第84話 たぶん、ありがとう
前回までのライブ配信。
次席の『闘神』ゼルディウスが養成所にやってきた。彼はアイリスではなくマリカが特別試合を行うと勘違いし、実力不足を感じたため落胆する。
その後、アイリスに反乱軍のシャザードの付き人だったセルムが接触してくる。セーラのことを心配する彼にアイリスは「彼女に生き残ってもらうつもり」だと宣言する。
闘技大会の前日、セーラは精神状態こそ変わらないものの熱を集める『縮熱の魔術』を使えるようになっている。他の面々も剣闘士としての実力を高めている。そして、ついに闘技大会を迎えるのだった。
闘技大会の朝がきた。
目覚めるとセーラさんがボクの胸に顔をうずめている。
ここ最近は朝起きるとこんな感じだ。
彼女が目覚めないように静かに身体を起こす。
胸の形が変わり、重力を感じた。
身体を半分起こしたまま、ボクはセーラさんの横顔を見ながら髪に指を通していく。
彼女の髪がサラサラと指の間からこぼれ落ちた。
それを見て自分が微笑んでいることに気づく。
こんな生活がずっと続くのもいいかも。
いや、やめよう。
考えると怖くなった。
今日でそれが終わるかも知れないからだ。
ボクは予定を考えることにする。
今日の予定で大事なのはボクの暗殺にどう対抗するかということだ。
具体的には、ボクがマクシミリアスさんと特別試合をした後の話ということになる。
予定はこうだ。
試合後、ボクは怪我をしたと言って診療室に向かう。
そこでカトー議員の部下の人と合流する。
野営地でも会った彼の護衛2人の内の1人だ。
その後、理由をつけて皇宮に向かうことになる。
ボクが皇宮に行くのは大々的に広められる。
なお、皇妃がマクシミリアスさんに何かを伝えたことまでは分かっている。
クルストゥス先生が皇妃の付き人であるユミルさんにそれとなく聞いてくれた。
これはボクを試合で怪我をさせるなり、疲れさせるなりして暗殺をやりやすくした可能性があるということだ。
襲われる可能性のある養成所の守りはカトー議員にお願いしてある。
ただ、守りと言ってもカトー議員がローマ市内で正規軍を動かすのは問題がある。
正規軍の管轄はローマ市の外で、内側は親衛隊だ。
なので、カトー議員が親衛隊にお願いする形になる。
彼は猛獣刑で生き残ったセーラさんを助けるために反乱軍の残党が動くという方向で親衛隊を説得するそうだ。
ボクとしては、セーラさんが生き残るという前提で計画を立ててくれたのが嬉しかった。
彼のことだから生き残れなかった場合のことも考えてあるんだろうけど。
最後に無理を承知で頼んだのは、巨人たちを円形闘技場の地下から別の場所に移送して貰うことだ。
カトー議員は「借り1つな」と言っていたらしいが、ちゃんと移送してくれるみたいだ。
これは、ボクを助けてくれた巨人をセーラさんに殺されたくないという勝手な想いだ。
セーラさんが猛獣を倒し尽くせば巨人を出場させてくる可能性がある。
なお、カトー議員はこのボクの『頼み』を聞いてセーラさんが生き残ることを前提に計画を立てることに決めたらしい。
――あれ。
いつの間にか起きていたマリカと目が合った。
朝といっても部屋の中は薄暗いので目だけが妙に目立つ。
「起きてたんだ。おはよう」
「うん、おはよう。なんか声掛けづらくて」
≫そりゃ頭撫でてたら声掛けにくいわなw≫
あ、起きたばかりなのにコメントがある。
ふと、セーラさんとも目が合った。
彼女も起きてたらしい。
「おはよう」
こうして闘技大会の1日が始まった。
闘技大会といってもボクのすることは変わらない。
セーラさんの朝の準備を手伝ってからナッタさんを診察する。
「――大丈夫ですね。これで定期的な診察は終わりです。何か気になるようなことがあればまた来てください」
「来てください? アイリスは養成所を出るつもりはないのか?」
首席副官――フィリップスさんが声をあげる。
