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翌朝、ホテルのロビーで美空は井上達也と会っていた。
達也は本当ならば昨日のうちに東京へ帰ることになっていたが、美波のことを知って残ることを決めたのだそうだ。
芽夢は一緒ではない。杉村美波を見つけた今となっては、達也に会うことは芽夢には意味のないことらしい。
「それで? 美波ちゃんは?」
井上達也はやはり不安そうに視線を動かしながら言った。
「今は病院にいます」
美空は答えた。
「病院? 大丈夫なの?」
「問題ありません。異常がないことを確認するため検査するだけです」
「美波ちゃん、なにか言ってた?」
「何かって?」
「あ……いや……」
困ったように達也の目線が動く。
「心配ですか? 美波さんが何を言っていたか」
「え?」
「それはあなたのことですか? あなたへの恨みごとですか?」
達也は表情を暗くした。
「やっぱり」
「やっぱり? つまりあなたは恨まれる理由があったということですか」
「あ……いや」
達也の表情が曇る。
「何があったんですか? 施設を出てからあなたたちは会っていないですよね? 何かあったとすれば、施設にいた頃の話でしょう?」
「美波ちゃんから聞いたんじゃないの?」
「美波さんは何も言っていません。でも、美波さんの心のなかを少し覗きました」
「心の中を覗いた?」
面食らったように達也は美空の顔を見つめた。
「そんなことよりも、あなたが気にしているのは、あなたが養子になったことですか?」
「うん……そう」
覚悟を決めたかのように達也は言った。「僕が養子になったのは、彼女の……美波ちゃんの代わりなんだ」
「代わり?」
「僕の養子にした両親は二人ともピアニストなんだ。それなりに有名でコンクールで入賞したこともあったけど、超一流というほどでもなかった。だから自分たちの子供にその夢を託そうと考えていた。でも、残念ながら二人には子供が出来なかった。それでも自分の子供を欲しいと思った。ここまではそう珍しい話じゃない。そこで両親は養子を取ろうとした。そして、その子供をピアニストとして育てようとしたんだ。両親は、いくつかの施設をまわり養子にすべき子供を捜した。僕もその候補の一人だった。両親は会ってすぐに指を見せてくれと言った。もうひとり、同じように面接を受けた子がいた。それが美波ちゃんだった。彼女が一番気に入られた」
「でも、結果として養子に選ばれたのはあなただった」
「僕は嘘をついた。美波ちゃんは耳が悪いって告げ口したんだ」
そう言って達也は俯いた。そして、静かにため息をついた。
「なぜ?」
と美空は訊いた。達也がそれを待っているように感じたからだ。そして、それを合図に達也は再び顔をあげた。
「僕はあの施設が嫌だった。一日も早く施設を抜け出したかったんだ。それが出来るならどんなことでもしようと思っていた。きっと美波ちゃんは、なぜ自分が選ばれなかったか不思議に思っただろう」
「いえ、美波さんは知っていましたよ」
すぐに美空は答えた。
「知っていた?」
「たぶん、あなたがご両親と話をしているのをこっそり見ていたんじゃないでしょうか」
そう言って達也の表情を伺う。しかし、意外にも達也はさほど驚いたような顔を見せなかった。
「やっぱりそうか」
「気づいていたんですか?」
「なんとなく。僕が施設を出る時の彼女の様子が気になっていたんだ。きっと僕を恨んでいるんだろうね?」
「いいえ、美波さんはそんなことは思っていません。そもそも嘘をついたのはあなただけじゃなかった」
「僕だけじゃない?」
「美波さんですよ。美波さんもご両親に嘘をつきました」
「嘘? どんな?」
「耳が聞こえない演技をしたんです。あなたの嘘に協力したんです」
昨日、美空が見たのはおそらく杉村美波の幼い時の記憶だ。彼女にとって忘れることの出来ない記憶の一つだ。
「どうしてそんなことを?」
「きっとあなたが幸せになることを望んだからじゃないでしょうか」
「僕の幸せ? どうして?」
「あなたのことを大切に思っていたんじゃないですか」
「僕のために嘘を?」
「あなたは幸せでしたか?」
「わからないな。両親はピアニストとしてしか僕を見なかった。親の愛情なんてものを感じたことなんて一度もなかったよ。でも、あの時のことを後悔はしていない。僕にはこの道しかなかったと今でも思っている。いや、そう思うしかないんだ」
そう言った達也の目に涙が浮かんでいた。




