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日本人の発見と発明

農業という言葉から連想されるリアルな姿ほど、世界各地でバラバラになっているものは、ほかにはない。

特に日本の農業は何もかも特殊だ。

日本農業の根幹と言えば米作となるが、この米作もまた外国における米作とはまったく違う発展を遂げたものではないかと私は考えた。

その鍵は縄文時代にあると私は見た。

有史以前の縄文時代を考察するにはもっぱら数少ない物証を根拠とした推理しかないのである……

このイネに頼った人類はそれまでの人類から見たら、すでに十分イレギュラーということになるに違いないが、このグループからさらにもう一枚斜め上を行くイレギュラーグループが生まれる。


 そのグループこそ日本人だ。


 というわけで次は日本人の話をしていこう。


 さて、日本史の中で、もっとも長い時代は何時代でしょう?


 答えは縄文時代である。

 少なくとも一万年以上続いたことになっている。

 日本史の中での有史、つまり歴史書に記載された歴史は三世紀の魏志倭人伝からだから、たかだか一八〇〇年足らずの長さしかない。

 縄文時代は、少なくともその五倍以上の長さがあるってことになっているのだ。


 これっておかしいと思わない?

 いや、エジプトだって、ナイル川の河口部にサハラから人間が集まってきて、最初の王朝が立ち上がった時点までの時間だって千年程度と推定されているのだ。


 一万年前、つまり紀元前八十世紀だよ。


 一方、アフリカではと言えば、

サハラが沙漠に姿を変えたのが、紀元前六十世紀頃。

 エジプトの第一王朝は紀元前五十世紀頃。

 彼等はたった千年で王朝やら文明やら文字までも生み出し、有史時代に突入したというのに、縄文人ときたら、いったい何をやっていたの?


 いろいろと日本の国土の固有事情もあったんだろうが、それにしても、弥生時代の到来が遅すぎるんじゃありませんか?


 よりにもよって、そんな落ちこぼれのダメダメ集団が日本人だったのかね?

 なんて考えたのである。


 よく弥生時代に稲作が始まったという話が喧伝されているが、最近の研究では縄文人も稲を食べていたことが分かっている。

 それにタイランド湾を遅くとも二万年前までに離れているのなら、一万年前に日本に到達したであろう縄文人が稲を持っていないと考える方がおかしい。


 この謎を解く鍵は次の弥生時代にあるはずである。


 縄文時代と弥生時代を分けたものとは何か。

 それは田んぼを人の力で作り出した、ということだ。


 つまりそれ以前、タイランド湾から始まった人類のイネ依存は、浅い水辺に種籾を蒔いておしまいという形だったのである。

 後は自然任せ、風任せでなんとかなっていたのだ。

 もちろん効率的には現代とは比較にならないが、当時の貧弱な人口では問題にならなかったのだろう。


 と一度はこんなふうに考えた時期が私にもありました。


 いや、おかしい。

 納得がいかない。


 あの抜け目のない中国人は、紀元前十六世紀頃にはもう王朝を作っている。

 人工的に水田を作るぐらいのことはとっくにやっていたはずである。


 もし、例えば、稲作が盛んと言われていた楚(紀元前十一世紀頃から存在)あたりからやってきた縄文人がいたら、どんなに遅くても紀元前十世紀ぐらいまでには、日本も弥生時代が始まっているはずである。少なくても二世紀三世紀まで待って、とはなっていないはずだ。


 ということは中国生まれの技術では対応できない障害が日本にはあった、と考えるべきだ。


 その障害が取り除けた時に、弥生時代が始まったのである。


 縄文時代の日本にやってきた人類を当惑させたこととは何か。

 彼等の技術には何が足りなかったのか。


 大陸と日本の差、それは気象だ。


 日本列島特有のモンスーンが支配する、世界有数の多雨環境。

 これが曲者だったのである。


 とんでもない量の雨がしょっちゅう降り、おかげで川にしても湖にしても水位が目まぐるしく変わる。


 普通に田んぼを整備したつもりでも、大雨が降ったらたちまち深い池に化けたり、あるいはまるごと全部流されて河原のようになることも多かっただろう。


 せっかく種籾を撒いても流されてしまうのだ。


 この状況をどうしたら改善できるのか。

 これが縄文人の突きつけられた課題だったのである。


 即ち、

安定的に必要な水の量を常に維持確保でき、しかも大雨になっても、水量が増えすぎないようにし、洪水を引き起こさず、全体施設の破壊を防ぎ、かつ、イネの生育状況に合わせて、水量を変えられる仕組みを開発すること。


