第1章 〜秋の日に 3〜(仮)
夕方四時過ぎ、陽が落ちて暗くなりかけた街中を、渋谷病院へと車を走らせた。運転しながら、金髪の青年の容態が気になった。ちらっと、助手席に置いた祖母から預かったお弁当の入った紙袋を見る。受け取ってもらえるだろうかという思いが浮かんだが、それをかき消すように「大丈夫」と口に出して言った。
渋谷病院に着くと、今回はロ-タリ-へ入らずに、正面入り口の右側を進んで来客者駐車場へ車を停めた。あの青年を運んだ救急の入り口は、病院の建物を挟んでちょうど反対側になる。エンジンを切るとシートにもたれて「ふぅ」と一息吐き、祖母から預かったお弁当入りの紙袋を持って車から降りた。
救急の受付に行くと、病院を出る前に貴裕先生宛に言付けを頼んだ時と同じ事務員がいた。少し神経質そうな表情でパソコンのキーをたたいている。話しかけるのを躊躇しいると、受付の前の廊下から貴裕先生が現れた。
「おかえり、晶君。ちょうどよかった。あの彼の携帯電話があったんだって?」
「祖母が見つけてくれて。壊れた植木鉢の下敷きになっていたみたいで、使えるか心配ですが。
あの、彼の診察は終わったのですか?」
「終わったよ。今は傷の手当てをしているところ。詳しくは後程ね」
処置室へ行こうと言われ、一緒に歩きながらにこやかに話してくれた貴裕先生だったが、直ぐに難しい表情になってしまった。何かあったのでしょうかと聞くと、彼が頑なに名前を話すのを拒んでいるのだそうだ。
「どうしたもんかねぇ。警察への通報も拒んでいるでしょう。頭を殴られたそうだから、2、3日は入院してもらおうと思っているのだけど、ご家族と連絡を取りたいんだよね」
「何か話せない理由があるんですかね」
「話せない理由か......アレかな」
アレとは?...何だろうと首を傾げていると、「この処置室ね」と言って、『第3処置室』と書かれたスライド式の扉の前で貴裕先生は止まった。3回ノックをして「入るよ」と声をかけて、扉を静かにスライドさせた。
僕は入るか躊躇したものの、貴裕先生に手招きされたので、一緒に入っていき扉を閉めた。
処置室には、腕や頭に包帯を巻かれ、病院支給の患者衣に着替えた、あの金髪の青年が車いすに座っていた。遠慮がちに戸口付近に立って、青年の様子をちらと伺ったが、俯いた状態の横顔は、長めの髪に隠されて表情はわからないものの、とても痛々しく思えた。
「気分はどうだい、少しは落ち着いたかな」
青年の正面の丸い回転椅子に座った貴裕先生が覗き込むような態勢で話しかけると、俯いたままの青年は小さく「はい」と答えた。
「君の物と思われる携帯電話が発見されたのだけど、確認してもらってもいいかな」
言い終えると、貴裕先生は僕のほうを見て持ってきた携帯電話を渡すよう目配せをした。
僕は紙袋の中から持ってきた携帯電話を取り出し、俯いたままの青年の手元に差し出した。
「これ、君の携帯電話かな?」
「......」
「君が暴行を受けていたうちの店先に置いていた植木鉢が壊れていてね、その下敷きになっていたようなんだ。
電源が入るか、確認してもらえるかな」
青年は僕の方に少し顔を上げ一瞥すると、携帯電話の画面を眺め右側面にある電源のボタンを長押しした。ブルッと小さな音がして、画面がぼわっと明るくなった。電話の機種名が表示され、簡単な機能表示の後、白い点が散らばった待ち受け画面にかわった。
