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君が好き  作者: 川本流華
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誕生日

 碧が退院して三ヶ月が経った。

 秋が深まり、冷たい風が冬の足取りを感じさせた。

 碧は毎日朝から夕方まで工場で働き、面会時間ギリギリの二時間ほど会うために美雨のいる病院へ駆けつけた。そして、面会時間が終わると、今度は喫茶店で働いた。

 碧は将来美雨と喫茶店でも営みながらノビノビ過ごす生活を夢見ていた。しかし、碧の想いを打ち砕くように美雨の病気は少しずつだが悪化していった。

 美雨の身体は痩せ、少し小さくなった。

 二人は会う度に些細な話でも大げさに笑いあった。しかし、その声はどこか二人を悲しくさせた。

それからさらに数か月が経った。

 美雨の誕生日が近づき、これを機に碧は不穏な空気をいっそうしたいと思っていた。

「来週の誕生日、何か欲しいものはない?」

碧は美雨の顔を覗き込んだ。しかし、美雨は微笑みながら首を横に振るだけであった。

「何にもいらないよ」

その言葉に碧はあからさまに不満を浮かべた。

「でも……」

「わかった。考えておく」

美雨は表情を曇らせる碧を見て、フフフと笑った。

「うん。よろしく」

碧は穏やかな顔に戻っていた。

 喫茶店が休みの日、碧は面会時間を過ぎると、真っ直ぐ菅夫妻の待つ家へと帰っていった。

 菅の家で同居している碧は実の息子のように可愛がられた。碧はその思いに応えようと、一つでも多くの孝行を心がけた。食事は一緒にとり、後片付けを一緒にしたり、肩を叩いたり、自分の母親に出来なかった分も一杯行った。

生活費を入れると言っても菅は受け取らなかった。碧はいつか自分の母親と菅夫妻に恩返しできるよう、貯金をしていた。

 団らんな時間を過ごし、何気ない会話をしながら、夜が更けていった。

 穏やかに過ぎる時間に碧は幸せを感じていた。


 休日は朝から夕方まで美雨と一緒のときを過ごした。

 美雨は体に負担が掛からないよう車椅子に乗って生活するようになった。

「まだ歩けるよ」

「うん、わかってる」

碧は落葉が舞う病院の周りを歩いた。

 美雨の顔色が優れないように感じた碧は車椅子を止めた。

「どうかした?」

「ううん。少し疲れているだけ」

美雨は優しく微笑むと、静かにうつむいた。

(気を遣わせているのかな)

ここのところ毎日訪ねてきていたので、碧は美雨の負担になっていないか心配になった。

 美雨は碧の想いを察すると、少し悲しい目をした。

「もう戻ろう。少し休みたい」

「あっ、うん」

碧は慌ててうなずいた。

 車椅子の中で美雨は眠っているようだった。碧は時折声を掛けたが、簡単な返事が返ってくるだけであった。

 病室に戻ると、美雨はすぐに眠ってしまった。

 ベッドに入る前に、ごめんなさい、と一言つぶやいた美雨の横顔が碧の胸を締め付けた。

(謝らないで)

好き合ってから二人の距離が遠退いたように感じた。それは互いが寂しくならない様に準備をしているようだった。

(いつまでも傍にいたいよ。ずっと、近くに……)

碧は美雨の手を額に当てると、祈るように目を閉じた。

 トクン、トクン、美雨の脈が優しい音を立てた。

 美雨の温もりを感じながら、碧は寄り添い、眠った。


『パパ、ママ、トーボがいる』

『ああ、赤トンボだね』

ススキがサラサラと音を立てる中、少女は赤トンボに手を伸ばし駆け出した。碧はその少し後ろを歩いた。

 秋の夕暮れは川をオレンジ色に輝かせた。

『華蓮、転ぶわよ』

優しい声が聞こえるほうへ碧は振り返った。そこには、黄金色に輝くススキに負けないほどの眩い笑顔の美雨が立っていた。

 碧は少し立ち止まると、美雨が自分のもとに来るのを待った。そして、二人は手を繋いだ。

『華蓮もすぅ』

華蓮は二人の間に入った。

 碧と美雨は目を合わせると、穏やかに微笑んだ。


 碧は目を覚ますと、ゆっくり体を起こした。

 体には毛布が掛けられていた。

 美雨のほうへ目を遣ると、美雨の頬を涙が伝っていた。

「美雨?」

碧は不安げな面持ちで美雨の涙を拭った。

 夢とは違い、自力で歩くこともままならなくなった美雨の姿を見て、碧は涙を浮かべた。

「……」

美雨はうわ言をつぶやいた。

 碧は耳を傾けたが、うまく聞き取ることはできなかった。

(どんな夢をみているのかな? 同じ夢ならどんなに幸せだろう。 ……そんな偶然ないよね)

