第131話 魔術の原理
前回までのライブ配信。
二柱の神が長官ビブルスを監禁するも、アイリスが彼を救出する。その後、アイリスは皇帝の護衛をマリカに交代し、第二皇子ミカエルと神の来訪への対策を話し合う。ミカエルはアイリスが神話の怪物と闘わせられると予想し、後にそれが実際に決定するのだった。
翌日、皇帝の護衛が終わったあとに再びローマ市の壁の外へ来ていた。
次の闘技会に向けての作戦会議のためだ。
会議は視聴者たちと行う。
私の相手は神話級の怪物になる可能性が高い。
対抗になる新しい魔術のヒントでも得られれば良いと考えていた。
皇帝の警護については一応引き継いである。
マリカが酸素でサインを作ったらタナトゥスさん経由でルキヴィス先生が駆けつけて貰えるようにお願いした。
「お待たせしました。それでは、対策会議を行います。ご覧の通りここはテヴェレ川の傍です。なので水を使った実験も出来ます」
私はテヴェレ川の上流に居た。
下流はローマ市の下水も流しているらしいので上流を選んだ。
≫了解≫
≫りょ≫
≫乙≫
≫こういうのも久しぶりだな≫
コメントがすごい勢いで流れていく。
量が多いな。
ちゃんと拾えるだろうか?
≫どういう話から始めるんだ?≫
「強力な攻撃のアイデアを募集したいと思ってます。これまでの私の攻撃は、次の対戦相手には通用しないという前提です。2週間以内ということなので、1週間前後で身につきそうな魔術が良いと思っています」
≫アイリスはアイデア持ってるの?≫
≫まず現時点の戦力を確認するのが先では?≫
「そうですね」
私は、突風や創水、血液、濡らしてからの電撃などの使える魔術を話していった。
≫詳細はまとめサイトで!≫
≫どこにあるんだ?≫
≫『アイリス・ラキピ、wiki』で検索!≫
あ、ほんとにあるんだ。
見てみたいけど、見る手段はない。
「現時点で戦うことになるとしたら、電撃を使うしかないと思います。神の系統なら突風の魔術は効かないと思いますし、剣での攻撃も効かないと考えているので」
≫多段の浸透する攻撃は?≫
「浸透する攻撃を使いこなすには長い時間が掛かるんじゃないかと……」
≫そりゃそうか≫
≫武術家氏は居ないのか?≫
≫ここで武術家と呼ばれてる人間なら俺だが≫
≫居たw≫
≫どうなんだ浸透する攻撃って難しいのか?≫
≫体当たり以外は年単位で掛かるだろうな≫
≫体当たりならいけるのか≫
≫いけるが大きな生物に効くとは思えない≫
≫ま、象に突き蹴りしても効くとは思えんしな≫
「あと効果がありそうなのは真空化くらいですね。ただ、これも相手が動かない前提になってしまいます」
≫電撃の威力を上げることは出来ないのか?≫
「倍以上の威力となると難しそうですね。現状は、身体の電子を剣先に集めているだけです。雨が振れば地面からも集められると思いますが」
≫真空は相手に合わせて移動できないのか?≫
「練習すればいけるかも知れません」
≫そもそも真空が効くかどうか分からん≫
≫それを言ったら電気も効くか分からんだろ≫
≫やはり圧倒的な暴力が必要か……≫
≫暴力はすべてを解決する!≫
確かに神の系統だと電気も真空も効かない可能性はある。
あ、でも。
「今、思い出したんですけど、以前、ハルピュイアのケライノさんと戦ったときは電気が効きました。あと、昨日、黒い女性の鞭を避けてたときも筋肉の動きは同じだったので身体の構造は同じような気がします」
≫黒い女は神状態だった?≫
「はい。強烈な魔術の光を身体に宿していました。神だったはずです。一方でメリクリウスさんとか皇妃の顔した『彼女』は光を宿していませんでした」
≫人に変身してるときは人類になってるのか≫
≫筋肉を使うなら攻撃の予兆が分かるのか≫
≫攻撃が分かるのはでかいな≫
「そうですね。大きいです」
≫神話の怪物ってどんな攻撃してくるんだ?≫
≫炎とか毒とか吐くのでは?≫
≫ヒュドラならそうですね≫
≫丁寧語氏! やっぱり居たか≫
≫あまり役に立てそうにはありませんが≫
「いえ、皆さん集まってくださっているだけで心強いです」
≫賑わかすのは任せろ!≫
≫いいってことよ!≫
≫がんばえー≫
大量のコメントが流れていく。
≫で、どうすんだ?≫
≫それな≫
≫電撃の強化は難しいんだろ?≫
≫なんか新しい魔術作るしかないか?≫
≫使える魔術を組み合わせるとか?≫
≫セーラ嬢の魔術をマスターするとか?≫
「ありがとうございます。考えてみます。思いつきで良いので、どんどんアイデアを出してください」
言った後、コメントで少しずつアイデアが出てきた。
怪物の神の加護を防ぐために周辺を真空にしておいて、そこに突風を当てる。
水全てを一瞬で水蒸気にすることで、水蒸気爆発を起こす。
実現が難しそうなアイデアもある。
電気でレールガンを作って剣を発射する。
感電する水たまりを作って罠にする。
鋼鉄の筒から水蒸気爆発で石を打ち出す。
音波を操作し破裂音を怪物の耳に叩き込む。
大きな岩を2つ使って浸透する攻撃を決める。
これらを応用したアイデアもあった。
旋風で巻き上げた砂を突風でぶつけるというのもあった。
「私では思いつかないようなアイデアありがとうございます」
≫強力な攻撃って言うと、どれも弱いな≫
≫水蒸気爆発とかは?≫
≫作る水の量から言って威力は期待できない≫
「突風と真空を併用するのが一番強力でしょうか?」
≫それも神相手に効くかどうか分からないしな≫
≫ぶっつけ本番は怖すぎるな≫
しばらく出たアイデアに対していろいろな意見が飛び交った。
神の加護を持つマクシミリアスさんに効くがどうか試してみれば良いという話もあった。
それも、彼と怪物が同じ加護か分からないという意見もあって確実性が薄いんじゃないかという話になる。
≫異世界の配信はここで合っているかね?≫
≫物理の理解が魔法に直結すると聞いてきたが≫
話が停滞しはじめたときにそんなコメントがあった。
≫そうだが?≫
≫いきなり誰だよ≫
≫物理の研究をしている者と言えば良いか≫
≫友人から力になってくれと頼まれてね≫
≫古代ローマと聞いていたが普通の風景だね≫
≫アイリスは今、ローマの郊外に居るんだよ≫
確かに周りに建物はないんだよな。
近くにあるのはテヴィレ川だけ。
遠くに建物は見える。
この風景が現代まで続く古代ローマ文化と言っても信じられないだろう。
≫なんかすまん。役に立つと思って呼んだ≫
≫今のアイリスなら彼の眼鏡に叶うと思ってな≫
≫彼は変わり者だが優秀だ≫
≫浮き世離れはしてるが付き合ってやってくれ≫
「そうだったんですね。ありがたいです」
≫役に立つってどう役に立つんだ?≫
≫彼は物理学の実験屋で発想が豊かだ≫
≫実験屋?≫
≫物理学だと実験屋と理論屋が居てな≫
≫実験で証明してみせる系の物理学者だ≫
それから少しの間、コメントが混沌とした。
≫で、実験屋は何かアイデアはあるのか?≫
≫アイデアというか仮説を検証したくてね≫
≫仮説?≫
「仮説の検証ですか。私が何か実験をすればそれを検証できるのでしょうか?」
≫その前に仮説について理解して貰えるかな≫
≫君は物理学をどこまで知っているのかね?≫
「残念ながら中学レベルです。こっちに来る前は大学1年で文系の学部でした」
≫アイリスの理解力はかなり高いと思うぞ≫
≫大学レベルの水素結合も理解してたからな≫
水素結合。
確か、電子の軌道が歪なことでプラスとマイナスが偏り、分子同士がくっつく現象だ。
≫ふむ。参考にさせて貰おう≫
≫さて、ここからが私の仮説の披露となる≫
≫魔術の本質が何かという話だ≫
「魔術の本質、ですか?」