彼が少しだけ安堵の息をもらすと、電源が入るか気になって眺めていた貴裕先生が、彼の持っている携帯電話の待ち受け画面をのぞき込んで「星空?」と彼に聞いた。はっと顔を上げて貴裕先生を見ると、すぐに画面を隠すように前かがみになり、再び俯いてしまった。
「君、しばらく『星君』と呼ぼうか。
待ち受けに使うということは、星が好きなんでしょう。
いつまでも名前が分からずに『君』とか『彼』とか言っていては、看護師や他の先生との間で患者さんの取り違えがおこってしまうおそれがあるからね。
どうだろう。星君で...」
「アオイです」
貴裕先生の話をさえぎって、彼が名前を名乗った。
「桐山アオイです」
「キリヤマ アオイ君。どんな字を書くのかな?」
「・・・キリは木辺に『同じ』で、ヤマは山で、アオイは片仮名です」
貴裕先生は、腰掛けている傍の机に置いてある、淡い藤色のメモ用紙の束に手を伸ばすと、青年が話すとおりに名前を記し、それを見せた。
「これでいいのかな?」
「・・・はい」
少し顔を上げてメモ用紙に記された自分の名前を見て、アオイ青年はうなずいた。
「あの、本当に両親へは連絡しないでください。お願いします」
アオイ青年はそう言って、頭を下げた。やはり、何か事情があるようだ。貴裕先生は、うーん、と腕組をして両目を閉じ、数秒の後目を開けアオイ青年を見つめて質問をした。
「ご両親と連絡を取りたくない、何か事情があるのかな」
「・・・・・・」
「黙っていては分からないし、問題があるなら、それも解決しないよ」
「・・・・・・」
貴裕先生は、質問を続けるのをやめ、机の上のパソコンにカチカチと何かを入力をして、俯いたままでいるアオイ青年へ向き直り「これは、私の想像だけど」と言って、優しく話しかけた。
「アオイ君、もしかして家出してきたのかな」
「・・・・・・」
「・・・・・・」
「・・・・・・はい」
「いつ出てきたの?」
「一週間前です」
「一週間前か。寝泊りはどうしてたの。友達の家とかかな?」
「いえ・・・ネットカフェにいました」
「え、あそこ泊まれるの?」そう言って貴裕先生は眼を丸くしてアオイ青年、僕、アオイ青年と交互に視線を移した。
「一日いるには、料金が高くなってしまうから、深夜の数時間だけ借りて、横になったりしてました」
「なるほどね」
貴裕先生は再び腕組をすると、うーんと言って眉間にしわをよせたまま天を仰いだ。しかし、直ぐに口元がゆるみ、ふっと笑った。
「いいね、そういうの。嫌いじゃない。アオイ君のご両親からしたらとんでもない事なんだけど、僕は応援するよ」
自分が予想しない言葉が返ってきたからだろうか、アオイ青年は驚きの表情で貴裕先生を見つめた。貴裕先生はそんなことはお構いなく、話を続けた。
「いやね、ご両親に黙って出てきた事は良くないよ。心配かけるからね。
でも、何かそうしなければならない理由があったのだろ?
大袈裟かもしれないけど、生きる方『家を出る』という選択をしてくれてありがとう」
そう言って貴裕先生は、アオイ青年に笑顔を向けた。そして組んでいた腕を解き、手のひらを膝にバンッと置いて、
「ところでアオイ君。他の荷物はどこにあるのかな?携帯電話だけを握りしめて出てきたわけじゃあないよね」
その問いに、アオイ青年は患者衣の上着の右ポケットへ左手を伸ばし上から軽く握りしめた。それを見ていた貴裕先生が
「どうした?」
「・・・・・・あの・・・コインロッカーに入れました」
「なるほど、コインロッカーね。どこのコインロッカーかな?