 解決策となるものは、あくまでも人の手でできること、というのが条件になるから、問題を要素ごとに分け、小さな対策を積み重ねるしかなかったはずである。


 この問題発見とその対策案立案、さらにその実験検証に必要だった時間が縄文時代の長さ、一万年なのだ。


 対策案完成に一万年もかかったなんて話は、現代なら無能の烙印決定だろうが、当時なら十分許容範囲に収まると思う。

 いや、それどころか成果物を見たら、むしろ超がつくぐらい優秀だと思う。

 全然ダメダメだとも落ちこぼれだとも思わないよ。


 一万年の時間を消費することによって、日本人は大発見と大発明を成し遂げたのである。

 もし神武天皇というのが歴史上実在したとするなら、この発見発明者こそが神武天皇にふさわしいと思う。


 それは水源涵養林の発見と発明、それを利用した水源池と人工水田の開発である。


 新鮮な真水が豊富にある日本で水源の心配をしなければならない、というのは極めて皮肉な話だが、今まで見てきた人類の活躍の場では、水源の心配をする必要は無かったのである。


 大森林があって、それの恩恵による適度な降雨程度の話なら、イネの生育になんら問題はないのだ。

 むしろ人類は、本来浅瀬で育つイネを陸地でも育つようにする方の改良を施したほどだ。

 それだけ土地の地力にも余裕があったということだろう。


 しかし日本の雨は違う。

 四方を囲んだ海と季節風の組み合わせが、どっちから風が吹いても必ず雨となる、というトンデモ空間を作っていた。

 因みに現在の都道府県の県庁所在地の降水量データで見ると、一年間の数字が一番大きいのは青森市、一番小さな数字になるのは長野市となるようだ。

 つまり三方を海に囲まれた青森が一番で、全周に渡って高い山に囲まれた長野がもっとも少ないというのは、いかに海からの水の補給が大きな意味を持っているかがよく分かる結果である。


 その一番少ない長野市だって、年間降水量千ミリ近くあり、世界的に見れば降水量が大きい方なのである。


 そんな雨大国日本でイネを育てる。


 ミネラル他は水に溶けて流され、地力は極端に弱い。

 土地の地力に頼らず、水中でのバクテリアによる有機物の分解作用での栄養補給に頼らざるをえないため、水田は必須だ。


 それでいて、肝心の水の量は目まぐるしく変動する。


 そんな中で、森林を伐採し、田んぼを作ってイネを育てようとしたわけだが、おそらく暴れる水の勢いで、それこそ全部水に流されてしまっただろう。


 人工的な水田を完成させるには、水源管理が必要なのだ。

 この水源管理、おそらく最初は自然の川の流れから、田んぼに誘導するように水路を作ったのだろう。

 が、現代、同じようなことをやっているように見えるとしても、縄文時代との間には、大きな差があった。


 現代では、川の流れ自体が、ダムなどによって調整されている。

 縄文時代は、流れそのものだって、下手をすれば雨が降る度に変わっていただろう。

 いわゆる暴れ川である。

 だから川を水源にするわけにはいかないのだ。


 それでため池の開発となったのである。

 ある程度標高の高いところにため池を作り、そこから田んぼへの用水路を引く。

 これなら取水自体は安定する。

 もしため池にいつも十分な水があれば、だ。

 だが、これだけでは、ため池自体に一定量の水を常時蓄えられることにはならない。

 また大雨になってため池が溢れて洪水を起こされるのもかなわない。

 この課題解決が難問だった。


 日本人ほど、木の根について詳しい人間はいない、と私は思っている。

 これはまあ、私のさまざまな経験で得た実感だ。

 あんなに小さくて薄くて、少ししか土を入れられない器に、大木の姿を写し取ってしまう盆栽の技術など、木の根の知識が豊富だったから初めて可能になったものだと思っている。