最初はフィリップス議員と呼んでいたけど、本人の希望で『さん』付けに変更した。
「え、どうしてですか? というか出られるんですか?」
「解放奴隷になれば養成所にいる必要はない。剣闘士を辞めることすら可能だ」
「そうなんですか?」
「剣闘士やっててそんなことすら知らないのか。相変わらず自分のことには無頓着だな」
「フィリップスさんも口の悪さは変わりませんよね」
「お前を見てると口も悪くなる」
言葉はキツいがお互い不敵に笑いあう。
男同士のじゃれ合いみたいなものだ。
「――さて、本日の作戦の確認をしておくぞ」
「お願いします」
フィリップスさんの役割は、闘技大会のあと、ボクが皇宮に居るという情報を広めることだ。
彼の支持者たちに広めて貰うらしい。
支持者は、毎朝、床屋で髭を剃ったあとに支持している議員の元に挨拶に来る習慣がある。
今朝の挨拶のときに円形闘技場にくればワインを振る舞うと約束したとのことだ。
そのときに、ボクが皇宮に居ることを広めるとの話だった。
「あと、聞きたいと言っていた件についても了承していただけた。ただし、条件がある」
シャザードさんやセーラさんの国で何が起きたのかを話して欲しいとお願いしていた件だ。
「条件ですか?」
「ああ。セーラを同席させることだ。もちろん、生き残っていた場合の話だが」
どうしてセーラさんを?
話の内容を理解できるのか分からないのに。
カトー議員の意図は分からないけど、セーラさんに聞かせたくないようは話があれば止めて貰えばいいだけだ。
セーラさんの同席自体は問題ないと思う。
「問題ありません」
「では、決まりだな」
「ありがとうございます。助かりました」
ともかく、これでセーラさんのことが分かるかも知れない。
その後、ボクはフィリップスさんたちを見送り、ゲオルギウスさんやフゴさんたちに挨拶した。
彼らは不安そうだったけど、少しだけ自分の力を試してみたいという気持ちもあるみたいだ。
さて、やるべきことはやった。
マリカやセーラさんたちと共に円形闘技場の地下に向かう。
女性向けの更衣室に到着すると、何かものすごく久しぶりな気がした。
前に来たのは、ドラゴン・エチオピカスと戦ったときだったっけ。
「失礼します。今日はお願いします」
挨拶をしながら入っていくと、中には3人の女性が居た。
その内の1人の女の子に笑顔を向けられた。
歳はマリカと同じ17歳くらい。
肌は僅かに浅黒く黒髪だ。
勝ち気そうな笑顔と、堂々とした態度が印象的だった。
顔立ちはシャザードさんやセルムさんに近い。
女の子以外の2人の女性は無表情だった。
「早速、お着替えになりますか?」
女の子が面積の小さな防具を手に取る。
完全に忘れていた。
ビキニアーマーを着なきゃいけないんだった。
「こちらの方がお似合いかも知れませんね」
彼女は何か前のめりにアドバイスしてきた。
「お、お任せします。あまり恥ずかしくない感じので」
「はい! かしこまりました!」
元気だ。
マリカを見ると自分でてきぱきと着けていた。
セーラさんは鎧ではなく豪華な服を着させられている。
鎧すらないなんて本当に処刑なんだな……。
闘技大会は、まず最初にセーラさんの猛獣刑が行われる。
次にマリカやゲオルギウスさん、フゴさんたちルディアリウス階級の闘技がある。
そして、午前の最後にボクとマクシミリアスさんの特別試合だ。
午後はカエソーさんやセルムさんのパロス階級の闘技があり、最後は八席同士が戦って終わる。
第四席『音速』と第七席『求道』という2人がが戦うらしい。
ともかく、あと半日もしない内に1週間やってきたことに決着がついてしまう。
そのことを考えると、ドキドキしてきて呼吸が早くなってくるのを感じた。
セーラさんがボクの腰の布を掴んでいる。
こっちの不安が伝わったのか表情が暗くなっていた。
「セーラさん。怖い動物はみんなやっつけちゃえばいいから。練習通りにやれば大丈夫!」
彼女の手にボクの手を重ねながら話す。
