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牢の中の僕は愛を知っている  作者: 楠木 茉白
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4

皆の前に飲み物が運ばれ、一息つくと打田先生がスっと立ち上がった。


「それではよろしいですか、皆さんに飲み物は回りましたか?では今期から我々の仲間になりました萩原先生から一言頂戴したいと思います、萩原先生どうぞ」


打田先生に声を掛けられたが挨拶をする心の準備はしていたのだが緊張は抑えられないものだ。


「え……と、本日はこのような会をしていただいて、感謝の言葉しかありません、早く皆様の一員として戦力となれるよう努力して参りますので、ご指導ご鞭撻の程よろしくお願いします」


そう言って僕が一礼すると拍手が起きた。なんだかむず痒い気持ちに襲われた。


「萩原先生堅いねぇ、それでは乾杯の御発生を誰にしようかなぁ……宮沢課長お願いします!」

「はじめからその気だろ、よっ宮沢課長」


打田先生のお決まりなのだろうか、クスクスと笑いが起きている。


「では、僭越ながら私がその大役を担わせていただきます」


宮沢課長がそう言うと、おーと小さく歓声が湧いて、皆は姿勢を正していた。


「あまり話が長くならない様に気をつけなくてはいけませんね、フフ」

「アハハ、お願いします!」


こういう部分から部下との良好な関係性が築けているのが伺える。


「萩原先生、まだ慣れない事が多いと思いますが、私たちと一緒に立派な児童相談員に成長していきましょう、それでは皆様グラスを、乾杯」

「かんぱーい」


宮沢課長の乾杯の発声で飲み会が始まってすぐ僕が酒瓶を持って課長の元に行こうとすると打田先生に制止された。


「萩原先生、お酌しに行くつもりでしょ?」

「あ、はい」

「その必要はないよ、萩原先生体育会系でしょ?」

「えっ、学生時代は剣道をしていたので少し染み付いているのかもしれませんね」

「剣道を……確かに剣道ぽいかもしれないね、お酌を喜ぶのは体育会系のおじさんたちだけだよ、俺も新人の頃にお酌をしに行ったのだけどね、俺もこう見えて学生時代はバスケ部だったから学生時代のノリでね、課長はありがとうと言ってたけど、女性も多い職場だから迷惑みたいなんだよね」

「そうなんですか」


言われてみたら、確かに打田先生の言う通りかもしれない、僕自身そういう習慣に嫌気がさしていた。


「まぁ、しばらくしてから話し掛けに行くといいよ」

「ありがとうございます、いろいろ助かります」

「それは職場の同僚だからね、それに俺と同い歳なのは萩原先生だけだからさ、あと実は俺も水上先生が教育係だったんだよね」

「そうだったんですね」


最初の印象からだと意外な組み合わせな二人が上手く噛み合っている様子が想像できないがこれまでの打田先生の様子を見てると、些細なことへの気配りと人あたりの良さで上手くやっていたのだろうと思った。


「水上先生にはしっかり仕事を教えて頂けていて、本当に助かっています」

「そうだね、水上先生はちゃんとした人だから、今の内にいろいろ聞いておくといいよ、俺も随分と助けられたから」

「水上先生は本当に児童相談員として素晴らしい方だと思います」

「んっ、そうだね、いい児童相談員だよ」


ん?何か僕はおかしな事を言ったかな、打田先生には何か引っかかった様子だ。


「そういえばさ、プライベートな事だけど、宮沢課長はああ言ってたけど、何で萩原先生は前の職場を辞めて児童相談員に?コスモ商事と言えば上場の大企業だし、それに国立名門大学出で児童相談員になるには児童福祉司を志してない限りなるなんて考えられなくてね」

