灼熱の女神 前編
「そんでイサヤ、今夜の宿はここで大丈夫?」
手入れもしない長い黒髪をばさりと背に流し、青の強い紫の目をした美女、俺の未来を食らい尽くした女性は軽く振り返って俺にそう聞いた。
宿といってもそこは人の住む町や村のそれではない、純然たる山の中の野宿の場所だ。
「そこの洞窟ですか?」
「ああ、棲んでいる動物のたぐいもいなさそうだし、広さも十分だ、よさそうだろ?」
俺の問いに答えたのはうちの斥候役であるテイルズというおっさんだ。
まぁおっさんといってもまだ30前で、今正に男盛りと本人は主張しているんだけどね。
俺は件の洞窟をまずは先入観を外してパッと見た。
印象としてはなんか落第だ。
理由が分らんが駄目というのは切羽詰った時にはOKだが、こういう日常的な場面では許されない。なので俺は何が駄目なのか仔細に観察を開始した。
洞窟の内部に木の根がぶら下がり、それを伝って水が滴り落ちている。
「あ~、駄目っぽい。ここは近く崩落するよ」
「そうか、って事はここに棲んでたやつはそれを感じてねぐらを変えたって事か」
「う、ん。熊かな?」
「ち、それじゃあまた露天か?やれやれだ」
「まぁ雨も降ってませんし、いいんじゃないですか?」
俺は肩をすくめて彼女、うちの団長にそう言った。
「ふふん、生意気言ってるとそのうちその舌を食っちまうぞ」
「やめてください、想像すると興奮してきますから」
「いやーん、それってスケベ臭い」
そういう会話にすかさず反応して来たのは、うちのもう一人の女性、というか、まだ17なんだから少女というべきだろうテスタロッタだ。
その目はやたらギラギラとしている。
彼女はこういうあけすけな男女の会話が大好きで、おまけに無二の男好きという、年齢と可愛らしい顔に似合わぬ性癖の持ち主だ。
団長が誰かとよろしくやっている所を覗きに行くのはしょっちゅうで、もちろん俺との情事も見られ放題だ。
団長は団長でそういう行為を隠したりする気は全くないらしく、おかげで俺の中の羞恥心は短期間で脆くも潰え去った。
「お前も言うようになったね。攫って来た頃は目が腐る程泣いてたくせに」
「腐ってませんよ」
事実を言う。弱い者はここではただ貪られるだけなのだ。甘えたり弱音を吐いたりすれば、それはたちまち侮りとなって自分を痛めつける。
「ジレッド、イサヤが生意気言うようになっちゃったよお」
「頭、そんな声出したって騙される男はもういないってこってすよ」
馬車を隠しに行って、それを引いていた大柄な馬を一緒に連れて帰って来ているというのに、全く気配を感じさせずに歩み寄って来た男がジレッド、うちの副団長。
まぁでもさすがに団長は気付いていたらしい。
「あ~あ、最初の時の初々しさが懐かしい」
「最初の時なんて半分意識飛んでましたからね、俺は全然覚えてないですよ」
馬鹿話を飛ばしながら野営の準備をしていく。
開けた場所を探し、草を抜き、木の枝に大きく頑丈な、船の帆にも使う布を結びつけ、斜めに広く屋根を作る。
そこからやや離して、テイルズが拾ってきた石を積み、テスタと俺で集めた燃えそうな木の枝を突っ込むと簡易の石窯の出来上がり。
種火用の乾燥草を用意すると、火打ち石にナイフを打ちつけて火を起し、窯の中にその火を入れる。
これで基本の準備は終わり。
俺が働いていた雑貨屋ではこの手の商品を扱っていたので少し懐かしくもある。
火打ち石、乾燥草、テント用の帆布、野営用の基本セットだ。だが、まさか自分が使う側になるとはあの頃は思いもしなかった。
そういう仕事の経験のおかげで品物の種類や品質に詳しいし、商売の裏事情にも通じているので買い物の時には結構得をする。
畑違いに思えるような経験も、いつか思いがけない所で役に立つものだ。という、ありがたい父親の教えを思い出す。人生の先輩である年長者の言う事はさすがに深みがあるな。
「今日は何が出来んの?」
団長がにこにこしながら聞いている。
彼女は本当に本能のままに生きていて、食べる事がとても好きだ。
食べる事も、というべきか。
「肉が切れやしたから、干物をほぐして玉ねぎと煮込もうかと思ってやすが」
料理はテイルズが担当する。
見た目のいかつい感じからはあまり想像がつかないが、昔は料理屋で働いていた事もあるらしい。
そのおかげでびっくりする程料理が上手い。
うちのチームはそんな感じで集団生活によくあるように役割を当番で回すような事は無い。それぞれの得意分野によって担当が決まっているのだ。
「あー、干物って魚?まぁいいわ、美味しく作ってよね」
ほっと胸を撫で下ろす。
先日は絶対に肉が食いたいと言い出した彼女のせいで夜の草原で狩りをする羽目になったのだ。