ボクの言葉が伝わっているかどうかは分からない。
でも、言わずにはいられなかった。
≫セーラは生き残れば助かるんだっけ?≫
≫らしいな≫
≫生き残ったあとは?≫
≫アイリスが責任持つらしいぞ≫
≫つっても反乱の犠牲者が居るからなあ≫
≫相応の報いは受けて欲しいってか?≫
≫そういう訳じゃないがモヤモヤはするな≫
「セーラ様は言葉を発することができないのでしょうか?」
着替えを手伝ってくれた女の子がボクに声を掛けてくる。
「はい。1度聞いたことがあるだけですね」
「その1度はどのような状況でしたか? 差し支えなければ聞かせてくださいませんか?」
「そうですね、故郷の敵と呼べる相手がいたときです」
やけに踏み込んでくるなと思った。
「その相手というのはカトー様のことですよね」
「え?」
思わず彼女の顔をまじまじと見つめてしまう。
「失礼いたします」
ボクの隙を突いて彼女がセーラさんの元にしゃがみこんで耳元で何を話す。
「カトー……コシュ……」
――知らない言語だ。
何を言っているのか全く分からない。
「あれ? 無視されてる」
「ちょ、何してるの!」
マリカが思わず止めに入った。
ボクは彼女がカトー議員の身内だと考えはじめている。
他の女性たちが女の子の勝手な行動を注意しないというのも不自然に感じた。
カトー議員が指示したんじゃないだろうか。
セーラさんを覚醒させる目的で。
「はい。ストップ。セーラさんが怯えてるでしょ」
ボクはセーラさんを守るように腕を入れた。
それでも女の子はまだセーラさんに何かを話しかけていた。
ただ、怯える以外の反応はない。
女の子は困ってる顔をボクに向けてくる。
「カトー議員に頼まれたんだよね?」
彼女はあからさまに顔を逸らした。
表情からも図星というのがすぐに分かる。
嘘をつけない子みたいだ。
工作に向いてなさそうなのに……。
などと思ったけど、すぐに理由を思いついた。
セーラさんの国の言葉を話せて信頼できるのが彼女だけだったんだろう。
「セーラさんに何を話したのかボクに話せる?」
「あー。それもちょっと話せないというか……。あはは」
「『それも』って、カトー議員に口止めされてるのを白状したも同じだけど?」
「ぐっ」
「議員には黙ってるから話してみて。セーラさんのためになることをしてるんでしょ?」
「そうかも知れませんけど……」
歯切れが悪い。
繰り返しのやり取りになりそうだ。
少し視点を変えてみよう。
「話は変わるけど、カトー議員って先のことを考えて行動するよね?」
「はい。それはもう! この間なんて――」
「ストップ。そこは重要じゃないから」
「えー。聞いてくださいよ」
い、いきなり馴れ馴れしいなこの子。
「機会があったらね。それで、先を考えて行動するカトー議員がセーラさんを会話できるくらいにはしようとしてるんだよね?」
「機会とか言って社交辞令なんですよね?」
「突っ込むのそっち? 時間がないから、『カトー議員』が何を話したか聞かせてくれるかな」
大声を出してしまったからか、その後、シーンと静まりかえってしまった。
「……カトー」
静かな部屋に透明感のある声が響く。
「セーラさん?」
声を出したのがセーラさんと気づき、彼女の顔を覗きこむ。
彼女は目を閉じていた。
暗いのにも関わらず、眩しそうに顔を歪めている。
「大丈――」
日本語では何度も話しかけた。
もしかして、セーラさんの国の言葉じゃないと彼女の心に届かないのかも知れないと気付く。
「セーラさんの国の言葉を話しかけてみて。さっきと同じ内容でいいから」
「え?」
「早く」
「は、はい。カトー……コシュ……」
セーラさんがハッとしたように表情を取り戻す。
ただ、すぐにぼーっとした感じに戻ってしまった。
「今のどういう意味?」
「えーと。まあ話さないってのも今更ですよね。今のは『カトー様を殺すチャンスを与える』といった意味です」
殺すチャンス!?
