第33話
窓から空を見上げて溜息を吐いた。
何となく眠れる気がしなかった。眠れない夜。居間の窓から不安を掻き消す為に空に浮かぶ月を見上げる。月明かりはいつでもそこに在って、そして何事にも動じない。
少しだけ気分が落ち込んだ気がしてまた息を吐いた。風が吹いているのか草木の香りがこちらまで届いている。あの青臭い雑草の匂いだ。俺はそれを肺一杯に溜め込む。
何の事は無い。意味など無い。気が急いているのか、眠れない夜を意味無く持て余しているだけの事だ。しかしながら、こんな日は夢見も悪い。
そしてそれは――――三人娘も同じ事なのだろうと思う。
呻き声――――そう呻き声だ。俺の耳は遠くから聞こえる苦しそうな声を聞き取っていた。その声の主の元へと駆けつけようと居間からリビングへ、リビングから廊下へと飛び出した。
廊下に出ると呻き声は次第に大きくなる。廊下へと差し込む月明かりを頼りにして進む。
どうやら呻き声はフィオとミーシャの部屋から聞こえてくるらしい。フィオとミーシャの部屋の手前で俺は一度止まり、ノックをしつつ「入るぞ」と言ってドアを開いた。
「あああ、ああああぁ……うううぅう、あう……あああ」
電気も点いていない暗い部屋。
そこで苦しそうに呻き声を上げているのはミーシャだった。どうやら悪夢を見ているらしくベッドの上で寝返りを何度と無くうちながら、ずっと呻き声を上げ続けている。
よくある――何度と無く見た光景だった。
「……お兄様」
呻いているミーシャの横に不安そうな顔をしながらフィオが立っていた。
ミーシャの額に手を当てながら、尚呻き続けるミーシャを心配そうな目で見つめている。
「任せろ」
俺は一言、フィオに告げるとミーシャのベッドに潜る。そしてミーシャを強く抱きしめた。
頭を撫でるとふわっとした女の子然とした香りが鼻腔を通り抜けた。いつもならこれだけで俺が興奮を覚えてしまうであろう事は想像だにして難くないのだが……。
しかし今はミーシャを落ち着かせるのが先だ。
「……ああああ……うう、ぅううう……ごめん、なさい……ごめ、な……い……。ご、め……うぅ……うわああああ、ご、ごめん……ごめんなさい……」
「…………」
「……ううぅう、うううぅうう……ご、ごめ……ごめん……、ううう……生まれ……生まれて、きて…………ごめんなさい…………」
彼女は――ミーシャの言葉は俺の心を穿つには十分だった。
生まれてきて――――ごめんなさい。
何て――何て悲しい言葉。
「…………。大丈夫だ。大丈夫だよ、ミーシャ。お前は誰に謝る事も無い。お前を虐めていた母親はもういない……。お前の居場所はここであって、お前の全てを俺は受け入れてやる……。だから心配はしないでも良い……」
「うぅぅぅ……うう、うううう……あああ……あああ…………ごめ、ごめんなさい…………ううううぅう……わああ、あ…………」
俺はミーシャが落ち着いて、そして悪夢から解放されるまでずっと彼女を抱きしめた。
温もりが感じられるように――――人間らしい温かみを。
それでも暫くミーシャの辛い譫言は止まらなかった。
そんな言葉は俺の頭の芯から足の先まで突き抜けていく。
まるで全身がバラバラになるかのような思いだった。
俺はミーシャと出会って早五年にもなるが、こんな風に夜呻き声を上げる事は彼女にとってそう珍しくなかった。今でこそ何ヶ月かに一回と周期は減ったが、一時期はそれこそ毎日のように苦しそうな声を上げ続けた。
そんな時に決まって言うのは――――『生まれてきてごめんなさい』という言葉。