「そうですね……前の職場はうまくいかなくて」

「あー、その辺は詳しくは聞かない様にするよ」

「児童相談員には、次の仕事を探している時にハローワークで募集を見て……」

「まぁ、何となくって事か?」

「いや、……まぁそうかもしれないですね、すみません」

「ハハッ、俺も同じだから、何となく公務員になればいいかなって考えてて、たまたまそれが児童相談員だったってところだよ」

「そうなんですか」

「うん、でもほとんどの人がそんなもんだよ、何となくこの仕事でいいか、給料がいいからこれでいいか、そんなもんさ」

「そ、そういうものですか……」

「なかなか、自分の望みのままの仕事になんて付けるものじゃないからね……ちなみに俺の夢はプロバスケ選手だよ、ハハハ」


打田先生の言うことはごもっともなことだが、無礼講とは言っても、少しは児童相談員としてのモチベーションの高さを言うべきだったのかもと、後悔した。


「まぁ、でも萩原先生が剣道家だなんてね、意外だよ」

「ええ、でもさっきは」

「よくよく考えたら、剣道家って強面のキリッとした顔つきの厳格って人じゃない?」

「そうですかね……いろいろだと思いますけど……」

「俺もバスケって感じじゃないから、人の事言えないけど」

「いえ、打田先生は」

「ええ、何?ハハッ」


本当にこの人は人の隙間に入るのが得意なのだろうな、児童相談員向きな人なのかも知れないと僕はその時思った。


「なんだねなんだね、若い者はどんどん飲んでどんどん食べなきゃいけないぞ!」

「主任、それパワハラかもしれませんよ」

「ええ!これも!本当に分からんなぁ、もう何がパワハラかそうじゃないのか分からないなぁ」

「打田先生、そうやって、パワハラ告発をチラつかせるのは脅迫では?」

「水上先生!そうだよね!打田先生は大袈裟すぎるよ」

「ですが、打田先生の言う事にも一理ありますから、井上主任も気をつけてください」

「あっ、はい……」

「水上先生は厳しいなぁ、アハハ!」


この和気あいあいとした雰囲気は嫌いじゃない、でも僕はこの中に僕はいないと感じていた。


伯父さんの家と同じ雰囲気、でもそこに僕の居場所はいつもなかった。





仕事にも慣れ一月が過ぎようとしていた。

まだひとり立ちとはいかないが僕自身が対応する事に困惑しなくなった。これも丁寧な新任の育成をするこの職場のお陰だろう。


「萩原先生、随分と勤務に慣れてきたね、俺何かよりも全然早いよ、流石一流大学卒」

「そんな事ないですよ、僕なんてまだまだです、出来る様になってきたのも皆さんのご指導のお陰です」

「またまた」


打田先生とも随分馴染む事が出来る様になり、ジョークが言える中にはなっていた。


結局のところ、歓迎会では宮沢課長に話をする事は出来なかった。


面接での様子は僕に何か心当たりがあるようだった。もしかしたら僕の過去を知っているのかもしれない。


とは言え、その事について今更何を聞く訳でもないが、それでも僕は宮沢課長を気にせずにはいられなかった。


「打田先生、遊んでる場合じゃないでしょ、主任が先週の講習のレポートについて話があるって探していましたよ」

「あっ、水上先生、今萩原先生が成長したっていう話をしてまして」

「そうですか、それは萩原先生が努力をなさっているからだと思います、打田先生早く行った方がよろしいのでは?」

「あー、そうですねぇ、はぁ……主任長いですからねぇ、コーヒー飲んでから行きますか」


打田先生の言う様に井上主任の話が長い、確かに苦いコーヒーでも飲んで目を覚ましておかないともたないのは同感だ。


「水上先生、そういえば、先月訪問した、えっと……藤原星空さんがまた学校に来てないみたいなんですよ」

「星空さんって入学式から登校していなかった」

「はい、しばらくは登校していて、学校生活も目立った問題はなかったようなんですが、先週からまた登校して来ていないようなんです」

「そうですか……気になりますね」

「はい、なので午後にでも訪問してみます」

「萩原先生、私も一緒に行きます」

「そうして頂けると助かります」


僕自身、案件の軽いものであったら少しづつ一人で対応する様になっていたが、流石に第三者からの連絡が入る重めに成りうる案件を一人で受け持った事がまだない。


経験としては積むべきことなのだろうが、昨今、児童相談所の対応に批判が殺到した事に敏感になっている為、慎重な対応が必要する場合を見越して、経験の浅い僕にはこういった場合には水上先生が同行してくれていた。