単純かつ言葉が強いな。
セーラさんを見る。
彼女はカトー議員を憎んでいるとは思う。
でも、心の底から憎んでいるかどうかと言われると何か違う気がする。
それは今の彼女がボクの傍に居たがるからだ。
憎しみよりも寂しさの解消の方が彼女にとって大切なんじゃないだろうか。
でも、そうなると反乱を主導していたのはなぜかという疑問にぶつかる。
セーラさんがボクに身体を寄せてきた。
1週間彼女と過ごしてきて、他に気になることはなかっただろうか。
――ダメだ。
何も思いつかない。
「マリカ。セーラさんと過ごしてきて彼女のことをどう思った? たとえば性格とか」
「え、いきなり何? それに性格? えーと甘えたがり? あ、でもそれは不安だからってのもあるのか。意外と抜け目ない?」
「抜け目ない?」
「うん。言い方は悪いんだけど、自分の味方を見極めてるし、その人の機嫌をちゃんと取ってる気がした。私が指示するより、アイリスが指示した方が言うこと聞いてたと思うし」
その視点はなかったな。
あれ、でも反乱軍では嫌われたみたいなことを聞いたような。
あれ? 聞いたって誰に?
誰に聞いたのか考えようとして、すぐに思い出した。
まだ反乱軍に居た頃のロックスさんだ。
セーラさんの胸が小さいとか戦況に全く関係ない話も聞いた気がする。
あの時聞いた情報を思い出していく。
反乱軍に入る前は笑顔が好かれていたとか、大きな三つ編みをしていたとか、反乱軍での口癖――。
あ。
「あの日に帰りたい」
「はい? いきなりどうしたんですか?」
女の子が突っ込んできた。
「セーラさんの口癖らしいよ」
「口癖? それって今、関係あります?」
「さあ、どうだろ」
「どうだろって……」
「確認するためにも、この口癖をセーラさんの国の言葉に訳して話してくれるかな?」
「えぇ」
「早く」
「――分かりましたよ」
彼女がどこかの国の言葉で話す。
話した後、しばらく待ってみた。
「なにも反応してくれませんね」
女の子が非難を含んだ目でボクを見る。
彼女の視線をスルーして、更に少しだけ待ってみた。
――1、2分待っただろうか。
何も起きない。
「――ごめん。せっかく協力してくれたのに」
ボクは彼女に謝って肩を落とした。
「アイリス」
マリカの声につられてセーラさんを見た。
ちょうど、涙が頬を流れて地面に落ちるところだった。
「……ッ」
声に詰まる。
ボクはそっと彼女に触れた。
震えている。
触らなければ分からないくらいに、細かく震えていた。
ゆっくりと彼女の頭を抱えて、自分の胸元に抱きしめる。
静かだった彼女の震えが段々と大きくなっていき、涙がボクの胸の間を落ちる。
「反逆者セーラ。控え室に来るように」
そんなときに外から係の人の声が聞こえた。
「は、はい。少し待っててください」
マリカが返事をする。
「セーラさん――。その」
その先の言葉、彼女を送り出す言葉がどうしても出せなかった。
「反逆者セーラ」
「今、行きます」
焦って声を出したマリカと目が合う。
ボクはセーラさんを闘技場に向かわせる覚悟を決めて、彼女を見た。
「セーラさん。練習通りにやっつけちゃえばいいから」
ボクは抱きしめていた彼女から離れる。
「――ぁ」
セーラさんの声。
「反逆者セーラ。早く出てこい」
セーラさんが声のしたドアを睨む。
――え?