≫これまた大きくでたな≫
≫物理現象の理解が反映されるじゃないのか?≫
私も漠然とそんな風に思っていた。
≫君が魔術を使うときの話をしてみようか≫
≫何に対して働きかけると魔術が発動する?≫
「何に対して……。原子みたいな小さなものの動きを理解してコントロールすると魔術となってるように感じます」
≫コントロールはどこに作用しているかね?≫
「どこに、と言われると難しいですね」
≫改めて考えて貰えると助かるのだが≫
「分かりました」
魔術を使うときを想像する。
「コントロールしているのはブラウン運動ですね。魔術全般で意識しています。正確に言うと、分子が衝突したあとに動く方向を決めています」
話しながら使っている手順をトレースする。
≫方向は君が決めているのかね?≫
「はい。衝突後に導くように道を作る感じです。ササラ電車的というか……」
≫突然の函館ネタ!≫
≫北海道の一部都市にある除雪電車だっけ?≫
≫ササラ電車とか初めて聞いたわw≫
≫ラッセル車なら知ってるが……≫
≫内地人には通用しないから≫
「すみません! 他に思いつかなかったので……」
≫砂場で水の流れの前を掘るみたいなもんか?≫
≫避雷針?≫
≫まぁ、なんとなく分かった≫
「ええと、実験屋さんには伝わりましたか?」
彼をなんて呼ぶか考えたけど、特徴的なその単語を使うことにした。
≫ふむ。ちゃんと伝わっているよ≫
≫鳩をエサで釣る罠のようなものだろうか?≫
≫エサでおびき寄せるつっかえ棒のあれか!≫
≫意外と面白いな、実験屋≫
≫呼び方は『実験屋』で決まったのかw≫
しばらく大喜利的に話が続いた。
「実験屋さんはどう考えているんでしょうか?」
それとなく話を戻す。
≫ふむ。君は不確定性原理を知っているかね?≫
「言葉を聞いたことあるだけです。正確な意味は知りません」
オカルト系の動画でよく耳にはする。
正確な意味は知らない。
≫あー、そういうことか≫
≫なるほどな≫
≫実験屋が言いたいことは分かった≫
≫完全に理解した!≫
急にコメントが増えた。
≫正確な意味にはこだわらなくて良い≫
≫そもそも『原理』ですらないからね≫
≫よって近年は『不確定性関係』と呼ばれてる≫
そうなんだ。
この言葉は初めて聞いた。
≫関係は『位置』と『速さ』のことだね≫
≫この2つがシーソーのような関係となる≫
「シーソーですか?」
≫位置と速さの片方しか知ることが出来ない≫
≫そういう意味だね≫
なるほど、その関係をシーソーに例えたのか。
あ、だから不確定な関係なのか。
≫より正確なのは小澤の不等式とかだろ?≫
≫まぁそうだろうが今は覚えなく良いな≫
小澤の不等式?
また難しそうな用語が出てきた。
ただ、この話はスルーして良さそうだ。
「位置と速さが同時に分からない、ということは理解しました。それで、シーソーだとしたら普段はどうなっているんですか? どちらかが地面に着いている状況なんでしょうか?」
≫ふむ。良い質問だ≫
≫その答えは現代量子論の本質の1つになるね≫
≫普段は確率のみが在ることになっている≫
≫確率だけだから現実の例は使えない≫
≫シーソーを例には出来ないということだね≫
「確率のみですか……」
全く想像できない。
≫あくまで現在そう解釈しているだけだからね≫
≫もしかしたら別の解釈があるかも知れない≫
≫仮にでもそうしておかないと話が進まない≫
解釈?
聞いたことがある。
「もしかして多世界解釈みたいなものですか? 世界が無数に存在していて、観測すると1つの世界に収束するという話の……」
≫それは知ってるのか!≫
≫コペンハーゲン解釈知らないのにw≫
≫さすがオカルト好き≫
≫ふむ。多世界解釈と同じ話だね≫
「分かりました。なんとか受け入れられそうです」
多世界解釈と同じなら、魔術がどこに働き掛けているかということも分かった。
「魔術の仮説もなんとなく分かりました」
≫マジか!≫
≫やっぱ気付くよな≫
≫ほー、アイリス説を聞きたい聞きたい≫
「はい。不確定な部分を人が思う通りに収束できるのが魔術、ということですよね?」
≫ふむ、鋭いね。そういう仮説だ≫
「正解で良かったです」
≫確かに理解力は大したものだね≫
≫それが分かって何か意味があるのか?≫
≫意味はある。仮説の正しさを証明できればね≫
≫もう正しい前提で進めても良いんじゃ?≫
それは確かに。
≫証明する実験はもう考えてあるからね≫
≫マジか≫
≫ほう。さすが実験屋≫
≫へぇ、それでどんな実験なんだ?≫
≫その前に彼女に理解して欲しい事柄がある≫
その後も実験屋さんのコメントが続いた。
実験自体は『光を集める』ことだと言う。
私に理解して欲しいのは、この実験が仮説の証明になる根拠らしい。
その上で話を進めたいとのことだった。
≫『大気を通る光が散乱する』≫
≫という話は知っているかね?≫
「はい。なんとなくは知ってます。空が青い理由だった気がします」
≫ふむ≫
≫散乱するとき何が起きてるか分かるかね?≫
「分かりません。大気の分子が光を反射しているとかでしょうか?」
≫間違いではないね≫
≫では、原子を脳裏に思い描いて貰えるかな≫
原子を?
私の知っている原子の想像図を想像してみる。
「はい。思い浮かべました。原子核が真ん中にあり、その周りを雲のように電子が取り囲んでいます」
≫良いイメージだね≫
≫その原子に光が向かってくるとする≫
≫光は光子1個分として欲しい≫
「はい。光子1個が原子に向かってきています」
≫光子は粒ではなく波として考えて欲しい≫
「あ、粒で考えてました」
光子をさざ波のイメージへと改める。
「波が向かってくるようにイメージし直しました」
≫では、僕の言葉をイメージをなぞって欲しい≫
≫まず電子雲と光子の波が重なる≫
≫すると稀に光子が消える≫
≫光子が消えると電子雲の形が変化する≫
「はい。イメージしました」
≫直後にその雲は元の形に戻る≫
≫同時にランダムな方向へ光子が放出される≫
「雲の形が戻ると同時に光が放出されるってことですよね?」
≫その通りだ≫
「――あ、これが散乱で起きてることですか」
≫そうだ。これを電子と光子の相互作用という≫
≫復唱してみて欲しい≫
「電子と光子の相互作用」
≫もう1度≫
「電子と光子の相互作用!」
≫よろしい≫
≫なんだこれw≫
≫まあ、聞いただけだと忘れるからなw≫
≫今までの話の中で質問するが良いかね?≫
「大丈夫です」
≫まず僕の仮説が正しいということが前提だ≫
≫今話した散乱のどこに魔術が使えるかね?≫
「話してもらったイメージのどこに確率の部分があるかってことですよね? ちょっと考えさせてください」
≫ヒントを言うと2カ所ある≫
なるほど、2カ所か。
「1カ所は光子が電子に吸収される部分ですよね? もう1つは光子がランダムな方向に放出する部分ですか?」
≫その通りだ≫
≫正解ついでに、実験内容も分かるかね?≫
実験内容は光を集めること。
光の散乱の方向を操作するということだろう。
「はい、分かります。光子が放出される方向を魔術で操作するんですよね?」
≫短いが充分な説明だね≫
「ありがとうございます」
≫では、早速実験をやってみせて欲しい≫
「え、もうですか? 理解が充分とは思えないのですが……」
≫失敗した方が理解に繋がることもあるからね≫
失敗する前提か。
「分かりました。魔術の使い方を考えます」
よく考えたら光子も電子も見えないんだよな?
光子を見るのは無理だ。
でも、電子雲の形は衝突でなんとなく分かる。
形の変化も分かるんじゃないだろうか?