ミーシャは実の母親に虐待され続けて、最後には殺されかけたという過去を経験している。
俺が出会ったのはその後の事だったので、当時の様子がどうであったのか詳しい事を知らない。
知っているのはミーシャの父親は生まれてきた子供が新人類である事を知った直後、逃げるようにして母親とミーシャを見捨てた事。それを逆恨みした母親がミーシャを虐待し続けた事。そして虐待の末、殺されかけたところをミーシャは身を守る為に母親を殺してしまった事。
ミーシャはこの時、母親を殺してしまった事を何度と無く悔やんでいる。こうして何度と無く悪夢に見ては謝罪を繰り返している。もう五年間も母親の死から逃れられないでいる。
俺はミーシャのやった事は正当な事だと、そう思っている。当然だ。虐待され続けた末、殺されかけた。それを逆に殺してしまった。歴然とした自己防衛だ。
これを一体誰が責めようと言うのだろうか――――ミーシャが新人類で無ければ。
ミーシャがどうやって母親を殺したのか俺は詳しい事を知らない。けれども新人類ならば例え五歳だったところで現人類で言うところの成人男性くらいの力は出せる事だろう。
ならば我が子を虐待する事でしか心の拠り所を探せなかった弱くも醜い女。
そんな女を殺す事などそう難しい事では無かった筈だ。
母親を殺したミーシャは死罪と決められたらしい。本当ならば保護されるべきであるが『新人類』であるというだけで死ぬのが当然だと何度と無く罵声を浴びせかけられていたミーシャ。
そんな矢先、俺は彼女と出会った。
紆余曲折ありながらも俺はミーシャの身柄を預かる事になり、そして今に至る。
「…………」
すーすー、と寝息を立てて眠るミーシャ。目は厚ぼったく腫れている。枕は涙で濡れて、びちょびちょになっている。俺は予め準備してあった替えの枕をミーシャの枕と入れ替えた。
ミーシャ。こんなにも可愛い寝顔を浮かべる少女が何故こんなにも壮絶な過去を背負っているのだろう。どうして背負わなければならなかったのだろう。憤りを覚えずには居られない。
どうしてほんの少しでも優しく出来なかったのだろう。
新人類であるというだけで蔑まれなければならなかったのだろう。
全ては過去の事だ。俺がどれだけ怒ったところでミーシャのトラウマは拭えない。それが分かっているだけに俺は余計に悲しい気持ちになった。
「…………」
俺は無言の内にゆっくりとミーシャのベッドから出た。涙で濡れた枕を小脇に抱える。普通なら少女から出た体液なんてのは俺にとってご褒美だ。ただ今回ばかりは違う。
だって悲しさから出た涙なんて舐めても多分美味しくないだろうから。
「お兄様……」
「……フィオ。邪魔して悪かったな。ミーシャはもう大丈夫だ。後は大丈夫だろう」
「えと……その、お兄様」
「……何だ?」
俺はもじもじと何か言いたげな態度を見せるフィオを見て小首を傾げる。
フィオはちょこんと立ちながら枕を抱えてじっと俺を見つめている。そして口を開いた。
「……少しお話、しませんか? あの……フィオも、眠れないんです」
「……ああ。そんな事ならお安い御用だ」
俺は微笑みフィオの傍――彼女のベッドに腰かける。
「お、お兄様」
言い難い事を無理矢理言葉にするが如くフィオは俺を見上げた。
「うん? どうした、フィオ?」
「……あの、その。出来ればミーシャちゃんみたいにベッドで一緒にだと……嬉しい、です」
「そういう事は早く言いなさい!」
俺はすぐさまフィオを抱えて彼女のベッドへと潜りこんだ。
むっほー! フィオのベッド良い匂いすりゅ――――ッ! 心地ええ!!
