第一章
東新宿駅の照明は、今日の作業で蛍光灯からLEDライトに更新された。昼よりも白いくらいに眩しい。地下鉄の駅に日差しは差さないが。
始発が走り出すまでの少し猶予のあるなか、作業の終わった構内で、俺たちは最後の確認をしていた。切ったブレーカの投入確認、照明器具の更新に伴うゴミの拾い。昼間は大勢の人が行きかうため、終電から始発までが仕事の時間。だから深夜になる。
「よし、今日はこんなもんか」
工具をケースに戻しながら俺は言った。
後輩がヘルメットを脱ぎ、額の汗を拭う。まだ十八のあどけない顔だ。
「今日もお疲れ様」
「あ。今日もお疲れ様です。阿部さん」
「明日もよろしくな」
そう言った瞬間、後ろから笑い混じりの声が飛んできた。
「もう“今日”だけどな。昼は16時から現場集合だぞ」
振り向くと、五十代の先輩が安全帯をまとめながらこちらを見ている。
「まだ4時半だ。帰ってしっかり寝ろよ。午後からあるからな」
「はい、“明日”も頑張ります」
後輩は深夜作業で興奮ぎみのようだ。運転免許を取得したことで練習がてらに先輩の車を運転させられ始めた。家まで新宿からの帰りのみ。時間が時間だけに車や歩行者はいないから練習にはもってこいといったところか。最大の敵は眠気との戦いだな。
先輩は娘の話をよくする。後輩と二つ違いだと言っていたか。
だからか、後輩のことも妙に可愛がる。
「今日も調布駅までな、お前。府中にしとけよ。結婚したら絶対得だぞ。市の支援がな——」
「それって、子育てとかですか?」
「そうそう。保育園や遊ばせるのも競馬場があるし、財政も潤ってる」
「その話、もう耳にタコですよ」
そんな会話を横で聞きながら、俺は工具ケースのロックを閉めた。
結婚、か。
別に遠い話じゃない。
でも近い話でもない。
「じゃ、阿部さん。また後で」
「ああ、気をつけてな」
多摩方面へ向かうワゴン車が出ていく。
赤いテールランプが曲がり角で消えるまで見送った。右折はまだまだ甘いようだ。
俺は東に向かって歩きだした。家に帰りつくまで15分といったところか。
夜勤明けの新宿は、どこか無防備だ。音に人工的なものは少なく、人の気配は薄い。
冬の澄んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。朝日が出る前に帰るとしよう。
俺の仕事は、ものを直すことだ。
社会を前に進める仕事じゃない。
止まらないように、少し後ろでひっそり取り換える。
それで十分だと思っている。
たぶん、駅の蛍光灯がLEDに変わったことに気づく人はほぼいないだろう。
ワゴンを見送った交差点から東新宿の地上出口を過ぎる。空はまだ夜のままを残していた。朝が滲みだす気配はない。そして星も見えない。
駅前のコンビニには配送トラックが丁度止まり、運転手が挨拶しながら台車を押して入るところだ。湯気の立つコーヒーマシンからか、コーヒーの匂いが鼻を通り抜けていった。
途中に信号はあるが、横断歩道を渡る必要はない。家まではほぼ一本道だ。車通りも少ない。今日は近場の現場だからこのまま抜弁天通りを進む。
コンビニを少し過ぎて振り返ると、左手のビルの上の方にスクエニの看板が見える。
まだ暗い空に、ロゴだけが浮かんでいる。
スクエニといえばドラクエやファイナルファンタジーだろう。
だが、俺にとっては今もパラサイト・イヴだ。
クリスマスの夜のオペラ。燃え上がる観客席。
子どもには少し難しい話だったが、それが妙に大人の世界の匂いがして、夢中になった。
人の中にミトコンドリアがいること。
酸素を使ってエネルギーを作る。
なくてはならない存在。
人の体の中に、もうひとつの命がいる。
あのときはただ「そんなことがあるなんて」と思っただけだが、
今考えると、人間って案外あいまいな生き物だ。
退職して時間ができたら、ニューヨークを歩いてみるのも悪くない。
聖地巡礼ってやつだ。
俺はスマホを取り出す。手袋を外し、親指で画面を弾く。
ニュースアプリが開く。
最上段に出てきたのは、今話題の見出しだった。
『日本初の女性総理誕生、支持者沸き立つ』
ついに、か。
歴史の教科書なら太字になるやつだな、と思う。
日本初、という言葉はだいたいそうだ。
もっとも、尼将軍がいたじゃないか、と頭の片隅で思う。北条政子。
正式な将軍ではないにせよ、実質的に権力を握っていた時代があったはずだ。
鎌倉は、いい国だったんだろうか。
政子無双時代、なんてネットで見た覚えがある。
まあ、歴史はだいたい後から整えられるものだ。
俺は画面をスクロールする。
抜弁天の厳嶋神社の分かれ道に差しかかる。道路の向こう、低い柵の向こうに社殿が見える。まだ空は暗く、人の気配は無さそうだ。
早朝に参拝する人影はない。参道の石畳の上に人はおらず、古い鳥居だけが見える。それでも、きちんと掃き清められているのが遠目にもわかる。落ち葉は端に寄せられ、石畳にゴミさえ落ちていない。