そんな環境で人間が動物相手にどれだけがんばれるというのか察して欲しい所である。
そういうほっとした思いがうっかり顔に出ていたのか、俺の顔を見た彼女が寄って来るとニタリと笑った。
俺は、美人がそういう笑い方をするといかに怖いかを、このさして長くもない年月で思い知った。
「ね、食事が出来るまでの間に運動しない?」
少しハスキーな低い声。
この人は自分の声が男にどんな効果を及ぼすか分かっていて、そういう時にはわざとあだっぽいしゃべり方をするのだ。
「運動というと?」
用心深く俺は応えた。下手にアッチ方面を意識して赤くなったりすると、本気じゃなかったものを本気にしてしまうという事を学んだので、あえてそちら方面からは意識を逸らす。
「練・習・よ」
わざとらしいゆっくりとした断言に、計らずもつい息を呑んでしまった。
彼女が俺に持ち掛ける練習といえばそれはもはや決まっている。
そしてそれをやると間違いなく俺は飯を食いっぱぐれる。
俺に少なからず動揺を与えたのを感じ取ったのか、彼女の笑みは更に深くなり、舌なめずりせんばかりだった。
「待ってください。ここらは山林で草木が一杯ですよ。貴女の得意技は危ないんじゃないですか?」
「大丈夫、せっかくだから得意じゃないものに挑戦してみるから」
さらりと、細く長い指で払われた癖の無い黒髪が、風に流れる。
風に流されて顔に掛かった髪の間から覗く紫の目の光が、濡れたように輝いていた。
「得意じゃないものって?」
「そうだな……」
ふいっと彼女の腕が動き、その長い指が今度は俺の腰に触れ、体をなぞるように下へと降りる。
「堅いものとか」
止めてほしい。
いい加減カッとし掛けたが、ぐっと堪える。
俺が感情を揺らせば揺らす程、彼女は悦びを覚えるらしい。
ようするに、また俺をからかって楽しんでいるのだ、この人は。
「硬化の属性ですか?あなた苦手でしょう」
「苦手だから練習するんだろ」
それに、と、今度はまんざらからかいついででもない真剣味のある顔つきで続ける。
「上手く使えば敵を石にする事も出来るし」
それはかなり凶悪じゃないですか?
いや、うちのチームってなんか犯罪紛いの事やったりするけどさ、そこまで人でなしにならなくてもいいんじゃないかと俺なんかは思う訳だ。
そうやって、心ではなけなしの良心がすさまじい警告を発していたが、いかんせん俺には彼女を抑制する事など出来ない。
「お心のままに」
いいよいいよ、もう非道でも悪辣でもなんでも付き合うさ。でも死後に暗闇と嘆きの世界に堕ちる時には絶対一緒に来てくれよ。嫌だと言っても離さないからな。
彼女は俺の返答に満足したのか、ふっと口元だけに笑みを残し、すっと手を上げた。
彼女の術の組成は早い。
細く長い指が複雑に文様を編み、世界に干渉する。
って言ってもこれって実は必要ないんだって。
こういう動作とか呪文とか杖に付けた石とかは単なる本人に対する鍵に過ぎないんだそうだ。
小難しい事はよく分らないが、つまり世界に干渉する術は最初から術者の中にあり、それが暴発しないように錠を設置する。
それを開ける為に本人が定めた鍵がそういう物とか小技とかって事だ。
俺なんかからすれば本人が決めて使うもんならそんなややこしい儀式みたいなものは必要ないんじゃないか?と思うんだけど、彼女のような術師はまずそこから入るんだって事だ。
そう、彼女は術士、それも召喚術士ってやつだ。
召喚術なんていうと普通の人間はどっか遠い世界から凄い何かを呼び出すもんだと思ってる。
実際俺も以前はそう思ってた。だって召喚だもんな。
しかし、実は違うという事を俺が知ったのはもう2年程前の事だ。
2年前、俺の住む町はかなり大規模な盗賊集団に目を付けられ、出入りする商人の隊商や旅人が片端から襲われるようになっていた。
うちの町は、糸と香辛料、それと染料でけっこう有名な町だったんだが、周りを山で囲まれた閉ざされた場所にあった。
だからこその特殊な気候で近隣では育たない植物が育つのだからそれは仕方のない事だったんだけどね。
ただ、そのせいで町の出入りは狭い山道を必ず通らなければならない。
そこを狙われたのだ。
そうなると当然商売に甚大な被害が出た。そこで商人達がその対策の為に雇ったのが彼女のチームだったのだ。
俺はその時、店にやって来て主人と話をしていたとても荒事向きとは思えないような彼女を見て、一目でのぼせあがった。当時思春期まっさかりだったからね、今でも仕方ないと思う。
何しろ彼女みたいな女性は後にも先にも存在しないからだ。
そして、俺はよせばいいのに彼女達の後を追っちまった。
その後に初めての経験と共にまっとうな世界とはオサラバとなりました。って訳だ。
そう、“召喚”。
全てはそれから始まったのだ。