…………まあ。そんなおふざけもそこそこにして。
「フィオもまだまだ子供だな。俺と一緒に寝たいだなんて……」
「ね、寝たい。そうです、寝たいです。フィオはお兄様と一緒にその……寝たい、です……」
俺の言葉を受けてフィオは赤面しつつ、言う。
まだまだ子供っぽく見られるのが恥ずかしい頃合いか。そういうのも堪らないです、はい。
「……お兄様」
「……うん」
「ミーシャちゃん、その、大丈夫だったです?」
「やっぱり気になるか?」
「ごめんなさいです。でも……家族、ですから」
フィオは家族、のところを殊更強調しつつ言う。
「…………。いつも通りだ。ミーシャの事情はお前も知るところだろう? アレを忘れる事なんて出来ないんだろう。……辛いんだろうな」
ミーシャの親を俺は許す事は出来ない。新人類が新人類であるだけで蔑みの対象である事は分かる。それは客観的には理解出来る。
自分と姿形が同じでも中身が違う奇妙さは筆舌し難いものがあるのだろう。
……でも、それが迫害して良い理由にはならない。決して。
ミーシャに癒えない傷を残した親を俺は絶対に――――許さない。
だがそれでも彼らはミーシャの親なのだ。替えようが無い繋がりを持った家族なのだ。どれだけ俺がミーシャの父親を自称しようとも、家族を自覚しようとも、……本物にはなれない。
それが俺にはとても悲しい。
「……ミーシャちゃんの事をフィオは本当の妹だと思っているです。例え血が繋がっていなくとも、何ら証明するものが無い形に出来ない関係性であっても……。フィオはミーシャちゃんの事を家族だと思い続けるです。……お兄様、それは間違っているですか?」
「……分からない。それは俺にも分からない。けれど傍に居る事は出来る。形に無くとも、証明出来ずとも一緒に居る事は出来る。……今はミーシャの傷が癒えるのを待つしか無いな。信じて待つ――――家族ってそういうものだろう?」
「…………分かったです」
フィオはこくんと頷く。
暫く沈黙が流れた。フィオは不安そうに俺の服の裾に手を掛けている。
「お兄様。一つ、訊いて良いですか?」
「……どんと来い」
「……ミーシャちゃんは本当の親に愛されていなかった。だから今も苦しみ続けているです」
「そうだな」
「――――フィオも」
「…………」
「フィオも――――そうなのですか? フィオもミーシャちゃんと同じでお母さんとお父さんに愛されてはいなかったのです?」
「そんな事は無い」
「……そうかも知れません。でも…………そうじゃないかも知れません」
「…………。お前と会ってからもう六年にもなるな」
俺は郷愁に浸るようにして、呟く。
フィオと会ったのは、とある奴隷商人の元での事だった。奴隷商人がフィオをどっかの馬鹿に売りつけようとする最中、俺が彼女をその数十倍の値段で『買った』のだ。
女の子をお金で買えるなんて俺はそんな自惚れを抱いてはいない。
そこまで奢り昂ぶってはいない。
しかしながら。もしも天秤に少女の命とお金を乗せられるとするのならば、それは当然命にその比重は大きく傾く筈だ。だからこそ俺はお金を惜しまなかった。
その時、卑しくも金を出して少女を買ってしまった俺に見せた少女――フィオの笑顔を俺は一生忘れないだろう。背徳感で身が焦がれそうになる最中、少女の笑顔をそれでも可愛いと思ってしまった自分の情けなさは今でも忘れ難いものになっている。
フィオはどういう経緯で自分が奴隷商人の元に居たのかを覚えていないらしい。
一応、奴隷商人にも尋ねてみたが、彼もフィオがどういう境遇の元からそこに居るのかをよく知らない、と言っていた。
「コイツ? 友人から安く『仕入れた』んですよ。新人類である以上要らない『物』だったんでしょう。その友人も誰かからたらい回しにされたらしいんで詳しい事はよく知りません。概ね家族にも棄てられたに違いない。コイツらは害虫よりも役に立たない存在なのですから」
――――そんな事を悪びれもせずに言っていた奴隷商人を俺は勿論ぶん殴ったがそれでフィオの出自が判明する筈も無く、結局はよく分からなかったというのが結論だ。
しかし俺にはフィオが親に愛されていなかったとはとても思えないのだ。
確かにフィオは新人類だ。愛してくれる人間の方がよっぽど少ないだろう。だが、それでも俺にはフィオが親から愛を受けていなかったとはとても思えない。