 また今では当たり前の光景だが、水辺に柳という風景になっている場所は日本には多い。

 もちろん柳は人の手で植えられているわけだが、何故柳が選ばれているのかと言えば、柳の根は緻密と表現したくなるほど、長く細く数が多いからである。

 つまり柳を植えられた場所は、柳の根によって補強され、堤防としての強度が非常に強くなるのだ。


 こんなことを生活の技として知っている民族なんて世界中探しても日本人だけだろう。


 どうしてそんなに木の根に詳しくなったのか。


 それがこの縄文時代に何があったかを考えたヒントだったのだ。



 解決策は水源涵養林だった。


 前に紹介した通り、森林、特に落葉広葉樹林は、地上でも地中でも大量の水を蓄えることができる。

 もし池のまわりの森林は伐採せずに残すようにしたら、あるいは、落葉広葉樹を大量に植えたら、激しく雨が降ってもそれを一度に流さず、一定の期間、その場所に蓄えられて、少しずつ排水してくれるのではないか、と考えた人間が縄文時代に現れたのだ。


 一万年の時間はムダでは無かった。


 水源涵養林に囲まれたため池は所期目標を達成したのである。

 雨が続いても溢れず、また日照りが続いても枯れない水源池の開発に成功したのである。

 落葉広葉樹の優れた保水能力を最大限活かし、落葉広葉樹に囲まれた水源池を作ることが人工的な田んぼを作れるようになる技術的なブレークスルーだったわけだ。


 年代が弥生時代なのかは定かでは無いが、中国地方などに数多く残る、古墳が設けられた場所を見ると、海沿いではなく、内陸のかなり山を登った標高の高い山間が多い。

 低地はいかに住みやすそうに見えても、日本の場合は水害から逃れるのが難しかったからだ。


 それに田んぼの開発に、水源涵養林付きの水源池を整備することが必須だとすれば、標高差がある程度無いと困る、という事情もあっただろう。


 そしてこの開発成功の意義はこれだけではない。


 これは私の視点で表現すれば、人類は地球に登場して以来、常に森林を伐採する側専門だったのが、初めて森林を保護する側、作り出す側に回ったケースでもあるのである。


 現在の世界で、先進国途上国問わず、国土の八十パーセントが森林なんて国は日本以外無い。


 この話が環境問題に絡んで、国際的に紹介される場面は現代においては決して珍しくはない。


 が、ほとんどの場合、日本は山だらけだから、という説明で日本人も外国人も納得しているが、実はそうとばかりは言えない。


 他の国では、山があっても、とりあえず木は伐採してしまうし、もっとエスカレートする条件が整っているのであれば、山も削って畑に変えてしまう国ばかりなのである。

 山の山林をそのまま残し、利水と治水目的で森林を保護、または植林してきた歴史があるのはおそらく世界中を探しても日本だけだろう。


 日本の森林率の高さは、日本独特の文明の結果、と私は見ている。


 それを私に確信させてくれたのは今のブラジルの光景だ。

 別に現地に行ったわけではない。

 単にグーグルマップで日本人移民が多い地域というのを見ていただけだ。


 ポルトガルによって植民され、植民地として発展し、独立を果たしたブラジルには、戦前から日本人移民が多数移り住んだことで有名だ。


 ブラジルの国土は、北部の熱帯地方はアマゾン川流域で熱帯雨林の厳しい気候で農地として全く適さず、植民が行う農業の地として発展したのは、それよりも南の温帯地方が中心となった。

 ここで、穀物、コーヒー、などなど大規模プランテーションでお馴染みの農園が整備されたわけだが、そのやり方はポルトガル由来の技術なので、森林の伐採による全面畑化である。

 その辺りは欧州同様に一面広大な畑が広がる世界である。


 ところが日本人が移り住んだのは、明治に入ってからだから、ポルトガル人が入植していなかった、より南の、寒冷地がメインとなった。

 日系移民の作った農園は、山地の森林との間にはっきりとした境界を設けてしまうのである。


 ポルトガル系移民の入植地の畑が上空からの航空写真で直線で区切られた方形になるのに対し、日系移民入植地の畑は、自然の形に添うような曲線だらけの不定形なものになるのである。