身の回りのもの、無いと不便でしょう。取りに行ってくるよ。場所を教えてくれるかな」
じっとアオイ青年を優しく見つめて貴裕先生が聞くと、少し視線を外して返答した。
「つくし台駅の改札のところにあるコインロッカーです」
「つくし台駅なら、そこの商店街を真っ直ぐ行ってすぐじゃない。取りに行ってくるよ。
鍵は、そのポケットの中かな」
そう言って貴裕先生は、アオイ青年の左手がかぶさっている患者衣の上着の右ポケットを指差した。
今回は病院を出ると、外はだいぶ薄暗くなっていた。長い夜の始まりだ
あの青年の荷物を取りに、ネットカフェのマルシカ倶楽部ヘ。駅前にあるので、駐車場は少し離れたコインパーキングを利用しなければならないため、車で行くには病院からは遠回りになる。なので、徒歩で向った。
昼間は心地よかった風も、日が沈んだ今では冷たくなっていた。シャツ一枚では身体が冷えるので、持ってきたカーディガに袖を通した。
途中、通り過ぎた商店街は、仕事帰りの人や夕飯のおかずを買い求める人などで賑やかだった。
「あ、田ざわのメンチカツ。久しぶりに食べたいな」
田ざわは、この商店街の肉屋で、ここのメンチカツはとびきり美味しい。普通、入っている玉ねぎはみじん切りだが、ここざく切りと言っていいぐらいの大きさで存在感があり、火が通って甘くなったこの玉ねぎとひき肉の相性が抜群だ。
午後、店を空けてしまったお詫びに、祖父母ヘお土産にしよう。そして、自分のも数に入れて。
ネットカフェ、マルシカ倶楽部は駅前のビルの2階に位置する。ビルの入り口から階段でのぼり、店内に入ると、受付カウンターの中にいる店員の「いらっしゃいませ」の言葉に迎えられた。
青年から預かった鍵を店員に見せ、部屋の場所を聞いた。鍵には『27』という数字の入ったアクリルタグが着いている。
「あの、この鍵の部屋はどこですか?
知り合いが借りているんだけど、戻れなくなってしまって。代わりに荷物を取りに来たんです」
店員は、少し不審そうにこちらを眺めてから
「その部屋なら、この通路を左へ行って、突き当りをまた左に行くと右側にあるんですけど…
鍵の持ち出しは、ご遠慮いただいているので、次回は気をつけてくださいね
あと、こちらへお名前と連絡先の電話番号を記入していただけますか」
そう言って、入室用の用紙とボールペンを差し出した。
あまり不審がられても嫌なので、ここは素直に用紙に名前と携帯の番号を記入した。
「鍵は申し訳ない、伝えておきます」
軽く頭を下げ、通路を進んだ。
左へ進み、突き当りをまた左。そして右側に……明り取り用のガラスがはめ込まれた白い扉に、『27』と数字が書かれた部屋があった。
「あ、ここだね」
そうつぶやきながら、ドアノブの上の鍵穴に鍵を差し込み解錠した。
部屋の広さは2畳程はあるだろうか。入ってすぐの狭いスペースで靴を脱ぎ、全面に敷かれたマットに上がった。合皮のカバーに包まれた低反発マットらしい。部屋を入って正面には、部屋の横幅いっぱいに、座卓ぐらいの高さの棚に、キーボードと中ぐらいのモニター画面が置かれていた。そして棚下は、足が伸ばせるような作りになっているため、大の字で寝そべることが可能のようだ。180センチの身長の僕が寝そべっても、おそらく余裕の広さ。
あの青年は、ここで何日過ごしたのだろうか。なんだか切なくなった。
身体をかがめて、モニター等が置かれた棚の下を見ると、奥にアウトドアに使うようなカーキ色のリュックを見つけた。また、キーボードの隣にはこの部屋に入ったときから一冊の本が置かれていた。
「この本は、あの青年のだろうか」
表紙、裏表紙、背表紙、内側と、どこを見てもこの店の名前は記されていなかったので、おそらくそうなのだろう。
『宇宙の辞典』という題名のその本は、辞書ぐらいの大きさで、厚みは2センチほどあった。少し興味を惹かれ、本を開くと、色々な星の写真が収められていた。辞典というより、星の写真集だ。
