恋心
美雨が目を覚ましたのは倒れてから三日後だった。看護婦は日射病と疲労が積み重なったと碧に話した。
(日射病?)
碧は疑い眼で看護婦を見た。しかし、美雨にも看護婦にも本当の理由を聞くことができなかった。
碧はいつものベンチで美雨が早く元気になるのを待ち続けた。
反比例するように碧の容態はだいぶ良くなり、今後の身の振りを考えなければならない時期になっていた。
(とにかく働こう。それで、アパートでも借りて、暮らしていこう)
碧は深く息をすると、青々とした空を見上げた。
数日が経って、昼食後に美雨がベンチに顔を出した。碧は美雨に肩を貸すと、二人は一緒に座った。
「もう、いいの?」
「うん。 ……ごめんね、心配かけて」
美雨は穏やかに笑った。あまりにやつれた横顔は碧の心を切なくした。
(どこか悪いの?)
碧は何度も聞きたかった質問を胸のうちで反芻した。しかし、決して言葉として出ることは無かった。
碧の様子を察した美雨はゆっくりと空を仰いだ。
「私、もう長く生きられないの」
美雨は軽い口調で言ってのけた。
碧は目を丸くした。冗談で言っている様子ではないが、突然すぎて現実味が感じられなかった。
美雨は終始穏やかな表情を浮かべていた。
「テロメア説って知っている?」
「いや……」
「人間ってね。細胞が分裂する回数が決まっているんだって。私は遺伝性の病気で人より異常なほど回数が少ないの。大人にはなれない。大人に近づくほど死が近づいてくる」
美雨の瞳の奥は深い哀しみが満ちていた。
「……お母さんも同じ病気でね。年齢のこともあって、もう子供を作れない、産んだら死ぬってわかっているのに私を産んだの。お父さんはお母さんの死で心を壊して、私を置いて……」
声を震わせ、美雨は静かにうつむいた。
真夏日が続き、蝉の声が哀しげに響いていた。
ふと、美雨が横を見ると碧は大粒の涙を溢していた。
「僕はなんて馬鹿なことをしたんだろう」
碧はマンションから飛び降りた自分の行為を心から嘆いた。
「生きたくても生きられない人がいる。死ねば悲しむ人がいる。それなのに僕は……」
「優しさのこもった涙は好き」
歌うようにリズムを刻む美雨の言葉に温かさを感じ、碧はいっそう涙を流した。その様子を見て、美雨は、フフフと笑った。
ありがとう、と美雨は包み込むように碧を抱きしめた。
木陰の隙間から差し込む日差しが、二人を照らした。
日が傾くまで二人は寄り添っていた。
碧の肩で寝息をたてる美雨が弱々しくて切なく感じた。
「好きだよ」
碧は今にも消えてしまいそうな美雨の横顔にささやいた。
愛されていると実感したことがなかった碧は人を愛することに臆病になっていた。しかし、膨れ上がり、張り裂けそうな美雨への想いを言葉に出さずにはいられなかった。
(……今度はきっと起きているときに言うよ)
碧の頬は夕陽色に染まっていった。
明くる日も碧はいつもの場所へ向かった。美雨は決まって空を見上げていた。
風が吹くと長い髪が優しくなびいた。髪をかき上げる姿に碧は胸をときめかせた。
「どうしたの、そんなところに立ち尽くして」
「いや、別に」
碧は穏やかに微笑む美雨の顔に照れながら歩いていった。
二人は他愛のない話を繰り返した。
「私ね。薬の影響で人一倍体温が低いの。だから、黒い服を着させられるんだけど、可愛くないじゃない?」
「だから、白のカーディガン?」
「そう。真っ黒だと喪服みたいだしね」
会話の数だけ、二人の距離は縮まった気がした。
強い風が二人の間を吹き抜けると、わずかな空白が生まれた。
擦れあう葉音が悲しく響いた。
「なんで自殺なんてしようとしたの?」
静かな空間の中で口を開くのは、決まって美雨だった。
碧は闇の中へ沈んでいく気がした。もういっそ美雨の前では無かったことにしたいと思っていた。
「傷ついたならごめん。答えなくていいから」
美雨は慌てて弁解した。
碧はそっと目を閉じた。
「つまらない理由だよ。付き合っていた同級生に騙されて、赤っ恥をかかされて、いじめの対象になって…… 今思うと、本当につまらない……」