ボクは彼女のその表情に驚いた。
「セーラさん?」
振り向いた彼女と目が合う。
さっきまでの睨んでいた顔と違って柔らかな笑顔だ。
え? え?
ふと、彼女の口が開く。
慌ててボクは耳を澄ませた。
ただ、すぐに彼女は頭を押さえる。
「だ、大丈夫?」
「反逆者セーラ。いないのか?」
呼びかけに彼女は頭を押さえながら勢いよく立ち上がった。
俯いたままドアを見ているので表情は見えない。
でも、機嫌が悪そうなオーラを感じる。
「セ、セーラさん!」
セーラさんの変化についていけないけど、ボクは彼女に声を掛けた。
彼女は半分だけ振り返る。
長いまつげがかろうじて見えるくらいだ。
「――どこ?」
小さな澄んだ声だった。
捜し物かと思ったけど、この場所がどこなのか知りたいのだと思いつく。
「ここは円形闘技場の更衣室だよ。セーラさんはこれから猛獣刑で戦うことになってるんだけど、覚えてる?」
「反逆者――」
「あ、ちょっと待ってください」
カトー議員の息が掛かっていると思われる女の子が、小走りにドアに向かった。
「元老院議員のカトー家の者です。現在、反逆者セーラは体調が思わしくありません。処置のための時間を取ります」
さっきまでより声が高い。
よそ行きの声だ。
一方でボクに向けて手を扇ぐようにして急かす。
今の内に説明しろってことだろう。
ありがたい。
「セーラさん、どこか痛い?」
セーラさんは額を押さえていたので、様子を見ながら声を掛ける。
「だれ?」
――え。
もしかして記憶がない?
それは不味い。
ボクのことはいいけど、猛獣と戦えないのは不味すぎる。
「1週間一緒に過ごしたの覚えてない?」
「――わからない」
≫聴覚や触覚とか嗅覚で思い出させてみたら?≫
≫感覚は記憶に残りやすいみたいだし≫
そんなこと言われてもどうすれば。
≫一緒に寝てみるとか?≫
寝る?
確かに毎日一緒に寝てたけど――。
でも、他に良いアイデアも思いつかないので急いでやってみることにする。
この長椅子を使えばいけるか?
「セーラさん、ごめん。ちょっと待ってて。マリカ、ボクの着ていた服を持ってきてくれると助かる」
「う、うん」
≫マジでやるつもりなのか≫
≫いうて対案ないしな≫
マリカにボクの服を持ってきて貰って長椅子に敷いた。
セーラさんの記憶が混乱してるから過ごしたときを再現することで思い出して貰うつもりと伝える。
「セーラさん。貴女の混乱を少しでも治したい」
ボクはそう言って彼女を見つめた。
彼女も少し辛そうにしながら見てくる。
そして、部屋全体に視線を走らせた。
「――どう、するつもり?」
「ボクと一緒に横になって欲しい」
セーラさんは視線を地面に向けた。
数秒だったと思う。
それでも長く感じた。
「わかった」
次に顔を上げたときにはそう呟いてくれる。
「ありがとう」
ボクはすぐに彼女を長椅子に横たわって貰う。
次にボクも横たわり、彼女の頭をボクの胸にうずめた。
驚く彼女だったけど、「今朝もこうやって一緒に寝てたから」と声を掛けながら髪を梳く。
最初は身体が強ばっていたセーラさんだったけど、少しずつ力が抜けていく。
「――ぁ」
「何か思い出した?」
ボクの問いには何も応えずに、ただ胸に顔をうずめてきた。
ただ、何かを考えているみたいだ。
心の中では焦りながらセーラさんがこの1週間を少しでも思い出して貰えるように願う。
「すみません。限界です。ドアの向こうの人に謝られてしまいました」
女の子がボクのところにやってきて謝った。
血の気が引く。
まだ、何も出来てないのに。
