第75話 戦いの終わり
前回までのライブ配信。
アイリスはカクギスと協力してケライノを倒すが、魔術が暴走し2人は空高く舞いあげられてしまう。
舞い上げられたアイリスは、突風の魔術が使えない状態ながらも、自らの魔術を工夫し近くの川に着水することに成功する。
助かったアイリスは落ちてきたカクギスをも助けた後、戦いの片をつけるために戦場となっている南門側に向かうのだった。
「起きろ」
男の声がする。
それに頬を叩かれている。
「ん……」
せっかく気持ちよく寝て――。
あれ?
はっと目覚めた。
目の前にはレンさんが居た。
傍らに馬もいる。
周りは水浸しだった。
「い……た……寒……」
動こうとすると身体中が痛い。
それに身体が寒い。
ひどく気怠くて、声を出すだけでも気力を振り絞らないといけない。
「……どんな、状況ですか? 怪物は?」
カクギスさんと別れて空を飛んでいたときに、翼と四肢を持つ怪物に襲われた。
あれはケライノとは全く違う怪物だ。
凄まじい炎の魔術を使っていた。
「怪物? 見てないな。俺は赤い光の柱が見えたのでやってきただけだ。それより、怪我はないか?」
レンさんは心配してる風でもなく、淡々と確認してくる。
「……たぶん、大丈夫です」
身体を起こす。
濡れていた身体から水が流れていった。
意識もはっきりして記憶も戻ってくる。
身体が濡れているのは、炎を吐かれたときに大量の川の水を引き寄せたからだ。
ふと、レンさんを見る。
肩から新しい血が滲んでいるのが分かった。
カクギスさんと戦ったときの傷だ。
馬に揺られて傷口が開いたのだろうか?
「傷口が……。止血するのでナイフを」
カクギスさんに渡された剣はどこかにいってしまった。
レンさんはナイフをボクに渡すのを少し迷った上で渡してくる。
「……赤い柱を見てからの時間は?」
「俺がここまで来る程度の時間だ」
≫画面が暗くなってから7分ちょっとだな≫
≫何が起きてるか分からず焦った≫
7分か。
その間、意識を失っていたということだろう。
本当にありがたい。
レンさんの止血しながら、炎の魔術を使う怪物に襲われた話をした。
炎の魔術を使われたのは全部で3回だった。
襲われたといっても、シルエットを見ただけで怪物とは対峙してない。
1度目の炎は突風の魔術で相殺した。
2度目の炎はボクの真上から使われて突風で相殺したけど、ボク自身が地面に激突した。
3度目の炎はボクが意識を失う直前で使われた。
ボクは魔術で近くの川から水を引き寄せたところから記憶がない。
そこで意識を失ったんだろう。
死ぬかと思ったけど、引き寄せた水が炎を防いだみたいだ。
「その怪物には心当たりがある。詳しくは話せない。あと、このことは他言するな。それが身のためだ」
「……心当たりがあるんですか?」
「憶測だ。しかしそうであればローマ軍の敵ではない。我々やお前にだけは危害は加えてもおかしくないが」
我々?
ミカエルに関わってる人のことだろうか?
それにボクも?
聞きたいことはあったけど、詳しくは話せないということなのであまり突っ込んで聞かない方がいいだろう。
「……他言は控えます」
レンさんが楯を持ってきてくれたので、それを使って南門に向かった。
彼には、メテルス副官に援軍を送ってほしいという伝言を頼む。
そして別れた。
飛ぶとすぐに野営地上空にたどり着き、南門が見えてきた。
濡れているせいか、風で体力が奪われる。
寒くて口が少し震えてきた。
南門の向こうでは戦いが見える。
陣営監督官は籠城せずに野営地の外での戦いを選んだのか。
ただ、ローマ軍は劣勢に見えた。
≫ローマ軍の隊列が壊滅状態ですね≫
列が乱れバラバラに戦っているように見える。
ローマ軍らしくない。
右側が特に崩れていて、反乱軍の騎兵隊がそっちに移動しつつあるのが見えた。
ただ、中央だけは戦列を維持できている。
装備も兵士としての技量でも圧倒的に優位なローマ軍がどうして?
