第二章
頭から湯をかぶる。
体に降り積もった埃が流れていく気がする。照明を外すと、必ず何かしら粉が落ちてくるものだ。
今日のニュースを思い出す。
女性総理。社会保険。出生数過去最少。
最後の記事が、やけに頭に残っていた。
36歳、独身。
他人事じゃない。
もし、今、子どもがいたら。
小学生になるころだろうか。三十六という年齢を考えれば、何もおかしくはない。
塾。学費。習い事。スマホ。制服。
この物価で。
この社会保険料で。
この将来不安で。
湯が顔を伝う。
自分の給料は悪くない。だが夜勤もある。突発対応もある。休日出勤だってある。
そんな生活の中で、もし子どもが熱を出したらどうする。運動会は。参観日は。
相手がワンオペになる未来が、容易に想像できる。
あいつは、理解はあった。だが、不安を消してやることはできなかった。
そしてそれを軽く約束できるほど、もう若くもなかった。
子どもができたら、生活は一変するだろう。
俺は、家庭よりも仕事を優先する。
電気の仕事に限らない。仕事は信頼で成り立っている。穴を空ければ、次はない。
その結果が見えている。
悲観材料を並べていけば、きりがない。言い訳ばかり。これが大人になるということなのだろうか。
昔どこかで読んだ本に、生まれてこないほうが幸福だ、という極端な言葉があった気がする。あのときは笑ったが、今は少しだけ理解できる。
少子化がどうこう言うが、こうなる要素を積み上げてきたのは社会だろう、と他責にしたくもなる。
だが、最終的に選んだのは自分だ。
仕事に誇りを持ち、社会に貢献し、納税もしている。言い訳にしては、上出来だ。
湯を止める。
タオルで顔を拭きながら、ふと思う。
……子どもがいなくて、良かったのかもしれない。
少なくとも、今の俺には。
この息苦しい社会に送り出すほうが、残酷だったかもしれない。
そう考えると、妙に気が楽になった。
洗濯物をまとめ、ドラム式に放り込む。
スイッチを押すだけで、洗濯から乾燥まで終わる。
文明の利器だ。
干す手間がなくなっただけで、生活はずいぶん楽になる。こういう小さな効率化の積み重ねで社会は回っている。
俺の仕事も、その一部だ。
リビングに戻る。
PS5のコントローラーを手に取る。親指が自然にPSボタンへ伸びる。
ふと、隣の卓上時計を見る。
5時半。
……さすがに今からはないな。
眠い頭じゃ、ゲノム兵から隠れ切れない。
昼まで寝て、それから考えればいい。
コントローラーを元の位置に戻す。
ベッドへ向かう。
カーテンの隙間から、ドコモタワーが見える。
夏になれば、その少し横に神宮の花火が上がる。打ち上げ花火を横から見るか。
引っ越してきた最初の夏。
隣に、彼女がいた。
「見えるじゃん、ここ最高じゃない?」
はしゃいだ声。嬉しそうにこちらを見る瞳。
缶チューハイを片手に、二人で窓に寄った。
「来年もまた一緒に見たいね」
あのときは、本気でそう思っていた。
あの頃の俺から何年たった。
現実と理想の狭間で、いつから揺れ始めたのか。
目が覚める。
時計は昼過ぎを指している。
悲しいかな、来年は来なかった。空しい気分の目覚めだ。
仕事への理解はあった。だが、子どもができたら現実は変わる。
答えを出せなかった俺に原因がある。
ワンオペになる未来。
それが決定打だった。
正しかったのかはわからない。
だが、戻れもしない。
ドアチャイムが鳴る。
宅配か。
現実に引き戻される。
昨年末に申し込んだふるさと納税の品だ。このまま解凍しておけば、今晩の食卓が少しだけ豪華になる。
冷蔵庫にしまい、スマホで今日の現場を確認する。
品川、インターシティの一角。
年末に入った改修現場の残作業だ。
工具は先輩の車に積んだままだ。
「何時に着きます?」
メッセージを送ると、すぐ返信が来る。
『16時の10分前くらいだな。現地直でいい』
外を見る。
天気はいい。
新宿まで歩いて、JRで品川まで行くか。
リュックに作業着だけ詰める。
文化センター通りを抜け、大通りへ出る。
以前はフレッシュネスバーガーがあったが、一度も入らないまま閉店してしまった。今日のような日にこそあればありがたかったのに。
信号を渡る。
伊勢丹に近づくにつれ、人が増えていく。
地上出入口から地下通路へ。
暖かい。ありがたい。
紀伊國屋の出口を横目に見る。資格の専門書を探したこともあるし、漫画の新刊をまとめ買いすることもある。シャンフロの新刊はまだだったろうか。
ビックカメラの出口。
引っ越し当初、家電を一式そろえた。今でも新作ゲームはここで買う。株主優待があるのも理由の一つだ。
ビックカメラに入り、エスカレーターへ向かう。
途中、最新スマホの広告が目に入る。
「えー、もう限界なんだけど。最新のにしてよ」
横で制服姿の女子高生が母親に食い下がっている。
「まだ使えるでしょ」
困ったような声。
俺は自分のスマホを見る。
まだ替え時じゃないな。十分使える。俺の鯖もぬるぬる宝具を放つ。スキップできないからなんだが。
エスカレーターを上がり、地上へ出る。
目の前によなよなビールの看板。
仕事帰りなら入ったかもしれない。隣のライオンホールも、寄るなら休日だ。
角を曲がる。
ロッテリア。
絶品バーガーもあるし、駅の西まで行く気もない。
……まあ、ここでいいか。
もう店の前だ。
諦めて入る。
食べ終えても、まだ時間がある。
品川までは三十分。現場まで歩いて十分。十五時過ぎの電車で十分間に合う。
観光客の多い新宿をぶらつくより、先に向かうか。
そう決めて、駅へ足を向けた。




