君に残せるもの
碧と美雨は畑をしながら暮らし始めた。春から夏にかけて、二人は作物を植えた。
月に一度、管が喫茶店に訪ねてきた。様子見がてら美雨の薬を持ってくるため、二人は管のことを天使と呼んでいた。
「やめてくれよ。柄にもない」
管は決まって照れくさそうに頭を掻いた。
穏やかな日々も束の間、半年も過ぎない間に、美雨は一人で立つことがままならなくなった。
美雨は車椅子の生活を余儀なくされた。
「迷惑をかけてごめんなさい」
ため息をつこうとする美雨に碧は口を塞ぐようにキスをした
「ため息は幸せを逃がすよ」
「バーカ」
優しく微笑む碧の顔を見て、美雨も微笑んだ。
碧は工場などの仕事で貯めたお金を頭金に小さな喫茶店を開いた。
キッチンの高さ、カウンターなどほとんどのものが車椅子の美雨を基準に設計されていた。それがお年寄りにはちょうどいい具合になり、日中は少ないながらも人が途絶えることはなかった。
地元の人の協力で畑と喫茶店を両立できた。
「はい、碧ちゃん。畑で取れた野菜よ」
「ありがとう」
碧は野菜を受け取ると、キッチンに運んだ。そして、入れ替わるように美雨がお茶を差し出した。
「ありがとう、美雨ちゃん」
「いえいえ。こちらこそ」
いつも通りの会話が交わされる日々。しかし、隣で微笑む美雨の顔があるだけで碧はこの上ない幸せを感じていた。
夜になると、碧は美雨を風呂に入れた。そのとき美雨は決まって歌を聴かせた。美雨の歌は切ないものが多かった。
「その歌……」
「ん?」
「昔に作ったの?」
「うん」
美雨は死に向かう自分へ祈りを捧げるような歌を窓から見える月に向かって歌った。
「現在の想いを綴った歌を作ってよ。二人が出会って、幸せいっぱいの今の歌」
唐突な碧の言葉に美雨は首を傾げた。そして、一つ笑った。
「じゃあ、お互いに捧げる歌を作ろう」
「えっ……」
碧は当然歌など作ったことはなく、むしろ唄うことが苦手だった。
「余計なことを言ったな」
困った顔の碧を見て、美雨はフフフと笑った。
「勘弁してよ」
「だめ」
美雨があまりに優しく微笑むので、碧は渋々うなずいた。
「いつになるかわからないよ」
「うん。楽しみにしている」
二人の声は優しく響いていた。
風呂から上がると、二人は同じベッドで横になった。
美雨は眠ることを怖れた。
「大丈夫?」
「昔は単純に目が覚めないんじゃないかって怖かった。今はこの幸せが泡のようになくなること、あなたを一人にしてしまうことが怖い」
幸せな日が重なるにつれ、美雨は恐怖に怯えるようになった。
(僕が想いを告げなければ、美雨はこんな想いをせずに済んだのかな?)
体を震わす美雨を見て、碧はやりきれない気持ちになった。
「大丈夫。僕が必ず起こしてあげる。いつまでも傍にいるよ」
碧は美雨の手を握り、二人は寄り添い眠った。
数日後、薬を持って来るには少し早いくらいに管が訪ねてきた。そしてその面持ちがいつもと違った。
碧はこの表情を知っていた。それは菅が何かて言いにくいことを報告に来る時の表情だった。
「どうしたの?」
碧の顔が笑顔から強張っていった。
管は碧を喫茶店の外に連れ出した。美雨はその様子をカウンターの陰から見ていた。
管が口を開くと、碧はたちまち泣き崩れた。管はその場で膝をつくと強く碧の肩を抱き寄せた。
ただ事ではないことを感じた美雨は懸命に外へ出た。
「なに?」
瞳を潤ませる美雨を見て、管はゆっくりと立ち上がった。
「……」
管は口を開いたが、言葉にならなかった。
「碧のこと、よろしく頼むよ」
管はやっとの思いで言葉を発すると、美雨に持ってきた薬を手渡した。そして、早々に立ち去った。
去ってゆく管の肩は小さく震えていた。
美雨は碧の背中を擦った。碧は美雨の膝に泣きつくと、しばらく涙を流した。
店はすぐに閉めたが、美雨が事情を聞かされたのは夜であった。
「母さんが自殺したんだ」
美雨は一瞬で凍りついた。美雨は首をつって自殺したときの父親の姿を思い出していた。
美雨は碧を力強く抱きしめた。
「覚せい剤中毒だって。 ……菅さんがね、きっと本人も死ぬ気はなくて……」
「もういいよ」
今にも泣き出しそうな美雨の声を聞いて、碧はいっそう涙を溢した。
