性悪執事は天使伯爵を猫可愛がり
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アンヘル・ヴィ・ユピテル――亜麻色の髪がさぞ美しいかもしれない齢十二歳ながらも伯爵の僕――は、今日も女王陛下との定例的な面会を終えた。個人的なお気に入りとされているらしくゆえにたびたび、そっけなく言ってしまえばしばしば呼びつけられ、でも僕からすればその都度それなりの笑顔をプレゼントしては機嫌をとることに大成功し……そういった傾向は少なからずまま見受けられることから、僕自身、女王陛下との関係は目下のところ健全であると定義していて――。さて、話は整理しなければならない。整理されていなければならない。女王陛下との接触の折、彼女から直近切り出されたのは、「宿せるものなら宿したほうがいい」とのいきなりの提案だった。ぶっ飛んだ、あるいは素っ頓狂な「見解」、「意見」、のようなものであるものの、宿す、宿せる――無論、「赤ん坊」の話なのである。何事も愛がなければ育たないしむなしいし、愛がなければ気持ち良くないし美しくない。そんなふうに信じてやまない僕であるものだから、「僕は孕むことはしません」と馬鹿正直に答えた。できないことを「できる」と申し奉ることは良くない。なにより嘘は良くない。当たり前のことだろう?
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我が家に仕えて久しい老執事が「そろそろおいとましようと考えております」と言った。あまりはっきりと主張しない、根が奥ゆかしい人物なので、僕は驚いた。彼の言葉を噛み締め咀嚼すると、少なからず悲しい思いに駆られた。そうか。彼も、ウィルもほんとうに年をとったんだな――そんなふうに感ぜられると、僕の瞳からは涙が溢れそうになった。良く仕えてくれた、働いてくれたという以前に、やはり寂しい。永遠に続く事象などないのだけれど、彼が仕事を辞めてしまうことはほんとうに悲しい。家に引っ込んで連れ合いと余生を静かに暮らすつもりだろうか。だとしたら、僕はその細君に嫉妬する。
居間のソファの上で、僕は白い、シルク製のシャツの袖で目元を脱ぐった。やっぱり泣きそうになっているらしい。執事のウィル老人は正面に回ると、僕に握手を求めてきた。立ち上がって右手を差し出し、応える。にこりと笑ったウィル。「不安だよ。一人ぼっちになるみたいで」と打ち明けると、「嬉しゅうございます」との答えがあった。もはややむなし。僕は笑顔を向けたのだ。
「それにしてもどうしようか。――いや、まあ、執事がいなくても困らないか」というのが僕の僕に関する見立て。
「この家の方はみなさましっかりしていらっしゃいますから」とウィルも同意してくれた。「とはいえ、何かの折のことを考慮すると、やはり一人や二人くらいはいたほうが良いかと存じます」
「でも、それほど大きな家でもないんだ、だから困らないと思うんだ」
「それでもという話でございます」にこりと笑んだウィル。「僭越ながら、すでに募集をかけさせていただきました」
「募集? それこそ執事を?」
「はい、そうでございます、おぼっちゃま」
まあ、頭ごなしに否定するつもりはない。いたらいたで助かるだろう。勤務時間と給与面さえ折り合えれば雇ってやってもいい。雇ってやってもいい――十二に過ぎない僕が言うと偉そうには違いないがこれはあくまでも客観的事実からくる物言いであり、たとえば家のニンゲンだって同じような考えを抱くはずだ。ウィルの最後の好意でもある。蔑ろにするわけにもいかない。