念のため、魔術の反応を探ってみた。
あれ?
地面に魔術の反応がある?
ローマ軍が劣勢の原因はこの地面の魔術なんだろうか?
考えようとするけど頭が回らない。
飛ぶための風の音がうるさくて、視聴者に相談もできない。
一度地上に降りて聞くのが早いかな。
ボクは野営地の中に降りることにした。
ホバー状態で楯に乗ったまま南門を抜ける。
それから、野営監督官を見つけて地面に降りた。
「アイリス! お、おい。大丈夫なのか? 生気がないが……」
「――なんとか生きてます」
笑おうとして力ない笑いだけが漏れた。
「――そうか。ところで北門と東門の戦況は?」
「援軍は退けました。こちらはどうですか?」
「劣勢だ。正確には分からんが魔術で氷を張られてるようだ。滑って踏ん張りが効かず押されている。魔術無効も効果がないようだな」
「氷ですか?」
「ああ、そうだ」
陣営監督官は、やってきた兵士に指示を飛ばしていた。
怒鳴り声のような声が飛び交っている。
氷は慣れてないと簡単に滑る。
それに兵士の靴も良くない。
ローマ軍の兵士が履いている靴の靴底は革製だ。
靴底が皮の靴なんて、滑ってくれというようなものだろう。
でも、氷なんてどうすればいいんだ?
滑り止め砂とかロードヒーティングが使える訳じゃないし……。
あれ?
もしかして、空気を圧縮したら熱を持つのなら、地面を温めることも出きるのかな?
氷は温度が-7℃に近いと滑る。
氷の表面にはたくさんの氷の分子が転がっている。
床にたくさんのビー玉があるようなものだ。
そして、-7℃に近づくほどこの転がっている氷分子が増えるらしい。
母さんが子供の頃は、氷を踏んだときの圧力で水になるから滑りやすくなると教わったらしい。
でも、それは昔の説だ。
函館市民の知識が役に立ちそうでテンションが上がって少し元気になった。
試しに自分の足下の空気を圧縮してみる。
靴と言っても、たくさんの革紐で包んでいるだけなので足の甲側の素肌は出ている。
暖かくて気持ちよかった。
「その氷、なんとか出来るかも知れません」
「――おい、今なんて言った? 可能なのか? いや、アイリスの言うことならなんとか出来るんだろうが」
ありがとうございますの変わりに軽く一礼した。
体力は温存しないと。
「ただ、最前列に行く必要があります」
「最前列だな。分かった。そこの楽士、このアイリスに着いていって道を空けるように音を鳴らし続けろ」
「はっ!」
何人か居た楽士の1人がボクに身体を向ける。
20代前半くらいだろうか。
身体が大きい。
身体に巻き付く蛇みたいな金属の楽器も太く大きかった。
「お願いします」
ボクは楽器から出る「ボッボッボッ」という断続的な低音の中、兵士たちの間を進んでいく。
≫氷を解かすってどうするつもりだ?≫
「空気の圧縮して熱で氷を解かします」
視聴者のコメントに小声で返答した。
≫そんなこと可能なのか?≫
≫断熱圧縮だな。ちょっと待て温度を計算する≫
≫計算できるのかよ!≫
≫でたぞ、今20℃なら圧縮5倍で200℃弱≫
≫圧縮10倍なら300℃弱≫
≫そんなに熱くなるのか!≫
≫そらそうよ。大気圏突入時の熱と同じだぞ≫
≫300℃ってオーブンくらいの熱だな≫
な、なるほど。
どうりで兜の中に空気を圧縮したときに熱くなったはずだ……。
足が火傷しない温度は100℃くらいかな。
サウナがそれくらいの温度だし。
300℃が10倍、200℃で5倍なら、100℃は2.5倍くらいか。
人の身長くらいの高さの空気を太股くらいまで圧縮すれば100℃は達成できるはず。
でも、氷を解かすには時間が掛かりそうだ。
しばらく行くと、混戦している状況が見えてきた。
地面には思った以上に厚い氷がある。
これじゃ、まともに戦えないはずだ。
氷の上に雨が降って更に凍らせた感じかな?
