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複数の気に取り囲まれている。
これは人間のものではない。それはこれまでの経験でよくわかっている。それが殺気なのか、敵意なのか、それは美空にはハッキリとはわからない。だが、どちらにしても危険なことに違いはない。
相手が妖かしである限り、それは美空が対応しなければいけない。
「美空さん!」
その芽夢の鋭い声に、美空は急いでポケットから霊符を取り出した。
先日のことがあってからは霊符を念の為に持ち歩くことにしている。今でも霊符を使いたいとは思わない。だが、こうなってしまっては使わないわけにはいかないだろう。しかし、相手がどこにいるのかがわからない。
美空は周囲の状況を伺おうと窓に近づいた。
次の瞬間、美空の手の中の霊符が一瞬のうちに炎に包まれる。あっという間に全ての霊符が灰になって落ちていく。
「……こんな」
「やられましたね。『妖かし化』とは霊符をも燃やすほどの力があるのですか」
「文枝さんの力だと思う。文枝さんの逆読み(さかよみ)」
「なんですか? それは」
「逆読み(さかよみ)。忘れ去られた古術の一つなんだけど、人の術を逆の術で消し去るもの。前に逆読みを研究してるって話てたことがある。文枝さんは陰陽術の研究をしていたから。知らない?」
「私は陰陽術についてはわかりません。それで? その逆読みによって霊符までもが焼かれたというのですか?」
「……ど、どうしよう」
「アタフタしないでください。少なくとも相手が何者かはわかったじゃありませんか」
「でも、相手は一人じゃない」
「そうとも言えません。新堀智のときがそうだったじゃありませんか」
「新堀くん?」
「あの時も相手は彼一人でしたが、気配は周囲から感じました。『妖かし化』することで気配が普通とは変わるのではありませんか」
「……そうかも。でも、もう霊符はないよ」
「いいでしょう。私がやります」
そう言って芽夢がポケットから拳銃を取り出す。また先日のように爆薬を使うつもりのようだ。
その時、何かが芽夢に向かって飛んできた。そして、芽夢の体が弾き飛ばされ、美空の背後の壁に叩きつけられる。
「花守さん!」
美空は急いで芽夢に駆け寄った。
強く頭を打ったらしく、芽夢は気を失っていた。その手にあった拳銃もどこへいったのか見えなくなっている。
その時だった。
「手を貸してほしい?」
その声に美空は振り返った。
そこに立っていたのは御厨ミラノだった。いったいいつ現れたのか、口元に笑みを浮かべ、美空たちを眺めている。
「ミラノさん、どうしてここに?」
「そんなこと言ってる場合?」
「あ、そうだ。ここは危ないの。早く逃げて」
「そうじゃないでしょ」
「え?」
「私の力が必要なんじゃないの」
「ミラノさんの力?、」
何を言っているのかわからず、美空は聞き返した。
「手伝って欲しい?」
「何言ってるんですか。ミラノさんだけでもここから早く逃げて」
ミラノはクククと笑った。いつもとはまるで雰囲気が違っている。
「あなたって優しいのね。でも、あなたにこれがどうにか出来るの? ただオロオロしていても解決しないわよ。私に任せれば悪いようにはしないわ」
「ミラノさん……あなた」
「いいから。任せて」
そう言うと、ミラノは一歩進み出た。その体がふわりと浮かぶ。それは既に人としての力を超えたものだった。
右手の人差し指をそっと唇に当て、ミラノが小さく何かを呟く。
ミラノを中心に妖気が渦を巻いていく。
(これはーー)
陰陽術ではない。
それは美空にもわかる。
その渦が周囲に漂っていた妖気を巻き取るように吸い込んでいく。そして、それは次第に強く、大きな風となっていく。いつの間にか中心にいるはずのミラノの姿が半透明のように霞んでいる。
風に煽られ、身体が飛ばされそうになるのを大きな手がグイと支えた。
芽夢だった。意識が戻ったようだ。両足を開いてグッと踏ん張りながら、その巌しい眼差しが前方を睨みつける。
「そこに誰かいるのですか?」
「ミラノさんよ」
「御厨ミラノですか? なんですか? これは?」
「わ、わからない。でも、たぶんこの前の花守さんがやったのと似た方法だと思う」
「私はこんなことやってませんが」
「だから、武器を使わずに同じようなことをやってるってこと」
美空は芽夢に掴まりながら必死になって風にあらがった。
やがて、風が収まった時、すっかり妖気は消え去っていた。
気づくと窓の向こうの少し離れた木の陰に人の姿が見えた。
その女性が着ている制服は桔梗学園のものだ。そして、そこに蹲っているのはまぎれもなく高木文枝だった。
美空は部屋を飛び出すと急いで駆け寄った。
「文枝さん?」
文枝は辛そうな表情をして、木にもたれかかっている。
「……どうして? どうして邪魔をするの?」
俯いたままで文枝が言った。
「自分がどうなっていたかわかっていないの?」
「そんなことどうでもいい」
文枝は肩で大きく息をしている。目の前にいるのが美空であることにすら気づいていないのではないかと感じた。
「どうでもって……」
「私はここにいたかった。あの子たちと一緒にいたかった」
「あれには実体なんてない。皆、文枝さんがその力で作り出した幻覚の実体化したものじゃないの?」
「そんなの……そんなの知ってる」
「知ってる?」
「私はここであの子たちを生き返らせてあげたかっただけなんだ」
「どうしてそんなふうに?」
「私があの子たちを殺してしまったから。あの子たちの居場所を作ってあげられなかったから」
「それって……子供の頃に飼っていた犬のこと?
「違う。私は飼うことなんて出来なかった。ただ、見捨ててしまった。病気になって死んでしまった子もいたし、行方のわからなくなった子もいた……私が……私が早く気づいてあげなかったから。私が助けてあげる力がなかったから」
「自分を責めちゃだめだよ」
「私は……私は……」
グラリと文枝の身体がバランスを崩し、そのまま倒れ込んだ。瞬間的に美空は手を伸ばし、その体を抱きかかえた。
まるで当たり前のように、強い力が流れ込んできて、美空はギュッと目を閉じた。
それはいつものようにほんのわずかな時間だった。
ガクリと文枝の体から力が抜けていく。
「終わりましたね。救急車を呼びましょう」
いつの間にか背後に近づいてきていた芽夢が携帯電話を取り出して、すぐに病院に電話をかけはじめる。
ふいにミラノのことを思い出した。
「ミラノさん、あなた、何者なの?」
振り返った時、すでにそこにミラノの姿は見えなくなっていた。




