覚醒
今になって思う。本当に身体を鍛えておくべきだったと、どうしてもっと走りこまなかったのだろうと。自分の体力の無さに陰鬱となる。たかだか六階まで走り上がっただけだというのに息が切れて脇腹が痛む。
「…………くそっ」
脇腹を抱えながら更に階段を上がっていき、やがて屋上に出た。扉を開けると冬直前の夜の冷気が熱くなっていた身体を冷やした。脈打っていた俺の心臓が少しずつ安定していく。外の空気を吸えたということもあってか俺の頭はすっかり覚醒していた。
屋上は見渡す限り二人しかいなかった。俺と、屋上の淵の手すりに身を乗り出す少女。こんな風に表現するのはおかしいかもしれない。なぜなら、目に映っている少女は俺が知る後輩の瓜二つの顔でありながら、彼女が決してすることのない不気味で不適な笑みを浮かべていたからだ。
「………………………………カナか?」
死人が着る白装束を着たカナの顔をした少女に問いかける。
俺はカナであってほしいと思っていた。実際のところ、内心では俺の良く知る人物とは違うと理解できていて、それが覆ってもらいたかったからだ。
しかし現実はやはり惨いものだ。
「ふぅん、そう思える?」
カナとはかけ離れて縁遠い、妖艶さを交えた声音だった。
その声が知らない声だったことで安心できた節もあり、カナでないことにショックも受けた。
目の前の人物はまったくの別人。だがそう思うにはまだ足りなかった。
どうして彼女の姿はカナと同じなのか。それがカナの存命を払拭させないでいる。
「あなたは私のこと知らないだろうけど、私はあなたのことをとても知ってるよ。私の頭の中にはあなたをとても想っていた人の記憶があるから」
それを聞いて、俺はああやっぱりと小さく呟いた。なんとなくわかっていた。本来ならそんな現実から乖離した出来事を受け入れられるはずが無いけど、昨夜のカナが言った言葉 『自分でない何かに乗っ取られそうになる』 という言葉を覚えていたから。
彼女は起用に手すりの上に立つとそのまま手すりに添って歩き始めた。少しバランスを崩せばそのまま地面に叩きつけられるが、なんとなくそんな事はありえないだろうと思った。もし仮に一階まで落ちても、そのまま何事も無かったように立ち上がるような気さえしていた。
歩きながら彼女は言葉を紡ぐ。
「こんな可愛い子を今まで放っておいて、消えそうになったら取り戻そうとするなんて、やっぱりあなたたち人間はとても浅はかね」
返す言葉も無かった。事実おれはカナの思いにまるっきり答えることはしなかった。あいつが必要以上に明るく振舞っていてくれたことは理解していた。それなのに俺は自分の感傷だけを見つめて振り返りもしなかったからだ。
「でももう大丈夫。私はとても優しいからあなたにチャンスを与えてあげる。彼女と話すチャンスを」
手すりから飛び降りた時、彼女の姿は奇々怪々なものへと変容していた。両手の指の一つ一つが歪に曲がりくねった刃となり、髪はかつての黒さを微塵も残すことなく銀色に染まっている。
右手の指の刃先を口元に寄せるカナではない何か。舌で刃の部分を舐め上げ、少しだけ舌が切れたが彼女はまるで他人事の様に痛みを感じる素振りも無く、三日月の様な口元を作り笑っていた。
「同じ場所に送ってあげる前に教えて欲しいことがあるの。昨夜、私を刺したあの女は誰?」
「……イヴのことか」
力なく答える。すでにどこかであきらめているのかもしれない。こいつからは逃げられないと。
「そう……イヴねぇ。なるほど、あいつの娘か」
「――――娘?」
「ああ、いいのいいの。だって今から君死ぬんだし」
そのまま彼女は俺に向かって疾走する。
放たれた言葉に俺は驚愕することもなく、なんとなく彼女の動向を見ていた。
走ってくる彼女の右腕が引かれ、そのまま俺に刺し込むつもりなのだろう。カナの顔をした少女はやはり彼女が本来しないはずの歪んだ笑みを浮かべている。これから来る殺害の予感に高揚しているのだろうか。なんにしても、常人のする顔ではなかった。狂人という言葉がしっくりくる。
そんな顔はしなかったんだ、カナは。
あいつはいつも俺の前で無駄に元気に居ようとして、いつもいつも気を使わせていた。本当に悪かったと思ってる。
だから……なぁ、すまない。
「俺の、唯一綺麗な思い出をそんな顔で汚すな」
俺の心臓めがけて飛び込んできた彼女の右手を掴んだ。歯が俺の指の肉を裂いて骨まで食い込む、熱を帯びた激痛が脳に送られる。
「……抵抗するんですか」
「当たり前だ。お前のその身体が誰のものかわかってんのか?」
下品な笑みを浮かべたまま、悪意にのみ染まった純真な瞳が俺を見上げる。
「あなたを思い続けた少女のものです……そして今は私のもの――――」
「――――後にも先にもカナのものだ! 寄生虫がぁ!」
俺は叫んだままカナだったものの身体を蹴り飛ばした。さっきちゃんと謝っただろう。
後方に蹴り飛ばされた何者かはゴロゴロとコンクリートの上を転がった。
「ゥァァアアアアアアアアアアアッ!! どいつもこいつも! 俺の癇に障りやがって! 静かに生きたいって俺の夢をどいつもこいつも邪魔しやがってぇ! ……なんなんだ? 俺が何かしたか!?」
普段なら絶対に口にしない言葉を口にする。もう限界だった。俺の自制心はすでに計器を振り切り、怒りをあらわにすることを躊躇わなかった。
初めはあの馬鹿! 虚蔵 縁!
不良どもに絡まれてるのをあいつがヒーロー気取りで助けに来たせいで余計風当たりが悪くなったんだ。おかげで高校時代何回喧嘩に巻き込まれて停学処分になったと思ってる!
次に二人目の馬鹿のカナ!
あいつが告白してきたせいで男子共が俺を睨み始めてきて、余計に喧嘩――――というより決闘を申し込まれるようになった!
……俺はひとりで生きようって決めたのに、勝手にずかずかテリトリーに入ってきて好き勝手やって、俺に依存だけさせといて逃げやがって!
「――――――もういい」
ああ、おそらくだが俺の中で何かが壊れた。おそらく人間性だろう。
「もういい、どいつもこいつも連れ戻してやる。カナも縁も、今まで俺があきらめてきたもの全部取り戻してやる! 絶望のあまり吹っ切れた。相手の事情とか、運命だとか、全部、無視する」
そして、生き方を変えようと思った。来るもの拒まず去るもの追わずだった俺の心境は一変した。
「来たら永遠に放さない。俺の気が済むまで傍にいさせてやる」
――――――わがままになろう。
「邪魔するなら、誰だろうが殴り飛ばしてやる」
――――――暴君になろう。
「俺が生きろといったら、何が何でも生き残らせる」
――――――そして、大切な人を取り戻そう。
もう一度、あの三人で話をするために。