 そして農地と農地の間、至るところに山林が残される。

 おそらく特別な意図は無かっただろう。

 単に普通の生活感覚で、地形的に畑にしにくいところはそのまま山林として残すというのが自然な発想になっているのが日本人なのだ。


 ポルトガル系移民なら、とりあえず、すべての木を伐採し、農地として整備してしまっていただろう。

 たぶんこのことが影響したのだろうが、ポルトガル系移民は、お茶の栽培にはついに成功することは無かったが、日系移民はこれに成功したらしい。


 お茶の栽培には温度差や湿度差が必要なのである。

 森林を残すと気温が下がる場所が生まれる、湿度の高い場所ができる、などがお茶の栽培に適した条件を作り出したものと思われる。


 しかし歴史とは時折り皮肉な局面を見せる時がある。


 明治維新によって、西洋の先進技術に魅せられた明治人に西洋のとある知識が吹き込まれる。


 それは木材として利用価値が高く取引価格も高いスギを植林すれば、森林資源をもっと活かしやすくなるという話だった。


 その頃、日本中至るところにあったのは落葉広葉樹の代表樹種とも言えるブナである。


 先人が水利管理目的で優先的に植えた結果という場合もあったはずだが、何故ブナが選ばれていたのか、明治時代の日本人の記憶には刻まれていなかったようだ。


 そして同時にスギの欠点も分かっていなかった。


 かくて、日本全国で、「ブナ退治」なる運動が行われ、ブナを伐採し、スギを植林しまくったのである。


 確かに住宅用建材としてはスギは幹がまっすぐで、元々曲がっていないから年数が経っても、変な狂い方をしない。

 なので、製材しやすいし、規格材として決まった寸法の角材や、板材として出荷しやすい。


 今建物を建てる際、設計図を全く引かずに建てる、なんてことはありえない。

 つまり図面で寸法を指定しているわけで、それに応えられる材料でないと建築材料にはなれないということになる。

 だから今、住宅用建材と言えば、もうスギやヒノキなどの針葉樹以外考えられないという状態になっているわけだ。


 ブナは幹も枝も不規則に曲がりくねっているのが普通なのである。

 原木を図面に写し取ること自体、困難なのだ。


 ところで、江戸時代以前の人はこんなブナばっかりの時代、どんな木材で家を建てていたのだろう、とふと気になって、江戸時代に建てられた旧家やらお屋敷やら酒蔵やらを見て回ったことがあった。

 他の人が部屋の細部の細工などの芸術的な仕上げみたいなところに注意を払っている中で、私と言えば、もっぱら柱とか、梁とか、天井とか土台とか変なところばかり見る、おかしな観光客だったわけだが、見た甲斐はあった。


 結論から言えばブナをたくさん使っているのである。


 ただ、あの建て方を現代の建築会社にやれ、というのはほぼ不可能だということも理解した。


 つまりブナの一本一本、個性豊かに好きかってに曲がりくねったり、カーブしてたりするものをほぼそのまんま、現場で現物一品ごとに必要な加工を施しているのである。

 原木に近い状態のまんま現場に運び込み、その形を見てから使用する場所を決め、実際に使用する場所の仕様に合わせて必要な加工を施すという手順を踏まないと利用できない方法だ。

 大工の棟梁に、相当な発想力、創造力、企画力、それに豊富な木材知識が無ければ、とてもできるものではない。


 カーブなどで経年変化で狂いが大きくなりそうなものは、真っ二つに切って断面が同じ形となったものを背中合わせにピッタリとくっつけることで、狂う方向を互いに打ち消し合うように加工してから使う、などのウルトラCのような技を見ることも出来た。


 そんなことをしても、当然梁は大きくカーブしたままで、その下で襖を走らせるレールとなる鴨居、こちらにはもちろんスギが使われているが、スギが使われる場所はこういう寸法精度だけが問題になる場所だけで、強度などを受け持つところにはほとんど使われていない、との距離が全然揃わなくなるわけだが、その間を木で作った連結棒でつなげて梁が鴨居をしっかり吊り下げるようにしていた。