「やっぱり虐待があるんですかね……」

「萩原先生、はじめから決めてかかることは事故を招きます、私感に頼らず事実だけを見極める様にしてください」

「はい……分かってはいます」

「では、午後の頭には出られる様に準備しておいて下さい」

「分かりました」


はじめから疑ってかかるのは確かに危険な事なのは僕にだって分かってはいる。でも、実際児童への虐待は大なり小なり、この国、いや世界には横行している。


僕自身にだって起きた事なのだ、僕にとって疑って掛かるのは致し方ないことだ。


午前中に事務業務を手早く終わらせ、午後の訪問に備えたが一月前の様に母親が拒否反応を示す事も想定される。


僕は水上先生の様に上手く交わしながらも対応できるのか不安に駆られる。いつかは、近い内に対応出来るようにならなければならないが自信が持てない。


「萩原先生、昼食をとってしまったら行きましょうか」

「はい、分かりました」


昼食はいつもの様に購買で買ったサンドイッチとカフェオレを早口で食べ、外回りの為の準備に向かった。


決して急いで食べなきゃいけない状況でもない、むしろ、水上先生はお手製の弁当をゆっくりと食べている。僕が早々と食べてしまうと気を使わせてしまうかもしれないが、前職の癖が抜けず、ついつい早食いをしてしまう。


「萩原先生」


井上主任が声を掛けてきた。


「なんでしょうか?」

「これから外回りですか?」

「はい」

「他施設の話なのですが、児童相談員の態度が悪いというクレームが殺到しているそうなのですよ」

「あ、はい……」

「まぁ、正直な話悪質なクレームだとは思うのですが、相談員の先生方も批判を気にしてピリピリしているのも分かりますがね、こちらは公務員ですから、市民の模範となる厳正な勤務姿勢をとることは当たり前のことですから、クレームを受ける事ないように冷静な対応を心掛けてください」

「分かりました」

「まぁ、萩原先生や水上先生に限ってはそのような事がないとは思いますが、施設の評判を下げるようなことは厳に慎んで、何かあれば宮沢課長、もっと言えば所長の顔に泥を塗る事になりますから」


井上主任の言いたいことは分かるが、余りにも話が長く、そして諄い。


「では、よろしくお願いしますよ」


ようやく終わった。そんな話をくどくどとする間があればもっと仕事が進むと思うのだが、とそう思っているが主任にその事を言う者はいない。いや、打田先生は上手く交わしていたな。


僕にもあれだけのコミュニケーション能力があればと思うが、不向きだろう。


「主任の話は終わりました?」

「あっ、はい」

「では、行きましょうか」


多くの人は水上先生のように用事がなければ飛ぶ火の粉に触れないように主任の近くによらない様にしている。


皆、主任が嫌いという訳ではないが話の長さとくどさに少なからず面倒くささを感じている。


「主任は何と言っていたのですか?」

「対象者への対応について、事故のないように言われていました」

「そうですか」

「井上主任の言いたいことも分かるのですが、少しくどく感じてしまいますね」

「ですが、主任の仰ってることは間違っていません、対象者への対応を間違えると大きな事故に繋がりかねません、それだけ事案に慎重に取り組まなければならないということです」

