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森林依存文明

言語、衣食住、政治体制、そして積み重なった歴史、ほとんどすべての面で他国と比較され、異分子と認識される国、日本。

近隣の韓国、中国との比較でさえも、遠方の国と同等の差があることは間違い無い。


ガラパゴスなどと揶揄されることもあるが、逆に言えば、多くの日本人からすれば何故日本のような国が外国にはないのだろう、という疑問にもなる。


本稿はその疑問に挑戦したものだ。


 ここで改めて言う。

 日本人は人類の中でイレギュラー中のイレギュラーなのである。

 そして日本人をそういう存在にしてしまったのは、この日本列島のユニークかつ厳しい気象環境だった。

 なので日本人の行ってきた常識的な農業は、世界の中では非常識もいいところなのである。


 縄文時代の遺跡とされる三内丸山遺跡では大量の栗の木が、人工的に栽培されていたとみられると報じられた。

 説明では、栗を食材としてしたから、のような話で、食料生産の為、栗を栽培していたかのように語られていたが、私はこれは違うと思う。


 もちろん収穫された栗は食材として利用されただろう。


 だが、落葉広葉樹のつける実というのは、収穫量が安定しないのである。

 一説には、樹種自体の繁殖に動物を利用するためにつけている実だから、あまり実をつけすぎると捕食動物が増えすぎて、樹種が脅かされることを防ぐために、必ず不作の年が現れるようになっているとも言う。


 そんな安定した量が見込めないものに全面的に依存していたとは考えにくい。


 それ以前に、植林しなければならない理由はいくつもあったはずだ。


 栗の実はあくまでもその副産物だったと考えるべきだろう。


 そして結果として言うと、この森林保全を含む日本の農業と木工技術、さらにそれらをベースにした和食は、他の国のそれらとは全く違うものとなったのだ。


 日本以外の国での木工製品の位置づけは、基本的に「一時しのぎ的な代替品」な位置づけのものが多い。


 日本よりもずっと乾燥した環境なので、木製品の持ちが悪いことは確かだ。

 木材から急速に水分が失われ、割り箸状態になるせいで、強度がすぐ落ちるのである。

 また日本とは違って、どこの国でも鉄鉱石、大理石は珍しくはないから、金属製品石製品が手に入りやすい、ということもある。

 だから彼等は鉄や石を中心とした文化なのだが、それはそれでいいとしても、彼等の文化では、木材は燃料として消費されるだけなので、森林保全や植林という発想は全く入って来ないのである。


 日本では鉄製品は極めて手に入りにくかった。

 鉄鉱石が乏しく、砂鉄を集めるぐらいしかできなかったからだ。

 石についても同様で、建材として一番よく使われる大理石となると日本では瀬戸内海周辺ぐらいしか産出しない。

 これも例のバカ雨のせいで、溶けて海に流されたと考えられている。

 まあ、大理石の場合は、もともと生物の死骸の炭酸カルシウムが主成分だから、化石燃料みたいなものなのだが。

 だからこれも二酸化炭素由来なのである。

 なので循環系の中の位置づけで言えば、木材とあまり大きな差はない。


 日本で建材になりそうなもの、道具の材料になりそうなもので、どこにでもあるのは木しかない。

 そのため、木製品を長く使えるようにするための工夫が非常に進んだ。

 塗り関係の技術が豊富なのは、必要に迫られてということなのだろう。

 漆塗りのことを英語でJAPANと表現するのもある意味当然だ。


 日用品も住居も、何もかもが木製となれば、森林の資源としての価値はさらに増大する。

 だから保全や植林が進んだのだ。


 そして木材という大量生産には全く向かない材料、つまり型に流し込んで固めるなんていう技術が使えない材料を扱うことが普遍的になったせいで、職人が重宝されるようになったのである。


 手先が器用、というのが尊重され、大事にされたから、職人が一層技を磨くようになったのだ。


 そして和食という料理の常識をひっくり返した調理技術。

 もともと地力が弱く、食材に乏しい国で、まわりが海だから海産物に頼らないといけない、という悪条件に加え、鉄の調理器具が使えない、燃料も限られていた、というのが日本である。


 日本以外の国での調理という言葉には、ほぼ確実に加熱するという意味が含まれている。

 なので、刺身や寿司は料理ではない、なんて言った人も過去にはいた。


 このことはこういう捉え方もできる。


 そもそも人間が料理をする一番の動機は何かと考えた時、その最初の一歩は食材の無毒化だったはずだ。

 その手段として加熱が有効だと分かったから、加熱調理が普及したのである。

 日本列島に人類がやってくる前の段階での人類の常識は当然これだったはずだ。


 日本ではその常識を実行したくても、簡単にはできなかった。


 木工細工の調理器具じゃ、火にかけられない。

 火にかけられる土器を作るのも大量の燃料が必要で簡単には作れない。

 しかも土器は火にかけると割れてしまうケースが割と頻繁に起こる。

 だいたい潤沢に使える燃料というのが木ぐらいしかない。

 しかし、その木は、あらゆる場面で必要とされる限りある資源だった。

 日常の煮炊きに貴重な木を使うのはできるだけ少なくしたい。


 で、古代の日本人はどうしたのか。

 加熱ではなく、きれいな水で洗うことで、その代わりにしたのである。


 実際に和食の調理をやってみれば分かることだが、魚を捌く場合でも、麺を打つ場合でも、とにかく必要になるのは大量のきれいな真水である。

 例えば魚を三枚におろし、刺身を作る場合、ウロコを取った後、内臓を取った後、皮を剥いた後、骨をはずした後、などなど工程を一つこなすごとに流水で洗い流すという作業が必要になるのだ。


 だから料理屋の板場なんかでは、まな板の上にホースから出しっぱなしの水をいつでもかけられる状態で、食材とまな板の上を常にきれいにしている。


 日本以外の場所で、きれいな真水がこれだけ潤沢に使えるところはない。

 つまり和食は日本でしか使えない調理法によって生まれたのである。


 殺菌、消毒という観点から見れば、真水で洗い流すことは決して百パーセント、加熱の代わりになるものではないが、少なくとも実用に耐える程度には有効だったということだろう。


 もちろんこんなものが技術として確立するまでには、膨大な試行錯誤と、少なくない犠牲者がいたはずである。


 逆に、日本人が海外の人の調理風景を見て違和感を感じるのは、食材を洗わないことだ。

 まあ、加熱する前提だから、安全面から言えば、全く問題無いわけだが、何でもかんでも食材を事前に洗うことに馴れた日本人の感覚からすると、食材を調理前に全然洗わない感覚というのはなかなか大胆だなと思ってしまう。

 逆に彼等が和食に挑戦するなどと言い出すと、危険だからやめれ、と思わず言いたくなる。


 で、私の視点から言えば、これこそ高度なレベルで、SDGs、sustainable developments goalsに即している文化だと思えるのである。


 もっとも、だからと言って、全てこれに戻せとは言わないけどね。

 現代生活にはそぐわないところや、不便、不経済、不衛生なところも多いからだ。


 ただ、江戸時代にほぼ完全な鎖国を維持しながら、この貧弱な資源しか無い国で平和を保ち、人口も経済力も成長させることができた、大きな理由だったはずである。


 世界で最も入念に練られ、成功したSDGs、だとは認めるべきだろう。


 逆に言うと、日本にはない海外のSDGsを評価する場合、日本での普及には、配慮に欠けていることがありえる、と思った方がいい。


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