 図面なんかではとても表現できるようなものではない。

 そもそも原木を紙の上に置かない限り、実寸を図面に写すことも容易ではないのだ。

 現場でピタッと合わせる加工精度の高さがあってこそ完成させられるものだ。


 技のレベルの高さは文句なく素晴らしい。

 が、もう完全なロストテクノロジーだろう。


 ブナとスギの差、森の方の話もしておこう。


 ブナ林とスギ林、アウトドアでキャンプを楽しむ人には、よく分かる話だと思うが、空気が全く違うのである。

 真夏でも空気がひんやりと感じられるのがブナ林だ。

 そして地面は分厚い落ち葉が積み重なった状態である。

 これが音も吸収してしまうせいか、全体に音が響かなくなる。


 そして昆虫が多いのもブナ林だ。

 中でもゴキブリはほぼ必ずどこかに隠れている。

 家の中で見ると、目障り極まりないのだが、森の中で落ち葉の下に潜んでいる姿は妙に様になっている。

 ゴキブリは昆虫の中ではかなり早い時期に地球に現れたらしい。

 落ち葉の下を住み処にする昆虫が早い時期に登場した、というのは非常に理解しやすい。


 余談だが、私の実家はゴキブリがたくさんいて、長年悩みの種だったのだが、ある時、森で暮らすゴキブリを落ち葉の陰で見たことであるひらめきが走った。

 それはもしかしたら、家の中でも落ち葉的なものを彼等は住み処にしているのではないか、ということだった。

 それまで、ゴキブリ退治は、家具の下とか裏とか、引き出しの奥とかが住み処と想定して殺虫剤を撒いていたりしたのだが、たぶんそれは本丸ではなかったと確信したのである。

 本丸は、落ち葉的なもの、具体的には、薄いものが何層も積み重なったようなものこそがアヤシいとなったのである。

 そういう目つきで家の中を見回し、新聞や雑誌、意味無く保存されている折りたたまれた段ボール箱、ボール紙、衣類、タオル、ボロ布のたぐいは捨てるか密閉した箱にしまうかに切り換えたのだ。

 また家具と壁の隙間などに平たい形状のモノを収納代わりに入れるというのも止めた。

 要するに落ち葉の積み重なりに似た、平べったい空間を徹底的に潰したわけだ。


 効果はてきめんで、その後ほとんどゴキブリを見なくなったのである。


 ブナ林はゴキブリにとってもいい住み処だらけ、ということになる。


 もっともそんな場所でも、シマヘビがゴキブリを捕食しているところを見たこともあるから、いい住み処となる場所がいくらあっても絶対安心ということにはならないわけだが。


 一方、スギ林というのは全然涼しくない。

 まっすぐに伸びる樹勢で、木と木の間にはかなりの間隔があるのだが、その間を吹く風は真夏なら熱風で全然涼しいとは思えない。


 原因は地面の差だ。

 スギばかりを集中的に植えたらこうなるのは当然だが、土が剥きだしになり、しかもそれが雨で流され、その下の砂岩などが顔を出すのである。

 根の張り方が浅いから表土を抑える力も弱い。

 もちろんこんな地表では水分など含みようがない。

 雨が降れば、あっちにもこっちにも水路ができて、どんどん表土を流してしまう。


 台風などでの被害にスギ林の倒壊が多いのは、スギばかりで林を作った当然の結果なのだ。


 スギに保水力を期待してはいけない。


「ブナ退治」作戦は、森林の金銭価値を高めたかもしれないが、災害に対し脆い国土への改造でもあったのである。


 日本全国、スギ林のあるところでは現在、砂防ダムの多くがこの流された表土で満杯になっている、というのは今や完全に見慣れた風景になっている。


 もっとも山の関係者や林業の関係者は相変わらずブナを目の敵にしていることが多い。


 ブナとスギでは繁殖力に雲泥の差があり、彼等からしたら、ブナを一本見逃せば、たちまちそこいら全部ブナだらけにされると思っているからだ。


 事実、その通りなのだろう。

 水源涵養林としてブナは理想的だ。

 成長が早く、太い根を広く深く張り巡らし、大木に成長する。


 雨が多い場所なら間違い無くチャンピオンなのである。

 大量の落ち葉と大量のどんぐりを作る。

 落ち葉は分厚い腐葉土を作り、水をたくさん蓄える。

 どんぐりの栄養価は高く、動物の格好の餌になる。

 保存用食料にするべく、ご丁寧に遠くの隠れ家にまで持ち帰り、そして穴を掘って植えたりするヤツも多い。

 野生動物はほぼすべてブナの味方だ。


 唯一、スギの味方になっているのが人間なのである。

 スギならカネになる可能性がほんの少しあるけど、ブナではそうもいかん、という切実な事情がこの状況を作り出しているのだ。


 ただ日本限定の話なのかもしれないが、日本のスギ林には暗雲が立ちこめている。

 それは松食い虫の被害だ。

 松食い虫は名前の通り、日本全国で松を枯らしているだが、より正確に言うと、通称マツクイムシと呼ばれていることの多い、カミキリムシの仲間が直接の原因ではなく、これを中間宿主にする線虫、バクテリアの仲間だ、こそがマツを枯らす真犯人と言われている。


