表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
156/176

第155話 オプスの巫女

前回までのライブ配信


アイリスはウァレリウス家で侍女として情報収集しつつ、影化の魔術を練習する。その後、深夜に養育院を確認しに行き、不審な女性を発見するのだった。

 養育院の窓の傍で聞き耳を立てている女性。

 彼女を空間把握を使ってよく観察する。

 少なくとも武器はもってなさそうだ。


 目的はなんだろうか?


「皆さんに質問があります。養育院の窓の外に女性が居ます。見つからないように、聞き耳を立てているようです。何が目的だと想像できますか?」


 私が思いつくのは不正の調査だ。


 この養育院は、寄付を十分に受け取っているにも関わらず、子どもの健康状態が悪そうに見える。

 証拠があるわけじゃないけど、寄付をそのまま自分たちのものにしている可能性がある。


 ≫Gメン?≫

 ≫強盗?≫

 ≫Gメンってなんだ?≫

 ≫ガバメントマン。転じて捜査官的な意味≫

 ≫元々は政府とかの公的な捜査官なんだっけ?≫

 ≫今は万引きGメンとかいう言葉もあるからな≫


 コメントが続く。

 大喜利(おおきり)的なものを除けば、大体は捜査官的なものが多い。


 公的な捜査官か。

 彼女が養育院から離れるようなことがあれば、声を掛けみるのも良いかもしれない。


「ありがとうございます。参考になりました」


 彼女が聞き耳を立てている部屋の中へと意識を移す。


 男性職員の部屋のようだ。

 何かを飲みながら話している。

 お酒だろうか。

 少し離れたところに、剣らしきものを腰にぶら下げた大男が居る。


 用心棒的な人物だろうか。

 こういう施設に用心棒が居るというのも変な話だけど。


 更に意識を隣の部屋に移す。

 そちらには男性が1人居るだけだった。

 彼が院長かな?


 他にも女性職員の部屋や子どもたちの部屋があるけど、すでに寝ているようだった。


 養育院の中の様子はこんなところだ。

 屋上だからか肌寒いな。


 私は注意深く、周りの空気を圧縮して温度を上げた。

 気付いた者は居なさそうだ。


 ふぅ、暖かい。

 魔術って便利だな。

 そのまま、聞き耳を立てている女性が動き出すのを待つ。


 それから時間が経ったころ、最悪のシーンを目撃した。


 子どもの虐待だ。

 職員の1人が子どもの髪を引っ張って部屋に連れて行く。

 子どもはキッチンらしき場所に居て、それを見回りの職員が見つけた形だ。


 子どもが何をしていたかまでは分からないけど、食べるものを探していたのかも知れない。


 職員は部屋に子どもを連れ、何か話していた。

 頬を叩く。

 崩れ落ちる子ども。


 胃に熱いものが落ちる感覚。

 怒りが沸く。


 職員は子どもをじっと見ているようだった。

 周りも誰も止めようとはしない。


 これ以上、何かするようなら吹き飛ばして――。


 そう思ったときに、ふと気付く。

 聞き耳を立てていた女性が、窓に足を掛けて今にも部屋に押し入りそうになっていた。


 部屋を睨みつけ、カーテンを開けようとしている手が震えている。

 私にまで怒りが伝わってくる。

 それで私は少し冷静になれた。

 同時に彼女への親近感が沸く。


 私は深呼吸しながら、彼女が押し入ったときにサポートできるよう部屋の空気を操作しはじめた。 


 そのとき、何者かが養育院の玄関に走ってくる。

 慌てて、玄関から人を呼んでいた。


「――開けろ!」


 声は私のところにまで届いてきた。


 男性職員がすぐに玄関へと向かう。

 扉を開け、彼を部屋へ招き入れた。


 子どもはよろよろとしながら部屋から出て行く。

 大丈夫だろうか?

 少なくとも血は出てないみたいだけど。


 養育院に入ってきた男性は、何か小声で話すと全員が驚いたようだった。

 職員の1人がすぐに院長室へと向かう。


 何が起きてるんだ?