誰かが手入れしている。
参拝客がいなくても、そこに在り続けるための作業をする人がいる。
あることが当たり前になっているのだろう。
駅の照明も、分電盤も、誰も気にしない。点いていて当たり前、動いていて当然。止まったときだけ騒がれる。直ればまた忘れられる。
神社も似たようなものかもしれない。
願いが叶ったかどうかは曖昧だが、とりあえず年始には人が押し寄せる。普段は静かだ。それでも、なくせと言われたらたぶん反対する人は多い。
俺は神道の信者ではないが、知り合いに誘われればついて行く程度のものだ。作法も知らないから、5円がなければ手を合わせるだけで済ませる。
それでも、こうして朝の神社を見ると、悪くないと思う。
都会の真ん中にぽっかりと残された余白みたいだ。神の居場所か。
昔、読んだ本に空き地には神様がいたが、人が集まり、どんな土地にも名前を付けて管理していったから、神様は居場所がなくなったという。
合理的に考えれば、土地はもっと有効活用もできるだろう。マンションを建てれば何十世帯も入る。駐車場にすれば収益も出るだろう。だが、そうならないのは、数字だけでは測れない何かがあるからだ。
文化、信仰と言えば簡単だが、たぶんそれだけでもない。
人は、理由のはっきりしないものを、意外と手放さない。
鳥居の向こうに社殿が見える。どうやらこの神社は鎌倉時代からあるそうだ。つまり、ここも何度も壊れている。それでもまた建て直された。
壊れても、また直す。
意味があるからか、ただ残したいからか。
どちらでもいいのかもしれない。それが連綿と受け継がれている。
俺たちの仕事も似ている。古い蛍光灯を外し、LEDに替える。配線を引き直す。目新しいことは何もない。ただ、止まらないように繋ぎ続ける。
社会は前に進んでいるようで、案外、繋ぎ直しているだけなのかもしれない。
神様が本当にいるのかは知らない。
だが、祈るという行為がなくならない限り、神社もなくならないのだろう。
俺は立ち止まることなく、そのまま通り過ぎる。
手は合わせない。
合わせなくても、別に罰は当たらないと思っている。
それでも、完全に無視することもない。
視界の端に、古い鳥居がしばらく残っていた。
視線を落とす。
『社会保険料負担見直し案 高齢者三割負担を軸に議論』
またその話か、と思う。検討の議論だけはいつもやってるが実行された記憶はない。
消費税よりはこっちだよな、とぼんやり考える。
給料明細を見るたびに、先に引かれている額のほうが重い。
公平ってなんだろう。
月一回通院なら一割。
二回なら二割。
三回で三割。
四回なら四割。
五回以上は五割。
使った分だけ払う。
単純でいい。そして平等でいい。
外国人は原則五割。ただし十年以上きちんと納税しているなら同じ扱い。
線引きは難しいが、少なくとも「払っている人」と「払っていない人」の区別くらいはしてもいいんじゃないか。
まあ、素人考えだ。
現場の電気屋が制度を語ってもって話だな。
小さく息を吐く。白い息が頬を撫でていく。一度くらい輪っかが作れないものかと思うがたぶん無理だろう。
坂を下りる。
自販機の明かりがまだ点いている。新聞配達のバイクが通り過ぎた。そろそろ機動隊の建物と隣の小学校が見えてくる。ここからでも見える時計はまだ5時にもなっていない。
三つ目の記事。
『出生数、過去最少更新』
こりゃ加速するな、と思う。
俺も子どもいないしな。
婚活、か。
やろうと思えばできる。
年収は悪くない。電気工事士は意外と収入がある。月に40万程度といったところだ。その代わり、土日も時間も関係なく、仕事があればどこでも行く必要がある。会社が傾かなきゃ安定もしている。
そうは言っても、帰って寝て、起きて仕事して。
休日は気の合う仲間とオンラインゲームをして、アニメを見て寝る。
それで一週間が終わる。
人生こんなもんだ、と言えばそれまでだ。
少子化は国の問題だが、同時に俺みたいなやつの積み重ねでもある。今も騒いでいるが今の高齢者が若い時から騒がれている。彼らの若い頃の選択が今に続いているだけだ。今さら止められはしないだろうな。
妹曰く3人産んだら1億円いや5千万円でもやる気出るけどとは言っていたが持てるものの発想だな。
顔を上げる。
若松河田駅の入口が見えてきた。
既にライフに向かって歩く人がいる。スーパーの店員も朝早くから大変だな。いないと困るけど。
もう家か。
角を曲がる。
見慣れたマンションにいくつか明かりが灯っている。
似たような箱が縦に積み上がっているだけだが、不思議と安心する。
何百人も住んでいるはずなのに、隣の名前も知らない。
手の中で、かすかな振動。
視線を落とす。
『本日のおすすめ相手が更新されました』
通知を一瞬確認し、さっとスライドして消した。今じゃなくていい。
画面を閉じる。
まだ、空は暗いままだ。
俺はマンションの入口に向かう。