「僕のせいだ」
「そんなことはないよ。 ……そんなことない」
美雨は優しい声で言うと、いっそう強く抱きしめた。碧は弱々しいその腕をいつも以上に愛しく感じた。
二人は一晩中、寄り添っていた。互いに口を開くことがなく、鳴き始めの虫の音が月明りの下で静かに響き渡った。
管は暇さえあれば碧を訪ねてきた。
碧は明るく振舞ったが、何に対しても上の空な様子だった。
管と美雨は目を合わせると深く息をついた。
「やはり、言うべきではなかったかな」
「でも、いずれはわかることでしょう」
管と美雨は店の裏で話した。
「肝心なところで何もしてやれない。碧も母親も…… そして……」
管は空を仰いだ。
「そんなことないです。管さんがいなければ、今、この時はありません」
美雨も同じように空を見上げた。強い子だと菅は素直に感銘を受けていた。
秋を感じさせる肌寒い風が吹いた。
「さぁ、仕事に戻るよ」
管は美雨の肩に手を置いた。
「碧の傍に……」
「うん」
美雨は真っ直ぐな目でうなずいた。
管は安堵の表情を浮かべた。しかし、その瞳は悲しみに溢れていた。その理由は美雨もわかっていた。
管は背中を丸めて歩いていった。
「私の行いは残酷かな。二人の果ては見えているのに……」
強い風が吹き、草木が一斉にざわついた。
管は表情を強張らせた。
「神様、あんたのほうが余程残酷だ」
管は背筋を伸ばすと、しっかりとした足取りで歩いていった。
美雨は去っていく管の後ろを静かに見つめていた。
(私の残された時間で碧に何をしてやれるだろう?)
擦れあう葉音が聞こえた瞬間、美雨の脳裏にオレンジ色に輝く川、駆け回る女の子の風景が浮かんだ。
(あの時見た夢……)
美雨は自然と温かい気持ちになった。
美雨は店内に戻った。
お客相手に悲しい目をして笑う碧の姿に、美雨は目を伏せた。
(彼に残せるもの、それは……)
美雨の目蓋の裏に、黄金色に輝くススキが溢れた。
美雨の口元は緩んでいた。
「どうしたの?」
碧の声に美雨はクスッと笑った。
「ん?」
「ううん、なんでもない」
美雨は穏やかに微笑んだ。
閉店するとすぐに、碧は美雨を風呂に入れた。
美雨は少し明るめの歌を歌った。
「何かあった?」
碧は美雨の背中を流しながら尋ねた。
美雨は目を閉じると、一つ笑った。
「昔見た夢を思い出したの」
美雨はゆっくり目を開け、天井を見上げた。
「秋の夕暮れ、音を奏でるススキ、オレンジ色に輝く川、それでね……」
美雨の言葉を聞いた瞬間、碧には以前見た夢の風景が広がっていた。
「女の子が赤とんぼを追いかけるの」
碧の頬を涙が伝った。
(同じ夢を見ていたんだね)
背中を流す手が止まった。
美雨は碧のほうへ顔を向けた。
「君に残せるものを探したんだ。ずっと君の傍には居られないけれど、一生分の幸せを君にあげたい。一生繋がっていられる絆を結びたい。そうすれば、私も穏やかに眠ることができるから……」
美雨の声は柔らかく響いた。
碧の潤んだ瞳に映る美雨の姿は輝いた。
「家族を作ろう」
その言葉に碧はいっそう泣いた。
「でも……」
「大丈夫よ」
美雨は倒れるように碧に抱きついた。その体は湯気立っているのに冷たかった。
碧はこの儚く、愛するものを強く抱きしめ返した。
二人は風呂を上がると、寄り添いあった。
「僕は君に何もしてあげられないね」
声の調子を落とす碧に、美雨は何度も首を横に振った。
「もう、十分の幸せをもらったよ。 ……私、恋をしてよかった。人を愛せてよかった。今ではお母さんの気持ちがわかるの。私、生まれてこれてよかった」
二人は手を繋ぎ合うと、頬を寄せた。
「名前は華蓮にしよう」
碧の言葉に美雨はフフフと笑った。
「男の子でも?」
美雨が言うと、碧はハッとした。
「きっと女の子だから……」
「そうね」
二人は布団を頭までかぶると声を上げて笑った。
三ヵ月後、美雨は懐妊した。
医者からは無事に生める保障はできないと言われたが、美雨に後悔はなかった。
(この子は生んでみせる)
美雨は生涯で一番強く、穏やかな気持ちに包まれていた。そして、心は幸せに満ちていた。
碧と一緒に美雨が喫茶店に戻ると、店はお祝いの準備がされていた。