ケライノの力もうまく利用したのかも知れない。
魔術での空気の圧縮はすでに始めていた。
でも、ここまで厚い氷だと解けるまで時間が掛かりそうだ。
それに氷の魔術を使われている範囲が広い。
ボクが空気を圧縮できる範囲の10倍はある。
更に進むと、よく知ってる大きな身体と声が聞こえてきた。
鉄壁のヘルディウスさんだ。
「おい、右! 下がるの早いぞ! 周りをよく見て動け!」
最前列では1人が楯を構えながら膝をついて、もう1人がその後ろで腰を支えている。
楯の間から、別の兵士が槍を突きだしていた。
氷の上でもちゃんと戦い方を考えている。
中央だけ戦列を維持できていたのも頷けた。
「誰かと思えば、アイリスか!」
戦場の最前線だと言うのにニカッと笑う。
「――楽士さん。ここまでで」
ボクは一礼だけしてすぐにヘルディウスさんに近寄った。
「全体の戦線はどのくらい持ちそうですか?」
彼は一瞬だけ真剣な顔でボクを見た。
「右翼がきちーな。合図が聞こえねえ。いつ突破されてもおかしくねーかもな」
――氷を溶かす時間はないか。
今すぐにでも氷をなんとかしないとダメだ。
圧縮率を高くして、一気に溶かすとか?
いや、足を火傷してしまったら意味ない。
あ、でもそもそも氷を溶かす必要はないのかな?
要は、転がる氷分子を減らせばいいんだから、氷を更に冷やす?
でも、冷却する魔術なんて知らないし。
ボクは視聴者に質問するために、手のひらを左目に向けた。
濡れている髪から手のひらに水滴が落ちてくる。
「ボクが出来る範囲で、滑らなくする方法を、考えてもら――」
そうか、水か。
もしかして、川で水分子が飛ばせたんだから、氷分子も飛ばせるんじゃないか?
氷分子とは言ってるけど、形も大きさも水分子と全く同じH2Oなはずだし。
滑る原因になっている氷分子は、氷の表面を自由に動いているはず。
たくさんあって自由に動いているなら、当然衝突する。
それを全部吹き飛ばしてしまえばいい。
集中して氷を見る。
氷分子は震えているけど止まってる。
氷の表面に意識を移す。
今にも離れそうに揺れている分子と、衝突している分子が分かった。
ボクは衝突した分子を全て飛ばすように意識する。
「うぉ」
周りからそんな声が聞こえた。
モヤのようなものが戦場に舞う。
でも、そのモヤはすぐに消えた。
「ヘルディウスさん! 氷を滑らないようにしてみました。確認を!」
「なに? なんだか分からねーが分かったぜ! おい、おめーら! 足元は滑るか?」
しばらく、楯に剣が当たる音と、反乱軍側の声だけが聞こえてきた。
「――滑らねえ。滑らねえぞ!」
「氷が滑らねえ!」
「うぉおおお!」
≫なにが起きてるんだ?≫
≫分からんw≫
≫アイリスが何かやったのか?≫
「――マジかよ」
ヘルディウスさんが呆れたのと嬉しそうなのが混じった表情でボクを見た。
彼の副隊長の証である長い棒を持った手も微かに震えている。
そして、大きく息を吸い込む。
「ローマの勇敢な野郎ども! 俺らの女神が氷に魔法を掛けた! もう滑らねえ! 今こそ最強の俺たちを見せてやれ!」
「応!」
戦場に一際大きな「応」が響きわたった。
それはうねりとなり広がっていく。
ヘルディウスさん、副隊長にも関わらずほとんどこの中央のリーダーだな。
元々こうなのか、隊長になるという覚悟が彼を成長させたのか。
「滑らねーのは戦場全部か?」
「いえ、滑らないように出来たのは戦場の5分の1くらいです。氷の魔術の範囲がかなり広くて」
「ゴブンノイチってどのくらいだよ?」
「横に100人いたらその20人目まで有効なくらいです」
「そうか。隣の隊くらいまでだな」
≫どうやって氷を滑らないようにしたんだ?≫
≫分からん≫
≫温度下げたとか?≫
≫アイリスってそんな魔術使えた?≫
≫反乱軍のリーダーの魔術コピーしたとか?≫