その一瞬で方向を決めてみるか。
「考えました。手順はこうです。まず電子雲の変化を『見』ます。その変化によって、電子による光子の吸収を確認します」
≫なるほど。良い考えだ≫
「直後に電子の出現位置を操作することで、光子が飛び出す方向を誘導するつもりです。完全に方向は決められませんが、ある程度は調整できると考えています」
≫ふむ。是非ともやってみて欲しい≫
「はい」
私は頭上の空間に手のひらを向けて集中した。
光子は太陽から降ってくるはずだから、狙うのは太陽と私の間の空間だ。
まずは、電子雲の形の変化を見る必要がある。
意識を分子全体に溶けさせて一体化した。
ただ、衝突の頻度が少ないからか、形の変化までは分からない。
ぶつかる頻度を増やせば見えるかも知れない。
すぐに空気の圧縮を始める。
その後も集中力の続く限り、形を見ようと試みた。
でも、形の変化までは見えない。
「ふー」
ダメだったか。
一度、間をおく。
≫どうしたんだ?≫
「はい。上手くいかなかったので、休んで頭を切り替えようかと」
≫どの辺が上手くいってないんだ?≫
「電子雲の形の変化の確認ですね。形そのものは分かるのですが、変化は全く見えませんでした」
≫光子は見えないのか?≫
「はい。光子もそうですが、正確に言うと電子もそのものは見えません。衝突を頼りに間接的に見ています」
≫へぇ、電子も見えなかったのか≫
≫あれ? でも、神経の電子は見えてるよな?≫
「そういえばそうですね……」
≫神経の電子はちょっと違うんだよなあ≫
≫そうなのか?≫
≫ああ、電子が流れてるんじゃないんだよ≫
≫例えだが、応援のウェーブってあるだろ?≫
≫ウェーブってあの立ったり座ったりって奴?≫
≫そうそう≫
≫あの感じで電子が伝わっているように見える≫
神経の電子ってそうだったんだ。
分かっていたつもりだったのに全然分かってなかったな。
言われてみると確かに、剣に電子を集める動きと神経を伝わる電子の動きは全く違う。
「神経の電子のことは知りませんでした。まだまだ理解してないことも多そうですね。至らぬことがあれば言ってください」
≫OK≫
≫素直なのは良いことだ≫
≫こういう所が成長に繋がるんだろうな≫
≫これで強いとか信じられんな≫
≫強い! かわいい! 素直!≫
「あ、ありがとうございます」
その後も持ち上げるようなコメントが続いた。
≫ふむ。一度、話の整理をするとしよう≫
≫現状、形はどのように確認しているのだね?≫
「間接的に形を見ています。あと空気を圧縮して衝突の回数を増やしてます」
≫見えてる衝突の回数はどの程度かね?≫
「圧縮して数十回といったところでしょうか」
≫ふむ。実に不思議だね≫
≫分子の衝突は1秒で数十億回のはずなのだが≫
≫それって分子1個の話?≫
≫ああ、そうだよ≫
数十億!?
それが数十回しか見えていない。
「私が見てるのは1億分の1の時間の世界ってことですか?」
≫そういうことになるだろうね≫
途方もなさすぎて言葉を失った。
≫もっとも君は既に分子が見えてるからね≫
≫分子も人が見える大きさの何億分の1だ≫
「そ、そうだったんですね……」
驚きっぱなしだ。
≫話を戻すことにしよう≫
≫電子雲の形の話だ≫
「はい」
≫形の変化についての質問をしよう≫
≫君は形の変化が何秒程度だと考えるかね?≫
「かなり短いということは分かりますが……。やっぱり何億分の1とかなんでしょうか?」
≫そうだね。10億分の1秒になる≫
また億の単位か。
あれ?
「でも、億の単位ってことは、1秒間の衝突回数と近いですよね? それなら形の変化が見えてもおかしくないと思うのですが」
≫それは僕も考えていた≫
≫見えないことには何か理由があるのだろう≫
≫形の変化を見るアプローチは保留にしようか≫
「もう少しだけ試させて貰えますか?」
≫ふむ。承知した≫
≫で、何を試すんだ?≫
「改めて気付きましたが私の知識が全く足りてないんですよね。なので、私が様子を実況しながらアイデアを募るというのはどうでしょうか?」
≫面白そうだな≫
≫アイリスの表現力が問われるな!≫
≫やってみようぜ≫
「ありがとうございます。他に意見がある人が居なければやってみます」
しばらく待ったけど、異論がある人は居ないみたいだ。
「では、いきます。コメントはあまり拾えないかも知れません。皆さんの力をお借りさせてください!」
≫OK≫
≫任せろ!≫
≫むしろ待ってた!≫
≫やっぱこれだよな≫
目を開けたまま、意識だけを空間に溶けさせる。
実況込みなので風景が映っていた方が良いはず。
「まず、空気を圧縮します。これでブラウン運動を激しくします。私からだと、分子が衝突してチカチカしているのは見えています。見えているというよりも感じられてると言った方が正しいかも知れません」
≫圧縮しても見た目はなんも変わらんな≫
≫そりゃ空気は透明だからな≫
≫向こうに何かあれば歪んで見えたかもな≫
「チカチカを拡大していきます。分子が認識できました。理解に現実が重なる感じでしょうか。上手く表現できません」
≫さすがに言葉で表現するのは無理じゃね?≫
≫見えてた訳じゃないことは分かった≫
≫原理が知りたいところだな≫
「窒素と酸素は区別がつきませんが、単一の原子のものと水分子は分かります。水分子よりも大きなものは二酸化炭素でしょうか。数は少なそうです」
≫単一の原子はアルゴンか?≫
≫だろうな≫
≫そういや中学んときに習った気がする≫
≫希ガスだけにな!≫
≫蛍光灯の中とかに使われてるやつね≫
確かに習ったかも。
≫水分子の形と様子を説明して貰えるだろうか≫
「分かりました。水分子に集中します」
意識をミッキーの形の分子に集中する。
「水分子を見る目安はミッキーの形をしているかどうかです。大きな球に耳のような小型の球が2つ付いている形ですね。実際はそこまではっきり見えません。光の位置でなんとなく形が把握できるというか」
≫イルミネーションみたいな?≫
「あ、そうです。お金を掛けてないイルミネーションが光ってる感じでしょうか」
≫言い方w≫
≫イメージは分かる≫
≫ところで、衝突以外の光は見えるかね?≫
「少し待ってください。見えるように調整します」
私は衝突のチカチカを無視するように意識した。
普段の生活ではこの瞬きを無視できている。
その上で小さな瞬きを意識した。
「見えました。輪郭の一部が自発的に輝いている感じですね。輝きは小さく、6等星みたいな感じでしょうか。じっと見ていると分かる程度です」
≫輪郭の一部って電子だよな? 輝いたっけ?≫
≫実際に光ってる訳ではないと思うぞ≫
≫電子が光子に反応してるのかもな≫
≫そこまで見えてて形の変化は見えないのか≫
「形の変化は全く感じられません」
≫相互作用するのって青色以上の光だろ?≫
≫そのせいでは?≫
≫確率が低いってことか≫
≫あり得るな≫
≫しかし『見える』条件が不明だな≫
≫まぁ、考察するには情報が少ないか≫
「基本的なことを聞いて良いですか? 相互作用するのが青色以上というのはどういうことでしょう?」
≫ふむ、良い機会だね。僕が話をさせて貰おう≫
「実験屋さんですね。お願いします」
一応、空気の圧縮は維持したまま応えた。
≫ああ。まず、空が青いのは何故だと思う?≫
「先ほどの話だと、散乱させてるからですよね? あ、そういうことですか。相互作用するのが青色以上の光なので、青が散乱してるってことですね。だから空が青く見えると」
≫そうそう≫
≫レイリー散乱のことだな≫
「青色以上ってことは、紫色とか紫外線も散らばるってことですか?」
≫そうなるね≫
≫なぜ青以上が散らばるのか理由が分かるかね≫
「いえ、検討もつきません」
≫紫外線が皮膚等に悪いのは知っているかな?≫
「はい」
≫あれはエネルギーが高いからだ≫
≫同様に赤よりも青の方がエネルギーが高い≫
「青色以上のエネルギーがないと、電子の軌道を変える力がないってことですか?」
≫そんなところだ≫
「つまり、青色以上の光子が電子に衝突すると取り込まれるってことですね」
≫衝突というイメージは少し違うね≫
≫確率が低すぎる≫
「確率が低いですか。電子は秒速1000kmくらいなので大丈夫かと思いましたけど、よく考えたら光子は光のスピードなので秒速30万kmなんでしたね。確かに衝突する確率は低そうです」
≫電子の速度なんてよく知ってるね≫
≫ほー、みんな秒速1000kmなのか?≫
≫いや、原子や軌道によって異なるよ≫
≫水素の電子なら秒速2200kmだね≫
≫そのくらい速いと認識しておけば問題ない≫
秒速2200km!