「そ、そうですね」


僕は水上先生を怒らしてしまったのではないかと少し心配になった。


新人の僕が勤務もまだ自立して出来る訳でもない状況で生意気な事を口走ってしまったのが気に触ったのかも知れないと反省した。





「在宅してますかね」

「どうでしょうね」

「学校からの連絡では今日も星空さんは登校していなかったそうです」

「うぅん、どうでしょう」


もしかして、水上先生はまだ怒っているのか、そんな事はないと思うが心做しかよそよそしく感じる。


だがそれはいつもの事だからなんとも言えないが、少しは気にしているのかもしれない。


後でコーヒーでも持っていこう、そう思った。


「それでは、対応は私がしますので萩原先生は見ていてください」

「分かりました」


水上先生がチャイムを押すと室内から呼び鈴の音が響いてくる。


しかし、前回と同様に反応がない。


出てきた所で僕に出来る事はほとんどないだろう。あの手の話が噛み合わない人と話すというのは僕の人生の中で学生時代と会社員時代でも経験した事がない。


厄介な人と話す事はあったがそれとは別次元で普通に過ごしていたら絶対に関わらない人種だが児童相談員なった以上はそうも言っていられない。


「出ませんね、留守ですかね」

「……もう一度呼んでみましょう」


水上先生が再度チャイムを押す。前回訪問した時と変わらずなかなか出てこない。


換気扇の回る音が聞こえてくる、室内には誰か居るような様子ではあるが、居留守を使っているのだろか、それとも都合が悪いのか、自然と僕の口からため息が漏れる。


「藤原さーん!児童相談員の水上です!」


突然、扉に向かって水上先生が大きな声を上げて僕は驚いた。

普段では有り得ない様な行動であったからだ。


その甲斐あってか、室内から扉に向かってくる足音が聞こえてくる。


乱暴に少し扉が開く。


「何?うるさいんだけど」

「お忙しい時にすみません、児童相談所の水上です」

「はぁ!嫌味?」


ノーメイクの目で母親は脅すかの様に睨みつけてくる。


「あっ、いえ、星空さんはご在宅でしょうか?学校に登校していないという連絡がありまして」

「はぁ!だから何?あんたらに関係あんの?いちいち鬱陶しいんだけど!」

「はい、私どもも学校から連絡を受けると事態をしっかりと把握した上で問題のないことをお伝えしなければなりませんので、どうかご協力いただけないでしょうか?」

「だったら、あんたから学校に問題ないって言っておいて、また行く気になったら行くから!よろしく!」

「申し訳ありませんが、星空さんにお話をさせていただきたいのですが」

「はぁ!なんでそんな事しなきゃいけないのよ!」

「星空さんの健全な学校生活の為に私どもにお手伝いをさせていただかせないでしょうか、その為にはまず、星空さんの現在の様子と心境を星空さん自身からお伺いさせていただきたいのです」

「あんたらの助けなんていらない!そんな事よりあんたら公務員なんでしょ?この不景気を何とかしなさいよ!私たちの税金のお陰で働けてるんでしょ!そっちを何とかしなさいよ!」

「申し訳ありません、ですが、今は星空さんのこれからのお話を」


一体何なのだろうか、まともな会話ができないのはなぜなのだ、僕は理解に苦しむ。この母親、藤原彩奈は年齢二十三歳未婚、十六歳の時に当時交際していた男性との間に長女星空を出産、交際相手は星空を認知することなく、彩奈はシングルマザーとなった。


彩奈の両親とは疎遠で目立った犯罪歴はないものの、少年時代に複数回の補導歴があり、少年鑑別所に拘留された事もあるが保護措置となる。


しかし、こういった人間にまともな育児が出来るのだろうか、疑問だが法律を犯している訳でもない以上こちらは支援以外の口出しは出来ない。


だが、ここまで娘に会わせたくないのは疑問だ、やましいことがなければすんなり面接させればなんて事ないはずだ。理解し難い、何かを隠している可能性もあるがこの手の人はただ官公庁を毛嫌いして嫌がらせをしているだけの可能性もあり、まんまとその嫌がらせに乗ってしまうと後で訴訟なんて事も有りうるだけに慎重にならざる得ない。