「碧、美雨ちゃん、おめでとう」
管の言葉をかわきりに、集まっていた人たちがお祝いの言葉を浴びせた。
二人は目を合わせると、照れくさそうに笑った。
テーブルは地元の人が持ち寄った料理とお酒で満たされた。
「ご両人飲もう」
「こらっ、美雨ちゃんに勧めるんじゃないわよ」
「さぁ、温かいうちに料理をお食べ」
人々の温かさがヒシヒシと伝わってきた。
「こんなに幸せな日が来るとは思わなかった」
涙ぐむ碧に美雨も思わず涙ぐんだ。
「まだまだ、これからだろう」
管は碧の頭を軽く撫でた。
お祝いは終始賑やかな雰囲気であった。
終盤に差し掛かると、碧は美雨を席の中央へ呼んだ。
「なに?」
美雨が尋ねると、碧は一度目を逸らした。赤くなった頬は酒のせいか恥らっているのか、わからなかった。
「もう、なに?」
美雨は再度笑いながら尋ねた。
「君が幸せを形にしてくれたから、僕も形のある幸せを渡したいと思ったんだ」
碧はポケットから箱を取り出した。
「結婚しよう」
碧の笑顔は、はにかんでいた。
美雨は心から幸せが溢れ出すのを感じた。表情はぱぁっと明るくなり、瞳に涙を溜めていた。
「いいの?」
「いいの」
碧は力強くうなずいた。
「はい」
美雨はくしゃくしゃな笑顔で答えた。
一瞬にして賑やかな雰囲気から穏やかな空気に変わった。
碧は指輪を取り出すと、美雨の左手薬指に付けた。
美雨は真っ直ぐ涙を流した。
「あらま。素敵」
「おい、写真を撮るぞ」
人々は碧と美雨を囲んで集まった。
碧は美雨の涙を拭うと、抱き上げた。
カシャっとシャッターの下りる音がすると、場は一斉に沸いた。
フィルムには皆が幸せそうに笑う姿が映っていた。
碧と美雨は畑をしながら暮らし始めた。春から夏にかけて、二人は作物を植えた。
月に一度、管が喫茶店に訪ねてきた。様子見がてら美雨の薬を持ってくるため、二人は管のことを天使と呼んでいた。
「やめてくれよ。柄にもない」
管は決まって照れくさそうに頭を掻いた。
穏やかな日々も束の間、半年も過ぎない間に、美雨は一人で立つことがままならなくなった。
美雨は車椅子の生活を余儀なくされた。
「迷惑をかけてごめんなさい」
ため息をつこうとする美雨に碧は口づけをした
「ため息は幸せを逃がすよ」
「バーカ」
優しく微笑む碧の顔を見て、美雨も微笑んだ。
碧は工場などの仕事で貯めたお金を崩し、小さな喫茶店を拓いた。
キッチンの高さ、カウンターなどほとんどのものが美雨を基準に設計されていた。
地元の人の協力で畑と喫茶店を両立できた。
「はい、碧ちゃん。畑で取れた野菜よ」
「ありがとう」
碧は野菜を受け取ると、キッチンに運んだ。そして、入れ替わるように美雨がお茶を差し出した。
「ありがとう、美雨ちゃん」
「いえいえ。こちらこそ」
客といえば畑でお世話になっている人、無駄に長い雑談を繰り返す老人ばかりであった。それでも、隣で微笑む美雨の顔があるだけで碧はこの上ない幸せを感じていた。
夜になると、碧は美雨を風呂に入れた。そのとき美雨は決まって歌を聴かせた。美雨の歌は切ないものが多かった。
「その歌……」
「ん?」
「昔に作ったの?」
「うん」
美雨は死へ向かう自分に祈りを捧げるような歌を窓から見える月に向かって歌った。
「現在の想いを綴った歌を作ってよ」
唐突な碧の言葉に美雨は首を傾げた。そして、一つ笑った。
「じゃあ、お互いに捧げる歌を作ろう」
「えっ……」
碧は歌など作ったことはなく、困った顔をした。
「余計なことを言ったな」
美雨はフフフと笑った。
「勘弁してよ」
「だめ」
美雨があまりに優しく微笑むので、碧は渋々うなずいた。
「いつになるかわからないよ」
「うん。楽しみにしている」
二人の声は優しく響いていた。
風呂から上がると、二人は同じベッドで横になった。
美雨は眠ることを怖れた。
「大丈夫?」
「昔は目が覚めないんじゃないかって怖かった。今はこの幸せが泡のようになくなること、あなたを一人にしてしまうことが怖い」
幸せな日が重なるにつれ、美雨は恐怖に怯えるようになった。
(僕が想いを告げなければ、美雨はこんな想いをせずに済んだのかな?)
