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昔から自炊生活には慣れている。
母子家庭で育ったため、母はいつも仕事で帰りが遅かった。幼い頃は母が料理を用意して行ったが、いつしか美空が料理を作って母を待つようになった。その反動とでもいうのか、母が亡くなってからはあまり料理をしなくなった。マンションの近所にはコンビニがあって、そこで食料を買ってくることが多かった。
いつものようにサンドイッチに手を伸ばそうとした時、背後から軽くポンと叩かれ、美空は思わず声を上げそうになった。
振り返るとそこに立っていたのは栢野綾女だった。黒いパンツスーツ姿が妙に似合っている。いかにも『デキる女』に見える。
綾女は美空の手元に視線を向けーー
「いつもこんな食事をしているの? 部屋にはそれなりのキッチン道具も揃えてあったはずだけど」
「え……あ……ちょっと今日は時間がーー」
「冗談よ。ねえ、少し話は出来ない? 一緒に食事でもどうです? ご馳走しますよ」
「ありがとうございます。あ、でも、花守さんは今部屋にいるかな?」
「いえ、今日はあなただけで大丈夫。行きましょう」
そう言って、綾女は背を向けてそのまま店を出ていく。
急いでカゴの中の商品を棚に戻してから綾女について店を出ると、入り口の横に赤いクーペが停められているのが目に入った。これもまた綾女によく似合っている。綾女に促されその助手席に乗ると、やってきたのは国道沿いにあるドーナツ店だった。
軽やかな足取りで綾女が店に入っていく。その姿は凛としたこれまで見た綾女とは少し違って見える。
フレンチクルーラーとポン・デ・リング、カフェオレを持って先にテーブルで待っていると、綾女はピザにトースト、さらには各種のドーナツをトレイ一杯に載せ、さらにアイスコーヒーを買って戻ってきた。
「それ……持って帰るんですか?」
「いえ、ここで食べます。なぜ?」
当たり前のように綾女は言った。
「ずいぶんたくさん食べるんですね」
「オマケがね」
「オマケ?」
「ほら、これ。十個買うと貰えるの」
綾女は嬉しそうな顔をしてトレイの脇を指差した。そこには小さなピエロの服を着たパグが自転車を漕いでいる玩具が乗せられていた。
「集めてるんですか?」
「可愛いでしょ」
そう言って少女のように微笑む。
(イメージが違う)
と思ったが、そこは黙っていることにした。
綾女はおもむろにエンゼルクーラを掴むと美味しそうにモグモグと食べ始めた。そして、黙ったままあっという間に食べ終わると次にトーストへ手を出した。
まるで周囲のことなど気にせず食事に没頭する綾女に、美空はおそるおそる声をかけた。
「あの……話というのは?」
綾女はアイスコーヒーを一口飲んでからーー
「ああ、話ね。先日の件よ。入院した彼の件」
「川北君ですね? 意識が戻ったんですか?」
「いえ、それはまだ」
そう言いながらも、綾女は手を止めずにさらにドーナツを食べ続ける。綺麗にゆっくり食べているように見えるのに食べ終わるスピードは早い。
「心配ですね」
「大丈夫ですよ」
「何かわかったんですか?」
「何かわからないと話をしてはダメ?」
「いえ、そういうわけじゃありませんが……」
「心配しなくてもそのうち目を覚まします」
「本当ですか?」
「あれは霊力を使いすぎて疲れているだけだから」
「良かった」
美空はホッと胸を撫で下ろした。
「これは私個人の感想だけど、川北集人は『妖かし化』していたと思います」
「妖かし化?」
「私たちはそう呼んでいます。人間はその情念によって妖かしとなる場合があります。それが外部的な要因によって、人間の部分を核として残したまま妖かしのような状態になるのです。原因はいくつかありますが、もっとも可能性が高いのは妖力の強い妖かしの影響を受けたことが考えられます」
「それが『妖かし化』ですか。私、川北君には悪いことしちゃったかなって思っていたんです」
「どうしてですか?」
「川北君にとってはあの生活こそが一番の理想だったんじゃないかなって」
「少し勘違いしていますね」
「勘違い?」
「妖かし化は時と場合によっては非常に危険を伴います。妖かしの影響を受けすぎると人間に戻ることは出来なくなることもありえるのです。その場合、妖かしとしては非常に不安定な状態になり、人に害を及ぼす可能性も出てきます。もしそんなことになれば、そのときは私たちも見過ごすことは出来ません」
「……そんな」
美空は少し背筋が寒くなるのを感じた。
「そこまで心配しなくてもいいけどね。彼はそれほど重症でもなかったから」
「知っていたんですか?」
「何を?」
「川北君のことです。どうして私達に教えてくれなかったんですか?」
「知らなかったから」
素っ気なく綾女は言った。
「知らなかった? でも、綾女さんの話を聞いてると前から知っていたように聞こえました」
「そう? 気のせいじゃないですか?」
「他の人たちについても知らないんですか?」
「そうですよ」