「そんなことどうでもいいんだけど!あんたらほんっと!執拗いね」

「申し訳ございません、ですが、私たちは星空さんと」

「マジウザい!いちいち指図すんな!」

「いえ、指図などしていません、私たちはお願いを」


この母親に訴訟狂のようなそこまでの知性は感じられない。


「すみません、お母さん、あなた娘さんに会わせたくない何かまずい事情でもあるんですか?」

「はぁ!何よあんた!」

「萩原先生!」


僕自身少し驚いたが彩奈の話の分からない様子に痺れを切らし口出しをしてしまった。一度出してしまうと止まる事は出来ず更なる追求をしてしまう。


「だっておかしいじゃないですか?別にやましいことがないのなら、少し僕らに娘さんと面談させてくれさえすれば、事態に問題がなければ僕らはすぐに帰りますよ」

「はぁ!何だってだよ!あんた!」

「そんなに取り乱して益々おかしい、僕らだって仕事でやってるんです、規則にそってあなたと対応していますし、ここまであなたに責められる筋合いはないはずです」

「萩原先生!あなたは口を挟まないでください!お母様申し訳ありません」

「何なのよ!わかったわよ!星空!星空!」


やはり、正論で真っ当に攻めた方が話が早く進む、水上先生は御立腹な様子だが、こういう輩は下から甘く進めれば調子に乗って上からものを言い続ける。立場に優劣があれば、劣勢なのは対象者に他ならない、こういう時営業勤務で培ったものが役に立つとは、複雑だが、これで面談ができる。


彩奈は奥の部屋へと星空を呼びに向かっていき星空を連れてやって来たが、星空は前回と同様に部屋の扉の前までで玄関の方まではやって来なかった。


星空の姿は少しぶかついた白いタートルネックのセーターを着て軽く俯いていた。


「こんにちは、星空さん、学校は楽しいですか?」


星空は俯きながらも水上先生の問に声を出すことなく頷いた。


「そうですか、学校で何か嫌なことでもあった?」


星空は首を横に何度も小刻みに振った。一生懸命拒絶するように。


「学校は好きですか?」

「うん……」


はじめて星空の声を聞いた。水上先生に少し心を開いた様だ、僕にはできない芸当だ。


「もういいでしょ!わかったでしょ!学校は行かせるからそれでいいでしょ!さっさと帰って」


この母親は星空が何か話すのが嫌なのか、それともただ娘を過保護に守っているのか、この手の人間は本当に何を考えているか僕には理解できない。


でも、星空がこんな夏も間近で半袖でも過ごせる様な時期にいくら何でもタートルネックのセーターなんて季節外れも甚だしい。


「すみませんお母様、もう少しだけ、星空さん何か悩み事があるのならいつでも言ってね、あなたは一人じゃないから」


水上先生が優しくそう言うと、星空は更に深く俯いた。その時、星空の顔から雫が落ちるのが見えた。


その雫が安堵の涙だとするなら問題はないのだが、汗だとしたら、星空はセーターを自分自身の意思で着ている訳ではない、彩奈の指示で着ている事になる。


「それでは、本日はこの辺りで失礼します」

「待ってください」

「萩原先生!帰ります」

「しかし」

「帰ります」


水上先生がここで引き上げる理由も分かる、今の状況でこれ以上は児童相談員が何か出来る訳ではない、虐待が行われている情報もなければ確証もない。

それでも、今、星空を置いていってしまったら、この先ずっと後悔するような気がした。


こんな時は西山係長を思い出してしまう。


「早く、出てって」

「お母様、何かありましたら」

「早く!出てって!」

「では、失礼します」


扉が閉まる刹那、星空の顔が見えた、星空の目は、昔の僕と重なって見えた。僕の胸の奥にあの日、迎えに来てくれた伯父さんの寂しそうな目の事を思い出した。


「水上先生、いいんですか?このまま帰っても、あの母親は変です、それに彼女、星空さんはこんな時期にあんなセーターを着ているなんておかしいじゃないですか、何かを、虐待を隠す為に着させられているのかもしれません!今ここで帰ったら彼女が危険です!」