 考えていると、聞き耳を立てている女性も、ベランダから器用に壁を伝って道に降りた。

 道に降りるとそのまま、走る。

 養育院を離れ、どこかに向かってる。


 ――な?


 突然のことに一瞬迷った。

 このまま、ここで監視を続けるか、女性を追いかけるか。

 ただ、彼女を追いかけないと二度と遭遇できない可能性もある。


 それに、彼女が養育院を離れようとしたのはリアクションに当たる。

 恐らく、そうせざるを得ない話を聞いたんだろう。

 何だ?


 私は彼女を追いかけることにした。


「これから、聞き耳を立てていた女性を追いかけます。何故か養育院から離れたので」


 視聴者にそう伝えて、夜空に舞い上がった。


 彼女が去った北の方向に飛ぶ。

 見つからなくて焦ったけど、5分くらいで彼女らしき姿を発見する。

 動きが速いな。


 私は、彼女が走る先の狭い道に降り立ち、彼女が近づいてくるのを待った。


 シルエットが見えてくる。

 近づいてくるが、顔は見えない。

 私は手を広げた。


「待ってください。話があります」


 この周辺も静かではないけど、私の声は反響した。


 彼女は急ブレーキで止まり、半身になる。

 当たり前だけど、私を警戒しているようだ。

 話しかけてこない。

 何か、私から逃げる場所を探っているかのようにも見える。


「言っても信じて貰えないことは承知しています。私はあの施設とは何の関わりもありません。なぜ、貴女があの場所から離れたのか聞きたいだけです」


「――どこに属している人?」


 思ったよりも声が若い。

 私と同世代か下だと感じる。


「どこにも所属していません。あの施設の子どもたちの食事が十分ではないと思い、個人的に確認したかっただけです」


「そう。悪いけど、構ってる暇はないから」


 彼女は身体を左右に振りながら、私に向かってきた。

 攻撃の意志は感じられない。


 スピードに乗り、一瞬だけフェイントを掛けて、くるりと回転し私の傍を抜けようとする。


 やっぱり身体能力が高い。

 私は、暴風の魔術を使って瞬間的に彼女の正面に立った。


 彼女はすぐに方向転換して私を通り過ぎようとする。

 私はもう1度、暴風の魔術を使って彼女の正面に移動した。


 また、方向転換してきたので私は彼女に風を当てる。

 よろめき大きく踏み出す。

 そこに一瞬の暴風。

 彼女のお尻がバランスの取れる場所を探す。


 私は彼女の腕だけを暴風で弾いた。

 ストン、と彼女がお尻から倒れる。


 必倒の理。


 私は彼女の元へと歩き、しゃがんだ。

 顔ははっきりと見えないけど、長い髪のシルエットが見え、毛先が地面に着いていた。


「――私に何か用?」


 ここでこの反応。

 声も落ち着いているし、隙なく私を見ている。

 精神的に強い人だなと思った。


「突然、すみません。危害を加えるつもりはありません。聞きたいことがありまして」


「聞きたいこと? 立ってもいい?」


「はい」


 私を横目で見ながらゆっくりと立ち上がる。

 その動作には(よど)みがない。


「今の魔術?」


「はい」


「初めてみる使い方だね」


「興味ありますか?」


「あるけど、今はいいかな。急いでるし」


 お互い軽い様子で話しているけど、緊張感が漂う。


「急いでる理由を聞かせて貰ってもいいですか?」


「――それを聞く理由を聞かせて貰ってもいい?」


「私は貴女があの施設から急いで離れた理由を知りたいのです。具体的には、あの施設に男性が入ってきて何を話したかですね」


「――残念ながら私たちの都合に関係することね。外部の人に言うことはできないから。もういいかな?」


 落ち着いて答えてくれた。

 これ以上、話をするのは無理か。

 彼女を手伝うと申し出ようとも思ったけど、その発言はあまりにも怪しい。

 断られて終わる予感しかしないな。


 話を続けるには、彼女が興味を持つリアクションを引き出さないといけない。

 何か決定的な弱点を突く必要がある。


 頭が回り始めるのを感じた。


 気になるのは、彼女が言った『私たちの都合に関係する』という言葉だ。

 『私たち』。

 つまり、少なくとも彼女は組織に属しているのだろう。


 組織に関して何か不利なことがあった?


