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不思議と気分が良かった。
マンションに帰る途中、コンビニに寄って久しぶりにシュークリームを買った。
昔はよく母と二人で食べていたが、母が亡くなってからは無意識のうちに口にしないようにしてきた。なぜ、そんなふうに思うようになったのかは忘れてしまった。そもそも母が亡くなってからのことは、よく憶えていないことが多い。
あの頃のことを忘れてしまいたいと思っていたからかもしれない。
父と再会して、新たな生活を踏み出した直後、この街に引っ越すことになった。最初は寂しい気持ちもあったが、今は少し気持ちも前向きになれた気がする。
こんな気持になったのは田代と話をしたせいだからかもしれない。
最初は戸惑いもしたが、知り合いと久しぶりに会えたような懐かしさを感じられた。
田代の言葉に驚きはしたが、正直少しだけ嬉しかった。あんなふうに褒めてくれる人がいるなんて思ってもみなかった。
この仕事を引き受けて良かったと思った。
マンションのエントランスを通り、二階へ続く階段へと向かう。
「今帰り?」
振り返ると一人の女性が立っていた。一瞬の間の後、それが引っ越した日に会った女性であることに気づいた。
「あ、管理人さん、こ、こんばんは」
「よそよそしい呼び方だなぁ。文乃でいいよ」
女性は美空に近づきながら声をかけてきた。まだ20代後半のように見えるが、実際のところはよくわからない。おおらかな性格が顔に出ていて、話をしているとどこか安心感を覚える。姿は若々しいが、その口ぶりは老獪なものがある。
「ふみの?」
「そう。ホントはこれ、妹の名前なんだけどね」
「妹さん?」
「双子の妹、亡くなったんだ。だから私が名前を継ぐことにした」
「そう……ですか」
どう答えていいかわからなかった。きっと妹のことを大切に思っていたのだろう。
「美月文乃。それが今の私の名前」
「え? 美月? 斑目さんのお姉さんじゃ?」
「あ、そうか。ウチ、いろいろ複雑な家庭なんだよ」
「すいません」
思わず美空は謝った。兄弟で名字が違うなんてことはあり得ることだ。だが、文乃のほうはまるで気にはしていないようだ。
「そんなことよりさ、今、帰り? 学校は楽しい?」
「え、ええ」
「時々帰りが遅いみたいだね」
「すいません」
「謝らなくていいよ。楽しい何かがあるってことじゃないの?」
「いえ、そういうのとは違いますよ。ちょっといろいろと」
「若いって良いなぁ」
「管理人さんだってまだ若いんじゃないですか?」
「うんうん、よく言われる。でも、学生さんの若さにはかなわない。若い人って希望や夢に溢れているんだよね」
「そうですか?」
「そうだよ。あなたたちはわからないだろうね。むしろ曖昧であやふやな未来は不安でしかないかもしれない。でもね、この世の中の全てには表と裏がある。どっちが正しいってことじゃないんだよ。両面あって、どちらも正しいんだ」
言っている意味はよくわからない。悪い人ではないのはよくわかるが、今は長話をしたいとも思わない。
「気をつけます。それじゃ」
適当に返事をして文乃から距離を取ろうと背を向ける。
「ああ、ちょっと待って」
呼び止められ、改めて美空は振り返った。「ちょっと聞きたいことがあるの」
「なんです?」
「ねえ、犬なんて飼ってないよね?」
「犬?」
「うん、犬」
「いえ、飼ってませんけど」
「ホント?」
そう言って美空の顔を見つめる。
「ホントです。どうしてですか?」
「時々ね、鳴き声が聞こえるんだよ。聞いたことない?」
「さあ」
聞いた覚えはなかった。マンションの防音対策が万全ということではないはずだ。通りを走る車の音は部屋の中でもよく聞こえている。
「そっか。最近よく耳にするんだよね。でも姿は見えないんだ」
「声は聞こえるけど姿が見えない?」
「そう。お化けかな?」
文乃は冗談めかしてニヤリと笑った。
「お化け?」
その言葉が引っかかった。
「近所でもそういう話を聞くんだよね。実際に目にした人だっているんだよ。それが変わった姿の犬だったんだって」
「変わった姿?」
「黒い影のような犬なんだって」
「影?」
「興味ある?」
「はあ?」
「こんな話もあるんだよ。ここから10分ほどその通りを西に行くとね、花柳町っていうところがあるんだけど、そこでは以前、一人で多くの犬を飼っていた人がいたらしいんだ。でも、周りの住人と揉めてね。結局、引っ越さなきゃいけなくなったんだ。犬の声が聞こえてきたのはあの頃からかもしれないなぁ。だから、その呪いじゃないかって言われてるんだよ」
「呪いですか」
「どう思う? 犬の呪いなんてあると思う?」
「あるかもしれませんね」
ここは否定しないほうがいいだろう。
「怖いよねえ」
そう言いながら彼女は管理人室へと帰っていった。
(いったい何だったの?)
そう思いながらも胸の奥がざわついている。
これも百花に関係しているのだろうか。