氷を滑らなくした方法は視聴者に説明する必要があるかも。
「おめーらあんまり前に出るなよ!」
万全になったローマ正規軍は強い。
楯で圧力を掛けながら、剣で反乱軍を倒していく。
人の殺害シーンを配信する訳にもいかないので、ボクは左目を閉じた。
≫うおっ、暗くなった≫
何が飛んでくるか分からないので、右目は戦場を見る。
次はどうするか。
表面を転がる氷分子は、次から次へと湧き出てきて魔術は使い続けなきゃいけない。
だから、ここを離れて左右に動くわけにもいかない。
今の状態で範囲だけ広くできれば……。
ボクは視線を下げて、左目を開けた。
手のひらを見せてすぐに左目を閉じる。
「ヘルディウスさん。今の状態を維持しても勝てません。他に良い方法思いつきませんか?」
ヘルディウスさんに質問する体で、視聴者に質問した。
「は? なんだよいきなり」
≫おい、アイデア募集らしいぞ≫
≫いうて、下手な思いつき言えないからな≫
「思いつきでもなんでもいいです。責任はボクにあります。あと、氷が滑らないようにする方法ですけど、氷の表面を転がる氷分子を吹き飛ばすことで実現しています」
「責任? それになんの話だよ?」
「氷を滑らないようにした方法です。情報は多い方がいいと思って」
「訳わかんねーよ!」
そりゃ、訳が分からないよね。
心の中でヘルディウスさんにごめんなさいする。
≫氷の表面を転がるって何の話だ?≫
≫あ、そういうことか≫
≫どういうことだってばよ≫
氷が滑る理由について誰かが説明してくれた。
知らなかった人も多いみたいだ。
≫敵側の氷を溶かすというのはどうですか?≫
≫全力の断熱圧縮でも敵側なら問題ないかと≫
≫氷が解けたらそこに隊を進めてしまいます≫
≫丁寧語キター≫
≫敵なら蒸し焼きにしても問題ないか≫
≫えげつないなw≫
実際は蒸し焼きにはならないと思う。
オーブンに手を入れても数秒くらいは大丈夫だし、その間に逃げてしまえる。
≫そういや、敵はなんで滑らないんだ?≫
≫スパイク付きの靴でも履いてるんじゃない?≫
≫氷が解けてもまた魔術使われたら凍る?≫
≫凍るだろうな……≫
≫水になったら吹き飛ばしゃいいだろうが≫
≫その手があったか!≫
丁寧語さんのコメントがきっかけになったのか、今後の方針がまとまっていく。
氷を解かす方向になりそうだ。
≫圧縮した空気は可能なら対流させてくれ≫
≫対流させた方が氷が溶ける時間が早い≫
≫場所によって圧縮率を変えれば風は起きる≫
≫溶け切る時間は?≫
≫条件が複雑すぎて計算できないが数分掛かる≫
≫それはキツいな≫
ボクが疑問を抱く間もなく、どんどん話が展開していく。
それにしても数分か。
考えてみれば、氷って直接バーナーで炙っても簡単には解けないんだよな。
氷を解かす方向は難しいかも。
そうなるとどんな方法がある?
直感では、魔術の範囲を広げるのが一番可能性が高いように思えた。
『範囲を広げられた』ことがつい最近あったはずだ。
プォー。
プォー。
プォー。
右から重なり合うように、楽器の音が聞こえてくる。
「まじーな。右が抜かれた」
ヘルディウスさんが険しい顔つきになる。
「方陣!」
最前列に居る隊長たちが号令を掛け、直後に楽器の音が聞こえてくる。
さすがに練度は高く、一糸乱れず隊同士の隙間がなくなり身体の向きを外周に向けたみたいだった。
その方陣のまま、野営地の方に少しずつ下がり始める。
ボクもそれに着いていった。
状況が見えないので不安になる。
空間把握で見えたらいいんだけど。
ケライノのときみたいに、周りに魔術が充満していたらな。
そこまで考えて思い出した。
つい最近、『範囲が広げられた』のは、空間把握だ。
ケライノの暴走した魔術の反応を見ることで、把握する範囲が広げられた。
それなら、氷を作っている反乱軍側の魔術に、ボクの魔術を重ねられないだろうか?
