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「本日からお世話になります、萩原宝と申します、若輩者ではありますが早く先輩方のお力になれる様に努力して参りますので、どうぞご指導ご鞭撻の程よろしくお願い」
児童相談員としての初めての仕事はこの事務所での挨拶、前の会社とは違い皆の注目度が熱い、名前のせいもあるかもしれないが。
前の会社での初めての挨拶はあまり関心はなく、どことなく他人ごとの様であったが、ここの人達は僕に期待、いや、見定めている様な感じだ。
「それでは、萩原先生の席は端のあそこの水上先生の隣りだから」
「あ、はい」
「水上先生よろしくお願いします」
小太りの井上主任が指刺す先には小綺麗に片付けられた古いワーキングデスクにはノートパソコンがぽつんと置かれいるだけだった。
「どうも、水上です、一応今日から私が萩原先生の新任指導をしますので、分からない事があれば聞いてください」
「はい、よろしくお願いします」
「それとこれが前任者からの引き継ぎ書です」
僕の新任指導してくれる水上先生は二十代後半の方ではあるが、年相応な浮ついた感じはなく事務的に勤務や対応を行なう人といった印象だ。
しばらくの期間はこの水上先生とペアで行動することが多いだろうが、僕としてはこれくらい事務的な人の方が余計な気を使わなくすむからありがたい限りだ。
「萩原先生の下の名前って、宝って言うだね、キラキラネームって感じだね」
この唐突に馴れ馴れしくも気さくに話掛けてきた打田先生は僕と同い歳だが、新卒で児童相談員になっている為、一応先輩にあたる。
「はい……キラキラネームかは分かりませんが、親が勝手に付けた名前なんで」
「そうなんだ、覚え安いからいいじゃん」
「そうですか……」
「萩原先生って前まで大企業に勤めてたのになんで今さら児童相談員になったの?珍しいよね」
「そ……そうですか?」
同い歳だがこの打田先生は苦手なタイプの人間だ、良く言えばフレンドリーな人だが、ズケズケと人のテリトリーに入ってくる。
「打田先生、プライベートの事をズケズケと聞くのは感心しませんよ」
困っていた僕を救ってくれたのは笑顔の宮沢課長だった。
宮沢課長は面接で気になる反応をしていたが、その後はそういう雰囲気を出すことはなかった。
「あっ、宮沢課長、アハハ……そうですね……配慮に欠けました」
「歳が近いから仲良くしたいのは分かりますが、気を付けてくださいね」
「はい……萩原先生、ごめんなさい」
少し驚いた、打田先生は以外と素直な人なんだと、誤解されやすそうだが悪い人ではないようだ。
「いいえ、全然大丈夫です」
「本当に?へへ、萩原先生これからよろしくね」
「こちらこそよろしくお願いします」
子供みたいな人だけど、確かに同級生はまだ大学生気分が抜けきれていないからこんな感じかもしれない。
僕や水上先生の様なタイプの方が稀かもしれない。
「萩原先生、慣れない事も多いでしょうが頑張ってください、分からない事がありましたら私にも遠慮せずに聞いてください、水上先生もくれぐれもよろしくお願いします」
「はい、宮沢課長、それでは萩原先生、事務所の説明と業務の確認が終わりましたら、担当地域を回ってみましょう」
「お願いします」
これから児童相談員としての人生が続く、前の会社の様にならない事を切に願いながら。
「それでは萩原先生、行きましょうか」
「はい、お願い」
しかし、研修は受けて来たが、いざこれから実際に問題を抱える家庭を訪問するとなると胸の奥が緊張で張り裂けそうになる。
家庭問題は大なり小なりいろいろなものがある。
児童相談員の仕事は簡単に言えばそういった家庭の相談がメインなる。
問題に応じた措置を行い、解決に尽力する。
だが問題の多くは書類上解決とはなるがほとんどだが継続か維持と言ったものがほとんどだろう、必要な措置を行った所で問題や負った傷が癒える訳でもないからだ。
出来ることも限られた中で必要な措置を行い、解決に尽力する、本当にそんな事だけで解決したと言えるのか、答えは分からない、かつての僕らの様に。
「初日ですから、対応は私がするので萩原先生は見ていてください」
「はい、お願いします」
その後は何軒か回ったが、水上先生はどの家にも事務的な対応で公務員としては理想な対応だろう、研修でも事務的な対応を要求されたがその中にも温かみを持つ事を教わったが、水上先生は淡々と面談を行っていった。
確かにどれだけ頑張ろうと公務員の給料は決まった額でしか昇級はない、そう考えるとこの形が理想なのかもしれない。
目立った功績はなくとも事故なく堅実なスタイルが賢い選択なのだろう。