美雨は碧の横顔をずっと見つめていた。碧はその視線を感じながらも決して目を開けることはなかった。
「愛って何かわからなくて、愛されているって実感を受けたことがなくて、母親に愛って何か聞いたんだ」
「お母さん、何て?」
「面倒くさいこと聞かないでって」
碧の表情はみるみる強張っていった。
「じゃあ、どうして僕を産んだの? そんな馬鹿なことを聞いてしまったんだ。母親との思い出を辿れば、十分愛情を感じられたのに…… その場の母親の言葉を鵜呑みにして…… 僕は大切なものを投げ捨てた。疑う必要さえなかったのに……」
碧はグッと涙を堪えると、ゆっくりと目を開けた。そこには優しい笑顔の美雨がいた。
「お母さんがなんて言ったのかわからないけれど、きっと勢いで言っただけね」
美雨は優しく、しかし、力強く碧を抱きしめた。
碧は堪えきれずに涙を溢した。耳元で身体冷たくてごめんねと小声で言う美雨に碧は首を何度も横に振った。
「十分、温かいよ」
碧の言葉に美雨は切なさを溢れさせた。その感情を悟られないようにキュッと下唇をかみ締めた。
風に揺れる木々が優しい葉音を鳴らした。
碧は顔を上げると、美雨の目を見つめた。そして、後悔したくないと碧は穏やかに微笑んだ。
「君が好き」
碧が言葉を発した瞬間、一斉に音が止んだ。
美雨は精一杯穏やかな表情をしたが、目が哀しみに満ちていた。
美雨の瞳に涙が溜っていった。美雨の表情から喜びの涙ではないことは明確であった。
「ありがとう。 ……でも、ごめんなさい」
美雨はポツリ言うと、ゆっくり立ち上がった。そして、逃げるように駆け出した。
碧は手を伸ばそうとしたが、その場で静かに顔を伏せた。
それから顔を合わせるのが気まずくて、碧はベンチへ行くことをやめていた。
数日後、碧は医師に呼ばれた。そして、その場で退院を告げられた。
碧の心は不安で一杯になった。
(まず、仕事を探さないと。それまで家はどうしようか……)
碧は長いため息をつくと、窓から差し込む夕陽を見ながら物思いにふけった。
トントン、碧の不安を見計らったように病室のドアを叩く音がした。
「碧くん、入るよ」
菅の声に碧は顔を向けた。
「退院が決まったんだってね。おめでとう」
菅は満面に笑みを浮かべた。その顔は碧の顔を自然と笑顔にした。
「長い間ありがとうございました」
碧は姿勢を正して深く頭を下げた。
「菅さんがいてくれたから、つらい時期も乗り越えられた気がする」
碧の言葉を聞くと、菅は心を決めたような顔つきになった。
碧は首を傾げると、歩み寄る菅の姿をたどたどしく見つめた。
「碧くん、うちの子にならないか?」
菅の突然の申し出に碧は口をポカンと開けた。
「私と妻の間には子供がいなくてね。君は良く思わないかもしれないが、君と接しているうちに情が移ったというか、自分の過去と重なる部分があって、なんというか……」
菅は不器用に言葉を並べると、頭を掻いた。
碧は目を落とすと、菅が話してくれた父親のことを思い出した。
不意に碧の脳裏に母親の姿が浮かんだ。唯一の肉親との縁が切れてしまうような気がして、返事は躊躇われた。
「ごめんなさい。捨てられたとはいえ、僕の親はやっぱり母だけなんです。だから……」
碧はもう一度深く頭を下げた。
管は静かに息をつくと、残念そうに碧を見つめた。
「そうだね。お母さんも一人ぼっちになってしまうね。 ……わかった」
碧が頭を上げると、管はそっと微笑んだ。
「しかし、家で暮らすことを考えてくれないかな。しばらくの間でも構わない。家も仕事もないのは大変だろう」
管がどれ程自分のことを思ってくれているか、碧の心にヒシヒシと伝わってきた。
碧はあまりにありがたい申し出に少し困惑した。しかし、行く当てのない碧は素直に菅の気持ちを受けることにした。
「ありがとうございます。住むところが決まるまでお世話になります」
「急ぐことはないよ。こちらはずっと一緒でも構わないのだから」