 彼女は養育院の様子を(うかが)っていた。

 あの男性がもたらした情報で彼女が慌てる理由。


 組織に不利、ということだけなら彼女が慌てる理由にはならない。

 もしかして、組織が調査をするという情報が漏れたのか?

 彼女が聞き耳を立てていたのは、その前段階。


 検証する時間はないけど、この方向だと確信を持つ。


 では、どこから情報が漏れたのか?


「――失礼を承知で言います。貴女の組織にスパイが居る可能性はありませんか?」


 彼女は私を見た。

 驚いたのが分かる。

 彼女はすぐに考え込んだ。


「まさか……。いえ、つじつまは……合うか」


 私は彼女を待った。


「もしかして、私が戻るのは危険?」


 彼女が虚空に問いかける。


「はい。危険もありますし、戻る時間が無駄に終わるかも知れません」


 彼女の独り言だとは分かっているけど、それを承知で答えた。


「戻る時間が無駄?」


「貴女が組織に戻って、情報が漏れたことを話したとします。それが無視された場合、どうなりますか?」


「――手遅れになる。そういうことね」


 彼女は言いながらまた考える。


「でも、他に方法がないなら戻った方が可能性あるんじゃない?」


 彼女は私を見る。

 今度はちゃんと私に向けた発言だと感じた。


「もう1つ確実な方法があります」


「――聞かせてくれる?」


「私と協力して、2人でなんとかしてしまう方法です」


「協力? どうしてあなたが?」


「私はある貴族の元で働かせて貰っている侍女です。その貴族はあの施設へ寄付してます。それが子どもに行き渡っていないんじゃないかと思いまして」


「あの施設が寄付を着服していると?」


「そうですね」


「貴族にとっては大きな金額ではないでしょ?」


「そうでもありません。寄付で家計が圧迫され、掃除も頼めない状況になってます」


「あー」


 何か納得した声の女性。


「時間もないし2つだけ聞かせて。1つ。あなたは何故私に協力したいの?」


 ここは素直に答えよう。


「子どもの髪が引っ張られていたときに、貴女が怒ったからです。あれがなければ私が飛び出していたかも知れません」


 他にもあるけど、それが一番大きい。


「――それだけ?」


「はい」


「では、2つ目。あなたには何が出来るの?」


「そうですね……。例えば、空を飛んで貴女を運ぶことができます」


「空を……飛ぶ? 『女神』アイリスみたいに? ああ、あなたが知ってるかどうか知らないけど、最近、人気の剣闘士ね。彼女は風の魔術で空を飛べるみたいなの」


「そうなんですか。風の魔術で飛ぶというなら、私もそうです」


 いきなり『アイリス』と言われて焦った。


「人を死なない程度に吹き飛ばすことも出来る?」


「はい。たぶん」


「そのくらいは出来るか。さっき私にしたことを考えると」


 彼女にしたこと――必倒の理のことだろうな。


「協力の話だけど、何かあっても私じゃあなたを守りきれないかも知れない。それでもいい?」


「はい。問題ありません」


「分かった」


 彼女が手を差し出してくる。

 握手か。

 私は彼女の手を握った。

 細くて繊細だけど、弱い感じはしない。


「お願いします」


「それで、私と一緒に飛ぶのってどうやるの?」


「いろいろやり方はありますけど、私が貴女を背負うのが良いかと思います。ただ、施設の場所が分からないので、後ろから方向を指さしてください」


「了解。じゃ、早速行きましょう。高いところは平気だけど、低めに飛んでね」


 思ったより友好的だ。


「分かりました」


「それと、言葉は普通でいいよ。(おな)い年くらいでしょ?」