そういえば、養成所でクルストゥス先生が魔術無効を使って見せてくれたときに魔術を確認してから使っていた気がする。
――いける気がした。
試しに、戦場左の一番遠くの魔術の反応を見る。
そして、氷分子に意識を移す。
更に表面で自由に転がる分子を捉えた。
分子が衝突した瞬間吹き飛ばす。
手応えがあった。
そのまま吹き飛ばし続ける。
遠すぎて実際に起きたかどうかは確認できない。
でも、これまでの経験によって、うまくいったという確信がある。
これなら反乱軍が魔術を使っている限り、氷を滑らないように出来るはずだ。
ただ、範囲がものすごく広い。
かなり集中する必要がある。
歩きながらは無理だ。
「――ヘルディウスさん。戦場の全ての氷を滑らないようにできるかも知れません」
「なにぃ!」
「ただ、ボクは身動き取れなくなります」
「どーしてだよ?」
「範囲が広すぎて、全力で集中しないと――」
「そんなにか」
ボクは頷いた。
「きちーな。今、隊を留めるわけにゃいかねー。誰かに運ばせながらは無理なのか?」
運ばれながら魔術を使う様子を想像してみる。
とても集中できそうにない。
「難しい、かと」
「だよなあ。とりあえず援軍呼ぶぞ。そこのデカい楽士、援軍を呼べ」
「はっ!」
デカいと言ってるヘルディウスさんの方が大きいんだけど。
そう心で突っ込みながらもありがたいなと思う。
「おい、おめーら! おめーらの中で命懸けてアイリス守りたい奴いねーか! 守れたらボーナス確定だぜぇ!」
ボーナス?
副隊長ってそんなに権限あるんだ?
などと思っていると、すぐに「応っ!」と雄叫びをあげながら10人くらいが剣を突き上げた。
80人の中の10人だから結構多い。
「おめーらそんなにアイリス守りたいのか! よし、隊列入れ替えながら集まってこい!」
すぐに隊列を乱さないように入れ替わりながら集まってくる。
中にはボクが知ってる人たちも居た。
野営地でボクや副隊長に絡んできたり、護衛と称して練習に付き合ってくれた6人だ。
「7、8、9……12人か。外8内3の方陣でいいな!」
「応!」
すぐに小さな方陣が出来る。
「ところでおめーら。俺たちが劣勢なのはどーしてだと思う? 滑るからだよな? でもな、それも終わりだ。俺たちには女神がいる。とびきりのだ。今さっき、女神が氷で滑らなくしたのはお前らも知ってるよな?」
「応!」
「この女神はよ、それを戦場全てに使える。ただ、隙だらけになる。誰かが女神を守らなきゃいけねえ。誰が守るんだ?」
「我々です!」
「分かってんじゃねーか。お前らが女神を守り切れば俺らローマの勝利だ! 全てを出し尽くすのは今しかねーぞ!」
「応!」
士気が高くて陣の中に入りにくいんですけど。
そう思っていたら、絡んできたときに最初に声を掛けてきた兵士が目を合わせてきて肩をすくめた。
歯が白く輝く、女性慣れしてそうな兵士だ。
ボクは「お願いします」と言いながら、方陣の中心に入っていく。
彼ら一人一人の顔を見てると引き締まっていて、最初に見たヘラヘラした感じはない。
彼らがまさかボクを守ってくれることになるなるなんて、絡まれたときは想像もできなかったな。
「危なくなったらボクに声を掛けてください。始めます」
小さな方陣の中心でボクは集中した。
戦場全ての氷の表面を把握する。
そして氷分子の衝突を全て弾き飛ばす。
ボクの体勢はと言うと、片膝を着いて両手を胸の前で組んで下を向いている。
ちょうど祈りを捧げているような格好だ。
目は完全に閉じないで少し開けたまま。
戦場で目を閉じきるのはなんとなく怖いし、黒い背景にコメントが流れてるよりは、こっちの方が集中できる。
ヘルディウスさんが大声で「女神の加護だ! 俺たちの力を見せつけてやれ!」と叫び始める。
隊はすぐにボクたちを残して戦線を下げていった。
敵の中に取り残される。
方陣を組んでくれてる兵士たちは、自分の楯の方向に位置を変えながら鉄壁を誇っている。
ぅゎっょぃ。
戦線を突破された右はどうなっただろうか?