菅の明るい笑顔に碧も笑顔になった。
菅は碧に歩み寄ると、その頭を優しく撫でた。
碧は人の温もりを感じた。
美雨に抱きしめられたときのことを思い出した。碧は切ない眼差しで床に目を落とした。
「さあ、家に帰って部屋の準備をしないとな。退院の日に迎えに来るよ」
「ありがとうございます」
碧は何度も深く頭を下げた。
管が帰ると、碧はベッドで横になった。
碧は美雨への想い断ち切ろうと目を閉じ、首を何度も横に振った。しかし、目蓋の裏では美雨の姿ばかりが輝きを放って現れた。
退院の朝、早くに目を覚ました碧は、お世話になったものすべてに別れを告げに向かった。
病院内で挨拶を終えると、碧は外へと出かけた。そして、いつものベンチに座ると碧は木を見上げた。
「いつも涼しい日陰をありがとう」
碧は木に声を掛けると、さえずりを上げるスズメとしばらくの間話をした。
「……なんで告白なんてしたんだろう? 後悔しているわけではないんだ。ただ、人を好きになるなんて、懲りたはずなのに……」
碧は空を仰ぐと、擦れあう葉音に耳を傾けた。
「伝えずにはいられなかったんだ。だって、伝わらない想いは無いのと同じ。そうでしょ?」
碧の言葉に耳を傾けるかのように一切の音が止んだ。
「……ねぇ、彼女が来たら、もう一度伝えてくれないかな? 君が好きだって」
碧はゆっくりと立ち上がると、しっかりとした足取りで歩き始めた。
碧の後方から足音がした。
「あなたが手紙を読んで泣いていたときも、自殺の話をしたときも、いつもいつも、 ……ああ、素直な人なんだなって思ったの。真っ直ぐで優しい人だなってわかったの。それで、いっぱい、いっぱい話をして……」
次第に近づいてくる聞きなれた声に碧は振り向くことができなかった。
「私もあなたが好きよ」
その言葉を聞いた瞬間、碧の瞳から涙が溢れた。
美雨は碧の背中に額をつけた。
「私はあなたより早く死ぬわ。それも、もう遠くない。だからね。嬉しさよりも哀しみが溢れたの。あなたを好きになっても苦しくなるだけだって ……あなたのこと、大好きだけど……」
背中の温もりがいっそう愛しさを増した。
「だから、ごめんなさ……」
碧は言葉を塞ぐように正面から美雨を抱きしめた。
「ずっとそばにいるよ」
美雨は碧の胸の中で何度も首を横に振った。
「もう決めたんだ。ダメと言われても、嫌と言われても、そばにいる」
碧は優しい口調で話した。
「無理なんだよ。私、死ぬんだ。 ……恋なんてしないって決めていたのに。大切な人ができたら死ぬのが怖くなるから……」
碧は美雨の口を押さえるようにきつく抱きしめた。
美雨は碧の胸の中でエッ、エッと泣いた。
「君が好き」
碧は耳元で優しく囁いた。表情は穏やかで迷いはなかった。
美雨は胸の中で止め処なく涙を流した。
「二人でいれば幸せは無限大だよ」
碧の言葉に美雨は笑った。
「バカ」
美雨は顔を上げると、照れくさそうに笑った。碧は美雨の涙を袖で拭うと、一緒になって笑った。
スズメは祝福の歌を歌い、木々は葉を鳴らした。
二人は照れくさそうに笑うと、互いの目を見た。そして、優しくキスを交わした。
「毎日会いに来るよ」
「時々で良いよ」
「いや、毎日来る」
あまりに一生懸命言う碧を見て、美雨はクスクス笑った。その顔を見て、碧は顔を赤らめながら、声を上げて笑った。
二人はベンチに座ると、寄り添いながら周りの音を聴いた。風の音、風が鳴らす葉音から人の声まで聴きなれた音が新鮮に感じた。
碧は菅の声を聞いた。
「迎えが来たみたい」
「うん」
美雨が優しくうなずくと、碧はゆっくりと立ち上がった。
「仕事を見つけて、自立できるよう頑張るよ。美雨をいつでも迎え入れられるように準備しておく。だから……」
「うん。私も早く良くなる」
二人は幸せをかみ締めるように微笑み合った。想いが通じ合ったばかり、一緒に暮らすことなど叶わないと互いにわかっていながら、二人は約束を交わした。
碧は穏やかな顔で手を振る美雨に見送られて退院していった。