「書類審査はわたくしがいたします。最後の面接にだけ、おぼっちゃまに立ち会っていただきたく存じます」
「いいよ、かまわない。まずはおまえに礼を述べたい。ありがとう、ウィル。ほんとうによく仕えてくれた」
「長らく執事業に従事してまいりましたが、おぼっちゃまほど優しく、また優れた主君はおられませんでした。こちらこそ御礼を。可愛がってくださり、ほんとうにありがとうございました。
いよいよ感極まった。
僕は立ち上がると、ウィルの痩せた胸に額を預けた。
「心細い。個人的に会いに行くのはかまわないかな?」
「もちろんでございます。いつだって良い紅茶をご用意しております」
僕は少し、泣いた。
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ウィル――彼はすなわち勇退を迎えたのだけれど、最後の仕事はしっかりとこなしているらしく、最近、たびたび我がユピテル家に執事業の立候補をしたニンゲンが訪れる。今のところ、女性は一人もいない、男性ばかりだ。年齢層は幅広い。仕事に飢えているらしい者もいれば、仕事はしているものの現状に満足していない輩もいる。高給を約束しているわけではないはずなのだけれど――とも思うのだけれど、腐ってもユピテル家だ。この国において最も古い貴族の家の一つなのだ。ネームバリューがあるということである。働き先なのだとのたまえば、少なからず自慢もできるだろう。だけど、「雇ってもいいなぁ」と感じさせられる人物はいない。しこたま俗物根性が抜けない奴ばかりなのだ。先代のウィルが素晴らしかったこともあるだろう、どの、特に若者も見劣りする。この調子だったら執事なんて不要だなと考える。名家であることからいてしかるべきなのかもしれないけれど、要らないものは要らない。
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今日の面接は一人――その人物が訪れた。僕は仕事場で男を迎えた。大仰な執務机の向こう、綺麗なお辞儀をしてからゆるしを得、無愛想な木造りの椅子に座った男。襟足の長い艶やかな黒髪に澄んだグリーンアイ。すらりと背の高い人物で美しかった。思わず目を見開いたくらいだ。期せずしてどきどきさせられた、そして僕のそんな心中を見抜いたように男はこの上なく上品に微笑んでみせた、優しく、そうでありつつ男のくせに妖艶に。――僕はすぐに自分を得た、取り戻した。原則、僕はそうそう取り乱すような人格ではない。すぐに冷たい目になったことも自覚した。右手を広げ、あらためて「ようこそ」と言った。「恐れ入ります」との男である。僕は「応募の旨は嬉しく思う」と謝意を伝えた。年長者に向かって偉そうなのは百も承知。僕が探しているのは一緒に仕事をしてくれるパートナーだ。ビジネスライクに話せないニンゲンなら、その時点で用がない。
男にいきなり「おぼっちゃま」と呼ばれた。僕は眉間に皺を寄せて不機嫌さを強調しながら「僕はまだおまえのおぼっちゃまじゃない」と反論した。
「お雇いいただけないでしょうか?」
「それはおまえのアピール次第だ」
「おまえなどとおっしゃる」
「こんなチビがおかしいか? そう感じるならとっととお帰り願いたいな」
「いいえ、私はなんとしてもおぼっちゃまに」
「雇われる必要があるとでも?」
「はい」
どうしてだ?
