第1章 〜秋の日に 2〜
渋谷病院に着き、車を正面玄関前のロータリーにまわした。午後の診察時間真っ只中の病院玄関は、診察が終って帰りのタクシーを待つ人や、親族に付き添われて、診察に来た人、お見舞いに来たであろう紙袋を下げた人等で、少し混んでいた。
そんな中、一人白衣を着て腕を組み、うつむいて立っている人がいた。車内からようく見ると、懐かしい人物だった。
「貴浩先生!」と、ロータリーの隅の邪魔にならない場所に車を止め、運転席のドアを開けて半身だけ車外に出て声をかけると、彼は弾かれたように顔を上げてこちらを見た。
「おう、晶君、久しぶりだね。
功さんの電話の患者さんは?」
やあ、というように右手を挙げてこちらに向かって走りながら聞いてきたので、「後ろに」と、後部座席のドアをを開けて硬い表情で横たわった青年へ視線を送った。
「病院に着きましたよ。
医師の渋谷です。ちょっと診せてもらいますね」
「・・・・・・」
「お名前は?」
「・・・・・・」
先生は後部座席に乗り込むと、素早く触診を始めた。
「晶君、ロータリーをグルッと回って入口に戻ったら、向かって左側に救急の玄関に行く通路があるから、そっちに車を進めてください。私は、このままこの方を診ます」
貴浩先生の指示に従い、ゆっくりと車を発車させて、救急の玄関に向かった。
救急の玄関前には救急車が2台駐車していたので、邪魔にならない後方に車を止めてエンジンを切った。
先生は車から降りると、救急車の陰になった玄関の方に小走りで行き、待機していたのであろう、看護師が2人ストレッチャーをおしながら、戻ってきた先生と共に現れた。3人で「1、2、3」と掛け声をかけて素早く青年を乗せると、来た方向を引き返して行った。先生は引き返す看護師と並走しながら、負傷の具合を説明していった。
僕も彼らの後ろを着いて行き、どのような感じで怪我をしたのか、できるだけ詳しく話をした。
「5対1ね。質が悪いね」
貴裕先生は、診察の手順を指示して看護師たちを先に行かせ、僕の方に向き直り
「彼の身元が分かる物あるかな。所持品。鞄、持ってなかった?」
と聞かれたのだが、慌てて車を取りに行ったので、あの青年が倒れていた周辺をじっくりと見ていなかった。
「ごめんなさい、ちゃんと見ていないです。
店に電話して、何か置かれていたり、落ちている物が無かったか、確認します」
「悪いね。でんわ
何か分かったら、救急の受付に伝えてくださいな。よろしくね」
そう言って、足早に処置室へ向かって行った。
僕は、颯爽と歩いて行く貴裕先生の後姿を、どうかあの青年の処置をお願いしますという思いと、無事貴裕先生に引き渡せた安堵感という二つの思いで見送った。
車に戻ると、直ぐに店に連絡を入れると、いつもの優しい声で祖母が電話口に出た。電話をかけてきたのが僕だと名乗ると、少し早口になって、あの青年は大丈夫だったのかと聞いてきた。無事に貴裕先生に引き渡し、処置をしていることを話すと、「そうなの、よかったわ」と言って安心したようだった。
「ねえ、おばあちゃん。あの金髪の青年が暴行されていた所に、鞄か何かあの青年の物と思われる物、落ちていたり置かれていたりしてなかったかな?」
「ああ、そうそう。
あの後、功さんが植木鉢が壊れちゃってるよというから、近くまで見に行ったの。そうしたら、壊れた鉢の欠片の傍に携帯電話が落ちていてね、もしかしたらあのこの電話かしらと思って、お店に持ってきてあるの」
「そうなんだ。わかった、今から取りに行くね」
そう祖母に言うと、電話を切って車から降りると、さっき運ばれた金髪の青年の物と思われる電話が落ちていたので取りに行ってくると貴裕先生に伝えて欲しい、と救急の受付に居た事務員にお願し、車で病院を後にした。
午後3時を過ぎた喫茶『はからめ』は、デザートや、遅昼食をとる人で満席になっていた。キッチンの大きめの流しには、幾枚もの下げてきた食器類が軽く汚れを落とした状態で、洗剤を入れた水に浸かっていた。
「忙しい時間帯にお店を開けちゃって、ごめんね」
申し訳なく言葉を発した僕に祖母は「気にしなくて大丈夫よ」と、いつもの笑顔でかえしてくれた。祖母の話では、常連のお客さんが、少し手伝ってくれていたそうだ。
「そうそう晶君、これね。落ちていた携帯電話。
土まみれだったから、拭いたのよ。隙間とかに土や鉢の欠片が入っていなければいいのだけど」
「まだ彼のかどうかわからないけど、見せて確認してもらうよ」
「そうね、お願いね。
直ぐに病院に戻るのでしょ?これ、あの子に持って行ってあげて。余り物で悪いけど」
そう言って冷蔵庫から取り出したのは、いつも店で持ち帰り用に使っている紙箱に詰めたサンドイッチのお弁当だった。いつ食べるかわからないからと、小さな保冷剤をつけて茶色の紙袋に入れ渡してくれた。
「ありがとう。一緒に渡すね」と優しい気づかいにお礼を言い、ちらと祖父を見ると、僕に向けてうんうんとうなづいていた。
「帰ってきたら、ちゃんと店の事するから、面倒なのとか残しておいてね」
「店の事は気にしなくていいから、早くそれを持って行ってやりな」
と、鉄板にホットケーキの生地を落としながら祖父が言った。
そんな様子をニコニコしながら見ていた祖母が、勝手口のドアを開ける僕を呼び止めてこう言った。
「晶君、エプロンは取っていきなさいよ」
そうだった。病院に行く時も帰って来る時も自分の事に気が回っていなかったようで、仕事着のまま行動していた。私服に着替えようかと思ったが、エプロンをとれば白シャツに黒のチノパンで、何ら違和感は無い。僕はエプロンを取りキッチンの隅に置かれた椅子に掛けて、再び店を出て渋谷病院へ向かった。
「行ってきます」
「はい、行ってらっしゃい。気をつけてね」