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君が好き  作者: 川本流華
2/8

月夜

 意識をし始めると毎日のように外から歌が聴こえてきた。歌のすべてを聴くことはできず、聴こえてくるのは所々のみだった。

 彼女の紡ぐ言葉は哀しいものが多く、今の碧には心に染みるものがいくつもあった。

 外出が許されない碧にとって、十センチ程度しか開かない窓の隙間から彼女を探す癖がついていた。

(彼女はずっと病院にいるのかな? 見た感じ同じくらいの歳だけれど……)

碧はいつの間にか彼女のことを考えることが多くなっていた。

 看護婦は朝昼晩の三回検診に来た。入院してすぐの頃は三十分ないし一時間おきに担当のカウンセラーや看護婦が診に来ていた。しかし、最近は碧が落ち着いた様子であったため、回数が減っていた。

「カウンセラーの先生がね、もうそろそろ一般病棟に移ってもいいって言っていたわよ」

看護婦は自分のことのように嬉しそうに言った。その顔も碧にはまだ卑屈に感じていた。

「……そう」

碧はろくに返事をせずに横を向いた。

 看護婦は深く息を吐くと、黙って血圧を測った。


               生まれてきてすぐに 僕らは

                 泣くことを強要される


                 光満たされた 世界に

               産み落とされた はずなのに


 いつものように窓の外から歌が聴こえると、碧は目で追うようにゆっくりと外を見た。

「ああ、美雨ちゃんね。確か碧くんと同じ歳よ」

看護婦は穏やかな顔をして外を眺めた。

「……美雨」

「そう。冬原美雨ちゃん」

看護婦が碧に目を戻すと、碧は真っ直ぐな涙を溢していた。

「ごめん、痛かった?」

看護婦は慌てて血圧計を外そうとしたが、碧はそうじゃない、と首を横に振った。

「ごめんなさい」

碧は素直に頭を下げた。きっといま自分がここにいて、こんな風になっているのは自分のせい。独りになりたくないくせに人を遠ざけ、傍にいて欲しいのに愛想のないふりをした。全部自分のせいなんだと認めてしまった。

 看護婦は碧の手を軽く握った。

 碧はエッ、エッと声を殺して泣いた。

『もともと私は子供を生む気なんてなかったのよ』

不意に母親の声を思い出した。

 碧は母親の喪失をいっそう深いところで感じた。

 窓の外から穏やかな風が緑の香りを運んだ。

 握られた手の温もりを感じると、碧は少しだけ優しい気持ちに包まれた。


 数日後、車椅子での移動ができるようになると、碧は一般病棟に移った。まだ、大人数と接するのは抵抗があるだろという配慮もあり、碧は個室で生活することになった。

 お金の心配が付いて回ったが、以前菅から家に残された通帳を渡され、かろうじてやり過ごせそうだった。

 個室は一階で日当たりも良く、窓が全開にできた。その開放感を心地よく思う一方、そこから美雨の姿を見ることはできなかった。

 碧の事件は精神不安定時の突発性自殺未遂として片付けられた。

 事件が終わっても菅は見舞いを続けた。碧の母親の捜索状況を伝えるためという理由もあったが、碧のことを放っておけない様子だった。

 いつものように仕事が終わると管は碧の見舞いに訪れた。

 最初に母親が見つからないことを詫びると、世間話を碧に聞かせた。碧は返事をするわけでもなく、ただ黙って話を聞いていた。以前のように聞き流しているわけではなかったが、反応の仕方がわからなかった。その変化を菅は静かに感じ取り、いつも以上に嬉しそうに話した。

 陽が傾くころ、管は窓の外を見つめた。

 空が赤く染まるのを、管は哀しい目をした。

「……実はね。私は幼いころ父親に捨てられたんだ」

寂しそうな横顔で、管はポツリつぶやいた。

 管の言葉と同時に碧は目を丸くした。

「驚いたかい?」

「え、ええ。まぁ……」

碧はどうしてそんな話をしたのか理解できずにいたが、管は優しく微笑んでいた。

「母は私を産んだときに亡くなった。体が弱い人だったらしくてね。それから父は一生懸命、私を育ててくれたんだがね。会社をクビになって、酒を飲む癖ができてしまった。良くある話さ」

菅は笑ってみせたが、その瞳の奥に哀しさが見えた。気が付くと碧はその話を聞き入っていた。

「酒癖が悪い父でね。私が中学二年の時、あの日も夕焼けが綺麗だった。酒に酔った父は私を車に乗せて山奥に連れて行ったんだ。正直、ここで殺されると覚悟したよ。案の定、道中で包丁を忍ばせていることに気付いてしまった。 ……でも、父は私を殺さなかった。酒が入るたびに『お前さえいなければ……』って言われていたのにね」