そう訊ねた。
「私のそれは、恵まれたものとは言えませんでした」
「『私のそれ』? あるいは人生のことか?」
「はい」
「僕が言うのもなんだけれど、おまえはまだぜんぜん若いじゃないか。生を語っていいほど老いていない」
「それでも、という話でございます」
「意味がよくわからないな」
「ご説明いたします」
僕はおもむろに左手を前へと伸ばし、カップを手にした。中身は香りも密な紅茶。望んだ濃さではなく、淹れ慣れていないものだから、悲しいかな、そんなふうになってしまったに違いない。当然、口に含んだ瞬間、自分でもそれとわかるくらい苦々しげな顔になった。
「唐突な話なのですが」
「おまえが訪ねてきた時点で唐突なのだから、好きに話してもらっていい」
「では、おぼっちゃま」若い美男はこほんと一つ咳払い――。「おぼっちゃまは、治癒魔法をお使いあそばられる?」
僕の目は一瞬、大きくなった。すぐに、今度は睨みつけるような目を男に向ける。治癒魔法。べつに禁忌だとかそういう話ではない。ただ、世界中を探しても「それ」を使えるニンゲンはいないとされるからこそ、その旨をなかば確信めいた口調で述べたられたことに驚いたのだ。「どこで聞いたんだ?」とだけ訊ねた。「現場を拝見したのでございます」というのが男の回答だった。
「現場?」
「半年ほど以前のことでございます。街角で子猫に『それ』を施されているおぼっちゃまを目にしました」
街角。子猫。あまり使わない「力」だからこそ、使った折のことは自然と、あるいは否が応でも覚えている。その日は馬車を断り、友人と学校からの帰路についた。足取りは軽かった。珍しく貴族であることを忘れられたからである。肩の荷を感じることなどなく、友人と別れてもルンルン気分――だけど、しばらく進んだところで沈んだ気分にさせられた。街角の、まだ火が入っていない街灯の下に、虫の息の子猫を見つけたからだ。馬車に撥ねられたとか餓死の目前だとか、そういうのではなかった。明らかに誰かの手に掛かり、言ってみればヒトにいじめられたに違いない状態だった。前肢も後肢も紐できつく縛られていたからそう言えた。そんなのあんまりだと考えたから、僕は子猫を「治した」。切り傷も刺し傷も骨折も治した。白い毛並みを血に染めていたことまでは治しようが――綺麗にしようがなかったけれど、子猫は「にゃん」と小さく鳴いたかと思うときちんと現世に復帰し、向こうへと走り去った。偽善者だなと自らを罵りたくなった。――けれど、僕自身がそれを望んだのだから、それでいいのだと判断した。子猫の小さな後姿を見送りつつ、きっと笑みすら浮かべていたに違いない。
そんな僕の瞬間を、この男は見ていただと?
その可能性はないわけではないけれど……。
「きちんと訊ねる。僕が子猫を治したところを見たんだね?」
「ええ。しっかり、拝見しました」
「秘密でも、握ったつもりなのか?」
「お雇いいただけるのであれば、なんとでも」
「僕は弱味を見せたつもりはない。だから、おまえは雇わない」
そうおっしゃらずに。
男は穏やかに言った。
「私がおぼっちゃまに出会えたこと――運命なのでございます」
「運命? というかしつこいぞ。おぼっちゃまはよせ」
「私はおぼっちゃまのために働きとう存じます」
男はにこりと微笑むと、「どうか雇ってくださいませ」と頭を垂れた。
僕は右手を顎にやり、しばらく考えを巡らせてから、「明日、女王陛下に会うんだ」と告げた。
「ついてこれるか、と?」
「ああ。フツウであれば断るだろう。なにせ女王陛下は――」
「気に入らなければ即座に死罪を申しつける過激な人物――で、ございましょう?」
「そういうことだ。どうする?」
「お仕えできるのであればなんだっていたします、おぼっちゃま」
「だから、僕はまだおまえのおぼっちゃまじゃない」
明日、朝一でお伺いいたします。
男は立ち上がり、気持ちのいい九十度のお辞儀をすると、「お時間、ありがとうございました」と言って、身を翻したのだった。たとえば一般的な、たとえばどこにでもいるような女性の目線で物を言えば、彼の一挙手一投足は魅力的に映るのかもしれない。だけど僕は一般的ではないつもりだし、なにより女ではない。明日、見極めてやろうと思う。取るに足らない男なのであれば気に留めるまでもない、いなかったものだと判断するだけだ。