本を手に持っていくわけにもいかず、少し躊躇ったが、先程のカーキ色のリュックの口を開け、宇宙の辞典を仕舞った。
他に何か荷物が無いか見渡したが、先程の2点以外は何も無かった。
部屋を出て鍵を締め、受付に鍵を返したところ、延滞料金が発生しているとのことを告げられ、その分の支払いをして、店を後にした。
再び商店街を引き返した。
途中、田ざわ精肉店でメンチカツを買うと、店主に「久しぶりに会えたから、一つおまけね」と言って、一つ多く入れてくれた。心のなかで小さなガッツポーズをしつつ店を出ると
「晶くん」と横から声をかけられた。
「千夏さん」
「この時間にお使いなんて、珍しいわね。
田ざわのコロッケ?今夜の夕飯のおかずなのかしら」
千夏さんは、うちの喫茶店に自家製ケーキを卸してくれているお店『倉沢洋菓子店』の店主だ。昨年父親からお店を引き継ぎ、フランスで出会った旦那さんのジーンさんと一緒に切り盛りしている。2児の母でもあって、性格はサバサバしていて話しやすい相手の一人でもある。
「まあ、そんなところです」
「あら、では食後のデザートにうちのケーキはいかがかしら」満面の笑みで買ってちょうだいの圧力。
「あー……プリンあります?」
「あるわよ。でも、一つだけなの。あと2つは何にする?」
「お見舞いに持っていくから、一つで大丈夫です。お願いします」
「お見舞い?え、誰か入院したの……あ、もしかして今日の被害にあった子に持っていくの?お店の前で暴行事件があったんでしょ。晶君が渋谷さんのところへ運んだと聞いたわよ」誰から聞いたの?
「あ、はい。甘いの食べるかわからないけど」
「なるほど。スプーンと保冷剤付けておくね」
「ありがとうございます」そう言って財布を取り出そうとしたら
「いいよ、代金はいらない。持っていってあげて」と、制止されてしまった。そういう訳にはいかないと言ったのだが、私の気持ちだからと言って譲らなかった。
「今、ジーンは学童に冬馬と美桜を迎えに行ってるのだけど、新作の焼き菓子の感想を聞かせてほしいから、お店に持っていっていいか勲夫さんに聞いて欲しいと言われてて」
「ああ、許可取らなくても大丈夫ですよ。じいちゃん、そういうのいつでも歓迎だから。持ってきてください。楽しみにしてます」
「そう、ありがとう。では近日中に配達の品と一緒にお届けにあがります」
「あ、お待ちしております」
互いに深々とお辞儀をしたが、普段このような改まったやり取りをしていないので、二人で吹き出した。
「桃音ちゃん、来年幼稚園なんだって?他所の子の成長は早いよね。自分の子の成長は、日々バタバタしてるからそういう意味で早く感じるけど」
桃音は僕の姪だ。
「そうですか」
「そうですよ。あなたも子をもつと実感するわよ。でもその前に結婚だね。浮いた話は聞かないけど、イイ人いるの?」
「いません。まだいいですよ、そのうちで。それにこればっかりはご縁だから、ね」そう。笑ってみせた。
「そんなこと言って、婚期逃さないでよ」
「はーい。では」
軽く頭を下げ、店を出た。
「結婚か……まあ、その前に、相手を探さないとなんだけど」ポツリと呟き、はぁ、と溜め息が出た。
『自分の恋愛の先に、結婚はあるのだろうか』そう考えることがある。
僕の恋愛対象は同性だ。中学生のときに、もしかしてと、高校性ではっきり自覚した。その時の相手は一つ年上の先輩で、バスケ部の部長をしていた。自分の気持ちを伝えることはできなかった。打ち明けて、気持ち悪いと拒否されることが怖かった。面白半分に冷やかされるのも怖かった。ただただ、『彼が好きだ』という気持ちは、自分の心の中に仕舞い込み、いわゆる初恋は終わった。