函館から鹿児島まで1秒で行けそう。
≫もう1つ伝えておくとしようか≫
≫原子がどれほど中身がないかの話だ≫
≫原子核が何かというのは知っているね?≫
「はい。陽子や中性子で出来てるのが原子核ですよね?」
≫その通り≫
≫原子核と原子のサイズの比率は分かるかね?≫
「いえ」
≫思いついた数値で良い。言ってみてほしい≫
イラストだと1対10くらいに思える。
でも、わざわざ聞いてくるんだから、もっとスカスカか。
さすがに1対1000ってことはないと思う。
「1対100くらいでしょうか?」
≫なるほど。残念だが異なる≫
≫一般的に1万倍から10万倍と言われてるね≫
10万倍!?
「そんなに差があるなんて思いませんでした」
≫1万と10万だと差が違いすぎないか?≫
≫原子核の大きさが正確に計れないのが原因だ≫
≫まぁ、絞り込めてるだけまだマシか≫
≫1対10000と言われてもピンとこないな≫
≫おおよそ太陽と太陽系の比率だね≫
≫マジか!≫
太陽と太陽系……。
原子ってそんなに中身スカスカなのか。
≫冥王星の最も遠い軌道までが1万倍の距離だ≫
≫カイパーベルトの外側だね≫
≫太陽が原子核なら、冥王星が電子か……≫
≫とんでもないスケール感だな≫
「それは衝突なんて起きませんね……」
≫イメージが掴めたようでなによりだ≫
「はい。衝突の確率がほとんどないことは分かりました。でも、それならどうやって光子と電子が相互作用するんですか?」
≫雰囲気だけは説明できるが、聞きたいかね?≫
「お願いします」
≫ふむ≫
≫では説明しよう≫
≫光が波というのは想像して貰った通りだ≫
≫その波の名前が電磁波だと知っているかね?≫
「いえ、知りませんでした。学校で習ったような気はします」
≫それで構わない≫
≫光はなぜ電磁波などという名前だと思う?≫
電磁波という名前の理由?
考えたこともなかった。
改めて考えてみたけど、分からない。
「すみません。分かりそうにありません。そもそも『電磁』の意味がよく分かっていません……」
≫謝る必要はない≫
≫質問で現状を確認しているだけだからね≫
≫あれだ。なんかカトーの副官モードに近いな≫
≫なるほど≫
カトー議員の副官モードか。
確かに、考え方をまとめたり別の視点を持たせて貰ったりするのに有用だった気がする。
こういう質問は知識を試されてる気がしてしまうけど、目的のために必要なことだと思おう。
≫話を戻そう≫
≫電磁波は言葉の通りだ≫
≫電場と磁場の波ということだね≫
≫要は2つの波と想像すれば良い≫
「2つの波ですね。分かりました」
≫では、電磁波のイメージを伝えよう≫
「はい。お願いします」
≫まず、鞭の波を想像して欲しい≫
「想像しました」
≫波全体は真正面から見ると|に見える≫
「はい。残像含めてってことですよね」
≫そうだね≫
≫この|を2つ重ねてXにしてみよう≫
≫重なっている部分は各々90°となる≫
「直角にクロスしているんですね」
≫ああ。このXが波打つ様を想像する≫
≫あくまで|が2本あるイメージでだ≫
「波は同時で鞭はぶつからないイメージで良いんですよね?」
≫それで良い≫
2本の鞭がぶつからずに同時に波うっていく様子を想像した。
「はい。想像できています」
≫おめでとう≫
≫この片方が磁場でもう片方が電場となる≫
≫合わせて電磁波だね≫
「そ、そうなんですか。電磁波がこんなイメージとは想像してませんでした」
≫人類の理論と実験の成果だからね≫
≫知識なしに正しく想像はできないはずだ≫
≫少々ズレるが小舟のオール的とも言える≫
「オールを2本同時に漕ぐことで進むわけですね。イメージが掴みやすいです」
電磁波のイメージが掴めてきた気がする。
≫電場と磁場って交互に伝わるんじゃないの?≫
≫そんな感じで習った記憶があるな≫
≫交互に伝わるというのは実際には異なるね≫
≫電磁ポテンシャルが電場と磁場を生み出す≫
≫電磁なんとかって数学的な概念じゃないの?≫
≫いや、電磁ポテンシャルは実在しているぞ≫
≫アハラノフ・ポーム効果として確認済みだ≫
≫ここには詳しい人たちが多いね≫
≫アイリス。今の話は忘れて良いからね≫
「わ、分かりました。ご配慮ありがとうございます。電場と磁場がXというので精一杯なので助かりました」
≫俺もw≫
≫一気にやっても身につかないからな≫
≫その通りだね≫
≫さて、もう一息だ≫
≫鞭の力の波を『場』に置き換えようか≫
「場、ですか」
≫場とは、他に影響を与える空間のことだ≫
「言われるとなんとなく理解できます」
≫場に関しては、それで構わないよ≫
≫超音波で汚れを落とす機械があるだろう≫
≫あのイメージで良い≫
≫ここまでの情報は理解できているかね?≫
「はい。理解しているつもりです」
≫では、僕が光子の動きをトレースしてみよう≫
≫分からないところがあれば言って欲しい≫
「分かりました」
≫まず、太陽から青色の電磁波が降ってくる≫
「はい」
≫電磁波の『場』の影響下に電子が入ってくる≫
≫その電磁波が電子に吸収される≫
≫電子の軌道が変わり、分子の形も一瞬変わる≫
≫一瞬=10億分の1秒後に電磁波を放出する≫
≫放出される方向はランダムだ≫
≫以上だね≫
「――よく分かりました。衝突ではなく、電磁波の『場』の影響で自ら吸収・放出されるんですね」
≫その通りだ≫
「電子に影響を与えてるのって電場と磁場の両方なんですか?」
≫電場だけだね≫
「そうなんですか。電磁波をXと見たとき、どっちが電場とかって決まってるんですか?」
≫ああ、右上から左下のものが電場だね≫
Xの右上が電場か。
≫光ってそういう形で留められるんだな≫
≫10億分の1秒とはいえ、光が遅くなるのか≫
≫蜃気楼ってもしかしてそれが原因?≫
≫光の遅れが大元の理由ではあるね≫
≫そうなのか。いろいろ影響してそうだな≫
≫ふむ。アイリスに質問してみるとしよう≫
「はい。なんでしょうか?」
≫水中で光が遅くなる話は知ってるかね?≫
「聞いたことはあります」
≫水中で光は秒速22.5万kmとなる≫
≫一方で、光速は一定の速さとも言われる≫
≫この話は聞いたことはあるかね?≫
「聞いたことがあります。――もしかして、これも光が電子に吸収・放出されて遅くなってるんですか?」
≫その通り。相互作用が原因だね≫
「想像したこともありませんでした」
≫俺も初めて知ったわ!≫
≫物理すげえな≫
≫光の見方が変わりそうだ≫
≫文字だけでもなんとかなるもんだな≫
≫良い教師に良い生徒だわ≫
≫物理の授業もこんな感じだったら良かったな≫
「良い教師というのはその通りですね。何か贅沢な気がします。ありがとうございます」
おかけでかなり掴めてきたように思う。
≫理解もイメージも充分のようだね≫
≫ここまでで気になるところあるかな?≫
「少し待ってください」
光を集めるシミュレートしてみる。
Xの波が――。
あれ?
