第1章 〜秋の日に 4〜(仮)
翌日、僕は再び怪我をして入院した彼のもとを訪ねた。病室の扉は開いていたが、一応ノックをして入った。
「失礼します」
仕切りのためのカーテンを開けると、青年は稼動ベッドの上部を半分ほど上げて、昨日ネットカフェから持ってきた本『宇宙の辞典』を読んでいて、こちらの姿に気付くと、あっという表情をし、頭を下げた。
「具合はどう?昨日の今日で、そんなに変わりはないだろうけど」
「確かに、痛みは……でも、久しぶりに熟睡できた気がします」
「そっか、それは良かった」
気のせいか、たしかに昨日より顔色がいいように思えた。
「あ、荷物足りないものなかった?」
「大丈夫です。全部持ってきていただき、すみませんでした。
あの、えっと……その……昨日は、色々とありがとうございました。ちゃんとお礼を言わずにいて……ごめんなさい」
「ああ、そんな気にしないで。僕が自らしたことだから」
「水とプリンもありがとうございました。美味しかったです」
「食べられたんだね、良かった。
今日も、一緒に食べようと思って持ってきたんだ。店の余り物で悪いけど。モンブランとガトーショコラ、どっちがいい?」
少し、眼が輝いたように見えた青年はガトーショコラを選んだ。
ベッドの足元にあったテーブルを、彼が座っているところまで動かし、ケーキを持ってきた箱をお皿代わりに四角の角の部分を切り込んで広げ、店から持ってきたフォークを渡した。
「ここ座っていい?」と、ベット横にある椅子を指差し了解を得ると、二人でケーキを食べ始めた。
半分ほど食べ進んだところで、彼が話しだした。
「今日、午前中おばあさんがお財布を届けに来てくれて……助かりました」
「割れた植木鉢の下敷きになってたそうだよ。気づくのが遅くなってしまって、申し訳なかったね」
「いえ、大丈夫です。現金はたいして入ってなかったし……」
「そうなの?でも、クレジットカードなんかを入れてるでしょ?」
「いえ、クレジットカードは持っていなくて……銀行カードと免許証を入れてて……」
「重要なものじゃない、無くなったら困るよ」
「はい……あの……中を見ましたか?」
伏し目がちに聞いてきた。
「いや、僕は見ていないよ。でも、祖父母がね。確認の為に一緒に見たそうだよ」
「そう……ですか……」
彼の、フォークを握った手が止まり、伏せていた顔をこちらに向けて、目が合い少し唇が動いたが、再び俯いて、そして言った。
「あの……名前……」
「名前?」
「僕の名前……」
「うん」
「……桐山アオイといいます」
「キリヤマ アオイ。どんな字を書くの?」
「桐は植物の桐で、山はそのまま山で、アオイはカタカナです」
「桐山アオイ君ね。なんか、ちょっと中性的な名前だね。名前がカタカナなのも珍しい」
相変わらず伏し目がちではあるが、少し頬が緩んだように見えた。
「両親がロック好きで……ミュージシャンて、中性的な人いるでしょ。それにあやかってというかなんかそんな感じで付けたみたいです」
「ふーん。じゃあ、将来ミュージシャン目指しているとか」
「いえ、それは……」
彼の声が小さくなってしまった。
「あ、ごめん。茶化すつもりはなかったんだ。
あー、その、僕の名は……」
「大島 晶……さん」
「うん、そう。あ、覚えてくれてたの?」
「昨日のメモ紙に書いてあったから……」
「そうだったね」と言って、表情を和らげた。
「おやおや、何か楽しそうじゃない」
そう言って、貴浩先生がにこやかに現れた。
「あ、先生。こんばんは。今夜は夜勤ですか?」
「いや、とっくに帰る時間を過ぎていますよー
色々と残務処理があるのです」
先生は笑顔で答えてはいたが、おそらくいろんな患者さんの事で、大変なのだろうと、勝手に想像してしまった。
「二人で美味しそうなの食べてますね。桐山君はいくらか気持ちが楽になりましたか?」
「……はい」
「昼間ね、彼、名前を教えてくれたんですよ。聞きました?」そう嬉しそうに、話してきた。
「ええ。僕は今、教えてもらいました」そうかそうかと頷く先生に、2、3日は預かると言っていた彼の入院期間だが、僕はある提案をした。
