第36話 次の相手
セルムさんが意識を取り戻した。
意識を失ったといっても、ルキヴィス先生のアゴへのパンチで脳を揺らされただけなので、怪我らしい怪我はしていない。
周りは、かなりざわついていた。
この円形闘技場の剣闘士第9位が圧倒されたんだから、それも当然かも知れない。
彼はシャザードさんと何か話したあとに、ボクたちの方にやってくる。
「完敗だった。慢心していたのかも知れない。よい経験になった」
「ああ」
セルムさんは先生にそれだけ言って去っていった。
「『ああ』ってそれだけ?」
「言っておくが、勝者は敗者の言葉を受け止めるくらいしか出来ないぞ。相手の心を折りたいなら、心を抉る一言を放ってもいいがな。マリカ、それにアイリスも強くなるんだろ。強くなればこういうことも増える。頭の片隅にでも置いておけ」
「う、うん」
「分かりました」
そういうものなんだろうか?
ボクならセルムさんが言ったようなことを言われたら、つい謙遜してしまいそうだ。
とりあえず、先生に言われたとおり、頭の片隅に入れておこう。
「何かあったみたいですね」
そこにクルストゥスさんがやってくる。
「マリカに戦い方を教えていたんだ。さ、魔術訓練を再開するぞ」
集まっていた剣闘士たちもすでに散り始めている。
ボクは、シャザードさんのところに行って「5人のことお願いします」と頭を下げてきた。
その後は、各々で魔術の練習を行った。
ボクは素早く魔術のイメージを重ねられるように練習することになった。
確かに、使おうとしてから実際に魔術が発動するまで、3秒くらい掛かる。
これを剣を振るスピード並にするのが最終的な目標となった。
剣を振るスピードって0.5秒くらいかな?
確かに、それくらいで魔術が使えないと、両腕が使えないボクの武器にはならないんだけど。
魔術のイメージを重ね合わせる場所はどこでも構わないとのことだった。
ただ、風の音が大きいので耳の近くは止めておいた方がいいとのこと。
確かにそれはその通りだと思った。
あと、一般的にイメージを重ね合わせやすいのは、目の前か手のひらの近くらしい。
ボクはいろいろ考えた結果、腰の側面で魔術を使うことにした。
腰の側面なら、動かない両腕でも手のひらを向けやすいし、耳から遠いし、実戦でも使えそうというのが理由だ。
ボクは人気のないところに移動して、魔術の実技練習を始めることにした。
マリカやルキヴィス先生がどんな練習するかも気になっていたけど、とにかく早く魔術を使えるようになって安心したかった。
さて、周りに誰もいないし、ライブ配信の視聴者に一言声を掛けておこう。
「では、これから魔術の練習を始めます。音がうるさいかもしれないので、音量は小さめでお願いしますね」
≫おk≫
≫気が利くなw≫
ボクはまず右手のひらを外に向けて――。
って、手を下ろしたままだと手のひらを外に向けにくい。
完全に真横に向けるのは意外と力を使う。
これだと、真横に向けてるつもりが、少し斜め後ろなんてことにもなりそうだった。
どうしよう。
腕が動く範囲で試行錯誤してみる。
≫さっきから何してるんだ?≫
「手のひらの向きをどうすればいいか考えています。魔術を使うためには、手のひらを向けるのがいいと聞いたので」
≫さっきクルスなんとかが言ってたやつか≫
ふと、右手のひらを、身体の逆側に向けるのは問題ないことに気付いた。
つまり、右手のひらを身体の左側に向ける。
ちょっと腕を動かせば問題ない。
そして、そのちょっとくらいは今でも動かせる。
もしもこれで両手で魔術を使うことが出来たら、手を交差することになるので、なんか格好いいし。
ボクは試しにイメージを重ねてみることにした。
実戦を想定して、風がボクの正面にくるようにイメージの角度を調整する。
そして、魔術を使った。
ゴォーという凄まじい音がする。
魔術を使ってる空間は直径60cmくらい。
直径60cmというと、成人男性の肩から指先くらいだ。
魔術を使ってる空間だと風は拡散していないけど、その風を向けている先では思った以上に土埃が舞い散っている。
実戦で使うとなると、こんな感じかな?
一旦、イメージの重ね合わせを止めてみた。
止めた直後にボクのシャツの裾が思いっきりめくれた。
今、ボクが着ているシャツは、丈が長い。
膝くらいまである。
その長いシャツを腰紐で結んでいる。
ちょうどワンピースのようなものだ。
それがめくれることで何が起きるか?