胸が締め付けられる。
「セーラさん」
ボクは身体を起こした。
セーラさんは一点を見つめたまま動かない。
ダメだったか。
『縮熱の魔術』を今の彼女に教えた方が良かったんじゃないかと後悔してしまう。
「氷結の魔術は使えるよね? あの魔術で熱を逃がすときに1カ所に逃がすと熱くなるの覚えてる?」
無理だとは思いながらも祈るような気持ちで説明した。
セーラさんは一瞬だけボクを見て、目を逸らす。
そして小さく首を振った。
それを見てボクの中で何かが崩れる。
頭の中がぐちゃぐちゃになって悔しくてセーラさんを失うかも知れないことが怖くて悲しくなってくる。
「うぐ」
涙が頬をつたわないように下を向くと、大粒の涙が太股に落ちた。
泣いてる場合じゃないのに。
涙もろい方じゃなかったのに何度も涙が落ちる。
一瞬、目の前に陰がかかった。
ボクの頭に柔らかいものが当たる。
ゆっくりと抱きしめられていた。
「――どうしてこんな」
セーラさんの声だった。
戸惑っているような声だ。
なんでボクを抱きしめてるのか今のセーラさんには分からないのかも知れない。
セーラさんに無意識に気を遣わせてしまっている。
大変なのはセーラさんであってボクじゃない。
もちろん、泣いてる場合じゃない。
涙なんて縮熱の魔術で蒸発させたいくらいだ。
――あれ? 無意識? 縮熱の魔術?
セーラさんって今、縮熱の魔術を使えるんだろうか?
彼女は無意識でいろいろな行動をしているし、可能性はあるんじゃ。
「マリカ!」
声が鼻声でひどかったけど構わない。
「そこの蛇口の水を集めて、練習のときみたいにセーラさんを襲ってみて。サイズは小さめで。何か思いだしてくれるかも」
更衣室にある蛇口からずっと水が流れている。
マリカならそれをコントロールすることくらいできるはずだ。
「わ、分かった」
何も聞かずに請け負ってくれる。
ありがとう。
「セーラさん。今から動く水が貴女に迫ってくる。貴女はそれに魔術で対抗できる。自分を信じて」
無茶苦茶なこと言ってる自覚はある。
でも、やって貰うしかない。
「他の人たちは、危ないので壁側にいってください」
マリカが蛇口から出る水を半球状に集めて、敷居を越えさせる。
敷居を越えた水を今度は地面で半球状に溜める。
膝くらいの高さ。
半径50cmくらいだ。
それにしても、マリカはよくあそこまで水をコントロールできるな。
「いくよ」
半球状の水が地面を濡らしながらセーラさんに向かってきた。
「な、なに」
迫ってくる水の塊がセーラさんに飛びかかるように形を変えた。
具体的には高さが1mくらいになった。
「きゃっ」
セーラさんは何も出来ずに水の塊に襲われて濡れた。
ダメだったか。
「マリカ、次!」
「う、うん」
何度でもやるしかない。
「セーラさん。魔術を使うことを意識して」
それから3度繰り返したけどダメだった。
セーラさんが拳を握り締めて震えている。
「ねぇ、一体なんのつもり?」
彼女は今まで見たことのないような鋭い目でボクを見てきた。
なんというかすごく冷たい目だ。
「ごめん、もう無理!」
そんなとき大きな声がした。
ドアで係の人と話していた女の子だった。
「貴様ら、何をしてる!」
ドアが開き、兵士が入ってきた。
どうしようとマリカが目で訴えかけてくる。
「マリカ。最後にもう1度お願い」
水の塊がセーラさんを襲う。
ボクの方を見ていたセーラさんが近づいてくる水の塊に気付いた。
「魔術を使って!」
ボクが叫ぶと、セーラさんは部屋全体に魔術を使う。
ボコ、ボン!