 要するに虫はバクテリアの運び屋なのだ。

 そして今までは松専門のカミキリムシばかりがこの線虫を運んでいたのだが、どうも最近はスギにつくカミキリムシも線虫媒介に一枚噛むようになったらしい。


 で、ヒノキなどスギ以外の針葉樹にもマツと同じような立ち枯れ被害が増えつつあるとのこと。


 一方、ブナは、というと、今のところは、全然関係無さそうである。

 ブナこそ針葉樹などよりもはるかにたくさん昆虫を集める木なのだから、ちょっとこれは不思議だ。

 どうしてかな、と思った私に、ふと思い出したエピソードがある。


 奇跡のリンゴとして、無農薬、無肥料でリンゴを栽培することに世界で初めて成功した木村秋則氏が、なぜそれが可能になったと思うのかを問われた時、こんな趣旨の言葉を残していた。


 木も人間と同じで、世話を焼きすぎ、甘やかすとどんどん免疫が落ちていく。

 逆にそういう余計をやらなくなると、自然免疫がどんどん強くなる。

 人間の役割を、土を自然な環境に近いモノに整えることに限定したら、リンゴの木も強くなったということだと思う。


 これで行くと、ほぼ野生状態のブナは線虫を寄せ付けないだけの免疫を持つが、人に何かと頼っているスギやヒノキにはそういう免疫が無い、ということなのかもしれない。


 というわけで日本の森林率は八十パーセントもある、と胸を張って世界に自慢できる状況でもないことを一応知っておいて欲しい。


 海外での森林関係のニュースで一番気に掛かるのは何と言っても山火事である。


 ヨーロッパのフランス、スペイン、ポルトガル、南米のチリ、ペルー、そしてオーストラリア、アメリカのカリフォルニア州、この辺りから大規模な山火事が何日も続いたというニュースが流れた。


 木というのは本質的に燃えるものだし、どこの土地も日本よりもずっと乾燥していて当たり前の土地ばかりなのだから、異常でも何でもないような気もするのだが、ニュースとして流された報道を見ると、どこの国でも全部異常気象、温暖化のせいということにされていた。


 いや、二酸化炭素が増えた温暖化なら、火は燃えにくくなるだろうし、樹種は落葉広葉樹がずっと増えて、保水量が増えるから山火事はかえって起きにくくなるんじゃないかと思うけど、誰かもう少し分かりやすい話をしてくれないかな、とは思った。


 現場近くに住んでいる方にとっては大変気の毒だとは思うが、大規模化した山火事の最大の原因は、森林面積が減って、大地の保水量が減ったからなんじゃないの、と私は疑っている。


 ニュースを見た感じでは、どこの火災現場も大木がたくさんある森という感じでは無く、乾燥した土地の灌木林みたいなところが燃えているように見えたからである。


 もっともオーストラリアの山火事については例外だ。

 ニュースで紹介された山火事でどんな木が燃えたのかハッキリ確認したわけではないから、断言できないが、もしその木がユーカリだとしたら、それはもう完全に自然の悪戯と考えるしかないと思うのである。