「19歳です」


「やっぱり同じだ。私も19だから」


「そうなんだ。じゃ、お言葉に甘えて」


「いいね。それでもう私は背負われちゃっていいの?」


「はい。どうぞ」


 私は背を向けた。


「それじゃ、失礼するね」


 彼女を背負う。

 どことは明言しないけど結構大きい。


「重くない?」


「大丈夫です」


「ほら、言葉遣い」


「――そうだね。飛ぶから私にしがみついてて。風の音で声が聞こえなくなるから、私の後ろから腕で方向を指し示して」


「方向指し示すのはこんな感じでいい?」


 指を揃えて伸ばした左腕全体で方向を指し示す。


「完璧」


「ふふ」


 私たちは軽く笑いあってから、飛び上がった。


 飛ぶと、彼女は何か言っているようだった。

 たぶん、独り言だろう。

 腕はちゃんと指し示されている。


 養育院には1分くらいで到着した。


 さっき私が居た屋上に降り立つ。

 同時に中を空間把握で探る。

 まだ動きはない。

 でも、男性2人が院長室に居た。


 背負っていた彼女を降ろす。


「彼ら、まだ行動は起こしてないみたい。何が必要なの?」


 私は降ろすなり情報を伝えた。


「初めて空を飛んだ感動にもっと浸らせてよ……」


「終わったらね」


「それもそっか。ところで、あなたって建物の中の様子も分かるんだ。私の行動、バレバレのはずだね」


「細かくは分からないけどね。何か探った方がよいことってある?」


「中の人の今の様子を話してみて」


「院長室には院長らしき人物と、男性職員が2人居て何か話してる。男性職員の部屋には職員と用心棒らしき人物が3人。女性職員の部屋には5人居て寝てる状況」


「うーん、院長室の話の様子を聞きたいな。さすがに話までは聞こえないよね?」


「うん」


「じゃ、ちょっと行ってくるね。あなたは待機してて」


 彼女はそう言うと、真っ暗闇なのに器用に壁を伝って、窓際に身体を寄せた。

 私はその間、子どもたちの様子などを探る。

 彼らには特に問題はなさそうだ。


 それから10分くらい経つと、彼女が帰ってきた。


「こっちは異常なし。そちらはなにか分かった?」


 帰ってきた彼女に聞く。


「ええ。証拠の処分について話してた」


「証拠?」


「寄付金の受領書ね。院長がハサミで切り刻んでトイレに流して処分するって話になってる」


 男性の情報で、証拠を処分するというリアクションを取ったということか。

 明日、彼女の組織が証拠を探しにくるという情報だったに違いない。


「受領書はどこにあるの?」


「そこまでは話してなかったな。ただ、院長が切り刻むってことは院長室のどこかにある可能性が高いね」


 ≫ローマにハサミってあったのか≫

 ≫現代の普通のハサミとは違います≫

 ≫裁縫(さいほう)のときに使う、Uの字っぽいのですね≫

 ≫あれか≫


 どうするか考える。

 一番良いのは、誰にも見つからずに受領書を奪ってしまうことだけど……。


 あ、出来るか。

 院長はわざわざ自身の手で処分するのだからおそらく他人を信用してない。

 切り刻むときには院長1人でやるはず。

 予想が外れたら実力行使をすることになるけど。


「私が養育院の中に潜入して、寄付金の受領書を奪ってきて良い? 誰にも気付かれないように奪うつもり」


「そんなこと出来るの?」


「たぶん。作戦通りにいけばね」


「あなたって……。私に出来ることってある?」


「院長室の中の様子を探ってくれるとありがたいな。問題があったら手を真上に上げて。それで私が分かるから。あと、いつでも逃げられるように準備をしておいて貰えると助かるかも」


