最後のトイレと公爵令嬢の勝利
リュシエル・ヴァン・エリュドール公爵令嬢は、ヴァリスト王国一の美貌を持ち、しかも自分の魅力に対しては完璧に無頓着だった。絹のような金髪は陽光の下で白銀にも見え、翡翠色の瞳は敵意も味方も同時に射抜く力がある。そして今日、彼女はいつになく怒っていた。
怒りの原因は二つあった。一つは、婚約者である第二王子・セドリックが、ピンク色の髪をした男爵令嬢――その名前すら思い出したくない――と親密すぎる仲になっていたこと。もう一つは、魔法学院のパーティー会場に用意された貴族専用トイレが「すべて使用中」で、唯一ひとつだけが、今しがた空いたばかりだったということだった。
もともと会場にはトイレが三つあるはずだったが、どうやら一つは急な配管の不具合で使えず、残る二つの前には長蛇の列ができていた。唯一、今この瞬間に空いているのは、中央の一室――そこに二人の視線が同時に向いたのだった。
「お先に失礼、リュシエル嬢」とセドリックが笑顔で言ったその瞬間、彼女の瞳は冷たい雷のように光った。
「それはどうかしら、殿下? 私のほうが明らかに切迫しているわ」
「いや、それは僕の方だ。僕は今朝、誤ってドワーフ式激辛チリスープを食べてしまった。お腹の中で火山が暴れている」
「私だって豆のスープですわ。しかも二杯」
ふたりは徐々にトイレの前ににじり寄り、目を細め、肩をそびやかし、まるで決闘前の魔法使い同士のように向き合った。
「王子が先に入るべきだろう!」セドリックは声を荒げた。
「婚約者を差し置いて? あなた、最低ですわね!」リュシエルも負けていない。
手が、同時に扉のノブに伸びた。カチリ。二人の指が絡まり、しばし無言の力比べが始まる。セドリックの額には汗が浮かび、リュシエルのこめかみには怒りの静電気が走った。
「手を離して、リュシエル! これは王子命令だ!」
「王子命令で女子をトイレから引きずり出す? 貴族の教養って、どこで落としたのかしら?」
今にも掴み合いになりそうなその瞬間――
「こほんっ。では、私が代わりに…」
スカートをつまんだピンクの髪の女――男爵令嬢クラリッサ・ド・ピンクリーが、猫のような足取りでトイレに滑り込もうとしていた。
「待ちなさい、クラリッサ!」リュシエルの声が、会場に雷鳴のように響いた。
クラリッサがノブに手をかけたそのとき、リュシエルの手が彼女の手首をきゅっと掴んだ。
「それは許せませんわ。浮気は譲っても、トイレは譲れませんのよ」
この一言が、パーティー会場全体を爆笑の渦に包んだ。だが、次に訪れたのは沈黙だった。
セドリック王子が、怒りで顔を紅潮させながら前に出た。
「皆の者、聞いてくれ!」
ざわ…と場が静まる。
「この場を借りて、重大な発表をさせていただく! 私、セドリック・ヴァン・アルセナールは、リュシエル・ヴァン・エリュドール嬢との婚約を破棄する!」
どよめきが広がる。
「理由は単純だ。リュシエル嬢は、僕にトイレを譲らなかった! レディとしての寛容さを欠いている!」
「…はあ?」リュシエルは静かに、しかし明確に言った。「たったそれだけの理由で婚約破棄なさるの?」
「その“たったそれだけ”が、男にとってどれほど深刻か、君には理解できまい!」
「まあ、それはそれは。クラリッサ嬢なら、さぞ寛容でしょうね。ピンクの頭に、お花畑の思考」
クラリッサが「なんですってぇ!?」と叫ぶよりも早く、リュシエルはふわりとスカートを翻し、勝者の風格でトイレの扉を開けた。
「ともかく、婚約破棄は承知しました。お幸せに」
バタン、と扉が閉まった瞬間、会場には笑いと拍手が沸き起こった。
こうして、「王子の婚約破棄とイレ戦争」は、ヴァリスト王国の軽妙な伝説として、未来永劫語り継がれることになる――と同時に、リュシエルの華麗なる次章の幕が、静かに、だが確かに上がったのだった。
婚約破棄の騒動から一週間。ヴァリスト王国の上流階級は、未だにあの「トイレ事件」の話題で持ち切りだった。新聞の風刺画には、クラリッサ嬢が便器に腰掛け、王子がその脇で詫びている様子が描かれ、王宮から訴訟寸前の抗議が出たほどだ。
第二王子セドリックは、リュシエルとの婚約を破棄し、意気揚々とクラリッサ・ド・ピンクリー嬢と並んで宮廷に現れたが、民衆の反応は冷ややかだった。
「浮気王子とピンクの魔女ね」と、子供たちは歌にして跳ね回っていた。
さらに、クラリッサの実家であるピンクリー男爵家の財務状況は、実は驚くほど破綻していた。華美な装飾と見せかけの社交で取り繕っていたものの、実際は借金と不正会計まみれだったのだ。
「セドリック殿下、支援金を…」とクラリッサはねだり、
「クラリッサ、明細書に“魔導香水・32本”ってあるが、なぜ!?」とセドリックは叫び、
ついには王家の予算監査により、二人揃って謹慎処分を受けることになった。
最終的に、セドリックは貴族位を剥奪され、クラリッサと共に辺境の氷湖監視塔へ左遷される。かつての栄華は氷とともに静かに凍りついたのである。
「せめてトイレが二つある場所がよかったわ…」とクラリッサが呟いたというのが、彼女の最後の社交界での名台詞となった。
さて、リュシエル・ヴァン・エリュドール公爵令嬢はどうしていたかと言えば――
「失恋? いいえ、トイレに間に合っただけで充分ですわ」
と、本人は全く気にしていなかった。むしろ王子から解放されたことに安堵し、日々を伸びやかに過ごしていた。
そんな彼女の前に現れたのが、灰色の魔法騎士の異名を持つ青年、テオドール・グレイフォードだった。
彼は平民出身ながら魔導試験を首席で突破し、王国防衛騎士団の最年少指揮官として名を馳せていた。その振る舞いは誠実で、剣技は華麗、口数は少ないが――リュシエルがティーカップを落としたとき、無言でそっと片膝をついて拾い、にっこりと「大丈夫ですよ」と言ったその笑顔が、全てを物語っていた。
「あなた、トイレを譲れます?」とリュシエルが試すように尋ねたとき、テオドールは軽くうなずいた。
「もちろんです。あなたが笑顔でいてくれるなら、僕はどこでも構いません」
その瞬間、彼女の中で何かが、ふんわりとほどけた。
恋の始まりは、必ずしも華やかな舞踏会でも、熱い告白でもない。ときに、トイレと豆スープの悲劇を越えて訪れるものである。
こうして、リュシエル公爵令嬢は過去を笑い飛ばしながら、新たな未来へと足を踏み出した。魔法と剣、そして少しのユーモアに彩られた日々は、まだ始まったばかりある。
トイレといっても豪華な化粧室があってその奥にトイレがあります。
化粧室の前で喧嘩してます。