 ユーカリは、ちょっと特殊な木だ。

 前にC4植物というのがある、と紹介したが、このC4の由来は、炭素原子を四つ持つ化合物を光合成で作るという意味なのだ。普通の植物は炭素三つまでの化合物を作る。


 ところがユーカリは、もっと長い炭素鎖の化合物を作ってしまう。

 人によってはガソリンを作る木などと呼ぶ人もいる。

 事実、どこかの会社が人工的なガソリンをユーカリに作らせる研究をしているはずだ。

 バイオマス燃料よりは確かに有望そうだが、どっちみちコストは引き合いそうにないけどね。


 ユーカリが進化を果たした時、空気中に二酸化炭素がほとんど無かったからこうなったんだろう。


 要するにユーカリは炭素濃縮能力がものすごく高い植物なのである。

 従って、ユーカリの森はいくら水分量が豊富だったとしても火気厳禁もいいところで、落雷でもあればすぐ火の海になりかねない危険な森でもあるのである。

 そう言えば、オーストラリア発のテレビニュースでは、樹上で焼け死んだコアラの映像を流していたから、やっぱりユーカリなんだろうな。


 コアラが死んだのはまるで温暖化のせいみたいな報道になってたが、それは違うと思うよ。


 再び日本の話に戻る。

 東京生まれ、東京育ちの私からすると極めて意外なのだが、田舎というのは木を大事にしない。


 木なんて珍しく無いから、ということもあるのだろうが、田舎の山野に生えている木に大きなものはほとんどない。

 若い木ばかりだ。


 山であろうと街中であろうと、大木を邪魔者扱いする事が多いのである。

 まあ、同じ生活空間にあるから、初めてわかる厄介ごとみたいなことが多いのだろう。


 曰く、

台風が来て倒れたら大変。

 大雪が積もって倒れかねない。

 日陰を作って日照権侵害で訴えられかねない。

 害獣の隠れ家になる。

 と、まあ、いろいろあるんだろう。


 なので、日本全国で、どこに巨木が多いのかを調べた調査によると、ダントツ一位は東京都らしい。


 皇居周辺、新宿御苑、明治神宮、神宮外苑、代々木公園と都心部近くに巨木のある森林を持つ場所も多いし、文京区のような、元々の地形が複雑で農地として利用されなかったため、学校や大きな面積を持つ私邸、例えば有名な鳩山さんちとか田中さんち、公園と見紛うような豪邸などにも巨木がたくさんある。


 東京都も積極的に巨木を登録、保存しようとしているらしい。

 登録プレートが表示された巨木をよく見かける。


 それ以外の街路樹などでも場所によっては、巨木と表現したくなるようなものを見られる。


 街路樹などの植栽の手入れにかける予算がダントツで多いのが東京だから、こういう結果となったようだ。


 樹木をきれいな形を保ったまま維持するには剪定が欠かせないが、この剪定の手間賃ってのは、高さによって料金が倍増する構造なのである。


 そりゃ、こういう料金メニューを見せられたら大きくは育てたくはないよね。


 イチョウは東京都の木とされている関係で、東京にはいたる所に街路樹として植えられているが、落ち葉はすごいし、雌木は銀杏をつけ、秋になれば、臭いを撒き散らすから、他の都市で街路樹として採用されることはまあ滅多にない。


 落ち葉も銀杏も片付ける目途がちゃんと立ってるから、東京は維持できるのである。


 実際、私の経験でも、地方都市は、どこに行っても、立派な木というのにはほとんど出会ったことは無い。

 あるとすれば、神社仏閣などの敷地内と全国に名が売れている名園と呼ばれるような庭園だけだ。

 さすがに神域に立っている巨木に文句をつける人間はいない、ということなのだろう。


 今から二十余年ほど前、宮崎県で、街路樹を育て販売している業者さんの畑というのに偶然、出向いたことがある。

 東京都の街路樹にかける予算がずば抜けて大きいから、一番のお得意様だ、という話を聞かされたのは実はここだ。

 知っていて訪ねたのではなく、出張の途上、たまたま偶然通りかかって、興味本位で話をした程度のことだし、こちらも木とは全く関係無い仕事で行っていたから、単に世間話で聞かされた話だ。


 信憑性がどの程度あるのかはともかく、話の内容が面白かったから覚えていたのだ。


 キッカケは、畑の続く平原の向こうに、大きな木が整然と並んでいる姿が、珍しかったので何があるんだろうと、近寄ってみたのである。

 因みにこの近所にはゴルフ場相手に天然芝を売っている畑なんてものもあって、宮崎県ってのはずいぶん変わった商売が多いんだなと思ったものである。


 やはりここの畑(? 見た目は林そのもの)で育てられた街路樹用の木は、普通に見かける庭木とは全然レベルが違うほど、大きかったのは覚えている。

 何事でも専門特化すると競争者というのはいなくなるものらしく、この商売ではここがほぼ独占状態だとかなんとか語られていたように思う。

 山の中にいくらでもある木は、ほぼ百パーセント斜面に生えている関係で、根と幹の間に妙な角度がついているから、街路樹としては使えないそうである。

 街路樹として出荷できるかどうか、高く売れるかどうか、すべては平らな場所に植えた時の立ち姿がキレイかどうかで決まる、そんな話だった。

 木の世界も世知辛いね、と当時の私は思ったものだ。


 脱線が長引いた。

 縄文時代の話をとりあえず締めておこう。

 この水源涵養林の発見により、おそらく世界で初めて完全な意味での人工水田は完成したのである。



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