「問題があるかどうかの判断は私がするってことか」


「うん」


「寄付金の受領書って、単独で証拠になると考えていいの?」


「どういう意味? ってそういうこと。ちゃんと証拠になるよ。受領証にはお互いの印章が押してあるから、それだけで証拠になる」


「ありがと。あと、私の靴を預かってて貰える?」


「いいよ」


 靴を脱いで、彼女に渡した。


「では、作戦開始で」


「ええ」


 私たちは別れた。


 さてと。

 私は少し考えて、女性職員の部屋の隣にある空き部屋から入ることにした。


 院長室と同じく2階にある。

 基本的に子どもの部屋以外は2階にあるようだ。

 窓にガラスが入ってないから侵入は楽だな。


 侵入し、すぐに部屋を通り抜け、廊下に出る。

 独特の緊張感があった。

 廊下にはいくつかの灯りがあったが、近くの1つだけ風の魔術で吹き消す。


 廊下の隅に身体を置き、各部屋の様子を探った。

 窓の外に居る彼女の様子も見ておく。


 特に問題は起きてなさそうだな。


 少しドキドキしながら、廊下の隅で待った。

 それから待ち続けて30分は経っただろうか。

 ようやく話がまとまったみたいで、男性2人が院長室から廊下に出てくる。


 ガチャ。

 ドアが開いて薄暗い中、2人の姿が見えた。

 

 息を(ひそ)める。

 目を閉じ、彼らの動きに全神経を集中させながら待つ。

 戦いの前より緊張するな。

 心霊スポット配信よりも緊張する。


 彼らは特に何かを話すこともなく、灯りが消えていることも気にせず、職員の部屋に入っていった。

 入ると同時に何か話し始めたようだ。


 ふぅ。


 私はゆっくりと院長室の前まで移動した。

 中の様子を伺う。


 ガチャ。


 職員の部屋のドアが開いた。

 私は慌てて、端に張り付いた。

 息を止めて、出てきた職員に見つからないように時を待つ。


 彼は1階のトイレに向かったようだ。


 怖っ。

 気を抜いたらダメだな。

 私は職員の部屋の監視も同時にすることにした。


 彼が戻ってきたときに院長の部屋で動きがあると嫌だなあ。


 それから数分。


 院長が鍵を取り出し、宝箱のように見える大きな箱まで歩いていった。

 鍵の向きを確認している。

 その上でしゃがむと、鍵を使って箱を開けた。

 背を向いている状況だ。


 ただ、1階からトイレを終えた彼が階段を上ってきていた。

 悪い予感が当たったか。

 それでも今、院長室に入るしかない。


 私は覚悟を決めると、ドアの少し向こう側に防音の魔術を使い、するりと入った。

 ドアを閉じながら、防音の魔術をゆっくり解放すうる。


 息を潜めつつも、大きく吸った。


 院長は背中を向けてしゃがみ込み、箱をのぞき込みながら何かを探している。

 探しているのは、証拠となる受領書だろう。


 私は見つからないように(かが)んだままゆっくりと移動した。

 息が漏れただけでも察知される距離だ。

 ゆっくりと深く吸う。


 周りの様子もちゃんと確認しておく。

 窓の外には彼女が居る。

 職員の部屋の動きはない。


 私は息を潜め、院長が受領書を(そろ)え終わるのを待った。


 どのくらいの時間が経っただろうか、

 しゃがんでいる足が痺れてきた。

 院長は腰だけ曲げて、たまに腰を押さえながら立ったりしている。

 どのタイミングで奪うのかが難しい。


「これで全部か」


 ――いや、タイミングは独り言で教えてくれた。


 私は霧の魔術で腕を濡らす。

 光の反射を抑えて、黒くした。

 防音の魔術をドア側に展開。

 立って、腰を押さえている院長の背後に忍びよっていく。


 院長が振り向く気配。

 素早く動きに合わせて移動する。


 ――危な!