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白一色――艶やかな石造りの床の上で、僕は右膝をつく。透明感に溢れる空間。高いところに――クリスタルの玉座に老婆と言って差し支えのない女王陛下がいる。敬われていることは間違いないいっぽうで、畏怖されてもいる存在でもある。優しく、容赦ない。だからこそ、長きにわたってバランス良く国を統治できているのだ。大した人物だし、卓越したニンゲンでもある。僕は素直に尊敬している。
「アンヘル、顔を上げなさい。誰もあなたに頭を下げるようには言っていません」
「恐れながら女王陛下、これは礼儀でございます」
「私はあなたを子のように思っているのよ?」
「私はあなたの子ではありません」
ふふと笑うと「正直だこと」と女王は言った。
「顔を上げなさい。今度は怒りますよ?」
「承知いたしました」
僕は顔を上げ――。
「美しい男性を見つけましたね。新しい執事かしら?」女王は笑み、言う。「ウィルは素晴らしい男でした。私の夫も彼のような紳士であれば――と、幾度となく思わされたものです」
「彼には愛する細君がおりますから」
「ええ。嫉妬をしたという話です。――それで?」
「彼とは昨日知り合ったばかりです。名は――」
セバスチャン・ユリウスと申します。襟足の長い黒髪の「執事候補」の若い男が自ら名乗った。白いシャツはウイングカラー、タイトな黒のスーツ姿で、唇はルージュでも引いたかのような紅色。男装の人物だと言われても疑いようのない、女性的な部分を多分に含んだ美である。
「確認です。セバスチャンはアンヘルに仕えたいのね?」
「はい。天職だと確信しております」
アンヘルは睨みつけるようにして、セバスチャンのほうを振り返った。
セバスチャンはにこりと笑むだけだった。
「セバスチャンの現在の職は?」
「官僚でございます」
「へぇ。エリートじゃない」
「何にも代えがたいものはございます」
「まあ、そうなのでしょうね」
女王陛下とセバスチャンは幾何の間、見つめ合った。
「アンヘル」と、女王陛下。「セバスチャンを雇ってやりなさいな」
理由もなくそう告げられたわけだけれど、ハナからそのつもりではいた。突飛でありながらも優秀な輩であることは間違いないのだから雇用も一興、雑用くらいこなしてもらえればありがたくないということもない。
「帰路には? 就いても? よろしいでしょうか?」
「ええ、アンヘル、かまわないわ。言い付けは守るのよ?」
「そのつもりであると申し上げたつもりです」
アンヘル両のは膝を縦にした、立ち上がった。「失礼します」と頭を下げ、身を翻したもちろん、後ろからはセバスチャンがついてきた。玉座の間をあとにしたところで、「お仕えいたします、とこしえに」などとの文言が聞こえた。昨日今日の付き合いでしかないというのに、なんとも大げさな男である。
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早速、セバスチャンはユピテル家に仕えはじめた。住み込みがいいと我を貫いたので、空いていた部屋を貸してやった。「家賃はお支払いいたします」などと申し出てきたのだが、遊んでいるスペースを与えてやっただけなので金銭をぶんどろうなどとは思わなかった。無論、官僚は辞したらしい。「もとより向いていなかったのでございます」とのことだった。官僚の仕事がどういうものかはわからないけれどセバスチャンが言うならそうなのだろうと判断した。言動については妙な説得力があるのだ、この男は。
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僕は朝が弱く、ぺしょぺしょと下がりたがるまぶた、あるいは要領を得ない目をこすりながらなんとなく行動を開始するのだけれど。その日の朝もやむなしといった感じで覚醒した。寝巻のはだけた胸元をかきあわせながらベッドを下り……下りたところで、すぐそこにヒトの気配を感じ取った。出入口のところに確かに誰かが立っていて、だから僕は両手を上げて飛び上がらんばかりに「ひゃぁっ!!」と驚いたのである。視線の先にはにこりと笑むセバスチャンの姿。今日もウイングカラーの白シャツにタイトな黒スーツ。「おはようございます、おぼっちゃま」――。