その後、大学生のときに、ダメもとで生まれてはじめて告白をしたところ、想いがつうじて付き合った相手がいたのだが、リベンジポルノの範囲に入るのだろうか、ちょったした喧嘩の際に自分との行為をSNSに誇張して流され、見事に拡散された。この時になって、実は好きという気持ちは自分の一方通行で、相手はただ単にゲイへの興味本意で冷やかしのためだけに、自分と付き合っていたことを知った。流された画像は顔は隠されていたものの、名前が出てしまい、大学側の知るところとなり、品を欠く行為だということで一ヶ月の停学に。後に、投稿した相手も大学側の調査で発覚し、同じく停学処分となったようだ。
世間に自分が同性愛者だと、意図しないところで公表されてしまった気持ちは、一ヶ月ではどうにもならず、長期の休学を申し入れた。
この事は両親ヘ話すことはできなかった。自分の中で気持ちが整理できず、話せる言葉が見つからなかった。両親へ、大学側から停学処分の説明はあったようだが、彼らもどう声をかけていいのか迷っているようで、腫れ物に触るように僕に接した。
しばらくは部屋に引き込もっていたが、その後生活は昼夜逆転し、荒れていった。自分と同じ性癖の人が集まる店へ通い、毎夜違う相手と関係を持った。あげく、喧嘩。もう色々がどうでもよかった。
そんなある日、派手に喧嘩をし病院へ運ばれた。意識不明の状態だったらしい。気がつくと病室のベッドの上だった。その横から母が泣いてぐしゃぐしゃになった顔をのぞかせ、その横に居た父が僕の胸ぐらをつかみ、派手に頬を叩き、大きな声をぐっと堪えるように
「大学から停学を言い渡されたとき、私達にはどう対処したらいいのか、晶にどう声をかけたらいいのか答えが出せないでいました。あのときは言葉をかけず、申し訳なかった。
しかし、それでも……同性愛というのは、命をないがしろにしてもいいことですか?
恥ずべきことなのですか?
自分を大切にしなさい」
と、仁王像のようにカッと目を見開き、僕の目をしっかり見据えて全身から絞り出すように言った。普段穏やかで、落ち着いている印象しかない父が、こんなにも感情的な姿に只々驚き、自分の行いを後悔した。
容態が落ち着いた頃、知り合いの医師が居るからと貴浩先生のいる渋谷病院へ転院した。そこで二週間ほど療養。怪我は良くなっていたが、心の方はなかなか傷は深いままだった。主治医として每日診察に来る貴浩先生と二言三言言葉を交わしていたある日、あの話をされた。
「どんな悩みがあるか、敢えて聞かないけど、若いんだから大いに悩みなさいな。悩んで、悩んで幾つでも答えを出して、そうやって進めばいいんです。一人で答えが出せないなら、いつでもお手伝いしますよ」
病院に戻り、あの青年の病室へ行くと、安心したのだろうか、彼は安堵の表情で眠っていた。
ベッドの横にある棚へ、彼の荷物を置き、倉沢洋菓子店のプリンと、病室に入る前に自販機で買った水を冷蔵庫へしまった。一応、荷物のことを知らせるため、看護師に筆記用具を借り、メモ書きをカバンの横に置いて、病室を後にした。
店に戻ったのは、ラストオーダーである18時30分を大きく過ぎていた。
「遅くなっちゃってごめん」
「おかえり、ご苦労だったね。
おや、その袋は田ざわのコロッケかな」
僕の提げてる袋を見て祖父が言った。
「メンチカツだよ。久しぶりに食べたくなってね。忙しい時間に、お店あけちゃったことのお詫びも兼ねて」
「詫びなんていいよ。
先に千恵子さんに持っていって。今、夕飯の準備してるから。あ、ビール1本追加で冷やしておいてと伝えて」
「飲み過ぎは良く無いよ」
「今日は頑張ったからいいの。それに田ざわのメンチカツがあるとなれば、健康より食が優先よ」
「あー、はい。了解」
再び入ってきたキッチン側の出入口を出て、隣の祖父母の家へ向かった。
勝手口のドアをノックすると、「はーい」と言って祖母が出てきた。
「あら、おかえりなさい
あのこの検査はどうだったの」