更衣室全体が水蒸気に覆われた。
真っ白な煙で視界が遮られる。
「おい。うわっ、なんだ。何が起きてる!」
入ってきた兵士が声を上げた。
また、部屋全体に魔術が発動する。
一気に水蒸気が収束して、部屋全体が見えてくる。
これはマリカの魔術か。
創水の魔術の応用で霧を晴らしたんだな。
セーラさんはその中で呆気に取られていた。
「なに、今の。私?」
「この1週間でセーラさんが頑張って身につけた『縮熱の魔術』です。これから猛獣刑が行われるので、それを切り抜けるための魔術です。猛獣に熱を集中させて焼き殺します」
彼女の雰囲気が変わったからか、丁寧語で話しかけていた。
「――縮熱の魔術」
「ふざけるな。お前ら、名前を言え!」
兵士の人が怒っている。
「失礼いたします。先ほどからお話させていただいているカトー家の――」
女の子が助けてくれるみたいだ。
背中側に置いた手をヒラヒラさせてボクを急かす。
「今、使った魔術の感覚を覚えてますか?」
「なんとなく。集めるというか……」
「大丈夫そうですね」
魔術を使う感覚があるなら、使うことも出来るはずだ。
少しほっとする。
「とにかく行かせて貰うぞ。怒られるのは俺なんだからな」
女の子を避けた兵士がセーラさんの腕を掴んだ。
セーラさんは全力でその手をふりほどく。
傍目に見ても兵士がカッとなったのが分かった。
剣を抜きそうな兵士に対して、ボクは横から身体を間に入れる。
「あ、すみません。彼女は男性が苦手なので触れないで貰えると助かります」
ふと気付くとセーラさんがボクの腰の布部分を握っている。
「――あれ。どうして、私」
彼女は布を握った自分の行動に戸惑っているみたいだ。
ボクは今にも飛びかかってきそうな兵士に話しかける。
「本当にすみません。説明が必要なら、また改めてするので今は彼女のことを許してもらえると助かります」
頭を下げた。
兵士が落ち着いたように見える。
「差し出がましいようですが、早く行かれた方がよろしいのでは?」
女の子が落ち着いた雰囲気で兵士に言った。
「そうだ。間に合わないと何言われるか!」
兵士は一転して慌てはじめる。
「ということみたいなので、セーラさんは控え室に行ってください。あと、猛獣は何匹出てくるか分かりません。慌てないで対処してください。どんなに出てきても地下に居る獣を全部やっつければ終わりですから」
セーラさんを見ながら話すと、キョトンとしていた彼女の表情が柔らかくなった。
「分かった。頑張ってくる。兵士さん、先ほどは申し訳ありませんでした。控え室までよろしくお願いしますね」
にっこりと効果音でも付きそうなほどのわざとらしい笑顔だった。
首まで少し傾けて上品でかわいい仕草だ。
「お、おう」
セーラさんたちはドアに向かった。
いろいろあったからか、女の子は息を大きく吐き、他の人たちは呆然とその姿を見ている。
「セーラさん!」
彼女が出て行くとき思わず声を掛けてしまった。
立ち止まってくれて振り返る。
「その――」
ボクが話しかけようとすると、セーラさんの方から話しかけてきた。
「何にも分からないし、分からないことだらけだけど、たぶん、ありがとう。それだけは分かるよ」
感情がこみ上げてくる。
彼女は部屋から出て、ドアを閉めようとした。
「分からないことはみんな話すから。セーラさんともっともっと話したい。だから戻ってきて絶対」
ドアが閉まる直前、セーラさんはボクの言葉に微笑んだように見えた。