「おぉぉっ、おはようございますじゃないぞ、誰が入っていいと言ったんだっ」しどろもどろな僕。
「部屋の鍵があいておりましたから」さも当然のように述べたセバスチャン。
「鍵なんてついてないだろうが、勝手に入るなと言ったんだっ」
「飲み物等のご要望はなかろうかと」
「そんな心配はないっ」
「しかし――」
「しかしもかかしもない、出ていけっ!」
僕がそんなふうに声を荒らげると、セバスチャンは「はっ」とキレの良い返事をして身を翻した。きちんと部屋から出ていった。物分かりが良いのか悪いのか、「いまいちよくわからないなぁ」などと呟きながら、僕は寝巻のズボンを脱いだ。途端、セバスチャンが部屋に顔を出した。
「おぼっちゃま、お着替えに手伝いが必要であればこのセバスチャン、いつでも――」
「うるさい、ばかぁっ! 覗くのはよせぇっ!!」
僕は脱いだばかりの寝巻のズボンをセバスチャン目掛けて放り投げてやった。
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馬車に乗り、座席の背もたれに身体を預けたところで、「今日の予定は?」と訊ねた。馬車に乗って訊くまでスケジュールを把握しないのは何事だと思わないでもないのだけれど、なんでもいちいち記憶していたら僕の場合、きっと疲れてしまうのだ。記憶力があまりよくないということもある。とにかく誰か僕に逐一指示を出して僕を動かしてくれれば助かる――くらいに考えている。いまやプライドなどないのかもしれない、実際のところ。
「本日の予定は一件のみでございます」
「たった一件か。助かる」
「おぼっちゃまはまだ十二歳でございます。一般的に考えた場合、勉学に支障をきたす予定など」
「十二歳である前に貴族であるような気もするし、貴族である前に十二歳であるようにも思う。難しいところだね」
「ご立派なお考えでございます」
「世辞はよせ。で、どこに行くんだ?」
保育園でございます。
その答えに、僕は眉を寄せた。
「保育園?」
「不可解でございますか?」
「当然だろう? そんな経験、今までにないのだから」
「なんでも、園児が会いたいと声を揃えたとか」
そんな理由で面会が叶うのか。
まあ、僕自身、比較的そうだというだけであって、絶対的に偉いわけではないのだけれど。
「オッケーしたのはセバスチャン、おまえなんだな?」
「はい。いけませんでしたか?」
僕ははかぶりを振った。
「アンヘル・ヴィ・ユピテルが何かの役に立てるのであれば、僕はそれだけでもう嬉しい」
「ご立派でございます」
まったくそればかりだな、セバスチャン、おまえは。
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母が死んだ。突然のこと、というわけでもない。癌で、以前からずっと具合が良くなかった。長患いにもあり、家のニンゲンが総出で心配を重ねていた。ついに亡くなったということだ。だけど、僕の両の瞳からはとめどなく涙が流れたし、家族はおろか、仕え人らも涙した。愛されていた女性だったのだ。良く出来た人物ほど早くに逝くというのはほんとうらしい――わかっていても、つらかった。僕はらしくもなく、わんわん泣いた。マザコンと言えばそれまでだ。僕がわんわんわんわん泣いていると、セバスチャンが胸に抱きしめてくれた。「ヒトはいつか亡くなるのでございます」というのは真理だし、「おつらいでしょうが耐え、受け入れなければなりません」というのも事実だ。だからだろう。セバスチャンがきちんとヒトのありかたを説いてくれたからだろう。いざ土葬の折、僕は泣かずに済んだ。誰もが惜しいヒトを亡くした惜しいヒトを亡くしたとただただ悲しむ中にあっても、僕は毅然と僕を保つことができた。
ありがとうとは言わないよ、セバスチャン。
ただ、きみのおかげで、僕は一歩、あるいは一つ、大人に近づけたように思うんだ。