パンツが見える。
現に今、ボクのパンツは丸見えのはずだ。
咄嗟に裾を押さえようとしてみるものの、布がまとわりついてくる。
力の出ない今の腕だとどうしようもなかった。
何もできないならと、すぐに空間把握してみる。
結構な数の人がこっちを注視しているのが分かった。
穿いているのは色気のないパンツなんだけど、とにかく恥ずかしかった。
性的な目で見られてるならそれは嫌だし、そんなことを考えてるボク自身が嫌だったし、自意識過剰なんじゃないかとか、そもそもボクは男だろとか思考がぐちゃぐちゃになっていた。
そうしてる内に風も収まり、まくれあがったシャツの裾も元に戻る。
ボクは全力の魔術で何もかも吹き飛ばしたくなった。
≫なんだったんだ? 今の≫
≫魔術が暴走したとか?≫
――暴走したいのはボクだよ。
くっ、ダメだ。
気持ちを切り替えよう。
まず、どうしてあんなことになったんだろう。
魔術を使っているときは少ししか風が来なかったのに、それを止めた途端に風――というか空気が暴れだした。
「すみません。ちょっと聞きたいんですけどいいでしょうか?」
≫おk≫
≫もちろん≫
ボクは、風の魔術の原理から、空気が暴れだしたところまでを順番に説明していった。
≫そんな風に魔術使ってたのか≫
≫よく分からんな≫
≫分子が衝突してた部分が真空になってたとか≫
≫止めるときのコントロールが雑だった≫
よく考えたら手のひらを使ってないときは、こんな問題はなかったと思う。
ボクは何度か試行錯誤して、目視だけの魔術なら問題ないことが分かった。
手のひらを使うと、どうもイメージを引きずってしまうみたいだ。
一方で、目視だけで行う魔術の欠点は、見ている一ヶ所でしか魔術が使えなさそうなところだった。
マリカとかカエソーさんはどうやってるんだろう?
ボクはとりあえずそういった応用は保留にして、腰の前辺りの空間でイメージを速く重ね合わせる練習をするのだった。
それから数時間後、ボクは1秒程度で魔術が発動するようになっていた。
連続で使う場合は1秒も掛らない。
手順は、視界のピントを合わせない状態でイメージを思い浮かべて、魔術を使いたい場所でピントを合わせる。
それだけだった。
連続の方が早いのは、イメージをいちいち思い出す必要がないからだ。
すでに脳裏にあるイメージを元に、次から次へとピントを合わせていけばそこに魔術が発生する。
この手順が出来たのもコメントのお陰だった。
ボクがその時点での手順を話す。
省略できるところをコメントして貰う。
省略した手順を試す。
これを何度も何度も繰り返した。
戦ってるときに、ピントを合わせなくても大丈夫かとも聞いてみたけど、これも大丈夫らしい。
格闘技や武道でも、ぼーっと見るようにと教えているところもあるとのことだった。
その方が動いているものに反応しやすいらしい。
その後、昼休みになり、ボクはマリカと次の対戦相手の組み合わせを見にきていた。
すでにかなりの人が来ていて、何故かボクを見ると「うわっ」とか「あ……」という哀れむような表情で見てくる。
ボクはそんな反応をされるような心当たりがないこともあり、嫌な予感がした。
「えーと、ボクの次の相手は『ドラゴン・エチオピカス』……? え?」
「は? ドラゴン!?」
≫マジかよ≫
≫ドラゴンっているんだな≫
≫どのくらい強いんだ?≫
≫エチオピカスってなんだ?≫
≫カタカナ?≫
「え、何かの間違いでしょ。ドラゴンって八席でもない限り相手には選ばないはず」
マリカはそう言うけど、ボクはあの皇妃のことだからあり得ると思った。
「ドラゴンって強いの?」
「強いなんてもんじゃなくて強すぎるって。まず、剣の攻撃は通用しない。巨体で重いから風の魔術なんて意味がない。頭もいいし、空を飛ぶ種類もいる。尾の攻撃なんて範囲が広すぎて避けられない」
「このエチオピカスって言うのは?」
「エチオピアにいるドラゴンってことでしょ。細かいことはあのクルストゥスに聞けば分かると思う。でも、その前に絶対何かの間違いだから」
そうか。
確かにクルストゥスさんならかなり詳しく知っていそうだ。
≫ドラコ・エチオピカスなら検索ヒットするな≫
≫象を食べる。全長10mらしい≫
ドラコ?
ドラゴンの元の単語だろうか?
「ドラコって?」
宙に向けて話しかける。
≫巨大な蛇を意味するラテン語≫
≫ドラゴンと同じ意味と考えて問題ない≫
マリカが不思議そうに見てくるけど、すぐにライブ配信の視聴者のことが思い当たったみたいだった。
それにしても10mか。
小学校の教室がそのくらいの広さだったっけ?
理科の授業で測ったことを思い出す。
あの風の魔術が広範囲で使えるようになればいけるかな?
それこそ、マリカの酸素の魔術の範囲くらいで。
そもそも、見たことのないドラゴンという存在をあまり怖いとは思えない。
目の前に来れば怖いんだろうけど、その対処の仕方は教わっている。
そんなことよりもむしろ、ドラゴン相手にあの強力な魔術をどうやって使ってどう勝つか、そのことに気持ちが向くのだった。
次話は、来週14日(月)の午前8時頃に投稿する予定です。