「あの……ここまでのおせっかいついでに言うんだけど、桐山君、僕の家に来ない?あそこの喫茶店、2階が住居になっていて、僕が一人で住んでいるんだ。それで、一部屋、四畳半程でちょっと狭いんだけど、空いているんだ。食事は3食用意できるし。隣家は祖父母宅だから、色々力になれると思うんだ。あ、祖父母の了解も得てるよ。どうだろ?」
桐山君は、目を大きく開けて、かなり驚いた顔をした。
「美味しいご飯が3食も食べられるなんて、最高じゃないですか。僕も住みたいですね」と貴浩先生は羨ましそうに言ってきた。もちろん3人目の部屋は無いので丁寧にお断りしました。
「いいんですか」
おずおずと、遠慮がちに答えた彼だったが、もちろんと、こちらが笑顔で返すと、どこか安堵したような表情になり、最後のケーキの一口を口に運んだ。
次の日、日曜は店の定休日でもあるため、午前中に部屋を掃除し、隣の祖母宅へ客用の布団を借りに行き、ホームセンターで2畳ほどの厚めのラグマットを買ってきた。四畳半の部屋はフローリングの為、直に布団を敷くには向かないし、体が痛くなるだろうからと考えて、厚めのマットにしてみた。
そして午後、桐山君を病院へ迎えに行き連れてきた。
うちに到着してすぐ、祖父母宅へ挨拶に行き、その後、少し辛そうに階段をのぼる彼に手を貸しながら、ゆっくりと2階まであがってきた。
2階へ上がると、簡単に間取りを教えて、彼の部屋へ案内した。
「狭くてごめんね。布団で大丈夫かな?もしベッドのほうが良ければ……あ、ほら、脚も怪我してるから、しゃがんだりするのが辛かったりするでしょう」
「大丈夫です。ゆっくり動くなら問題ないので」
「そうか。でも、ま、辛かったら遠慮せずに言いなよ」
「はい、ありがとうございます」
「ああ、そうだ。洗濯するものある?あるならもらうよ」
「いえ、昨日病院のコインランドリーで洗ったので」
「そうなんだ、わかった。
じゃあ、ゆっくり休んでね」そう言って、部屋を出ていこうとしたとき
「あの……」と、左手で少し頭をかきながら聞いてきた。
「どうして、こんなにしてくれるんですか?病院の代金も立て替えてくれて……寝る所まで」
不安と怯えと恥ずかしさと、でも少し安堵もある複雑な表情だ。
「君を見ていると、昔の自分を見ているようで、放っておけなくてね。それだけなんだ。深い意味はないよ」
穏やかな口調で答えると、彼は少し驚いた表情で、僕を見た。
「いや、その……昔、自暴自棄になって荒れてた事があってね。君の目が、その時の自分に重なって見えて……あ、君が荒れてると言うことじゃないよ。誤解しないように。
とりあえず君は、傷を治すことに専念すればいい。その先のことは、ゆっくり考えればいいよ」
「自暴自棄……ですね。当たってます」うつむいて、自嘲気味にポツリと言った。
「ほら、横になりなよ。病院のベッドよりは寝心地いいと思うから」
ゆっくりと布団に入る彼を少し介助して、部屋を出た。
「お風呂ありがとうございました」
夕食を済ませた後に、風呂に入った彼が、タオルを首にかけ、僕が貸したジャージの上下を着てリビングに戻ってきた。
「服、どう?キツイ?」身長差がほとんど無いので、着れるとは思っていたのだが、念の為聞いてみた。
「いえ、丁度いいです。ありがとうございます」
「そう、それなら良かった。ああ、ドライヤー……」
「いえ、その、まだ右腕が挙げられないので、このままでいいです」
「そういうわけにはいかないよ。風邪ひいたらどうするの」
言いながら、洗面台のところまで連れて行き、彼の髪をドライヤーで乾かした。
「はい、終了」
「すみません」申し訳無さそうな表情で、頭を下げた。
「そんな、気にしない。あ、コーヒー飲む?寝るまでまだちょっと時間あるでしょう。紅茶もあるよ」
「じゃあ、紅茶をお願いします」
「了解。座って待ってて」
そう会話をしながらリビングヘ戻ってきた。
ローテーブルの端に、膝を抱えて座っている彼の姿が、『ちょこん』と当て字をしたくなるような感じで、少し可笑しくなった。
「はいどうぞ。あと、甘いのもよかったら」
ティーポットで入れた紅茶を、カップへ注ぎ、焼き菓子が入った缶の箱も一緒に、テーブルに置いた。
「いただきます」と言って、彼は少し冷ましながら、紅茶を一口飲んでからからふーと息を吐き、小さなフィナンシェに手を伸ばした。美味しいと、少し顔がほころび、再びカップに口をつけた。