「お前と最初に会ったのは六年前――――その時点で奴隷商人以下、様々な薄汚い糞野郎の元を転々としていたんだ。そんな中で親の顔すら覚えていないのなら棄てられたと思っても無理は無い。愛を受けていなかった。そうフィオが思い込んでも仕方無いと思う」
「……そう、です……ね」
「でも。フィオ、俺はそうで無い可能性も少なからずあると思っている。お前の親は何らかの事情でお前を手放すしか無かったんだ。何かどうしようも無い理由でフィオと離ればなれになってしまった、少なからず俺はそう思っている。……どうしてだか分かるか?」
「…………」
フィオはかぶりを振った。不安げな目付きは俺を捉えて離さない。
俺はゆっくりと言葉を述べた。
「フィオ。フィオ―レ。お前の『名前』がその理由だ」
「……フィオの名前です?」
俺は頷いた。フィオの額を撫でる。
「『フィオ―レ』ってのは実のところ、西方のとある国の言葉で『花』って意味の言葉なんだ。『花』って言葉を憎らしい奴に付けるか? そんな事は無い。俺だったら可愛い我が娘が花のように可憐で居て欲しくて、そんな願いを込めて名付ける。だからフィオ、お前は誇っても良いんだよ。自身の名前と、そしてそれを名づけてくれた親を。だから心配するな」
――――自分でも何て根拠の無い事を言っているんだろうとそう思う。
確かに『フィオ―レ』という言葉は『花』って意味のある言葉だ。でもそんなのは偶々だ、と言われればそれまでだ。それ以上、返す言葉なんて見つからない。
どんな言葉だって他の国の言葉に当て嵌まれば違う意味が見つかるかも知れないのだ。俺達の住む地方で憎しみの意に使われる言葉であったところで、他の地方では褒める時に使う言葉である、なんて事よくある話だ。フィオが親に愛されていたという理由にはならない。
――――だが、それでフィオが安心するのなら。
フィオが安心して、笑顔で居られるならば。
俺は幾らでも嘘を吐こう。つまらなくも下らない、そんな大嘘なんて幾らでも口にしよう。
少女が笑顔で居られる事こそが嘘を吐く背徳感よりも、一層得られるものが大きいのだから。
「……そう、ですか」
フィオは一言そう言って、俺の背中に腕を伸ばした。
「ありがとう、です。そう言ってくれて……フィオを励ましてくれて、本当に嬉しいです」
「…………」
俺は同様にフィオの全身を包み込むようにして、抱きしめた。
白々しい言葉を吐いた後で何とも説得力が無いが、それでも俺はフィオが親に愛されていたというのは本当の事だと、そう思う。
だって――――こんなに可愛い娘を抱きしめないなんてそれこそ狂っているだろう?
柔肉の感触が俺の掌を優しく包む。うはー、たまんねえ。
「……お兄様。もう少し……もう少しだけ、このままで良いです?」
「望むところだ」
即答する俺。この柔肉の感触を一秒でも多く継続出来るのなら俺は神に祈ろう。
「お兄様。フィオの……フィオのお兄様。フィオはもしかしたらお父さんとお母さんに愛されていたのかも知れません。それは……嬉しいです。でも今はナナちゃん、ミーシャちゃん、メイド長様、そして――お兄様と一緒に居られる事が何より幸せなんです。ずっと、ずーっと一緒に居てくれますですか?」
「――――喜んで」
どうしてこの感触を味わった後でそんなお願いを拒否出来ると言うのだろうか。
断言する。俺には無理だ!
「……良かったです」
フィオは胸を撫で下ろしつつ、言った。
首元でたわわに育った胸が大きく揺れて、俺はごくりと喉を鳴らした。
「……お兄様。そろそろナナちゃんの元へ向かってあげて下さい」
「……ナナの?」
俺は興奮でさぞギラついているであろう目付きをどうにか抑え込みつつ疑問の声音を上げる。
「……分かるんです。ナナちゃん、今日は寂しがっているだろうな……って。あんな事が――――ユリちゃんとあんな形でお別れする事になって……一番辛いのは多分、ナナちゃんです。フィオ、ナナちゃんとは本当の家族じゃありませんですけど……。それでも長く仲良く付き合って来たので分かるようになったです。ナナちゃんはお兄様が来るのを待っているです」
「……それが分かる時点でお前らは本当の家族も同然だよ」
俺は嬉しそうに破顔する。フィオも嬉しそうな笑みを零した。
おやすみ。そう言って俺はベッドを出て、そしてドアを開けた。フィオが改めて上半身に布団をかけて、ベッドに埋もれた。
フィオ、ミーシャ。二人が良い夢を見られるよう祈りつつ、俺は彼女達の自室を後にした。