持ち直せていたらいいけど。
「女だけの部隊か?」
「やるぞこいつら」
周りでそんな声が聞こえた。
女性だけの部隊?
気になったけど、スルーして集中を続ける。
でも、たまに聞こえてくる指示を聞く分には不利な状況っぽい。
どう不利なのかは分からないけど、方陣の角の1カ所を攻められているようだった。
剣が楯に当たる音が聞こえ続ける。
対処しきれずに焦っているのか、怒号も聞こえ始めた。
良くない状況みたいだ。
さすがにマズいと思って顔を上げる決意をした。
焦点は合わさずにぼんやりさせたままだ。
その状態で顔だけ上げた。
想像以上に囲まれていた。
思わず焦点を合わせてしまう。
見てる範囲だけでも敵が100人以上はいる。
12人でよく押さえていると思った。
でも、右の3人が劣勢だ。
彼らが戦っているのは女性だ。
その戦いの向こうには1人の少女の姿があった。
彼女と目が合う。
≫おっ、かわいい≫
≫お前こんなときにw≫
どこを見ているか分からない虚ろな感じだ。
ただ、不思議な同調感があった。
世界で彼女とだけ同じ空間を共有しているような不思議な感覚。
音が消えたかと思った。
彼女が氷の魔術を使っているのだと直感する。
直後に方陣の右角の1人が倒れた。
現実に引き戻される。
そこに大きな1本の槍を突き出す3人がくる。
仲間の兵士がその槍を楯で受け止め倒れた。
ボクも巻き込まれる。
まずい。
氷への魔術を解いて敵3人に風を向ける。
ただ、顔まで覆う兜を被っているからか、彼女たちを思ったようにのけぞらせることが出来ない。
焦る。
1分、いや30秒だけ氷への魔術を止めて全力で行くしかないか、と覚悟を決めた。
リスクは高いけど、ここが崩れたら意味ない。
再び滑るようになることで、たぶん犠牲が出る。
その責任への迷いや重圧を、奥歯を噛んで押さえ込む。
「よく持ちこたえた!」
背後から声が聞こえた。
大きな声だ。
どこかで聞いたことのある声。
すぐに大きな衝突音とともに何人かが吹き飛ぶのが音で分かった。
一瞬だけ視線を移す。
あの旗は――カウダ隊!
みんな来てくれたのか。
力が湧く。
「嬢、来たぜ」
「嬢、あとは任せろ」
「嬢には指一本だって触れさせねえ!」
今は親しく『嬢』と呼ばれることが嬉しい。
ボクは再び、祈るようなポーズを取りながら集中した。
「間一髪でしたね。12人、貴女も入れて13人でよく持ちこたえたと言っていいでしょうが。しかし、どの隊かと思えば、喧嘩売ってきた正規軍の方たちじゃないですか、人生分からないものですね」
しゃべり方だけで分かる。
副隊長だ。
「お前、あん時にアイリスと一緒にいた副隊長か」
「ええ、そして今は貴方たちと共に戦いに来た援軍です。ここからは肩を揃えて戦いましょうか」
2人とも声色が嬉しそうだ。
思わず頬が緩む。
「副隊長1つだけ。戦線の右はどうなってます?」
魔術を維持しながらそれだけ聞いた。
「右翼はメテルス副官率いる騎兵隊が向かいましたよ。内側から重騎兵、外から軽騎兵を中心に立て直す、とのことです」
≫重騎兵と軽騎兵って何が違うんだ?≫
≫防御重視か速さ重視かの違いですね≫
≫重騎兵は馬に金属の鎧を着せます≫
≫正面の突破力は強力だと思いますよ≫
≫つまりどっちが勝つんだ?≫
≫恐らくローマでしょうね≫
≫装備も練度も違いすぎます≫
ボクに小言を言うメテルス副官の姿を思い出す。
あの人なら、装備や騎兵の訓練のような基本的な所は手を抜かない。
数でもローマ側が勝っている。
氷で滑らなければ負けないだろう。
ボクは全力で魔術に集中し続けた。
次第に喧噪は収まり、戦いが終わりに向かっていると感じる。
ふと、氷を維持していた魔術の反応が消えた。
戦況が悪くなって氷の維持を諦めた?