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僕はベッドの中で、セバスチャンの胸に抱かれてやっていた。それはセバスチャンのかねてからの要望だった。幾度も幾度も「私はおぼっちゃまを誰より愛したいだけなのでございます」としつこくのたまっていたのだ。国の官僚、生きていくにあたってその立場はじゅうぶんな稼ぎをもたらしたであろうに、セバスチャンは僕の執事になった。なりさがった――などと卑下したり卑屈になったりはしない。ただ、セバスチャンは物好きだなとは思う。素っ頓狂な人物であることは間違いないのだ。
寝巻の中、下腹部に右手を忍ばされ、僕はぎくっとなった。「そこ」をさすされさすられ、身体がびくっと跳ねた。ふざけるな、やめろ。僕を弄ぶのはやめろっ。
「ですが、おぼっちゃまは私のことを突き放せないでいる」セバスチャンはふふと笑った。「それだけでもう、私は十分なのでございます」
「ええぃ、だからよせ、やめろ。僕を軽んじるな」僕は強く出る。「だいいち、おまえはどうして僕のもとにいるんだ、僕のそばにいることを良しとしているんだ?」
「それは申し上げたつもりでございます。私はおぼっちゃまの優しさに心打たれた、と」
いろいろと、言い返してやろうと考えた。だいいち、
でも、何を言ったところで、きっとセバスチャンの「猫可愛がり」には変わりがないわけであり――。
「何を申し上げたところで、きっと何も変わらない」
「そうなんだろうな。だからと言って、変に可愛がられると気味が悪いんだ」
「仲良くいたしましょう」
「それはわかった」
「仲良くしましょう」
「それはわかったと言ったんだっ」
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隣国に攻め入られた。この世に女王陛下は数あれど、中でもトップクラスの女王陛下であり、だから戦争を仕掛けてくるのは愚かでしかないように思われるのだが、とにかくそんなシチュエーションになった。国に心配はない――強い思いから、僕は自然と毅然となる。ただ、たとえば軍に、もっと言えば女王陛下に助けをこわれるようであれば助けるつもりでいる。僕だって市民なのだ、周囲の安全を保つ位置にいて、保障する立場でもある。
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屋敷の居間、僕の向かいの一人掛けのソファの上にはセバスチャンの姿がある。彼は「あまり面白い状況ではありませんね」と言った。そのとおりだ。僕たちに歯向かう連中は今、僕たちの目の前にまで迫っている。
「だからといって、我が屋敷に被害が及ぶはずもないのですが」と、セバスチャンは言った。
「どういうことだ?」と僕は訊ねた。
「おぼっちゃまがどうこう、というのはありえないということでございます」
「強気だね」
「事実、そうでございますから」
その意見が事実っぽくあることは、もはや当たり前のように察することができる。
にしたって、どうあれそこにあるに違いない人命を見逃して良いのだろうか。
違うのではないか、力を尽くすべきではないのか。
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矛が首根っこにまで届きそうにないものだから、女王陛下は呆気なく興味を失い、戦の指示系統をまるきり軍人に手渡してしまった。いや、国家元首とはいえ、立場は「象徴」の一言に尽きるのだから誤った判断ではない。だけど僕は気に食わなかったものだから、面会の折、「どうあれあなたがみなを鼓舞するべきではないのですか?」と正直に告げた。老婆ながらも肌はつやつやで実年齢より三十は若く見える女王陛下は、「だったらあなたが先頭に立ってみなさいな。そうされたら、私の重い腰も上がるかもしれない」。――重い腰、今さらそれを言うか。
跪いていた僕は立ち上がると「行くぞ、セバスチャン」と言いつつ、身を翻した。「はっ」と短い返事をするだけのセバスチャンはめんどくさくなくていい。