「頭の検査は大丈夫だって。いくつか骨にヒビがあって、ギプスで固定されてた。今夜は大事をとって入院することになったよ」
「そう、それは大変ね。親御さんには連絡ついたの?」
「それはまだ……家出してきたそうで、話さないんだ、自分のこと」首を横に振って、そう答えた。
「あら……
あ、そうそう。あの喧嘩で壊された、ミントの植木鉢の下からお財布が出てきたのよ。悪いとは思ったのだけど、勲夫さんと一緒に開けてみたの。そしたら、免許証が入っていてね、あのこのものみたい。写真の髪の色は黒かったけどね。今日、届けようか貴浩先生に連絡したら、今寝てるから明日でいいですよ、彼には伝えますねと言われてね。早いほうがいいと思うから、明日渋谷病院で膝のリハビリがあるから、行って渡してくるわ」
「じゃあ僕も一緒に行くよ。送迎する」
「お店があるでしょ、バスで行くから大丈夫よ。ありがとうね」
笑顔で断られてしまったが、お店があるのは確かで、今日忙しい時間帯に長いこと留守にしてしまった後ろめたさもあり、ここは素直に祖母の言うことを受け入れた。
「あ、これ。田ざわのメンチカツ買ってきたんだ。じーちゃんが。ビールを一本余分に冷やしておいてと言ってたよ」
「まあ、あの人ったら」そう言いながら笑って受け取ってくれた。
閉店時間の19時を迎え、店のドアに『close』の札をさげ、店内をひと通り掃除して祖父母宅で夕飯を食べた。久しぶりに食べた田ざわのメンチカツは、以前と変わらず大き目に切られた玉ねぎが甘く、粗挽き肉との相性が抜群で美味しかった。祖父のお酒は進み、僕もそれに付き合った。
その後店の二階の部屋へ戻った。21時を過ぎる所だった。
シャワーを浴び、洗濯機に洗濯物を詰め込み、洗剤を入れてスタートのボタンを押した。標準コースですすぎ2回。終わるまでの時間、バルコニーに置かれたベンチに座り、缶ビールを片手に一服した。バルコニーの外側のガラス窓を半分開けると、秋の夜風が静かに入ってきた。風呂上がりの少し体温が上がった身体は、上はティーシャツ、下はジャージのハーフパンツという姿で、この夜風は寒かった。
「さすがに、冷えるね」
そう言いつつも空を眺めると、いくつか星が輝いていた。
「目が慣れてくれば、もう少し星を見ることができるのだろうけど、風邪ひいてもいけないからこのぐらいにしておくか」
そう言いながら、開けた窓を閉めた。
再びベンチに座り、新たな煙草に火を付け、今度は室内に目をやった。寝室の扉と、その横の使っていない部屋の扉。使っていないと言っても、いくらか自分の荷物が置いてあるのだが……そう思い、中に入っていき、使っていない部屋の扉を開けた。
「四畳半。楽譜類は寝室に移せばいいかな。他のものは使っていないもの多いし、一端納戸に移して処分すればいいか。そしたらこの部屋空けて、あの彼、暮らせるね」
そこまで面倒をみる義理があるのかという思いもあったが、関わって彼の現状を知った以上、やはりあのままというわけにはいかないと思った。ここは、元々は祖父母宅で、階下は経営する喫茶店だ。あの彼を住まわせるには二人に許可をもらったほうがいいだろう。明日朝にでも話してみよう。
再びバルコニーへ出て缶ビールを飲み干すと、洗濯終了の音楽が鳴った。
※ ※ ※ ※ ※ ※
目を覚ますと、ベッドの横の棚に自分の荷物のカーキ色のリュックが置かれていた。そして、リュックを重石代わりにして、一枚のメモ紙が置かれていた。
『ネットカフェにあった荷物です。足りない物 がないか確認してください
冷蔵庫に水とプリンを入れてあります
良かったら食べてください
大島晶』
ゆっくり身体を起こして、冷蔵庫の中を確認すると、600mlの水のペットボトルが2本と、アルミ製のカップに倉沢洋菓子店と印字された透明のプラスチックの蓋がされたプリンが置かれていた。