反応が消えても、捉えてる氷はまだ認識できる。
ボクは氷が滑らないように魔術に没頭した。
それからどのくらい時間が経っただろうか?
「ローマの勝利だ!」
「おおー!」
気が付くと周りからそんな叫び声が聞こえ始めていた。
勝利の声は戦場全体から聞こえる。
集中したまま、目線だけを上げてみた。
≫お、勝ったのか?≫
≫何がなんだか分からない内に勝ったな≫
≫兵士目線の戦争ってそんなもんなんだろう≫
≫首謀者は捕らえたのか?≫
≫様子から反乱軍が退却を始めた気がします≫
≫まだ反乱は続くのか?≫
≫今回は総力戦なので終わる可能性もあります≫
首謀者?
あの妙な同調感のあった少女のことを思い出した。
よく考えたら、彼女がシャザードさんの従姉妹で、軍師なんじゃないか?
「すみません。楯を貸してもらえますか?」
立ち上がるとふらついた。
自分の限界が近いのが分かる。
「いいが、どうした?」
「反乱軍の軍師を捕まえにいきます」
ボクは氷への魔術を解いた。
彼女は狭い範囲だけどまだ魔術を使っている。
今なら追いかけられる。
ボクは一度飛び上がり、その魔術の反応を追った。
ホバーのように地面スレスレを駆け抜けていく。
これなら、魔術無効も使われないし、浮いているから氷でも滑らない。
速度は時速80キロくらいだろうか。
100キロはいってないと思うけど、かなりのスピードだと思う。
普通なら怖いだろうけど、疲れているからか恐怖を感じる余裕がなかった。
彼女たちは警戒しながら退却していたのですぐに追いついた。
どうするかなんて考える余裕はない。
力押しだ。
ボクは楯の前方を持ち上げて傾け、ブレーキを掛けた。
同時に周りの女性兵士を吹き飛ばす。
停止する頃には何十人か居た兵士は遠くに転がっていた。
焦点の合ってない彼女だけがボクを見ていた。
見えてる肌は妙に白く、感情が読めなくて怖い。
単純な見た目は虫も殺せなさそうな柔らかな雰囲気で、背はボクと同じくらい。
聞いていた『軍師』の特徴と一致する。
「――反乱軍の軍師ですね。捕らえます」
なんて話そうか思っていたけど、結局ボクがすることを宣言するだけになった。
彼女は特に抵抗することもなく、それを受け入れる。
本当に何を考えているんだろう?
諦めてしまったとか?
捕らえるとは言ったものの、ボクは捕らえるための道具を持っていない。
仕方なく彼女の首筋に触れ、足を動かす神経を遮断して身動きを取れなくするのだった。
そこまでしても驚く様子も見せない。
覚悟が決まってるんだろうか?
彼女の親衛隊と思われる女性兵士たちは助けることを諦めていなかったので、こちらに来れない程度の強風を発生させておいた。
しばらくするとローマ軍がやってくる。
「アイリス! お前また無茶を!」
先頭にいるのは首席副官だった。
彼も無事だったのか。
これで戦場に出た知っている人は全員無事だ。
思いっきり安心する。
張りつめていた何かがふっと抜けた。
それにしても、また首席副官は怒ってるな。
「ふふっ」
思わず笑みが漏れた。
これでボクはようやく終わったのだと思った。
捕らえていた軍師を引き渡して、少しの間だけのつもりで目を閉じる。
今日はいろんなことがあったな。
思い出そうとすると、意識が沈んでいく。
そのままボクは意識を失っていた。