一連の動作を見届けて、僕も紅茶をすすって、明日からのことを、少し話しておこうと思い、カップを両手で包み込みながら、話を始めた。
「明日からのこと少し話すね。
店は開店が9時からなんだ。その前に仕込み等の準備があるから、いつも朝は5時半起床なの。静かにするつもりだけど、起こしちゃったらごめんね。 桐山君は時間気にしないで寝ていていいから。朝食はいつも祖母が作ってくれるのだけど、ここへ運ぶから、一緒に食べよう。
昼や夜は、その時の状態で考えようか。降りてこられるなら、店で食べてもいいし、下の調理場にちょっとしたテーブルと椅子があるから、そこで食べてもいいし。もちろん、ここでもいいよ」
「あ、はい……」ゆっくりと深く頷いた。
「桐山君、なにか食べたいものはある?明日とか、明後日のメニューの参考までに。あ、あとアレルギーや苦手な食べ物とかある?」そう聞くと、ゆっくりと首を振って「無いです」と答えた。
「了解。じゃあ改めて、しばらくよろしくね」と明るく言うと、少し硬い表情ではあったが、こちらこそお願いしますと頭を下げた。
その後も、少し話をして21時を過ぎた頃
「あの、じゃあ僕は寝ます。紅茶とお菓子ごちそうさまでした。カップは流しでいいですか?」
「うん、そうだけど、いいよ。僕がするから。桐山君は休みなさい」と、テーブルの上を片付けながら部屋へ行くよう促した。すると桐山君はテーブルに手をついて、ゆっくりと立ち上がり部屋へ入る際に、申し訳無さそうに切り出した。
「あの、名前……」
「ん?桐山君……でしょ……」
「はい、そうなんですが……あの、名字じゃなくて、名前の方でお願いできますか」
「へ?あ……アオイ君だっけ」
「はい。そっちの方が慣れているので……すみません、なんだか生意気言って……」
「いや、いいよ。アオイ君ね」
「すみません……あ……おやすみなさい」
「うん、おやすみなさい」
引戸を開けて入っていく彼を見届け、カップ等を流しに運んだ。自分のカップには、まだ少し紅茶が残っていて、流しに入れる前にグイッと一気に飲み干した。
洗い物をしたあと、喫煙セットを持ってバルコニーへ出た。外側のガラス戸を少し開けると、晩秋の冷たい空気が流れ込んできた。そして虫たちの、どこか透明感のある音。
バルコニーに置いてあるガーデン用の椅子に座り、煙草に火をつけて吸い込み、ふーっと勢いよく煙を吐いた。数日言葉を交わしただけの青年を、自分の過去の境遇と重ねて、家に招き入れることの緊張感。これでいいのだろうかという疑問。色々が頭の中でぐるぐる巡っている。
「なんで、家出してきたんだろ。一番重要な事、聞きそびれたな……聞かなくてもいいか、本人にとっては、一番探られたくないところだろうし。親友でも何でもない、ただのおせっかいな人間に、語るわけがない」
と、長い独り言。
右手の指に挟んだ煙草は、半分ぐらいが灰になって、今にも落ちそうになっていた。それを左手で持っていた灰皿に落とし、ゆっくりと一口吸ってから灰皿に押し付けて、火を消した。
「風呂入って、寝よ」
先程開けたガラス戸を閉める際に空に目をやると、ひときわ明るく輝く星が見えた。
「そういえばアオイ君、星の本読んでたっけ。好きなのかな、星」
自分は星に関して、詳しい知識は持っていない。ただ眺めるだけだが、青白く強く輝くその星が、とてもキレイだと思った。
※ ※ ※ ※ ※
あの病院の先生には悪いけど、この布団は確かに柔らかい。それに暖かい。ずっと包まっていられる。ずっと……でも……
『自暴自棄』
優しそうに見えるあの人、晶さん。過去に何があったのだろう。でも、そんなことは聞けないな。自分の素性だって、ちゃんと話ししていない分際で、他人の過去に踏み込む事は、してはならないし、その資格はない。
そういえば、おじいさんとおばあさんに挨拶はしたけど、晶さんのご両親にはしてないな。ここには一人で住んでいると言ってたし。どこか別に暮らしているのかな。それとも……いやいや、悲しい事へ考えるのは辞めよう。
朝、早いのか。声をかけられない限り、眠っていそうだな。もう少し痛みがとれれば、何か手伝えることがあるかな。