「そんな事言われなくたって分かっています!彼女がどれほど心を痛めているかなんて!それでも今の私たちにできる事なんてあれくらいのことなんです!」

「そんなことはない!まだやれる事はあるはずです!」

「萩原先生、あなたも分かっているはずです、私たちは法令に則って厳正に行なわなければなりません、今は帰って課長たちに相談して、事態が最悪にならない様にしっかり見守っていくしかありません、分かりますね?」


僕も分かっている、児童相談員が強制的に児童を保護するには虐待の事実が認定されなければ、今できることがこれくらいなことは、でも、ああもすんなりと引き上げるなんて、何の抑止にもならない、何もしていないと同じ事だ。


「分かりました……」

「そうですか、良かったです」

「分かりました、もう水上先生には頼りません」

「えっ?」


僕自身なぜこんなに星空にこだわるか分からない、今帰ったところで誰かに責められる訳でもない、あの時だって係長が自殺することなんて予測できる訳もない。


でも、僕だから、僕だからこそ、彼女の事が分かる。星空は助けを求めている。僕らに助けを求めていると。


「萩原先生!どこへ行くんですか!待ちなさい!」


水上先生の声は聞こえている、でも、僕自身でも今の僕を止めることができない。星空を助けなくては、助けなければ行けない。そう頭の中で駆け回っていた。


僕は扉を強く何度もノックし、チャイムを押し続けると彩奈が形相を変えて出てきた。


「何なの!あんたどういうつもり!警察を呼ぶわよ!」

「好きにしてください、警察でもなんでも呼んでください、失礼します」

「ちょ、ちょっとなんなのよ!誰か!誰か!警察呼んで!」


僕はもう後戻りできない、もし僕の勘違いだったら僕はタダではすまない、でももうそんな事は考えられなかった。


「星空さん、失礼するよ」


星空は驚いた顔をしていた、幼いまだこんなに小さな子がこんなに元気がない、まるであの時の僕みたいだ。


僕は彼女の腕を取った、そして、セーターを捲りあげた。


「ちょっと!お前!星空に触るな!」


僕は驚いた、いや、分かっていた事だ、星空の幼く細い腕には多くの青あざができていた。


「あんた……あんたこそなんなんだ……あんたこそなんなんだ!」

「な、何よ……」

「これはどういうことなんだ!」

「あ、ああんたに、関係ないでしょ、家のことにいちいちうるさいわよ」

「これはあんたがやったって事だよな?」

「う、うるさいわね、躾よ、この子が言うことをちゃんと聞かないから」

「ふざけるな!何が躾だ!あんたがやってる事は暴力だ!虐待に他ならないだよ!」

「うるさい、うるさい、黙れ!」

「子供は、子供は親の道具じゃないんだよ!」

「う……う」


駆けつけた水上先生は事態を直ぐに察知し優しく星空の肩を優しく摩ってくれていた。


「お母さん、星空さんを児童相談所で保護させていただきます、私共もこの様な状態が発覚してしまった以上対応せざるを得ませんので」

「ふん、好きにすれば」


この母親はどこまでも腐っている、悪びれた様子もなく事態の発覚でやけになっているのか、それでも自身の産んだ子をこうも簡単に手放せるのかと僕は強く憤った。


「あんたね!それでも母親か!」

「萩原先生!いい加減にしてください、それ以上は……私たちの仕事をしましょう」


そう言って水上先生が星空を外へ連れ出そうとした。


「ママ、ママ!嫌だ!ママといる!」

「うるさい、もういいわ、さっさとどこへでも行け」

「嫌だ!ママ!ママ!」


意味が分からない、どうして星空は自分を虐待した彩奈といたいのか、普通なら逃げ出したいはずなのに、どうして星空はこんなにも母親を求めるのか。


「君は何を言っているんだ……この母親は君をそこまで痛めつけたんだよ!どうして!」

「萩原先生!」


僕は我を失っていた。


この子はどこまでも親を求めているのに、僕は……


僕は簡単に親を捨て去った。



























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