「太陽から来るXって、向きは全部Xなんですか? +みたいな角度にはならないんでしょうか?」
≫それは良い質問だね≫
≫太陽光のような自然の光の角度はバラバラだ≫
≫Xが風車のように回転しながらも来ない≫
≫しかし、ランダムな角度で真っ直ぐに来る≫
「ありがとうございます。よく分かりました」
人工的には、角度を揃えたり回転できるように出来るんだろうなと考えつつ、そこには触れずにおく。
≫さて、そろそろ実験の再挑戦はいけるかね?≫
「――はい。いけます」
≫いよいよか≫
≫ドキドキしてきた≫
「いきます。まず太陽方向の空間を意識してみます」
目を閉じた。
意識を空中に向け、集中する。
「――え」
これまでと見えてる解像度が違う。
原子のスカスカさえも見えそうな鮮やかだ。
鳥肌が立つ。
分子の外郭――電子雲の部分を意識し、目まぐるしく変わるその様子を捉えた。
集中したまま、深く没頭していく。
意識が空間に溶け、分子のぶつかる様子が手に取るように認識できる。
酸素と窒素は区別できないけど、原子のみのもの、水、二酸化炭素っぽいものもはっきりと認識できる。
「これまでとは違う見え方です。解像度が高いです。理解が進んだからでしょうか? 分子の区別もつきやすくなっています。酸素と窒素は無理ですが」
≫理解が進むと見え方も変わるんだな≫
≫二酸化炭素集められたら無敵じゃね?≫
≫量ないから集めるの大変だろ≫
≫酸素と窒素の分子は区別つかないのか?≫
≫区別つけるには原子核を見る必要があるかも≫
「そうですね。酸素と窒素の区別の話は保留にします。では、改めて実験いきます」
ふと、マリカは酸素の原子核を見ているのではないかと思った。
でもそれは今考えることじゃない。
実験に集中しないと。
再び目を閉じ、意識を広げる。
空気を圧縮し、衝突が激しくなったことを確認し、更に集中していいく。
かなり長い間、集中していたが分子が大きくなる様子は確認できなかった。
視点を変え、電磁波の方を見ようとしてみる。
これもダメだった。
「結論から言うと、電磁波は見えませんでした。軌道も見えません」
≫マジかー≫
≫そう上手くいかないか≫
≫分子を通る電磁波の数が少ないのかねえ?≫
≫1つ確認しても良いか?≫
「なんでしょう?」
≫電子と電磁波の作用は見えるんだよな?≫
「はい。たぶんですけど。弱い輝きとして見えていると思います」
≫光を増やせば良く見えるんじゃないか?≫
「光子の数を増やせば、軌道ももっとはっきり見えるようになるかも知れないってことですか?」
≫そうそう≫
≫でも光を増やすってどうすんだ?≫
≫鏡使うとかレンズ使うとか……≫
≫準備が大変そうだな≫
「両方とも私では用意することが出来なさそうです……」
≫だよなあ≫
≫ふむ。やはりアプローチを変えてみようか≫
≫数回進展ない場合はやり方を変える方が良い≫
≫見切りが早いな≫
≫長年の経験則だね≫
≫で、アプローチを変えるってどんな風にだ?≫
≫そうだね。このやり方はどうだろう?≫
実験屋さんが提案してきたのは、軌道の変化を見ることを諦め、小さな輝きを全てコントロールしてしまおうというものだった。
「区別が付かないならまとめて対象にしてしまおうってことですか?」
≫そういうことになるね≫
「意識のコントロール自体は楽そうですね。手順が減りますし」
≫数は問題じゃないってことか?≫
「分子の数自体はコントロールに影響なさそうです。制約があるとすれば、範囲の方ですね。ちゃんと集中できる空間というか。慣れもありそうですけど」
≫なるほど≫
≫それで、実験屋の提案は実現できるのか?≫
「やってみます。まずは電子の輝きが抜ける方向を制御する感じで良いんですよね?」
≫その辺りは僕には見当つかないね。任せるよ≫
「分かりました。また実況しながらやってみます」
息を吐き、集中する。
「空気を圧縮します」
チカチカが増える。
「分子の衝突が増えました。ただ、1つの分子ごとの小さな輝きの数は増えてないですね」
≫1個辺りは電磁波を増やさないとダメだわな≫
≫空気の圧縮止めた方が良いのでは?≫
≫光を集めるなら圧縮してた方が良いだろ?≫
「そうですね。圧縮は維持します。比較的慣れてますし」
≫慣れてるなら良いか≫
「電子の小さな輝きに焦点を合わせながら、一気にその範囲を広げます」
こっちは慣れない作業なので慎重に行う。
「次に光を集めてみます」
≫待ってました!≫
≫頑張れ!≫
「まずは、電子の小さな輝きを一定の方向に導いてみました。ただ、この操作を行おうとすると、意識できる空間が狭くなりました。もう何回かやってみます」
宣言通りに何回か繰り返していく。
――うまくいかない。
「慣れてないからか、意識が広げたまま光を集められません。突風の魔術で円錐状にコントロールするときのやり方で行ってみます」
突風の魔術では、分子1つ1つを操作するのではなく、円錐の範囲の中にルールを設けていた。
今回は電子の瞬きを移動させる。
集中した。
空間に逆円錐を作り、その中にルールを……。
あれ?
「すみません。これも出来そうにありません。1つ1つの操作が出来ないのに全体のコントロールが出来るわけないんですよね」
≫そういうもんなのか?≫
「はい。文字が読めないのに、一目で文章を把握するような感じです」
≫そりゃ無理だな≫
≫まず1つの操作を出来るようにするのか?≫
「考え中です。電子の小さな輝きを1つだけ操作しても上手くいったかどうかが分かりにくいです。これは最後の手段にしたいですね」
≫実験屋はなんかアドバイスないのか?≫
≫難しいね。僕には見え方が分からないからね≫
「はい。もう少し私の方で考えてやってみます」
そのあと、いくつか試してみた。
空気を薄めてみたり、窒素と酸素だけを集めてみたり、電子の小さな輝きを反射させてみたり。
どれも上手くいかない。
「すみません。ダメみたいです。アプローチを変えた方が良いかも知れません」
≫アプローチを変えるってどうするんだ?≫
「少し考えさせてください」
限界まで圧縮してみようか?
ただ、このまま空中でやっていても仕方ない気もしている。
あれ? 空中? なら空中以外はどうだろう?
川を見た。
水中でやってみたらどうだろうか?
川はキラキラと光っている。
それを見て、急に閃いた。
思考する前に何かに確信する。
「別のアプローチを思いついたかも知れません。教えてください! 水面の反射ってもしかして水の電子が光子を散乱させる現象なんですか?」
≫ふむ。その通りだ≫
そうか。
「これから、水面に当たる光を私の方向に反射させます。これが実現できても実験は成功なんですよね?」
≫もちろんだ。大成功と言って良いだろう≫
「ありがとうございます」
≫これが別アプローチってやつか≫
≫よく思いつくな≫
言いながら私は集中していた。
身体の感覚が遠い。
水分子の動きは意識下にある。
形も良く見えた。
もう1度だけと思って形の変化を見ようとしてみる。
それでも見えない。
見えないなら、何か理由があるはずだ。
電磁波と電子。
量子論。
そして不確定性関係。
――そうか。
不確定。
小さな輝きは電子の位置が見えた瞬間だ。
他は不確定になっていてもおかしくない。
変化後も不確定かも。
「質問です。軌道変化した後の電子って不確定になっていると思いますか?」
≫なっていても不思議ではないね≫
≫僕も気付かなかったよ≫
≫変化を見るのは諦めても良いかも知れないね≫
「そうですね。私も諦める決心がつきました」
≫まだ諦めてなかったのかw≫
≫これで諦めついたから良いだろ≫
「はい。液体なら見えないかなと思って試してしまいました」
≫OK、OK≫
≫気持ちは分かる≫
≫で、川で光を反射させる実験するんだよな?≫
≫手順はどうするんだ?≫
「水分子の小さな輝きを、全てこちら側に移動させて反射させるつもりです」
≫非常に分かりやすいなw≫
≫結果も分かりやすいしな≫
≫うまくいくんじゃね?≫
≫なんか緊張してきた≫
「では、いきます。引き続き実況するのでお願いします」
私は意識を川の水面に溶けさせた。
「水分子の小さな輝きのみに集中しました。液体なだけあって、川全体が輝いています」
その川の水面に対して手をかざした。
「輝きを一気にこちら側に引き寄せます。軌道の範囲でです。輝きを移動させれば、光が出てくる場所もある程度コントロールできると期待しています」
理解をベースにイメージを投影した。
瞬間、水面が不自然な光り方を見せた。
いける!