そう言った綾女は少し口元に笑みを浮かべているように見えた。まるで美空をからかって面白がっているようにも見える。
だが、これ以上追求する根拠もない。
困っていると綾女はさらに言った。
「それにしても、よくうまく切り離せましたね。霊符を使ったのですか?」
「どうしてそのことを?」
「あなたはまだ学生でしょう? あなたのレベルであれば霊符を使うのが常套手段のはずでしょう」
そうだ、栢野綾女は宮家陰陽寮で働いていたことがあるのだ。陰陽師のことや霊符のことは美空以上に詳しいはずだ。
美空は正直に答えることにした。
「使いませんでした」
「そうですか」
そう言ったものの綾女は決して驚いている様子は見えない。美空が答えるまでもなく、霊符を使わなかったことに気づいていたのかもしれない。
「まずかったですか?」
「いえ、霊符を使わなかったのは川北隼人君のためには賢明でした。霊符はそれだけで十分に力を発揮出来ますが、使い方を間違うと問題が起こることがあります」
「問題って……もし失敗したらどうなるんですか? あの霊符ってどんな力があるんですか?」
それはずっと気になっていたことだ。
「そうですね。あなたが預かってきた霊符は、その魂を抑え込む力があるものでしょう。もしその霊符を使っていれば、川北集人という存在が消え去っていた可能性があります」
「消え去って?」
その言葉にドキリとする。
「さっきも話したように、『妖かし化』とは、その本人の魂が妖かしと同じ状態になりますが、人間の部分が核のような形で残った状態です。霊符はその魂を封じる力を持っています。人間の部分と妖かしの部分、その2つを霊符は判別することは出来ません」
「霊符は人にも影響するんですか?」
「もちろんです。人の核となっているのはその魂ですからね」
「霊符は使わないほうが良いのでしょうか?」
「それは他人が答えることではありません。あなたが判断することです」
「私?」
少し意外な答えに美空は戸惑った。
「霊符は、未熟な陰陽師が強い力を使うのには非常に有効な手段です。『妖し化』した相手によっては危険な存在になっている可能性もあります。もし、それを自らの力で抑えることが出来ないのなら、霊符に頼るのも仕方ないでしょう」
「でも、霊符を使えば、その人が消え去ることもありえるのですよね?」
「そうです。しかし、あなたが『妖かし化』の力を抑えるためにはそれが必要なのではありませんか?」
「それは……でも、一条家としてはーー」
「一条家は関係ありません。今日は一条家の人間としてではなく、一人の陰陽師としてあなたと話をしにきたのです」
口調は柔らかいが、それは美空にとってとても厳しく感じられた。
「それならなおさら教えてください……私にはどうしていいかわかりません」
「それでも私が出来るのはアドバイスすることだけです。これはあなたが考えるべきことです。これはあなたの問題です」
綾女の言葉が胸に突き刺さる。
「でも、花守さんがなんて言うか」
「花守芽夢さんですか。変わった人ですね。彼女とはいつ知り合ったんですか?」
「今回、転校することになって」
「面白い人ですね」
抑揚のない口調で綾女は言った。
「すごく優秀ですよ」
「そのようですね。しかし、彼女は陰陽師ではないようですね」
「私だって陰陽師ではありません」
「でも霊力はある。花守芽夢さんとは違う」
「私にはよくわかりません。花守さんは普通科なんです。将来は一条家に勤めたいって言っていましたよ」
話題がそれたことに美空は少しホッとしていた。
「そうですね。あの人なら十分に勤められると思います。彼女がそんなことを望めばですが。彼女、とても高校生とは思えませんね」
綾女はなぜかクスリと笑った。
「あの……一つ聞いてもいいですか?」
「なんです?」
「どうして協力してくれるんですか?」
「協力? 何のことです?」
「川北君のこととかいろいろお世話になってしまって」
「患者を入院させただけですよ」
「だって、先日、相談した時にはまるで……」
「相手にされなかった?」
「……はい」
「勘違いしてもらっては困ります。今も特別な協力をしているつもりはありません。しかし、あなたたちだけでは解決出来ないこともあるでしょう。私たちはあなたたちが問題を起こさないように最低限のことをしているだけです」
「す、すいません」
「ところで、あなたはどうしてこの件を受けることにしたんですか?」
「え? あ……ちょっと興味がわいて」
再び話題が自分のほうへ向けられたことに美空は少し焦った。
「興味ですか?」
「すいません。興味本位でこんなこと」
「いいえ。しかし、今回、あなたがやろうとしていることは興味だけではやりきることは難しいですよ。あなた自身、自分とどう向き合っていくか問われることになるでしょう」
「私?」
「もう一度、言っておきます。これはあなたの問題ですよ」
念を押すように言って、綾女は指先をナプキンで拭いた。気づいた時、綾女の前に置かれていた山のようなドーナツは全てが消えていた。




