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君が好き  作者: 川本流華
3/8

背中合わせ

 碧が入院して、一か月が経った。リハビリにも積極的に取り組むようになり、松葉杖を使ったら一人で歩けるほどまで回復した。

 まだ一人で外に出てはいけないと念を押されていたが、碧は時折一人で外を出歩いた。そして、美雨がよく座っていたベンチの反対側に座った。

 彼女の歌をもう一度聴きたい。そう強く思った。それほどまでに彼女の歌に惹かれ、彼女に興味を抱いていた。しかし、あの歌を聞いた夜以降、一度も美雨の姿を見ることはなかった。

「碧くん、一人で出たらダメって言っているじゃない。転んで怪我をしたら、退院が遅くなるわよ」

看護婦の一人が慌てて駆けてきた。碧は決まりが悪い顔をすると、一息ついて松葉杖を手に取った。

 病室に戻ると、菅が椅子に座ってリンゴを剥いて待っていた。

「いないと思ったら、また美雨ちゃんを探しに行っていたのか」

「あら、そうなの?」

菅の言葉に看護婦は目を大きくした。

(おしゃべり親父)

碧は顔をしかめると菅を睨んだ。しかし、菅はそんな碧の表情さえ嬉しそうに微笑んだ。

 碧は菅を慕い、色々なことを話した。通っていた学校のことから飛び降りる前のこと、入院生活のこと、そして、美雨の歌のことなど、その日一日の出来事を親に話す子供のように話をした。

 菅は碧の話をいつも真剣に聞いた。おもしろい話には声を出して笑い、悲しい話は深刻な顔で聞いた。二人の間には深い信頼関係ができていた。

「でも、それならしばらくは外出しても意味ないわ」

「えっ?」

碧は看護婦のほうへ顔を向けた。

「美雨ちゃん、調子を悪くしていてね」

「大丈夫なの?」

「ええ。たまにね。調子を悪くするから」

看護婦は碧から松葉杖を受け取ると、ベッド脇に立てかけた。そして、ゆっくりと碧をベッドに座らせた。

看護婦は含み笑いを浮かべていた。まるで自分の子供の恋話を聞くときのように優しく微笑んでいた。

「いや、別に…… 僕はただ、……」

はにかむ様に言う碧を見て、菅と看護婦は目を合わせて笑った。

 看護婦が出て行くと、碧は菅の剥いたリンゴを食べた。

「病室まで会いにいけばいいのに」

「話したこともないのにできるわけないだろう。気持ち悪がられるだけだよ」

碧が答えると菅は、確かに、と笑った。

 それからは他愛のない雑談が続いた。時折、会話に隙間が開くと、管が碧の様子を窺っていることに気が付いた。それは菅が警察の人間として伝えにくいことがある合図のようなものだった。

「なに? 言いたいことがあるなら言いなよ」

「いや」

「良いから、言って」

菅は横を向いて目を逸らした。しかし、こちらを凝視する碧の視線を感じると、一つ深い息をついた。

「……お母さんが見つかったよ」

碧はリンゴを食べる手を止めた。

「君が生きていることを伝えた。本当は無理にでも連れて来たかったのだけれどね。お母さんが気持ちの整理をしたいというものだから、今回は……」

「そう。 ……母は元気だった?」

「ああ。いずれは連れてくるよ」

菅の言葉に、碧は素直にうなずいた。

 碧はリンゴを一切れ菅に手渡した。静かな病室にリンゴを食べる音が響いた。

 それから碧はほとんどを病室で過ごした。母親の話を聞いてから母親が訪ねてくることを心のどこかで期待していた。しかし、当然のように碧の母親が病室に訪ねてくることはなかった。

 菅もまた碧の見舞いにくることはなかった。別の仕事で忙しいらしく、何度もすまないと頭を下げていた。

「大丈夫だよ」

碧は明るく答えると、いってらっしゃいと菅の背中を言葉通りに押した。

 それから数日、久しぶりに訪ねてきた菅の顔はあからさまにやつれていた。

「どうかしたの?」

碧が尋ねると、菅は頭を掻きながら椅子に座った。碧は笑顔を作って出迎えたが不穏な空気に顔が引きつっていた。

 菅はその表情を察するも一つ咳払いをして話し始めた。

「君のお母さん……」

「うん」

碧は母親のこととわかるや否や身構えた。小さく深呼吸をし、心の準備を整えた。

「私が訪ねたときに荷物をまとめて家を出ようとしていた。説得しようとしたら包丁を自分の首に押し付けてね。 ……私はそのまま彼女を行かせてしまった」

碧は情景を頭に描いた。喚き散らす母親の姿が浮かび、碧の心はジワリと沈んでいった。

(そうまでして会いたくないのかな……)