おそらく美雨は自分の子供と手を取り合い、歩くことはない。夢でしか描けない幸せに、碧は涙を溢した。

 これ以上美雨の顔を見ていると、切なさに全身が締め付けられる気がした。

「……もう、帰るね」

碧は震える声で眠っている美雨に囁いた。

「ウッ……」

碧が病室を出ようとすると、美雨がのどを詰まらせたような声を出した。

 碧が慌てて顔を覗くと、美雨はうまく呼吸ができない様子だった。

「美雨?」

碧は急いでナースコールを押した。

「美雨」

看護婦が駆けつけるまで、碧は必死に名前を呼び、背中をさすり続けた。

 美雨は集中治療室へと運ばれた。碧は面会謝絶の病室前で小一時間ほど祈るように手を合わせていた。

「神様、美雨を助けて。あなたからすれば簡単な願いでしょう」

何人の人がしただろうか、その願いに看護婦は悲しそうにうつむいた。

 それから数時間経っても美雨は出てこなかった。

「碧くん、今日は帰りなさい。何かあったら連絡してあげるから」

看護婦はうつむき、祈る碧の肩を抱くと、優しく身体を起こした。

 碧は促されるまま、病院を後にした。

 その夜、看護婦から連絡が入ることはなかった。

 手術は次の日の朝に終わった。美雨は危険な状態からは抜け出したが、集中治療室で過ごした。

 碧は仕事を休み、毎日病院へ通った。

(美雨)

部屋に入ることが許されない碧は、部屋の外で祈りを捧げた。


 美雨が意識を取り戻したのは、三日後。集中治療室を出たのは八日後であった。

 二人で祝うはずの美雨の誕生日は無常にも過ぎていった。

 美雨は病室の窓から見える星を数えていた。終始悲しい顔を浮かべていたが、何かを決めたように小さくうなずいた。

 美雨が意識を戻した翌日から、碧は仕事に復帰した。

 強引に休みを取った碧に対して工場では解雇の処分が下りかけたが、管が何度も頭を下げることで免れた。

「ごめんなさい」

碧は迷惑を掛けたすべての人に言って回った。

 仕事を終えた碧は急いで美雨の病室へと向かった。しかし、病室に美雨の姿はなかった。

「美雨……」

碧は不安に駆られて、病院中を探し回った。

 診察室からふと現れた美雨を碧は思わず手を握った。

「どうしたの?」

「また、具合悪いの?」

碧は今にも泣き出しそうな顔だった。

「いなくならないで」

「ふふっ、子供みたい」

美雨は優しく微笑むと、碧の頭を撫でた。

 二人は美雨の病室へ戻った。

 美雨は碧の顔をまじまじと見た。

「何?」

「……私ね。退院することにした。さっき先生にも許可をいただいたわ」

突然の言葉に碧は目を丸くした。

「良くなったの?」

碧の問いに、美雨は静かに首を横へ振った。

「そう、だよね。でも、それならどうして?」

退院の許可が下りた理由がわからなかった。嘘をついているのかと疑ったが、美雨の表情を見る限りそれはない様子だった。そもそも美雨は碧に嘘をつくことがなかった。

 美雨は終始穏やかな顔であった。

「過ぎてしまったけれど、誕生日プレゼントが欲しい」

美雨の言葉に碧は顔をあげた。

「うん。いいよ」

「限られた時間、あなたと一緒に過ごしたい」

差し込む夕陽が美雨の潤んだ瞳を輝かせた。あまりに切ないその表情に碧は目をそらした。

「過ごせるよ。病気が良くなったら」

美雨は黙って首を一つ傾けた。

「今だって、入院していたって一緒の時間を過ごせているじゃないか」

美雨は首を横に振った。

「もっともっと、一秒でも長く、好きな場所で二人一緒に居たいの」

美雨は碧の目を真っ直ぐ見つめた。すると、碧は堪らずうつむいた。

 夕陽が二人を穏やかに包んだ。二人は言葉を発することなく、その温かさを感じた。

 音のない部屋で時間だけが過ぎていった。

 碧は窓から傾く夕陽を見つめた。一秒でも長く生きていて欲しいという碧の想い、一秒でも長く傍にいたいという美雨の、二人の想い。二つを抱えて何が一番大切かを考えた。

(ずっと傍で笑っていて欲しい)

最後に碧の心を決めたのは、当たり前の想いだった。

「一緒に暮らそう」

碧のまっすぐな目を見て、美雨は涙を流した。

「ありがとう」

美雨は張り詰めたものが切れたように、安堵の表情を浮かべていた。

(ごめん、無理をさせたね)

碧は美雨を強く抱きしめた。

 夕陽は静かに沈んでいった。


 美雨は自然が豊かな場所での暮らしを希望した。

 碧は管に事情を説明すると、田舎にアパートを借りた。

 引越しをする前日、碧は美雨から、もう長く生きられないことを告げられた。

「あとどのくらい?」

「一年程度って言われた」

「……そう」

美雨の目に迷いはなかった。その目を見て碧は心を強く持とうと決めた。

「一秒でも長く……」

「うん」

美雨はくしゃくしゃな笑顔で答えた。

 二人は病院で少し多めの薬をもらった。

「いいのかい?」

主治医の言葉に美雨は深くうなずいた。

「そうか」

主治医は娘を見送るような気持ちで送り出した。

「長い間、ありがとうございました」

美雨が深々と頭を下げると、看護婦の何人かは思わず泣き出した。

 空は青々とし、鳥が見送るように優しく鳴いた。

 美雨は鼻歌で返事をすると、深く呼吸をした。

「じゃあ、行こうか」

「うん」

二人は穏やかに微笑み合うと、手をつないで歩いていった。

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