歩み寄り
碧の松葉杖がとれる頃、二人は挨拶と簡単な会話をするくらいには知り合った。
「最近よく会いますね」
「う、うん。 ……君はここが好きなの?」
「うん。ここは一番風が心地よくて、鳥が多く集まるから」
二人は相変わらず背中合わせで座っていた。
「鳥、好きなんだ」
「鳥の声、風の音、草木のこすれあう音、すべてが心に優しく響くから好き」
美雨は深呼吸をした。
碧は背中でその言葉を聞くと、同じように呼吸した。
「君は歌うように話すんだね」
碧の言葉に美雨はクスリと笑った。
碧が振り返ると、口に手を当てて笑う美雨の姿があった。木陰の隙間から差し込む日差しがスポットライトのように美雨を照らした。その美しい表情に碧は思わず見とれていた。
「ん?」
美雨が首を傾げると、碧は顔を赤くして立ち上がった。
「いや、なんでもない。 ……そろそろ、病室に戻るよ」
「そう」
あっさりと言う美雨の言葉に碧は少し寂しさを感じた。碧は少し足を引きずりながら、ゆっくりと歩いていった。
碧は後ろに目を遣った。美雨が鳥の鳴き声を真似ると、スズメが一羽、美雨の指に止まった。鼻歌交じりでリズムを刻む美雨の姿が可憐で、碧は写真を撮るかのようにその姿を脳裏に焼け付けた。
その瞬間、不要なスライドが間に入るのを感じた。
『あんたなんかを好きになる人がいるわけがないでしょう。陰気で根暗な男』
「わかっているよ」
二人が顔を合わす日はいつも美雨が先にいて、碧が背中合わせに座った。そして、数分沈黙が続いてから、決まって美雨のほうが声を掛けてくれた。
「一人になるのを邪魔していないかな?」
ある日碧が尋ねると、美雨はキョトンと目を丸くした。そして、小さく笑いながら首を横に振った。
「話をするの好きですよ。特に同年代の人と話すことはあまりなかったから」
美雨の言葉に胸を撫でおろすと、些細な会話を繰り返した。しかし、別れの挨拶をすると美雨は決まってそっけない態度をとっていた。
(もう、行くのを止めようかな)
碧はとぼとぼと病室へ戻っていった。
管はまた仕事が忙しい様子であまり訪ねて来なかった。
碧は窓から外を眺めると、他の患者の話し声がした。
(人の声が聞こえるだけで、こんなに落ち着くんだ)
碧は菅と会えないことを寂しく思いながらも周りの環境に少しずつ馴染み始めていた。
自然が奏でる音、人の生活する音、当たり前のように近くにあるものがこんなにも優しい気持ちになれるものなんだとを実感した。
碧は目をつぶり、音を探した。そして、まだ日も落ちていない時間にも関わらず、そのまま眠りについてた。
翌日も気がついたらベンチに座っていた。碧は自分の意思の弱さに少し呆れた。
美雨が来たら何を話そうかと話題をあれこれ考えているうちに時間だけが過ぎていった。
いつもの軽い足音が聞こえ、碧が振り返った瞬間、後ろから声がした。
「碧くん」
碧が振り返ると、菅が手を振っていた。
碧は苦い顔をしたが、すぐさま表情を緩ませた。
碧の高鳴っていた鼓動は次第に静まっていった。碧は手を振ると、菅のもとへと歩いていった。
「あの子が美雨ちゃんかい?」
菅は碧の肩越しにベンチに腰掛けている美雨の顔を覗いた。
「う、うん」
碧の頬は自然と赤らんでいた。その表情を見て菅は笑みを浮かべた。
「さぁ、暑いから病室へ行こう」
碧は菅の背中を押し、病室へと歩いていった。その姿を見て美雨は憂いの表情を浮かべた。悲しみ、喜び、嫉妬、様々な感情が心を巡っている表情だった。
菅は冷たいゼリーを差し入れた。
(あの子にも食べさせたいな)
美味しいものを食べた時、面白い話を聞いた時、風が心地よかった時、碧はふとした瞬間に美雨を思い浮かべることが多くなっていた。
憧れを抱いているだけと何度も自分に言い聞かしたが、それが恋心だととうに碧自身気づいていた。
その日は菅と一杯話をした。
時折外を覗く碧の姿を見て、管は優しく笑った。
次の日もその次の日も碧はまるで条件づけされた犬のようにベンチに座っていた。
「この前の人、お父さん?」
碧が座ってしばらくすると、いつものように美雨が話しかけた。
「いや、違うよ。両親は…… もう、いないんだ」
正確には母親がいたが、きっと会いに来てくれることはないだろうと確信していた。それでも遠くで自分を思っていてくれると碧は信じていた。母親を自由にしてあげよう、無意識にそう考えて出た言葉でもあった。
「……そう。私と一緒ね」
