第53話 召集までの日々
反乱した剣闘士たちが、ローマの城壁を打ち破ったという噂は翌々日には広まっていた。
元々、第五席『切断』のシャザードさんの名前はローマの中でも相当な有名人だったらしい。
その彼がローマが誇る城壁ですら切り裂いたというのが、今一番の噂だ。
反乱と言っても、ローマ市そのものを侵略する意図がある訳じゃないので街で暮らす人たちの混乱はないみたいだった。
市内で脱走を心配する声もほとんどない。
話によると、ローマ市や他の都市で暮らしている奴隷たちは酷い扱いを受けている訳じゃないらしかった。
ライブ配信のコメントだと、古代ローマ時代の奴隷はサラリーマンレベルの扱いという説もあるらしいので驚く。
ボクの中の奴隷のイメージが一変した。
でも確かに、ボクも罪人の剣奴ということを忘れそうになるくらいの待遇だもんな。
さすがに毎食お粥というのは飽きてきたけど、それは贅沢というものだろう。
じゃ、誰がシャザードさんたちの反乱に参加するのか?
可能性が高いのは農奴や鉱山などで働く奴隷らしい。
彼らは人数も多く体力もある。
武器の扱いはともかく、鍬やピッケルなど、武器に似た動作の筋力も発達している。
なにより待遇が悪く、一生を奴隷として終えることが普通なのでチャンスがあれば反乱に参加してもおかしくないという話だった。
集めた情報を元にまとめると、そんな背景らしかった。
「――魔術無効に関してですが、戦いの前に広げておくのは可能とのことでした」
報告をしてくれているのは、カーネディアさんだ。
彼女は毎朝欠かさずボクたちの元にやってきてくれる。
「アイリスさんは、他人の身体の内側に魔術が使えないことをご存じですか?」
「はい。クルストゥス先生に教えてもらいました」
彼女がボクの言葉を聞いて頷く。
「クルストゥス様は、その身体の内側の感覚を外にまで広げたのが魔術無効だとおっしゃられていました」
なるほど、と言いそうになるけど、分かった気にだけなって実はよく分からない説明だ。
火災のあとのセルムさんとの戦いで、彼は見えてる範囲のかなりの部分で魔術無効を使っていた。
そこまで身体の内側の感覚を広げることなんて可能なんだろうか?
「それって練習すれば私でも使えるの?」
一緒にカーネディアさんの話を聞いていたマリカが言った。
「使えるみたいですよ。魔術無効は魔術の素養がなくても訓練次第で使えるとの話です。魔術が使えるなら僅かな訓練で使えるともお話されていました」
「もう1つ質問です。魔術無効自体を感知することは出来るんですか? 先生が使う魔術感知みたいに」
「感知ですか?」
「先生やボクは魔術がどこに使われているかを感知することができます。それと同じことが、魔術無効についても出来るかどうかということです」
「すみません。そこまではクルストゥス様にお伺いしていませんでした」
「あ、大丈夫です。ボクが昨日の時点で質問しなかったのが悪いので。先生に聞いておいて貰えますか?」
「もちろんです」
魔術無効について分かったことはそれくらいだった。
自分の身体の内側の感覚を広げると言ってもよく分からない。
パーソナルスペース的な話だろうか?
実際に先生に教えて貰えたらそれが一番いいんだけどな。
あと、魔術に関することではマリカが飛べるようになっていた。
しかも、ボクと違って板状のものがあれば盾がなくても飛べる。
彼女の話によると、火災を鎮火させたあと、呼ばれて行った先で「盾を使って飛んでみろ」と言われてやってみたら飛べたらしい。
イメージが掴めたのは、ボクの風の魔術で一緒に飛んだことが大きいとの話だ。
その中でも、ボクの魔術に合わせて酸素を少なくしたときに酸素がどう動いているかを完全に掴んだとのことだった。
マリカの酸素のコントロールはボクとは比べものにならないくらい上手いので、一度イメージが掴めたら上達も早い。
板の場合は、3点から同じ強さの風を当てれば安定する。
彼女にそれを話すと、すぐに実用可能なレベルで飛べるようになった。
飛べるということは50m/s以上の突風が使えているということだ。
空気中の酸素が20%とすると、単純計算しても500÷5で風速100m/s。
それが移動して窒素などの他の気体分子にぶつかるとしても、人が飛べるくらいの風速は保てるということなんだろう。
マリカが風の魔術をある程度使えるようになった頃、一度互いの風をぶつけてみようという話になった。
「私のはサンソだけなんだから絶対勝てないと思うけど」
「勝負じゃないから。いくよ? せーの!」
養成所の上空でボクの風とマリカの風がぶつかる。
結果はボクが起こした風にマリカの起こした風が飲み込まれるだけとなった。
風同士がぶつかった余波で、ボクの髪が揺れるくらいの風が吹く。
「じゃ、次。マリカは可能な限り酸素を集めてそれをぶつけてみて」
マリカが緊張気味に頷いた。
彼女の魔術の範囲は最近広がってきてる。
たぶん、空間把握に慣れてきたからだろう。
魔術を使うにはその空間のイメージを正確に行わなくてはいけない。
視界だけだと前方の一部しか見えないけど、空間把握ならもっと広い範囲をイメージできる。
広い範囲がイメージできれば、より大きな空間から酸素を集められるので圧縮率も高くなる。
現に今、空に浮かんでいる酸素の固まりはかなり高い圧縮率になっている。
勝てる気がしない。
勝負じゃないのは分かってるんだけど――。
「いくよ。せーの!」
ボクが声を掛けると、互いに魔術を発動した。
パンッとボンッとが合わさったような音がした。
大きな空気の固まりがぶつかり、ぶつかったところを境に風が破裂する。
その余波の風が養成所に吹き荒れる。
まるで爆風にように木々を揺らし、砂埃を舞い散らす。
台風でもここまで酷くないという有様だった。
ボクは耐え切れずに飛ばされそうになる。
でも、マリカがボクの背後から絶妙な風の魔術を使って支えてくれる。
マリカ本人も自分を風で支えてるみたいだった。
すごい。
マリカはここまで出来るのか。
下手すると八席に届くレベルで強いんじゃないだろうか?