でもまだ弱い。
≫来た?≫
≫なんか光が増したな≫
≫効いてるようにみえる≫
「私にも魔術が使えているように見えます。水面だけじゃなく、もっと川の底まで含めてコントロールします!」
川の流れも含め、意識を一体化させる。
その全ての瞬きを私に向ける。
カッ!
目の前が白くなった。
思わず、視界の前に手のひらをかざす。
光の圧。
何か熱さも感じたので、慌てて魔術を解いた。
≫うおっ!≫
≫キター!≫
≫眩しいと思ったがそんなことはなかったぜ≫
≫俺らは動画見てるだけだからなw≫
≫アイリスはまぶしかったっぽいな≫
≫成功したのか?≫
私は息を整えた。
「はい。成功したと思います」
≫よく分からんが上手くいったのならヨシ!≫
≫おめでとう!≫
「ありがとうございます。もう少し実験してみますね」
私はしばらく光の反射の方法を試行錯誤してみた。
近くの草に試したりもしてみた。
手のひらに光を集めると、かなり熱くなった。
ただ、草が燃えるレベルにはならない。
「思ったより光が弱いですね。草くらいなら燃えるかと思ったんですけど」
≫完璧に集められてないんじゃないか?≫
≫完璧ならアルキメデスの熱光線兵器になるな≫
≫なんだそれ?≫
≫連邦のソーラシステムみたいな感じの兵器だ≫
≫その例えだと分かる奴少ないだろw≫
≫太陽光を鏡で集めて船を燃やす伝説の兵器≫
「そんな兵器があったんですね」
≫いや、再現できてないから伝説にすぎない≫
≫まあ真偽不明ではあるな≫
「そうなんですか」
≫ところで、もう空気でもいけるのでは?≫
≫確かにな≫
「すみません。もうちょっとだけ川で試させてください」
≫OK≫
≫続けたい気持ちは分かる≫
≫あと少しっぽいからな≫
「問題は、小さな輝きを移動させてるだけで方向まで決められないところなんですよね」
≫そうなのか≫
≫方向って電磁波に戻ったあとの方向だよな≫
≫想像もつかんな≫
≫ベクトルのコントロールか≫
≫光は見えないんだろ? 難しいのでは?≫
「見えないものをどうイメージするかが難しいですね。ただ、漠然とイメージしただけだと光の量に変化はありませんでした」
それから、コメントでアイデアがいくつか出てきた。
イメージできそうなものを試してみる。
ただ、上手くいくものはなかった。
≫実験屋はなんかないのか? 得意分野だろ?≫
≫そうだね。手探りのコツで良ければ示そう≫
「お願いします」
≫一連の現象は時間を反転しても同じに見える≫
≫つまり、吸収を反転すると放出になる≫
「なるほど、ありがとうございます。吸収では電磁波で振動した電子が軌道を変えたというお話でした。ということは放出も振動が電磁波を生み出すことに繋がると考えて良いわけですね」
≫そうだ。理解が早くて助かる≫
「こちらこそ助かります」
振動か。
もしかして、小さな輝きが見えてれば振動を見てるのと同じなんだろうか?
「振動から電磁波が生まれるとイメージしてみます。そういえば、鞭のような波が出てくる想像はしてませんでした。Xのイメージも合わせてやってみます」
≫ふむ。良い試みだね≫
≫波の幅を変えて試行錯誤してみて欲しい≫
≫終わったら1つの鞭でも試して貰えるかな≫
Xじゃなくて|で試すってことだろう。
「分かりました」
私はまず2つの鞭のイメージで試してみた。
Xのイメージだ。
最初は光が強くなった感じがしなかったけど、波の幅をかなり細かくしたところで、光の強さが急激に増した。
倍以上に強くなった気がする。
≫お、更に明るくなったように見える≫
≫成功?≫
≫いや、でも草が燃えてないからな≫
「方向性は正しそうですね。次に1つの鞭のイメージでやってみます」
≫Xのときと同じくらいの明るさだな?≫
≫1つで良かったのか?≫
≫どういうこと?≫
「私も2つの鞭のときと同じくらいの明るさに見えました。何度か交互にやってみます」
私はなるべく連続するように2つの波と1つの波を交互に変更してみた。
≫変わっているように見えないな≫
≫うーむ≫
≫電場だけに反応するからか?≫
≫そういえばササラ電車はしてる?≫
≫波なら効果的だと思うんだが≫
「あ、してませんでした!」
波なら確かに道を作って導いた方が良い。
すぐ草に向けて実験する。
燃えないことを確認して手のひらに当てる。
「っ!」
熱くてすぐに耐えられなくなった。
でも、手は真っ白に光り確実に明るくなったように思う。
≫大丈夫か?≫
≫無理すんな!≫
「すみません。気をつけます」
≫明るくなったようには見えるな≫
≫近づいているけど確信ではない感じか≫
≫実験屋は何かないのか?≫
≫ふむ。アイリスの波の理解を高めてみようか≫
「まだ、まだ細かなイメージがあるんですね? よろしくお願いします」
≫それほど難しい話ではない≫
≫鞭が波を起こすときのことを考えようか≫
≫力は確かに波状に伝わっていく≫
≫しかし細かくみると様々な力の方向がある≫
≫力が合成されてあのように見えている訳だね≫
実験屋さんの伝えたいことはなんとなく分かる。
グラフのような綺麗な波ではなく、もっと乱雑な力と言いたいのだろう。
「分かりました。その考えを元にいろいろ試していきます。少し時間が掛かるかも知れません」
鞭の力の伝わり方とは違うんだよな?
魚群?
あれは進む方向が群になってるいるだけだから電磁波とは違うか。
「これまでの一番強いササラ電車のやり方と、新しいイメージを交互に試してみます」
一応、魚群のイメージで試してみよう。
≫何か少し光が強くなってる気がするな≫
「はい。私にもそう見えます。電磁波の電場を魚群のイメージにしてみました。想定では強さに変化がないはずでしたが、思っていたより良い結果でしたね」
≫面白いな≫
「やってみないと分かりませんね。方向性は近いと思いますのでもう少し他の方法も試してみます」
それから細かな力の向きを何パターンかイメージしてみたり、弦を弾いたようなイメージをしてみた。
でも、草を燃やすどころか焦げ付かせることも出来なかった。
他に波って何かあったっけ?
海とか?
私は空間自体が波打つイメージを合わせてみる。
≫おっ、来たか?≫
≫いや、まだ燃えてないな≫
「今のは空間自体が海の波になっているイメージを使いました。具体的なイメージではなかったんですが……」
具体的なイメージじゃなかった?
自分で言いながら気付いた。
もしかして波にも不確定性が働いているんじゃないだろうか?