 裸足でよかった。

 焦りながらも、気は抜けない。

 彼がパピルスの受領書を揃える。


 私は背後から、黒い腕を首に回した。

 善悪の思考は捨てる。

 今はやるべきことだけをやる。

 それだけを考えた。


 私は、彼の頸動脈の血流を止めた。


 すっーと彼の身体から力が抜け、落ちる。

 無事に意識は失われたようだ。

 息もある。

 すぐに血流を復活させる。

 院長の身体を頑張って支えた。


 ――重い!


 暴風の魔術はうるさいので、彼を支えるのに使う訳にはいかない。

 私は彼を背に乗せて、なんとかテーブルのような場所まで運び、座らせた。

 テーブルに伏せさせて寝たように見せかける。


 改めて院長の呼吸を確認する。

 寝ているときのように深い。

 しばらく起きることはなさそうだ。


 ついでに、宝箱のような大きな箱から高価そうなものを彼の手に握らせた。


 箱の鍵を閉めて、鍵自体は部屋の隅に置いた。

 見つかりにくいように影になっている場所だ。

 隠した訳じゃないので、すぐに見つかるだろう。

 少なくとも朝になれば見つかるはずだ。


 散らばった受領書と思われるパピルスを集める。


 私は隣の職員の部屋や全体を確認しながら、窓際に近づいた。


「――終わったよ。成功した」


 外の彼女に向けて言いながら、カーテンを揺らす。

 彼女も気付いたような素振りを見せた。


「窓から出て、そのまま空を飛ぶから準備しておいて」


 私はゆっくりとカーテンから出て、防音の魔術を静かに解放した。

 外に出ると、彼女が居る。

 見えないと分かっていながら、彼女に数十枚のパピルスを軽く振った。


 彼女が頷く。


「――行こう」


 小声で言って、彼女へ背を向ける。

 証拠の受領書は丸めて身体にくっつけるようにして持った。

 万が一にもなくす訳にはいかない。


 彼女が私の背に乗ってきた。


「一瞬、落ちるけど慌てないでね」


 ベランダというより、ただの出っ張りブロックから足を出し、暴風の魔術を発動して空に舞う。


 周りはうるさい。

 私たちが飛ぶくらいの風の音では気付かれないだろう。


 そのまま、一気に外壁を越え、円形闘技場(コロッセウム)の近くまで向かった。


 夜空の星々に包まれながら、私たちは円形闘技場の最上段に降りたった。

 この時間なら人が居ないだろうと思ってのことだ。


「お疲れ。とりあえず、円形闘技場(コロッセウム)の最上段に来たよ。ここまで来れば大丈夫だと思う」


 彼女を背から降ろす。


「ここが円形闘技場(コロッセウム)かー」


「あれ? 来たの初めて?」


「以前から来てみたいとは思ってたけどね。こんな形で来ることになるとは思ってなかったな」


 少しだけ声が反響する。


「本当は受領書の確認のためにも、明るいところが良かったんだけど」


 私は小声で彼女に言った。


「ここで良かったと思うよ。空から降りてきても見つからないだろうしね。邪魔も入りにくいし」


「ありがと。それで、これからどうするつもり? 寄付金の受領書は手に入った訳だけど」


 丸めて居た受領書を開く。


「見せて」


「はい」


 彼女に渡した。


「さすがに暗すぎて見えないか。触った感じだと、印章らしきものはあるんだけどね」


 明るくする方法はないかと考えたけど、特に何も思い浮かばなかった。

 せめて金属があれば、火花を飛ばしたり、熱くしたりできるんだけど。


「貴女の組織に戻ってみる? あ、でもスパイが居るかも知れないのか」


「スパイを回避する方法はあるよ。サトゥルヌス神殿って分かる?」


「ごめん」


「――もしかして、サトゥルヌス様のことを知らない? ローマの外から来たとか?」


「うん」


「何か納得がいった」


 ≫サトゥルヌスはギリシア神話のクロノスです≫

 ≫ユーピテルやユーノの父親ですね≫