低酸素の魔術もあるし。
少なくとも、『魔術師』メッサーラさんより風の魔術の威力だけなら上だ。
あ、でも魔術無効を使われると剣術だけしか使えないのか。
魔術無効に対しては何か対抗策があるんだろうか?
クルストゥス先生の話では、魔術無効を感知できるという話は聞いたことがないらしい。
だから、魔術無効が使われてなさそうな遠い場所から魔術を使うというのがセオリーらしい。
ボクは魔術無効が感知できるので、ひょっとしたら突破口があるかも知れないけど、それはボク自身が考えないとダメそうだった。
あと、重要な話としてはボクに生理がきてしまった。
生理というのは他の何でもなく、あの月ごとに来る子供を産むための準備で、出血をともなう女性の生理現象のことだ。
思わずいろいろ考えそうになるけど、ボクはあまり考えないようにした。
最初は、マリカが生理になった。
少し辛そうなときがあったので気を遣っていたらボクも何か誘発されるように生理が始まった。
こっちの生理用品はタンポン式のようで、羊毛に糸が巻き付けられているものだ。
これを水で濡らしてから搾ってから棒で入れる。
取り出すときは糸を引っ張るらしい。
使い方はマリカが教えてくれた。
本当にこういうときは助かる。
でも、マリカが使い方を実演したときライブ配信されていることを完全に忘れてたみたいだった。
実演というのは、片足をベッドに掛けてガニ股になって棒を股に差し込む動作だ。
たぶん、こっちでも仲の良い女性同士でないと見せてはいけない動作だと思う。
思わずライブ配信されていることをマリカに指摘したら、しばらく立ち直れないほど恥ずかしがっていた。
数日間は、それを思い出しては声を出して身悶えているのを何度も目撃することになる。
一方で視聴者のマリカのファンは確実に増えていた。
さすがだなお前ら……。
そして、生理の辛さは想像してたのと全然違っていた。
まず、痛みが想像と違った。
もっとキューと内臓が締め付けられるような痛みだと思っていたのに、下腹部の中身を鈍器でガンガンガンと殴られ続けるような痛さだった。
しかも、この痛みに波がある。
しばらくあまり痛くない時間が続いたと思ったら、また痛みだすという繰り返しだ。
この繰り返しだけで疲れる。
人によってはこれに頭痛があったり眠気があったりするという話だけどそれも何となく分かった。
何か、身体のバランスが僅かに狂っている感覚がある。
なんか胸もいつもより張ってたし。
ボクの場合は、母さんから女性の生理のことを割と詳しく教えてもらっていてよかったと思う。
でも、これが何十年もの間、1ヶ月の内1週間近くも続くとか地獄だな……。
男としてはこれに慣れたくないけど、当たり前と思ってしまう日が来るんだろうか?
ちなみに最初に血が流れたときはすぐに魔術で血の流れを止めて横になることでなんとかなった。
魔術で止血が出来るようになっててよかった。
血がたくさん出たのは2日目とか3日目であとは急に少なくなってた。
それにしても、生理になったのがこの時期でよかったと思う。
もし、もしも包帯兵として派兵されている最中に来ていたらと思うと気が遠くなる。
その派兵に関係するシャザードさんたちの反乱についての正確な情報は何も入ってきてない。
ただ、診療所にいると噂はすぐに聞こえてくる。
その噂によると、初戦もシャザードさんたち反乱側が勝ったみたいだった。
噂についてまとめると次のような感じだ。
まず、反乱側は強く、ローマ側はすぐに撤退したという話。
次に、シャザードさんの統率力はローマ軍より上だったという話。
あと、早く反乱に参加して武勲を立てると、新しい国での地位が約束されるという話。
最後のはあからさま過ぎるけど、基本的にこれらの噂は反乱側が流してる情報だと思う。
これらの話はローマ中で話題になっているらしかった。
噂を聞くたびに、ボクは包帯兵として召集される覚悟を決めていく。
もちろん怖さや不安はあった。
それは巨人やドラゴンと戦う前の怖さとは違う。
『戦争』という残虐で野蛮だと思い込んでいる行為の渦中にボクが参加することが怖い。
平和な日本の日々とは離れすぎていてこれは夢なのかと思ってしまう。
でも、考えてみると女の子になって円形闘技場で怪物と戦っているボクにとっては今更の話だった。
とにかく、治療することと危なくなったら逃げることだけを考えよう。
そして遂にその日がやってきた。
ローマ軍が負けたという噂を聞いた翌々日、ボクは包帯兵として召集された。
次話の投稿はちょっと延期します。すみません。