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激しさ拍車がかかる戦場。緊張しなかったと言うと嘘になる。それでも心に余裕がないわけではなかった。魔法を使って、相手を死なない程度に駆逐した。「お見事でございます」などとセバスチャンはしきりに言ったがけれど、彼のほうが見事だった。レイピアを駆使して敵勢をなんなくあしらった。大卒ですぐに官僚で――にもかかわらず、戦いの術に長けている。どういうことだと訪ねたくなるが、文武両道のではある、容赦なく。
一通り、片付いた。
殺したくなくても、それなりに殺した。
「セバスチャン、もう帰ろう。軍規に背くことになるだろうけれど」
「そうでございますね。空も暗くなりました」
「そうでなくとも、もういい。疲れてしまったんだよ」
セバスチャンが近付いてきて、目の前に立ったかと思うと、僕の頭をそっと撫でた。
「おぼっちゃま、泣かないでくださいませ」
「仕方ないだろ」僕は強がるように言った。「ヒトを殺すのが気持ちのいいことであるはずがない」
例によって、セバスチャンが僕の頭を胸に抱く。
自らの手が汚れてしまったことを悲しく思ったわけではない。
ただ、自身が殺めたニンゲンにも家族や恋人がいたのだろうと思うと、涙が止まらなかった。
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面会に訪れると、僕の姿を認めた瞬間、女王陛下は至極眠そうにあくびをした。自らの国のために死した兵士のことなど気にもしていないのだろう。そのへん、じつに女王陛下然とした女王陛下だ。卓越している。ヒトを統べるためのすべての資質を兼ね備えていると言って過言ではない。
「ご苦労でしたね、アンヘル、セバスチャンも。我が国のために身を粉にしてくれた……感謝します」
優雅かつ高圧的な物言いというだけだ。
「唯一無二の治癒魔法で多くの兵を救ったと聞きました。さすがと言うより他ありません」
「そうおっしゃる方もいます」跪いた状態、顔も上げずに僕は言う。「だけど、そのじつ、私のそれは反則ではないでしょうか?」
「興味深い発言ね。どうして、そう?」
「誰にとっても、死は平等でなければならないからです」
「自らの力は異端だと?」
「それ以外に、なんと?」
違いありませんね。
そう言って、女王陛下は優しげな笑みを浮かべた。
「しかし、あなたが以降もこの国に身を置くのであれば、私はあなたを都合のいいように使います」
「従います。それなりに、この国が好きですから」
セバスチャン。
女王陛下がそう呼びかけた。
「主人のこと、守ってやりなさいな。アンヘルには生きるだけの価値があります」
「恐れながら、言われずとも」
セバスチャンの力強い宣言だった。
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僕は今夜もベッドの上にてセバスチャンに抱きしめられている。時折、臀部や下腹部を撫でてくるものだから、薄いながらも高い喘ぎ声を漏らすしかない。恥ずかしい。だったら寝床になど迎え入れるなという話なのだけれど、うーっ、どうしてだろう、拒めないのだそこに快感が伴うからか? ――よくわからない。
可愛い可愛い、可愛いおぼっちゃま。
歌うようにそう続ける。
「お父上の早逝に伴い爵位を受け継がれ、その役割をきちんと毅然と果たしている。おぼっちゃまはほんとうにご立派でございます」
「僕を猫可愛がりする理由は、そのへんにあるのか?」
「そうでもないのですが」
ふふ、ふふとセバスチャンは漏らし。
「まあいい。長い付き合いになりそうだとの認識はあるんだ」
「一緒の棺桶に入りとうございます」
「それは嫌だ」
「なぜでございますか?」
「生きることとはしがらみと戦うということだ。だから――」
「死ぬときは一人がいいと?」
「そうだ。ニンゲンは死ぬときにやっと自由を見るんだ」
哲学的でございますね。
そう言って、セバスチャンは胸を揺らすほどに笑う。
「仕えてもらうことはやぶさかではないと言ったつもりだ。とりあえずはそばにいてもらえると、助かる」
「イエス、マイ・ロード」
僕はいっそう身を小さくし、セバスチャンに身を委ねた。
間違いなく男なのに、めっぽう甘い香りがする。
もはや癖になっているのかもしれない。
また下半身に手を忍ばせてきたので、僕は身体を捻りながら力なく「やめろぉ」と小さく訴えた。