第五話 不可逆
霧は、音を吸っていた。
足を踏み出すたび、
確かに地面を踏んでいるはずなのに、
足音だけが遅れて消える。
黒崎 創は、周囲を警戒しながら進んでいた。
侵入してから、
どれほど時間が経ったのかは分からない。
時計を見れば秒針は動いている。
だが、この場所が
現実と同じ時間の流れにあるかどうかは別だ。
敵はいない。
物音もしない。
案内表示も、マップも、
親切な説明は一切なかった。
――最初から、そういう世界か。
黒崎は、不思議と落ち着いていた。
これまで何度も、
「何も分からない状態」から走り出してきた。
説明がないこと自体は、
問題じゃない。
問題になるのは、
間違えたときに、やり直せないことだ。
しばらく進むと、
霧の向こうで地形が変わった。
道が、三つに分かれている。
黒崎は、自然と足を止めた。
正面の道は広い。
霧も薄く、歩きやすそうだ。
左の道は下り坂。
湿った空気が流れ込み、
奥は完全に見えない。
右の道は、細い。
岩肌がむき出しで、
足場も悪い。
獣道のように、
不規則に蛇行している。
――ぱっと見で、一番やばい。
黒崎は、三つの道を順に見比べた。
正面は安全そうだ。
少なくとも、そう「見える」。
左は探索向きだが、
深入りすれば戻れない気がする。
右は論外。
危険。
不安定。
進めば何が起きてもおかしくない。
普通に考えれば、
正面を選ぶ。
次に左。
右は、最後だ。
だが――
黒崎の足は、動かなかった。
正面の道を見ていると、
なぜか胸の奥がざわつく。
理由はない。
説明もできない。
ただ、
「あとで後悔する」気がした。
左を見る。
今度は、
「今じゃない」という感覚が残る。
最後に、右。
見た目は最悪だ。
転べば終わりそうだし、
引き返せる保証もない。
それでも――
そこだけは、行けそうな気がした。
根拠はない。
確信でもない。
ただ、
ここで選ぶなら、
そこ以外を選ぶと
「取り返しがつかなくなる」気がした。
黒崎は、ゆっくりと右を向いた。
一歩、踏み出す。
足元の石が、わずかに崩れる。
霧が、他よりも濃くなる。
それでも、
足は止まらなかった。
数歩進んだところで、
黒崎は立ち止まる。
念のためだ。
進めることと、
戻れることは、別だ。
黒崎は、振り返った。
正面の道。
一歩、踏み出そうとする。
――踏めない。
足が止まる。
力を入れても、
前に進まない。
地面がない。
正確には、
そこだけが
「存在していない」ような感触だ。
左を見る。
下り坂の道。
そちらにも、
一歩、足を伸ばす。
同じだ。
空気を踏むだけで、
地面に触れない。
黒崎は、静かに息を吐いた。
――なるほど。
正解を選んだわけじゃない。
ただ、
詰む選択肢を避けただけだ。
世界は、何も言わない。
だが、
やり直しも用意しない。
黒崎は、前を向いた。
細い獣道だけが、
まだ地面として存在している。
進む。
数歩。
霧が、少しだけ薄れた。
視界の端で、
何かが揺れる。
言葉になる前の感覚。
輪郭だけの判断。
――ああ。
今になって、分かる。
さっきから感じていた
進む/止まるの違い。
あれは、
ただの勘じゃない。
視界に、文字が浮かんだ。
《アーリーセンス》
説明は、短い。
新しい環境において
後から取り返しがつかなくなる選択を
感覚として察知する
黒崎は、思わず笑いそうになった。
派手じゃない。
未来が見えるわけでもない。
だが――
一度の失敗で終わる世界では、致命的に強い。
MMOでも、
人生でも。
詰みは、
一度で十分だ。
黒崎は、霧の向こうを見据えた。
世界は、説明をしない。
だが、
選んだ結果だけは、返してくる。
――選べ。
そう言われた気がした。
黒崎 創は、
足を進める。
戻れない。
だが、
進む方向だけは、
間違っていなかった。