体を震わす美雨を見て、碧はやりきれない気持ちになった。
「大丈夫。僕が必ず起こしてあげる。いつまでも傍にいるよ」
碧は美雨の手を握り、二人は寄り添い眠った。
いつものように管が訪ねてきた。しかし、いつもと面持ちが違った。
「どうしたの?」
碧の顔が笑顔から強張っていった。
管は碧を喫茶店の外に連れ出した。美雨はその様子をカウンターの陰から見ていた。
管が口を開くと、碧はたちまち泣き崩れた。管はその場で膝をつくと強く碧の肩を抱き寄せた。
ただ事ではないことを感じた美雨は懸命に外へ出た。
「なに?」
瞳を潤ませる美雨を見て、管はゆっくりと立ち上がった。
「……」
管は口を開いたが、言葉にならなかった。
「碧のこと、よろしく頼むよ」
管はやっとの思いで言葉を発すると、美雨に持ってきた薬を手渡した。そして、早々に立ち去った。
去ってゆく管の肩は小さく震えていた。
美雨は碧の背中を擦った。碧は美雨の膝に泣きつくと、しばらく涙を流した。
店はすぐに閉めたが、美雨が事情を聞かされたのは夜であった。
「お母さんが自殺したんだ」
美雨は一瞬で凍りついた。
(そんな……)
美雨は首をつって自殺したときの父親の姿を思い出した。
美雨は碧を力強く抱きしめた。
「覚せい剤中毒だって。 ……菅さんがね、きっと本人も死ぬ気はなくて……」
「もういいよ」
今にも泣き出しそうな美雨の声を聞いて、碧はいっそう涙を溢した。
「僕のせいだ」
「そんなことはないよ。 ……そんなことない」
美雨は優しい声で言うと、いっそう強く抱きしめた。碧は弱々しいその腕をいつも以上に愛しく感じた。
二人は一晩中、寄り添っていた。互いに口を開くことがなく、鳴き始めの虫の音が静かに響き渡った。
管は暇さえあれば碧を訪ねてきた。
碧は明るく振舞ったが、何に対しても上の空な様子だった。
管と美雨は目を合わせると深く息をついた。
「やはり、言うべきではなかったかな」
「でも、いずれはわかることでしょう」
管と美雨は店の裏で話した。
「肝心なところで何もしてやれない。碧も母親も…… そして……」
管は空を仰いだ。
「そんなことないです。管さんがいなければ、今、この時はありません」
美雨も同じように空を見上げた。
秋を感じさせる肌寒い風が吹いた。
「さぁ、仕事に戻るよ」
管は美雨の肩に手を置いた。
「碧の傍に……」
「うん」
美雨は真っ直ぐな目でうなずいた。
管は安堵の表情を浮かべた。しかし、その瞳は悲しみに溢れていた。その理由は美雨もわかっていた。
管は背中を丸めて歩いていった。
「私の行いは残酷かな。二人の果ては見えているのに……」
強い風が吹き、草木が一斉にざわついた。
管は表情を強張らせた。
「神様、あんたのほうが余程残酷だ」
管は背筋を伸ばすと、しっかりとした足取りで歩いていった。
美雨は去っていく管の後ろを静かに見つめていた。
(私の残された時間で碧に何をしてやれるだろう?)