そう考えて、雲のようなイメージと空間自体が波打つイメージを交互に使ってみる。
≫また明るくなったな≫
あとは波の高さや、雲の広がり具合も少しずつ変えて試した。
高さや広がりの『遊び』を少なくしすぎると、光が弱くなることもある。
カッ。
試行錯誤していると突然手応えがあった。
熱が伝わり、持っていた草に火がつく。
独特の煙の匂いもした。
「っと」
慌てて手を離し、創水の魔術で水を掛けた。
≫成功?≫
≫上手くいったのか?≫
「上手くいったかも知れません」
成功の実感の湧かないまま、細かく調整していったことを伝えた。
≫そんなことしてたのか≫
≫成功とみて良いんじゃないか?≫
「もう1度やってみます」
私は再び大きめの草を手に持ち、成功した配分で波を導いた。
また草が燃える。
今度は余裕があったからか、炎が上がったことまで見えた。
すぐに創水の水で火を消す。
「ちゃんと成功してたみたいです。皆さんのおかげですね」
≫いいってことよ!≫
≫最後の方は役に立ってないけどな≫
≫一定以上の液体があれば熱線が使えそう≫
≫液体だけじゃなく固体でも出来るのでは?≫
≫そういや、空気での集光は試さないの?≫
「あ、そうでした。空気でも試してみます」
今となってはそれほど難しいとは思わないから不思議だ。
私は頭上の空気を魔術の配下に置いた。
光を集める。
どうなるか分からないので、集めるのは1メートルくらい先の地面だ。
青っぽい光がスポットライトのようにその地面を照らした。
≫上手くいったな!≫
≫ひゃっほい!≫
≫出来るようになると簡単に見えるなあ≫
≫これで何が出来るようになるんだ?≫
≫そういやそうだな≫
≫いや、これは仮説を証明するための実験だろ≫
≫そうだった!≫
「そうですね。私も熱中するあまり目的を忘れていました」
≫実験屋よ、次は何すれば良いんだ?≫
≫ふむ。その前に1つ実験してみるとしようか≫
≫アイリス。ナイフは持っているかね?≫
「はい。あります」
私はナイフを抜いて、左目の前に刃を見せた。
≫助かるよ≫
≫金属上の電子の動き方は知ってるかね?≫
「はい。なんとなくは。電子の一部が原子の呪縛を離れ、金属全体を自由に動いてブラウン運動している感じですよね」
≫よく理解しているね≫
≫金属光沢は、その電子の動きが関係している≫
≫あの輝きは独特だろう?≫
≫自由に動く電子が反射してあの光沢になる≫
≫マジか≫
≫知らなかった……≫
「私も知りませんでした」
≫知らないことは恥ではない≫
≫教えられることはちゃんと教えるからね≫
≫質問があればしていつでもして欲しい≫
「ありがとうございます。分かりました」
≫まず、この魔術に名前を付けてくれるかね?≫
≫光の放射をコントロールした魔術のことだが≫
「あれに名前ですか……。光を操る、というのは少し大げさですね。どなたか案はありませんか?」
コメントで、光舞とか光射、光宙などの案が流れていく。
すぐに大喜利っぽくなっていった。
いくつかの中から、分かりやすい2文字を選ぶ。
「挙げていただいた案の中から独断で『光曲の魔術』を選びます。案を出してくれた皆さんありがとうございました」
≫分かりやすくて良いんじゃないか?≫
≫採用された!≫
≫おめ≫
≫ふむ。良い名前だ≫
≫ではナイフを用意して貰った理由を説明する≫
「はい。お願いします」
≫ナイフの刃はほとんど鉄で出来ているね≫
「はい」
≫光らせて相手の目をくらませるとか?≫
≫それも魅力的だが異なる。刃を透明にする≫
≫なに! 不可視のナイフだと!≫
≫どうやるんだ?≫
≫いや、考えてみれば難しくないぞ、これ≫
私にもなんとなく分かった。
電子に吸収された光子を真下に吐き出させれば良い。
いや、地面からの光の透過も必要かな?
金属の反射もあるから上下両方とも透過させた方がいいのかも知れない。
鉄部分の全てにこの操作を行えば水みたいな透明になることは想像できる。
「なんとなくやり方は分かりました。太陽と地面からの光を透過させれば良いんですよね? やってみます」
私は今言った操作をそのまま刃に行った。
電子こそランダムに動いているけど、電気を使う魔術で操作も見るのも慣れている。
≫うぉ!≫
≫マジで透明になった!≫
≫さすがに完璧とはいかないか≫
透明なプラスチックみたいな感じだ。
見えない訳じゃないけど、武器として使われるとかなり嫌だろう。
≫これ、剣や矢に使うとやべえぞ≫
≫ヒントだけで出来てしまうとはさすがだね≫
「ありがとうございます。応用範囲が広そうですね。もっと使いこなせれば、鉄製の盾や兜越しに相手が見えるかも知れません」
≫服にいかないのがさすがアイリス!≫
≫そんなことしたらBANされるからな?≫
≫自分自身を見えなくするとか出来ないのか?≫
≫単一の物質以外で行うのは難しいだろうね≫
「私自身に使うなら反射している光を無くす、くらいは頑張ればいけそうな気がします」
≫どういう意味だ?≫
≫身体から光が出ないようにするのか?≫
≫そうするとどうなるんだ?≫
≫アイリスが黒く見えるんだろ≫
≫夜、暗殺するときとかに便利そう!≫
≫殺伐とした便利さだな……≫
「応用についてはまた考えていくつもりです」
≫そういや、これ実験なんだっけ?≫
≫実験屋の仮説を証明できたってことだな≫
「そうですね。確かに魔術は不確定性関係に働きかけるというのが原理のようです。――少し怖いですね。この証明で魔術が根本から変わってしまいそうですね」
軽く試しただけで金属の透明化まで出来てしまった。
どこまでのことが出来るのか想像もつかない。
≫変わるという予感はある意味正しいだろうね≫
≫例をいくつか挙げるとしよう≫
≫ニュートリノを物体の全陽子にぶつける≫
≫それで物体は消滅するだろうね≫
≫自在にトンネル効果を起こせるなら≫
≫ミニ太陽を作り出すことが出来る≫
≫偽の真空説が本当なら宇宙も滅ぼせる≫
「宇宙を……」
話は理解できなかったけど、ゾッとした。
≫もちろん理解し『見え』ないと無理だろうね≫
≫安心して欲しい≫
≫怖ぇ!≫
≫完全に破壊神だな……≫
「分かりました。必要以上の力は求めないようにします」
≫脅かしすぎたようだね≫
≫さて。では地に足の着いた提案をしようか≫
「はい。お願いします」
≫どんな提案なんだ?≫
≫まとめサイトにもある突風の魔術の改良だね≫
「突風の魔術ですか?」
あれを改良?
となると、当然、不確定性関係を使って改良するのだと思う。
魔術の手順をトレースしながら考えてみたけど、どこを改良するのか分からなかった。
≫では説明するとしよう。準備は良いかね?≫
「はい」
≫君は今、衝突後の方向を操作しているね?≫
「そうです。分子同士がぶつかった瞬間にその方向を導いています」
≫それを衝突してない分子にも適用して欲しい≫
「衝突してない分子、というと飛んでる分子の方向を操作するってことですよね?」
まだ私の理解が追いついていない。
≫その通り≫
「飛んでる分子にも不確定性があるということですか?」
≫原則的には恐らくね≫
≫1つ質問して良いかな?≫
「もちろんです」
理解を深めるために私を導く質問だろう。
身構えずに返事をする。
≫分子は飛んでいるが位置も方向も不確定だ≫
≫この方向が確定するのはいつだと思うかね?≫
方向が確定する?
不確定性関係が働いているのに?
「飛んでいる分子の方向は確率的にしか表せない。その上での質問ってことですよね?」
≫そうだね≫
位置も方向も決まってないから不確定性なんだと思う。
方向が確定するチャンスなんてないのでは……。
≫考えはまとまってきたかな?≫
「まとまってきました。思いつかない方向で、ですけど」
≫ふむ。ではヒントを与えようか≫
≫シュレディンガーの猫を知っているかな?≫
「知っています」
箱を開けると生死が決まる猫の話だ。
開ける前は生死が重なっていると言われている。
多世界解釈なら猫が生きてる世界と死んでる世界の2つが存在する。
あれ? 開けると決まる?