美雨の口から初めて自身のことを聞いた。美雨の表情は微笑を浮かべていたが、その目は悲しみを感じさせた。の表情は管が自分の両親の話をしたときのことを思い出させた。
病院の真っ白い壁がオレンジ色に染まり始めると、碧はマンションの屋上から見た景色を思い出した。
碧の心は不安で溢れた。
「父親は僕が生まれる前にどこかへ行ってしまったらしい。母親も…… 去っていってしまった」
感傷的な気分になり、碧は晒す必要のなかった傷を晒した。自分も哀しい思いをしていると共感して欲しかっただけかもしれない。あるいは慰めて欲しいなんて子供じみた願いだったのかもしれない。
「どうして?」
美雨が聞き返すと、碧は膝に付きそうになる程頭を下げた。
「……僕は自殺しようとしたんだ。それが悲しかったのかな? 許せなかったのかな? いなくなってしまった」
碧の言葉が発せられた瞬間、美雨の表情があからさまに曇った。
鳥の声が止んだ。
二人の間を重い沈黙が続いた。
「自殺をするような人は嫌い。大っ嫌い」
言葉は坦々としていたが、とても強い力がこもっていた。美雨は勢いよく立ち上がった。
碧が振り返ると、一筋の涙が美雨の頬を伝った。碧は言葉を失い、早足で去ってゆく美雨に一言もかけることができなかった。
二日が過ぎても、美雨がいつものベンチに現れることはなかった。
碧は日ごろ話をする看護婦に美雨の様子を聞いた。話によると、美雨が気に入っているベンチはもう一つあり、最近はそちらへ行っているとのことであった。
「ケンカでもした?」
「ケンカというか……」
碧は病室で美雨との間で起こったことを看護婦に話した。
看護婦は忽ち困った顔をした。
「おそらく、気に障ること言ったんだよね。確かに自殺しようとするのはいけないことかもしれない。でも、それでも、理由があるわけで……」
碧は悲しみと困惑を浮かべた。
看護婦は碧の肩に優しく手を乗せた。そして、何かを話そうか迷っている様子で口をまごつかせた。
「美雨ちゃんのお父さんね。自殺をしているのよ」
ようやく前を向き始めた碧を気遣い、看護婦は話をした。
『いや、違うよ。両親はいないんだ』
『……そう。私と一緒ね』
美雨との会話が頭を巡った。
「お母さんも?」
「お母さんは美雨ちゃんを生んだときに亡くなったわ」
菅と同じように母を亡くし、唯一の肉親を自殺という形で亡くした美雨の心境を考えた。
生きているのが つらいって
死のうだなんて思わないで
(あの歌はきっとお父さんを思って作った歌なんだ)
母親の顔が過ぎった。生きていて良かったと書かれた手紙の重みを僅かながらも感じた気がして、涙が溢れ出した。
碧は居ても立ってもいられなくなり、病院の外へ駆け出した。
うまく動かない足を引きずりながら走り回った。そして、ようやく木の陰がかかったベンチで、いつものように歌っている美雨の姿を見つけることができた。
碧は美雨の目の前へ飛び出した。涙でくしゃくしゃになった顔が突然現れ、美雨は思わず笑った。
「ごめんなさい。凄い勢いで出てくるから」
美雨は笑いながら一言詫びた。碧もつられるように少し笑った。
碧は涙を拭うと、一息ついた。美雨もまた、呼吸を整えた。
「他の人からお父さんのことを聞いた」
碧は目を伏せた。
美雨は優しい目で碧を見た。
「私の思いとあなたの過去は別の出来事ね」
「でも、それでも、悲しいことを思い出させてごめん。今では本当に浅はかなことをしたと反省しているんだ。大切な人を傷つけて、その人が大切にしてくれた自分自身も傷つけた」
碧の言葉を聞いて、美雨は哀しい顔をした。父親のことを思い出したからだけではなく、もう一つのことが胸を締め付けた。
美雨は碧の顔を上げようと、一歩近づいた。しかし、足がもつれ、碧にもたれかかるように倒れた。
「冬原さん?」
慌てて碧が美雨の身体を仰向けにすると、美雨は鼻血を垂らしながら気を失っていた。呼吸もうまく出来ずにいる様で、しゃっくりをするように小さな呼吸を繰り返していた。
美雨の身体は人一倍冷たく感じた。
「冬原さん! ……誰か。誰か」
金切り声を上げる碧を見て、他の患者を散歩させていた数人の看護婦が駆けてきた。
すぐさま美雨は担架で運ばれた。
碧はその場で呆然としたまま手を振るわせた。
看護婦は何度も大丈夫と声をかけたが、運ばれていく美雨がこのままいなくなってしまいそうで涙が溢れた。
碧は母親を思い出し、行かないでと声をかけると少し過呼吸気味に息をした。看護婦は碧の肩を優しくさすると、病室に連れて行った。