擦れあう葉音が聞こえた瞬間、美雨の脳裏にオレンジ色に輝く川、駆け回る女の子の風景が浮かんだ。
(あの時見た夢……)
美雨は自然と温かい気持ちになった。
美雨は店内に戻った。
お客相手に悲しい目をして笑う碧の姿に、美雨は目を伏せた。
(彼に残せるもの、それは……)
美雨の目蓋の裏に、黄金色に輝くススキが溢れた。
美雨の口元は緩んでいた。
「どうしたの?」
碧の声に美雨はクスッと笑った。
「ん?」
「ううん、なんでもない」
美雨は穏やかに微笑んだ。
閉店するとすぐに、碧は美雨を風呂に入れた。
美雨は少し明るめの歌を歌った。
「何かあった?」
碧は美雨の背中を流しながら尋ねた。
美雨は目を閉じると、一つ笑った。
「昔見た夢を思い出したの」
美雨はゆっくり目を開け、天井を見上げた。
「秋の夕暮れ、音を奏でるススキ、オレンジ色に輝く川、それでね……」
美雨の言葉を聞いた瞬間、碧には以前見た夢の風景が広がっていた。
「女の子が赤とんぼを追いかけるの」
碧の頬を涙が伝った。
(同じ夢を見ていたんだね)
背中を流す手が止まった。
美雨は碧のほうへ顔を向けた。
「君に残せるものを探したんだ。ずっと君の傍には居られないけれど、一生分の幸せを君にあげたい。一生繋がっていられる絆を結びたい。そうすれば、私も穏やかに眠られる」
美雨の声は柔らかく響いた。
碧の潤んだ瞳に映る美雨の姿は涙で輝いた。
「家族を作ろう」
その言葉に碧はいっそう泣いた。
「でも……」
「大丈夫よ」
美雨は倒れるように碧に抱きついた。その体は湯気立っているのに冷たかった。
碧は儚く、愛するものを強く抱きしめ返した。
二人は風呂を上がると、寄り添いあった。
「僕は君に何もしてあげられないね」
声の調子を落とす碧に、美雨は何度も首を横に振った。
「もう、十分の幸せをもらったよ。 ……私、恋をしてよかった。人を愛せてよかった」
二人は手を繋ぎ合うと、頬を寄せた。
「名前は華蓮にしよう」
碧の言葉に美雨はフフフと笑った。
「男の子でも?」
美雨が言うと、碧はハッとした。
「きっと女の子だから……」
「そうね」
二人は布団を頭までかぶると声を上げて笑った。
三ヵ月後、美雨は懐妊した。
医者からは無事に生むことができる保障はできないと言われたが、美雨に後悔はなかった。
(この子は生んでみせる)
美雨は生涯で一番強く、穏やかな気持ちに包まれていた。そして、心は幸せに満ちていた。
碧と一緒に美雨が喫茶店に戻ると、店はお祝いの準備がされていた。
「碧、美雨ちゃん、おめでとう」
管の言葉をかわきりに、集まっていた人たちがお祝いの言葉を浴びせた。
二人は目を合わせると、照れくさそうに笑った。
テーブルは地元の人が持ち寄った料理とお酒で満たされた。
「ご両人飲もう」
「こらっ、美雨ちゃんに勧めるんじゃないわよ」
「さぁ、温かいうちに料理をお食べ」
人々の温かさがヒシヒシと伝わってきた。
「こんなに幸せな日が来るとは思わなかった」
涙ぐむ碧に美雨も思わず涙ぐんだ。
「まだまだ、これからだろう」
管は碧の頭を軽く撫でた。
お祝いは終始賑やかな雰囲気であった。
終盤に差し掛かると、碧は美雨を席の中央へ呼んだ。
「なに?」
美雨が尋ねると、碧は一度目を逸らした。赤くなった頬は酒のせいか恥らっているのか、わからなかった。
「もう、なに?」
美雨は再度笑いながら尋ねた。
「君が幸せを形にしてくれたから、僕も形のある幸せを渡したいと思ったんだ」
碧はポケットから箱を取り出した。
「結婚しよう」
碧の笑顔は、はにかんでいた。
美雨は心から幸せが溢れ出すのを感じた。
「いいの?」
「いいの」
碧は深くうなずいた。
「はい」
美雨はくしゃくしゃな笑顔で答えた。
一瞬にして賑やかな雰囲気から穏やかな空気に変わった。
碧は指輪を取り出すと、美雨の左手薬指に付けた。
美雨は真っ直ぐ涙を流した。
「あらま。素敵」
「おい、写真を撮るぞ」
人々は碧と美雨を囲んで集まった。
碧は美雨の涙を拭うと、抱き上げた。
カシャっとシャッターの下りる音がすると、場は一斉に沸いた。
フィルムには皆が幸せそうに笑う姿が映っていた。