前の会社でそれが嫌という程理解できた。
目立つ事なく堅実に業務を行う、そして制度の有効活用こそが正しい生き方なのだ。
今の僕にはそれが一番合っている。
「次が最後なのですが、小学校から連絡がありまして、今年入学予定の児童が一週間たっても登校せず、保護者とも連絡が取れていないそうです」
「どういう事でしょう?」
「それを今から面談して確認します、ただの不通だといいのですが、事件や事故に合っている可能性も考えられます早く事態の詳細を確認する必要があります」
「そうですね、何もなければいいですね」
「……そうですね」
無表情の水上先生の顔が少し曇った様な気がしたが気のせいだと僕はあまり気にしない様にした。
担当管内は学生街と工業地帯が隣りあう様な土地柄でそこを境界線にし、貧困層と富裕層で分かれていた。
「この辺りは少し空気が変わりますね」
「そうですね」
先程までは、不登校や非行などの親側からの相談であったため、富裕層の家庭ばかりだった。
「萩原先生、どんな事案であっても私達のすることは変わりません、研修で教わったことをただ粛々と行っていくだけです、ご承知でしょうけど、くれぐれも勝手な判断、法令に反する事はしないようにしてください」
「肝に銘じます」
どうしたのだろか、先程まではここまで厳しく注意することはなかったが、この雰囲気がそうさせているのではないかと僕はその時はそう思った。
訪問先に訪れるとそこは工業地帯の築十数年といった少し古めのアパートについた。
そのアパートの二階の203号室、表札は入っていない。
水上先生がチャイムを押すと室内からピンポンという音が聞こえてくるが室内から誰か出てく様な気配がない。
「留守ですかね」
「もう一度鳴らしてみます」
水上先生は再度チャイムを鳴らすと室内からドタドタと不機嫌な足音が聞こえてくると、鍵の開く音が聞こえた。
「居ましたね」
ぶっきらぼうに扉が覗ける程開いた。
「はい、何に?セールス?」
出てきたのは、年齢は僕とそう変わらなそうな、ギャルと言うべきなのだろう、髪を金色に染めた女性だった。
「失礼します、藤原星空さんのお母様でよろしいでしょうか?」
「はぁ、そうだけど、なに?」
「私共は児童相談所の者です、学校から星空さんが登校していない旨の連絡がありまして、何か事故に巻き込まれたのではないのかと心配でしたので、大事ないでしょうか?」
「なに?ちょっと学校休ませただけでいちいちあんたら来んの?」
「いえ、学校側の連絡に応答がありませんでしたので、並ならならなる事情があってはいけないと思い訪問しただけですので」
「めんどくさ、じゃあもういいでしょ」
「あっ、申し訳ありません、一応、星空さん自身にも面談させて頂いてもよろしいでしょうか?」
「なんで?」
「学校に行きたくない事情が何かあったり、体調が優れないなどの事もあるやも知れませんし、学校での不安をお母様に相談できない事も私共の様な第三者になら話せることあるでしょうし、お子様の健全な学校生活の為によろしいですか」
「はぁ!星空が私に何か相談できない訳ないじゃん!あったとしてもあんたらに話す訳ないでしょ!」
「申し訳ございません、お母様のお気持ちも分かりますが、星空さんの健全な学校生活の為に面談をさせてください」
何だろうかこの母親は、まともに話にもならない、こちらが謙ってお願いという立場で虐待を疑っているという事を伏せて話しているのに、全く筋の通らない高圧的に対応をとってくる。
この様な対応をとる親は何か疚しいことがあるのだろう、虐待をしている事を隠していて高圧的に出てきている可能性がある。
「あんたら、何様よ!」
だが、それも可能性であって、憶測に過ぎない。
物証がある訳でも虐待の通報があった訳でもない、学校側としては昨今の家庭問題や学校問題で批判される立場にある中で何も対応しなかったというレッテルを貼られる訳にはいかない、何か対応をしたという実績が必要であった。
その対応が児童相談所への相談という訳だ、それも児童相談所も同じ立場ではあるのだが。
「あんたらまさか私が虐待してるっていいたいの!?」
そうはっきりと聞けたらいいのだが、自分自身から虐待を持ち出す辺り、怪しいが証拠も何もない状態で強制的な事が出来るわけでもない。
「いえいえ、そんな事はありませんよ、私共も連絡を受けた以上は対応するのが業務でして、決してそのような帯があるわけではないんですよ、ただ星空さんの現在の様子を確認させていただきたいだけなのです」
「はぁ!何でそんな事しなければならないのよ!警察かなんかなのあんたら!星空に会わせなきゃいけない義務でもあんの!」
「いえいえ、義務ではありませんよ、私共は児童相談員ですので、決してお母様をその様に見ている訳ではなく、星空さんの健全な学校生活のためですので」