 管は眉間にしわを寄せた。

 何かを言いかけては、目を伏せ、深くため息をついた。

「何?」

碧が尋ねると、管は碧の目を見た。

 碧は管が話しやすいように穏やかな表情を作った。しかし、その目には涙が溜まっていた。

「もう、話してよ。 ……後から辛いこと聞かせられるの、嫌だよ」

声を震わせる碧の姿を見て、管は奥歯を噛んだ。

「君のお母さんは覚せい剤を所持していたことがわかった。今、警察は君のお母さんを逮捕するために動いている」

 碧の心はさらに深く沈んでいった。悲しみが感情を覆い、目の前が真っ黒に染まった。

「僕のせいだよね」

「いや、そんなことはない」

管は強い口調で言ったが、碧の耳にはろくに届いていなかった。

「ありがとう。少し横にならせて」

今にも消え去りそうな弱々しい言葉に、管は黙ってうなずいた。

 病室に空虚感が漂った。物音一つしないその空間で、二人は静かな時間を過ごした。

 数日ぶりで話したいことはたくさんあったが、何も言葉に出てこなかった。時折菅が声をかけてきたが、碧は小さな声で返事をすることが精いっぱいだった。

 途中、何度か看護婦を交えて話をした。しかし、いくら話しても碧の心は埋まらなかった。

「これ、君のお母さんが借りていたアパートのテーブルに置いてあった」

帰り際、菅は碧の母親が碧に宛てた手紙を渡した。手紙は封筒に入れられ、表には、碧へ、と書かれていた。それはとても見慣れた文字で、愛おしささえ感じた。

「悪いとは思ったが、仕事の都合で先に読ませてもらった。 ……君のお母さん、やはり君のことを愛していたと思う」

管は肩越しに言うと、病室を後にした。

 碧はしばらく封を開けずに母親が書いた自分の名前を見つめていた。管の言葉を信じないわけではないが、別れの言葉以外が浮かばず、開けることが躊躇われた。読んでしまえば母親との絆が切れてしまう気がした。

 消灯時間が来てもそのまま開けられずにいた。碧は花の添えられた台の上に手紙を置くと、ベッドの中に潜り込んだ。

 一時間、二時間経っても、手紙が気になって眠ることができなかった。碧は手紙を手に取ると、松葉杖を片手に窓から部屋を抜け出した。

 いつものように美雨が座るベンチの反対側に腰掛けた。ここなら勇気をもって開けられるような気がした。そして、月明かりの下で封をあげた。


               ごめんなさい。

         もう、あなたを育てることはできません。


           何もできなくってごめんなさい。

            弱いお母さんでごめんなさい。



              生きていて良かった。

                 ありがとう


 便せんの中央に震える文字で書かれていた。最後の文字は下に大きく伸び、手の震えを懸命に堪えて書いたようだった。

 母親と一緒に自転車の練習をした昼下がり、公園で鉄棒の練習をしているときに迎えに来てくれた夕暮れ、数少ない母親との思い出が思い返された。

(……お母さん、温かい思い出があるよ。謝らないといけないのは、僕のほうだ )

 自然と涙が溢れ出した。碧は袖で涙を拭った。

 突然の風に手紙が宙を舞った。碧は慌てて手紙が落ちたほうに顔を向けると、髪を耳にかけながら、少女が手紙を拾っていた。

「すみません」

涙を拭ってよく見ると、少女が美雨であることに気がついた。

 美雨は優しく微笑んだ。

「泣いているの?」

碧は顔を背けた。

 美雨は碧の座っているベンチに手紙を置くと、いつも座る、碧とは背中合わせのベンチに腰掛けた。

「夜になると悲しい気持ちになるの。 ……きっと眠るのが怖いのね」

美雨は月を見上げた。

「……神様なんていないんだ。この世界には哀しみが尽きないから」

一呼吸置くと、美雨は大きく息を吸い込んだ。


               舞い散る落ち葉を一枚掴んで

             僕もきれいに朽ち果てたいといった君は

                 自ら 息を引き取った


              今にも目を覚ましそうな 美しい顔

               君は幸せそうに笑っていたね


                     でも、、、

             残された私はどんな顔をすれば良い?


               生きているのが つらいって

                死のうだなんて思わないで


              明日は良いことがあるかもしれない


                   二人でいるだけで

                  幸せは無限大だった



              生きている意味が わからないって

                答えを焦って探さないで


                意味なんてないさ Life


                  君が生きている


                ただ私は それが嬉しい


               それだけではだめだったのかな


 美雨はさらに歌を続けた。

 碧は涙を溢しながら、美雨の歌に耳を傾けた。

 素直に母親が生きて、過ごしていることを喜べた。母親もそのように思ってくれていると思ったら気持ちが安らいだ。一方で自殺しようとしたことを深く嘆いた。

 背中合わせで腰掛ける二人を月が照らした。

「涙でぼやけた視界。見る星空は輝きを増すから好き」

歌っているのか話しているのかわからないリズムで美雨はつぶやいた。

 二人は空を見上げていた。

「美雨ちゃん、それに碧くんまで何をしているの? 部屋に戻りなさい」

声を上げながら看護婦が歩いてきた。

 美雨は、はーい、と不満気に返事をすると、軽やかに立ち上がった。碧は手紙を封筒に入れると、まず涙を拭った。そして、手紙を懐に入れると、松葉杖を手に取った。

「さぁ、戻りましょう」

看護婦の手に掴まり立ち上がると、すでに美雨の姿はなかった。

 碧は夢心地のように呆けた様子で病室へ戻っていった。

 翌日、碧は看護婦に目一杯叱られた。次は松葉杖を没収するとまで言われ、碧はひたすら頭を下げた。

 背中合わせで歌を聴いて以来、碧はベンチで美雨を見かけると覚束ない足取りで近づき、裏のベンチに座った。

 美雨はそれを気に留めることはなかった。二人は軽く挨拶を交わすと、それ以上会話をすることがなかった。

美雨はいつも歌を歌うわけではなく、木々を眺めて深呼吸をしたり、鳥の鳴き声を聞くなり真似をして鳥と戯れたりしていた。

 そして、声を発すると、それは忽ち旋律を奏でた

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