「あ、なんとなく答えが分かりました」
≫分かるのかよ!≫
≫急・展・開≫
≫このあうんの呼吸よw≫
≫ヒントの与え方が上手い≫
「答えは、未来の衝突時に方向が確定する、ですね? 感覚的には信じられませんけど……」
≫正解だ≫
「答えておいてなんですが、因果関係が逆になることなんて本当に起きるんですか?」
≫因果が逆転でなく辻褄が合うと考えて欲しい≫
≫残念ながらこの理由は分かっていない≫
≫だが現代の量子論とはそういうものだ≫
言っていることは分かるが、受け入れられない。
「確認させてください。今起きたことによって、不確定だった過去の辻褄を合わせてしまう。これが量子論ということですか?」
≫そうだね≫
「――混乱してます」
≫それは仕方ない≫
≫かのシュレディンガーも拒んだ話だからね≫
≫アインシュタインもな!≫
≫猫の思考実験はまさに辻褄への反論だよな≫
≫それで量子論を捨てて生物学にいったからな≫
そ、そういう話だったのか。
「量子論がこれを受け入れているということは、正しいと証明されたと考えて良いんですよね?」
≫そうだね。実験で確認されている≫
≫確か数年前ノーベル賞になったんだよな?≫
≫2022年だね≫
≫6年前か。思ったより最近だな≫
≫アスペの実験自体は1982年だからな≫
半世紀近く前なのか。
聞いたこともないけど何か有名っぽい。
「分かりました。素人が口を挟む余地はなさそうですね。受け入れます。受け入れて魔術に生かすことに集中します」
≫良く言った!≫
≫アイリスが素人だからこっちも勉強になるな≫
「では、突風の魔術を『過去の辻褄が合う前提』で使ってみます」
いろいろ教えて貰ったけど、やることは簡単だ。
唐突している分子も、衝突していない分子もコントロールする。
それで世界は辻褄を合わせてくれる。
静かになった。
集中できている。
分子のチカチカが見えるけど、それも気にならない。
私が特に意識を向けるのはその隙間。
確信があった。
「いきます」
空高くに魔術を発動した。
ゴゥーッ!
同時に世界の全てが轟音で埋め尽くされた。
大量の水を浴びたような圧が、私の身体に降り注ぎ、思わず地面に伏せた。
嵐のような風が私の辺りに渦巻き、草や小石なども舞い上がる。
川は波立ち、まばらに居た人々は恐怖のためかしゃがみ込んでいた。
≫なんだよ、これ≫
≫成功と言って良いのか?≫
魔術の発動は伏せたときに止めている。
「せ、成功だと思います。威力に驚きましたけど」
≫おお!≫
≫おめでとう!≫
≫やったぜ!≫
≫しかし、なんだったんだ?≫
≫これまでの突風の比じゃねえな≫
「威力が高すぎて下手に使えませんね」
以前とはレベルが違う。
≫使う範囲を狭く絞ったらどうだ?≫
「そうですね。範囲は以前より絞りやすいので良いかも知れません」
≫大気のブラウン運動の速度は分かるかね?≫
「はい。確か風速500m/sくらいだったかと」
≫ふむ。それは核爆発の爆風より上だ≫
「え?」
≫広島型で風速440m/sとされている≫
≫音速以上なのだしこの威力も不思議ではない≫
≫音速ってどのくらいだっけ?≫
≫秒速だと340m/sだな≫
≫前の突風の魔術はここまでじゃなかったよな≫
「はい。以前の魔術との威力の違いについては、私も気になっています」
≫以前は衝突時に操作していただけだろう?≫
「そうですね」
≫そこに差があると思うのだがどうだろう?≫
「実際にやってみた方が早いですね」
以前の突風の魔術を使ってみた。
ゴーという音が空で鳴る。
全体の分子を観察しながら魔術を発動している。
その分子の動きはひどいものだった。
衝突した瞬間はいいけれど、すぐに別の分子に衝突している。
「流れがあるので強風になっていただけで、かなり分子がぶつかりあってますね。新しい突風の魔術と比べてどのくらい差があるのかは分かりませんけど」
≫音速は超えてなさそうに感じるね≫
≫ソニックブームは起きてなさそう≫
「そうですか。ゼルディウスさんと戦っていたとき真上からかなりの強風を当てていたつもりだったのですが、思ってたより弱かったみたいですね」
≫風速でどのくらいの風を当ててたつもりだ?≫
「風速は分かりませんが自分が浮く10倍以上の風を当てていたと思います」
≫そんなにか≫
≫無茶するなあ≫
≫風速300m/sくらいか≫
≫音速以内だし一応の説明は付くか≫
「あれ、人が浮くのって風速50m/sじゃなかったでしたっけ?」
≫アイリスの体格なら30m/sで充分だろ≫
≫それでも充分無茶だけどな≫
≫今後自分にぶつけるときは手加減してくれ≫
「分かりました。ありがとうございます」
新しい突風の魔術でもちゃんと練習しておこう。
「でも、考えてみたら以前の突風と違って発動させるのに距離も要らないし、発動までの時間差もないんですね」
≫だろうな≫
その場でいきなり突風になるはずだ。
慣れたら使い勝手が良いかも。
浸透する連撃も……と思ったけど今回は見送ろう。
「他にすぐに実現可能そうなアイデアとかってありますか?」
≫もちろんあるが大丈夫かね?≫
≫許容量を考え、次の機会と考えていたのだが≫
≫今、言っておいた方が良いぞ≫
≫配信が切れるかも知れないし≫
≫ふむ。そういうリスクもある訳か≫
≫最初の頃、一度切れたことがあったな≫
「アイデアがあるのなら、是非お願いしたいです」
≫承知した。では話すことにしよう≫
その後、実験屋さんはアイデアを語った。
まずは薄く広く水を生成したあとに真空で氷を作り、それに突風を当てる『散弾の魔術』。
2つ目、突風の魔術を使うことでソニックブームを発生させ、衝撃をぶつける『音撃の魔術』。
3つ目、上下もしくは左右両方から少しずらして突風の魔術を使うことによって、ハサミのように物体を切断する『風刃の魔術』。
「非常に参考になりました。私だけなら思いつきそうにもないアイデアです」
使うと危険そうな魔術だけど、だからこそ対怪物戦では使えそうだ。
もちろん、新しい突風の魔術単体でもかなりの戦力になるし。
≫しっかし名前まで考えてあるとはな≫
≫名称があった方が覚えやすいからね≫
確かに。
散弾に音撃に風刃か。
「配慮ありがとうございます。風刃の魔術はすぐにでも使えそうですね。近い内に大きな石を見つけて試し斬りしてみます」
≫試し斬りw≫
さすがに生きてる樹木で試す気にはなれない。
「散弾の魔術は、相手の上空から使うのがよさそうですね」
氷は真空にすれば出来るのだろうか?
試しに創水の魔術と防音の魔術を使ってみる。
頭上で雨粒くらいの水を生成し、広い範囲を真空にするとパラパラと氷の粒が落ちてきた。
やっぱり空気を減圧すると、冷やせるのか。
≫上空からの方が他への影響は少ないだろうね≫
「ありがとうございます。分かりました。氷は雨のような小さい粒で良いのでしょうか?」
≫お勧めは薄い板上の氷だね≫
≫その方が風の力を余すことなく使える≫
≫砕けて破片にもなる。殺傷能力も高いだろう≫
「説明ありがとうございます。分かりました。努力してみます」
≫破片てなにげに実験屋は怖いこと言ってるな≫
≫個人的には風刃が怖い≫
≫いつでも首落とせるからな……≫
≫アイリスだから良いけど他に教えられないな≫
≫他の人は量子論が理解できないから大丈夫≫
「音撃の魔術はイメージがつきませんけど、こちらも様子を見て身につけていきます」
≫君ならそれほど難しくはないだろうね≫
≫発生するソニックブームをどう使うかだけだ≫
≫広がり方さえ分かればあとは経験だね≫
「分かりました」
≫ソニックブームなら俺らでも答えられるな≫
≫使うなら原理も知っておいた方が良いだろし≫
「そのときはお願いします。情報量も多くなってきたので、まずは今日の話をしっかりと身につけます」
≫それが良いかな≫
「はい。特に散弾の魔術は、次の相手にも有効な気がします」
神の加護がある場合、突風だけだと防がれる。
でも、さすがに拳銃の弾丸並の氷は防げないだろう。
考えてみると、私はショットガンを撃てるようになった訳か。
怖いな。
今日の話をちゃんと理解して、実現できるように頑張ろう。
私は視聴者や実験屋さんにお礼を言って、ミカエルの邸宅に向かった。
≫飛ばないのか?≫
「今までと感覚が違いすぎて怖いのでちょっと……。慣れるまで、魔術で飛ぶのは止めておくつもりです」
こうして、私は歩いて帰ることになるのだった。
歩みを進めながら、やって来たときとは世界の見方が変わっているのを感じ取っていた。




