトムントの顔に今まで以上に下卑た笑みが浮かぶ。
「一つ目はエルザ、貴様が私の愛人となることだ。貴様の心、体、全てを私に捧げろ。さすれば、敵前逃亡の件には目を瞑ってやる」
「なっ……!」
(この人は一体何を言ってるんだ……!!)
エルザは屈辱に、テーブルの下で拳を握りしめた。
軍人として国に奉仕しようと決意し、これまで戦ってきたエルザを、ただ自らの都合の良い女性として扱おうとしているのだ。
軍人としての矜持、想いが踏みにじられたエルザの怒りは最もだ。
「……もう一つの条件はなんでしょう?」
エルザが怒りをなんとか堪え、震える声で問いかける。
「この艦、リューツォー一隻でメリンゲンの船を五隻沈めてこい。そうしたら、貴様らの戦闘意欲は問題ないとみなしてやろう」
「……っ!」
思わず息を呑んだ鞍馬がエルザを見やると、エルザの端正な顔は様々な感情が入り混じって歪み、唇は震えていた。
「我が艦のみで五隻など……無理に決まっているではありませんか……っ! 閣下も誇り高き海軍軍人でしょう! 我が艦に乗っている将兵たちを……祖国のために戦う彼らをなんとお考えかっ!! 私にそのような命令……!! 兵たちに死ねという命令を下せとおっしゃるのですかっ!!!」
エルザが声を荒げる。
ここまで激高したエルザを一度も見たことがない。
結局、エトムントが求めているのは、エルザが愛人になることだけなのだ。
彼女が艦内の兵を犠牲にしてまで、愛人関係を拒否するわけがないのだから。
そこまで見越しての言葉に、鞍馬の怒りは頂点を迎えた。
「……わかりました。我が艦のみで敵を五隻沈めましょう。それでよろしいのですね?」
鞍馬が自分でも驚くほど、低く、冷たい声を発した。
今まで自分を守ってくれたエルザをこのような人間の愛人などにしたくはない。
もはや選択の余地はない。やるしかないのだ。
「提督っ!!!」
エルザが信じられないといった様子で叫び、鞍馬の顔を見る。
「大丈夫。なんとかするから」
鞍馬はエルザを安心させるため、なんとか笑顔を作って、怒りに震える声を抑えながら、優しく言い聞かす。
「ふん……言ったな、小僧。ならばやってみよ。成し遂げた暁には、貴様の敵前逃亡は見逃してやる」
「そのお言葉、確かにお聞きしました。楽しみにお待ちください」
「よかろう。では、これで話は終わりだな。行くぞ」
エトムントが付き人に声をかけ、部屋を退出しようとする。
付き人を伴い、部屋を後にしようとする彼に、鞍馬が声をかけた。
「……そうだ、エトムント司令。拿捕でも当然認めて頂けるのですよね?」
すると、エトムントは振り返り、不快げに鼻で笑った。
「ふん、できるものならやってみよ。沈めるより拿捕の方が難しいのは、知っておるのだろう? 一隻でという約束通り、僚艦は我がヴィルヘルムの護衛にもらっていくぞ。貴様らはここで、どのように散るかの算段でもしておれ」
エトムントはそう言い放ち、部屋を後にする。
部屋に残された二人はエトムントに視線すら向けず、ただ黙り込んだのだった。
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