 ≫ローマでは重要な神です≫


「貴女はそのサトゥルヌス神殿の関係者ってこと?」


「いいえ。私はオプス神殿の巫女ね。オプス様はサトゥルヌス様の妻なこともあって、互いの神殿の役割が近いの」


 ≫巫女さんキター≫

 ≫オプス神殿は財政を管轄していたはずです≫

 ≫それで、受領書か≫

 ≫不正の調査してる理由も分かったな≫

 ≫巫女だったかー≫


「サトゥルヌス神殿なら、スパイが居ないってこと?」


「神殿というより、サピエンス神官長が信用できるってところね」


 ≫ホモ?≫

 ≫ホモ・サピエンスじゃねえよ!w≫

 ≫知恵のあるってラテン語だから!≫

 ≫まあ、神官ならホモでも仕方ない≫

 ≫偏見がすごいなw≫


「つまり、そのサピエンス神官長にその受領書を見せて行動に移して貰う、と」


「それがいいと思う。神殿の皆を疑いたくはないけどね」


「じゃ、私は貴女をそのサトゥルヌス神殿まで運べばいい?」


「そうして貰えると助かるな」


 ≫場所は変わってなければフォロロマーノです≫

 ≫あの有名な!≫

 ≫円形闘技場(コロッセウム)から近いのでは?≫

 ≫現代だと柱しか残ってないんだよな≫

 ≫うおー! ロマンだ!≫

 ≫ロマンの語原はローマに関係してるからな≫

 ≫マジか≫


「分かった。サトゥルヌス神殿の場所を指し示してくれる?」


「ええ、もちろん。ここからすぐだけどね」


 私は彼女を背負って夜空を飛んだ。


 彼女の腕が指し示した先に降り立つ。

 人気がないところを選んで降りた。

 少し遠くに大きな神殿のシルエットが見える。

 入り口付近にはたいまつが輝いていた。


「ここからどうするの? 私も居た方がいい?」


「来て貰っていい? サピエンス神官長に事情も話したいし」


「分かった。ただ、他の人に私のことは口外はしないで欲しい。仕事に影響あると嫌だし」


「――了解」


「じゃ、サピエンス神官長とお会いする前に、私の自己紹介しておくね。私はウァレリウス家の侍女フィリッパ。解放奴隷階級」


「やっぱりウァレリウス家だったんだね。私も自己紹介しておくと、オプス神殿の巫女ソフィア。一応、貴族階級だね」


「貴族だったの?」


「一応ね。フィリッパこそ、その歳で解放奴隷は珍しいよ。ローマに来たばっかりだよね?」


「その通りだけど、よく分かるね」


「サトゥルヌス様を知らないなんて、最近来たとしか思えないからね。さ、行こうか。フィリッパ」


「うん」


 私たちはサトゥルヌス神殿の入り口に向かって歩き始めるのだった。


 私の数歩先をソフィアさんが歩んでいく。

 近づくにつれ、たいまつの灯りに照らされて、彼女の姿が見えてきた。


 腰の位置が高く、均整のとれた身体だ。

 手首や足首が細く、良い意味での野生さを感じる。


「フィリッパ。サピエンス神官長と私たちだけになるまで話さないでね」


 振り返った彼女は思わず見とれるほどの美人だった。

 艶やかな長い髪、意志の強そうな瞳と口が更に彼女を引き立てている。


 そのソフィアさんがこちらを向いたまま足を止めた。

 ちょうど並んだ形になる。


「フィリッパ。あなた、美人さんだったんだね」


「美人なのはソフィアさんだと思うよ」


「ふふ。じゃ、お互い様ってことで、ね」


 彼女はウインクした。


「あと、『さん』はいらないから」


 貴族に向かって呼び捨てはどうかと思ったけど、彼女の性格なら、対等の方が喜ぶのだろうなとなんとなく思い直した。


「分かった、ソフィア。はじめまして、って言った方がいいのかな?」


「そうだね、はじめまして。ふふ。じゃ、改めて行きましょうか」


 ソフィアについてのコメントが激しなってきた。

 そんな中、私たちはサトゥルヌス神殿の入り口に歩みを進めるのだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