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翌日、夜遅くなってから、美空は芽夢と共にマンションを出た。
向かったのは芳恵の父親が経営する米屋の前だった。それは当然、深見茂を捕まえるためだった。
それを考えたのは美空だった。
店の前に着いて10分後、芽夢はシャッターをマジマジと見つめた。
既に通りにはまったく人の姿が見えない。
「改めて聞きますが、許可は取っているんですね?」
「一応」
そう答えてから美空はベージュのスプレー缶を手に取った。そして、おもむろにシャッターに向かって吹きかける。
「今夜は絵を描きたくなるような夜だから、自分が描いていれば現れるだろう……ですか」
月の輝く空を仰ぎながら、独り言のように芽夢が呟く。
「え? 何?」
「変なことを思いつくものですね」
「そう?」
「どうして今夜は絵を描きたくなるんですか?」
「そんな気がして。でも、花守さんだってそのアイデアを受け入れたでしょ」
「あなたの言うことを信じただけです。しかし、本当にこんなことで深見茂が現れるのですか?」
疑うように芽夢は言った。
「文枝さんが言っていたでしょ? 深見くんは善意の人って。だからこそ、彼はこの商店街に絵を描いたんだと思う。商店街の宣伝になるって考えて」
「しかし、宣伝にはならなかったのでしょう?」
「でも、可能性はあったと思う」
芳恵は知り合いのテレビ局の社員に連絡を取ろうとした。運悪くその人がいなくなっていたから取材してもらえなかっただけだ。
「しかし、絵描きなんていうものは一人で淡々と作業したいものではないのですか?」
「普通はね。でも、こういう絵って皆で描くほうが楽しいんじゃないかな?」
「それはあなたの価値観ですね。あなたもこういう絵を描くんですか?」
「私は一人で……あれ? 私、絵なんて描いてたっけ?」
「知りませんよ。私に聞かないでください。しかし、これで深見茂が現れなかったら?」
「私が責任を取らなきゃいけない」
芳恵には許可を得ている。だからといって何の成果もあげなかったとしたら、このままにしておくことは出来ないだろう。
「どちらにしてもこのシャッターは私たちで消さなければいけないでしょうね」
「そうだね」
場合によってはお詫びも含めて他のイタズラ描きも消さなければいけないかもしれない。だが、今そんなことを言って芽夢を不愉快にさせることもないだろう。
美空は黙々と作業を続け、芽夢はその脇に立ってそれを眺め続けた。
それは奇妙な感覚だった。最初は深見茂を誘い出すための作業だったが、次第にその目的が頭から消え絵を描くことが楽しく思えてくる。
以前にもこんなふうに無心で絵を描いていたことがあっただろうか。
深夜0時を回り、絵もかなり出来上がった頃、それは突然現れた。
突然、冷たい空気が周囲を包む。
ハッとして振り返ると、そこに背の高い男の姿があった。
男が身にしているのは桔梗学園の制服だ。
(深見茂)
当たり前のようにそこに深見茂がいる。
その姿は芽夢にもハッキリと見えているようだ。
あの芽夢がどうしていいかわからないという表情で、その深見茂の姿を見つめている。それから何か言いたそうな視線を美空に向ける。
美空は芽夢に向かって小さく頷くとゴクリとツバを飲んでから深見茂に向かって口を開いた。
「深見さん、私の声が聞こえますか?」
深見茂がゆっくりと美空のほうへ顔を向けた。
(聞こえている)
美空はさらに語りかけた。
「私たちは私立桔梗学園の学生です。あなたを捜しにきました」
「僕を?」
低くくぐもった声で深見の声が聞こえてくる。それは口から発せられる言葉ではない。心の声がダイレクトに頭に響いてくる。
「わかっていますか? 自分が今、どういう状態なのかを?」
「……僕にはやらなきゃいけないことが……」
「それは何ですか?」
「わからない。でも、何かをしなきゃいけない。俺たちはそのためにここに来たんだ」
「だから絵を描いたんですか?」
深見茂は改めてシャッターに描かれた絵に視線を向けた。
「絵? ……こんなもの僕は描いていない」
「それは違います。他の絵のことです。でも、それはあなたがやるべきこととは違いますよね」
「僕は……どうすればいい?」
深見茂の苦悩が、苦しみが伝わってくる。
「私に任せてください」
美空は深見茂に向かって手を伸ばした。