しかし、水上先生はこういった場に慣れているのだろ、どれだけ相手が無茶苦茶な論議を出そうと冷静に対象して適切な対応している。
僕はその姿に尊敬の念を抱かずにはいられなかった。
「本当、あんた執拗いね!分かったわよ!会わせればいいんでしょ!」
水上先生の粘り勝ちだ。
「星空!出ておいで!」
母親は語気を荒らげて、奥の部屋にいる娘を呼びつけると、部屋の扉を開けて上着を羽織った児童が顔をのぞかせた。
「こんにちは、星空さんですか?」
「うん」
少し俯いたその児童は扉をすぐ背に身体を出すが、目視で確認する限りでは虐待を受けている様な外傷は見当たらない、元気がなく俯いているのは人見知りと言ってしまえばそれ以上の理由はつけることができない。
正直に言えば、僕の心情は虐待を疑っていた。
でも、児童を確認した、今の現状は、虐待は見受けられないと報告する他なかった。
「どうして、学校へ行かないの?何か嫌な事でもあった?」
児童は水上先生の質問に首を横に振るだけの返答をしていた。
「そうなの?じゃあ学校に行けそう?」
「うん」
「そう、何か困った事があったら何か相談してね、学校で」
水上先生が優しく対応して児童に話し掛け続けようとすると、母親が遮る様に前に立った。
「もういいでしょ、学校には行かせるから、用がないならさっさと帰って!」
「すみません、では、本日はこの辺で、ありがとうございました、お母様も何かご相談がありましたら、こちらに」
水上先生が名刺を母親に渡そうとすると、母親お構い無しに扉を閉めた。
「お母様、何かお困りな事がありましたらポストに入れておきますので、こちらにご連絡ください」
閉ざされた扉に向かい水上先生は呼び掛けポストに名刺を入れた。
「今日はこれくらいにして役所に帰りましょう」
「そうですね、でも、今の児童少し肌寒さは残っているにしても厚着でしたね、何か隠したい事でもあるんですかね?例えば」
「萩原先生!何を考えるのも自由ですが、憶測で決めつけるのは事故の元です」
「えっ……」
「私たちは事実以外はないんです、確認出来る事だけが事実なんです」
「そ…うですか」
水上先生の仰られる通りなのは僕にも分かっている、人の見てくれで決めつけ判断する事は人権を無視する行為だということを、分かってはいる、分かってはいるが、人権は弱者を守る為には必要な物ではあるが……僕はむず痒い気持ちを押し殺すしかなかった。
「萩原先生、初日はいかがでしたか?」
僕がデスクで書類を作成していると、唐突に背後から宮沢課長が話し掛けてきた。
「研修と実践では全然比べ物にならないくらい厄介なものでした」
「そうですか、まだ初日ですから、萩原先生でしたら、これから経験を積まれて立派な児童相談員になられますよ」
「ありがとうございます」
宮沢課長が優しく気に掛けてくれているのは僕が初日の新人だからだとは思うが採用面接での様子は今の宮沢課長からは似つかわしくないが、その事について僕からは何かを聞くということはできないと思った。
「そういえば、萩原先生の歓迎会いつにしますか?」
打田先生が藪から棒に歓迎会を口に出したが、僕は歓迎会にはあまりいい思い出がない。
前の会社では歓迎会とは名ばかりの仲田部長を接待するだけの飲み会で、キツい洗礼を食らわされた事を今も記憶に染み付いて離れない。
「そうですね、萩原先生の歓迎会をしなくてはいけませんね、幹事は打田先生にお願いしてもいいですか?」
「任せてください」
見た目で人を判断することは児童相談員としてやってはいけない事ではあるが、打田先生は見た目通りのそういう賑わいごとが好きなようだ。
「打田先生、私は料理が美味しい所がいいです」
「了解です!」
水上先生も乗り気で案を出すとは僕は驚いた。
「萩原先生は苦手な食べ物とかアレルギーってある?」
「特には」
「じゃあ、了解」
打田先生は上機嫌でスマホでお店を慣れた様子で探していたが、こんな硬い仕事でもこんな雰囲気の人間もいるものだと、そんな事は当たり前だが不思議な感覚になった。
「それじゃあ今度の金曜日皆さん空けておいてくださいね!萩原先生の歓迎会しますんで!」
事務所にいた職員がそれぞれ打田先生に承った合図を送っている姿を見ていると仕事場によって仕事環境の違いを感じる事ができ、少し可笑しくなった。
「萩原先生、金曜日ちゃんと空けておいてよ」
「はい、わざわざありがとうございます」
「いいって、俺たち仲間なんだから」
「そ……そうですね」
打田先生のその言葉を素直に嬉しいと感じる反面僕はカラカラと渇いていく自分の心に失墜していった。
僕は本当に冷たい人間なのだな……