1-2偽りの皇子の成人
その日は、どこまでも空が青かった。こんな日に馬で遠出ができたならば、どんなに気持ちよかっただろう。
仙果はいつも以上に仰々しい衣装に身を包み、宮女たちの手で丹念に化粧を施されていた。
「流石の皇子も今日ばかりは緊張しておられるみたいですね」
「子昊、うるさいぞ」
からかうように笑いながら部屋に入ってきた子昊も、普段とは異なる盛装に身を包んでいた。緊張しているのはどっちだか。仙果は笑いながら近づいてきた子昊を小突いた。
「皇子、御髪が乱れてしまいますわ」
困ったように宮女に声を掛けられ、動くのをやめた。
「もう数刻もせずに式が始まります。世継ぎの君として、立派な姿をお見せくださいね」
子昊は微笑みながらそう言った。いつもの説教ばかりの生真面目な顔はそこにはない。柔らかいその表情を眩しく感じて、仙果は思わず目を細めた。
胸が苦しい。自分は子昊のまっすぐな信頼に応え続けることはできるのだろうか。
否。
「――任せろ」
女であろうとなかろうと、帝位継承者は自分しかいないのだ。
(私が応えなくて誰が応えるというんだ)
不安を打ち消すように、仙果はゆるりと口角を上げた。
玉座の間へ向かう扉の前。内側から声がかかるのを待つ。
いつもは気にも留めずにするりと通り抜けてきた扉が今日は随分と大きく、重々しく感じる。
隣では子昊がしきりに自身の格好を確認している。普段飄々と年上面をしている姿との差になんだか気が緩んだ。
どおん、どおん。
静寂のなか、扉の向こうから重たく銅鑼の音が響き、荘厳な音楽とともにゆっくりと扉が開いた。
一歩、また一歩とゆっくり歩を進める。脇には朝廷の大官や隣国の使者が列をなし玉座までの一本道を作っていた。仙果はまっすぐと前を見据える。父であり、この国の宗主である皇帝が宰相を隣に従え、玉座で仙果を待っていた。
父の顔をしかと見つめ、たしかに歩を進める。その様子を見ていた大官たちは思わず息をのんだ。少々利己的な性分ではあるが整った顔立ちで利発な皇子、というのは知られたことであったが、今日の仙果は噂以上だった。一つ一つのしぐさはどこまでも優美で、丹念に化粧を施された容貌は玻璃細工のよう。もし女性として生まれていたならば、傾国と称されていただろう――ある異国の使者は、後にそう語ったとも言われている。
ゆっくりと一礼するとしゃらりと冠についた装飾が音を立てる。
「ひとり息子のお前の成人を嬉しく思う。この椅子を継ぐものとして、その責を果たせよ」
父帝はただ一言、そう告げた。
「はい、しかと心得て参ります」
冷たく遠い玉座からの声に、仙果は心を揺らがせることなく返事をした。父が喜んでいるのは、一体だれの成人なのか。とんだ父親だ、と仙果は内心舌打ちをした。この人が喜んでいるのは、「世継ぎ」の成人に過ぎないのだ。一寸の欠片ほどの親子の情も存在しない。
しかし、仙果にとってはそれで充分であった。女としてではなく、男として生きる。開いていく身体との差にさえ目を瞑れば、仙果にとってもそれは心地の良い生き方だった。女として生きていたならば――美しく着飾られ、置物のように宮の奥深くで静かに時を過ごし、成人と共にどこぞの男に嫁がされていたのだろう。そう考えるとぞっとしない。
長く続く形式的で退屈な儀式に、仙果の思考はあちらこちらへと飛んでいた。これから自身が歩んでいく、女であれば得られなかったであろう輝かしい未来。自分の才覚と子昊がいれば、どこまでもいける。この黎国の勢力を拡大するためにも、西日の傾きかけている隣国に戦を仕掛けるのもいいだろう。
「柢」
仙果が胸のうちで高揚しているうちに、ついに最後の儀礼に移ろうとしていた。皇帝に呼ばれた子昊は、箱を掲げて歩み出る。皇帝がその箱から美しい細工のされた錐を手にした。それを見て、手筈通りに仙果は玉座のすぐそばまでにじり寄った。父の冷たい掌が頬に触れる。
(この男に触れられるのはいつぶりだろう――。)
仙果はそっと玉座の父を仰ぎ、目蓋を閉じた。耳に、ひんやりと冷たいものがあてがわれ――次の瞬間、耳に鋭い熱が走った。
「耳環を」
ずきずきと痛む耳に、手早く耳飾りが通される。仙果はただじっとそれが終わるまで静かに跪いていた。
両耳に耳環をつけること、それがこの国の成人に当たっての通過儀礼である。親の手で穴を開けて、耳環を通してもらう。誰もが通る道であった。このとき身に付けた耳環はたやすく手放すことはできず、婚姻の儀ではその片方ずつを互いに預け合う。この国の民にとって、耳環というものは特別な意味を持っていた。とりわけ、仙果の耳に付けられたものは世継ぎを表すものでもある。両耳に耳環を着けて立ち上がった仙果を見て、大官たちは盛大に拍手を送った。
仙果はゆったりと立ち上がり、玉座の隣でその姿を広間に示した。
広間一面で仙果を称え見上げる大官たちの姿に、仙果は大いに満足した。自分に確約された未来。
「子昊、見ろ。これがいつか私たちが手にする景色だ」
熱に侵されるようにつぶやく仙果に、子昊はただ静かに頷いた。
仙果は眼下に広がる壮観な景色をただひたすらに目に焼き付けていた。
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