事実判断を価値判断で否定することはできない
哲学に関するブログを読んでいると「事実判断を価値判断で否定することはできない」とよく出てきます。これは哲学では法則だと言われています。
哲学の素人の私にも、そのフレーズの意味が何となく分かってきたので、それについて書いてみたいと思います。
幸せって何ですか?の問いに対して、ある人が「私の幸せは休日、家の中でゴロゴロしていることです」と書いていた。彼の思うことを「それはおかしいよ、間違っている」と否定することなどできません。彼が幸せと思うその事実を他の人が価値判断で「いや、それは間違っているよ」なんて否定することなどできないのです。
また地球が自転しながら太陽の周りを回っているという事実を「そんなバカなことはない、俺自身が高速で回っているって?そして地球が高速で動いているって?そんなのはでたらめだ、俺にはそんな感覚は一切ないぞ、俺は絶対に認めないぞ」と言っても、やはり事実を自分の価値判断で否定することなどできません。
また1+1=2であるという事実を万人の人がおかしいと言っても、1+1=2は絶対に正しいのです。この事実を万人の価値判断と言えども否定することなどできないのです。
これらと同じように私は善の定義を論理的に導きました。これに対して違和感があるとか、自分の考えと合わないからと言って否定することなどできないのです。多くの人々が私の善の定義に強い違和感があろうと正しい論理で導かれた事実を皆さんの価値判断で否定することなどできないのです。
もし否定したければ論理的に否定しなければならないのです。つまり多くの皆さんが「道徳的に正しいと思われる行為で、私より公を優先していないもの」を示せばいいわけです。
私は多くの道徳的に正しい行為を考え、それらすべてに共通している、内包しているものは何かと考えて、そしてやっと「私より公を優先している」がすべての善なる行為に内包していると見つけたのです。
道徳的に正しい行為というのは、何かしらの感動があります。「あの人は親切な人だな~」とか「すごい人だな~」「偉いな~」「尊敬するな~」「心があたたかくなるな~」などの感動があります。これは本能から来るものだからです。
税金を納めるとか、勉強をするとか、食後に歯を磨くなどは確かに正しい行為ではありますが、道徳的に正しいとは言いません。仕事や勉強している人を見て「あの人は道徳的な人だな~」とは思いません。これらは本能ではなく理性(倫理)による正しさだからです。
善とは本能的な感情であり、そしてその善なる行為には何かしらの感動があるはずです。
さあ、皆さん、私の善の定義を間違っていると否定するのであれば、日本中の誰に聞いてもいいですから「多くの皆さんがこれは道徳的に正しい、善なる行為と思われるもので、私より公を優先していないもの、つまり公の為でないもの」を示してください。
私の善の定義が正しいであろうと言う信念は、どんなに感情的に否定されても、びくともしないのです。論理的に否定されなければ私の信念は揺るがないのです。