菅の瞳は潤んでいた。しわの入った目は深みを感じた。

「父はそのまま私を山に置いて去って行った。 ……そして、帰り道で事故を起こして亡くなった。私は警察に保護されてね。施設で育ったんだ」

「なぜ、お父さんはあなたを殺さなかったのでしょう?」

「わからない。殺されずとも捨てられたのは確かだからね。それでも父は私を愛していた。 ……私はそう信じている。優しい思い出が一杯あるんだ。一緒に逆上がりの練習をした。お弁当を一生懸命作ってくれた……」

菅は言葉を詰まらせた。その話を聞きながら、碧は数少ない自分の母親の笑った顔が思い浮かんだ。

 碧はわずかながら心に温もりを感じた。

「僕の母も少しは愛してくれていたのかな?」

「もちろんさ。子供を育てるというのはとても大変なんだ。君のお母さんはそれを女手一つでやってきた。愛がなければできないことだよ」

菅は碧と真っ直ぐ向き合うと、それと、と続けた。

「きっと今でも愛している。君に渡した通帳。目につきやすい場所に置いてあった。そして、君が飛び降りてすぐに随分な金額がお母さんから振り込まれているだろう?」

碧は菅の言葉を聞くと、通帳を開いた。最後の金額しかみていなかったが、確かにその前に多くのお金が振り込まれていた。

 入院以来、母親のことを思うと悲しみばかりが溢れたが、ようやく優しい気持ちになれた。

(母さん……)

碧は大きく深呼吸をすると、久ぶりに心の底から身体の隅々まで生きていることを実感した。そして、それをありがたく思い、一方で深く後悔をした。

 生きていることが幸せかどうかはわからない。不幸なことがなくなったわけでもなく、これから大変な思いをする現実も変わってはいなかったが、いま少し生きてみようと小さく決意した。

 碧の目に僅かながら活力が戻った。

「仕事に行かないといけない。また来るよ」

菅はニコリ笑うと碧の頭を軽く撫でた。

 碧は穏やかな顔をしてうなずいた。


 昼は看護婦に車椅子を押されて庭を散歩し、夕方には毎日のように訪ねてくる菅と話をした。碧は狭いながらも以前より人との交流ができるようになった。

 碧は散歩の途中、美雨をよく見かけた。最初に見かけたときは車椅子に乗っていたが、今では普通に歩いていた。

 看護婦の話では晴れの日は日が暮れるまでのほとんどを外のベンチで過ごし、雨の日も一回は外に出るようだ。

「彼女はいつ入院してきたの?」

「そうね…… 先輩の話だと、十年くらい前らしいわ」

「そんなに前から? でも、外に出ていられるなら大した病気でもなさそうですね」

碧は優しい目で美雨のほうを見た。車椅子に乗っていた碧は後ろの看護婦が悲しい顔をしていることを知る由もなかった。

 次の日も、碧は美雨の姿を見かけた。

 美雨はいつも穏やかな表情で木や止まっている鳥に向けて歌っているようだった。

(この前聴いた歌かな?)

碧は少し近づき、歌を聴きたいと思った。しかし、同級生に浴びせられた言葉が脳裏をよぎった。それはマンションから飛び降りる数か月前。碧が学校に行けなくなったきっかけになった出来事だった。

『……冗談に決まっているでしょう。気持ち悪い。近づかないでくれる?』

『あんたなんかを好きになる人がいるわけがないでしょう。陰気で根暗な男』

付き合っていた彼女に突然言われた言葉。後ろではクラスメイト数人が笑っていた。彼女は走り去るとその中の一人の男と手を繋いで見せつけるようにキスをした。

 碧は連鎖するように飛び降りたときのことを思い出した。途端に手を震わせると、額にこぼれ落ちるほどの汗をかいた。同年代の女性を反射的に恐れていた。

 看護婦は慌ててタオルを取り出し、碧の汗を拭った。

「大丈夫? 戻りましょうか」

碧は病室に戻されると、診察を受け、そのまま夕方まで眠った。

 目を覚ますと、花瓶の花の向きが変わっていた。

(菅さん?)

碧は寂しげな表情を浮かべると、身体を起き上がらせ、窓から夕陽を眺めた。

 碧は赤く染まる木々を見て、飛び降りたときに見た公園の風景を思い返した。

(あんなことするんじゃなかった)

一人になると弱気な自分が顔を出した。

 碧は枕に顔をうずめた。

 陽が落ちると、病院は静けさに包まれた。その先、消灯時間を過ぎても碧は寝付けずにいた。

 カタコト、と風が窓をノックした。

「今日の面会は風だけか……」

碧はゆっくり起き上がると、窓を開いた。

 窓から心地よい風とともに声が聞こえてきた。

(あの歌だ)

碧は窓から身を乗り出した。

 美雨は月を見上げると、憂いの顔を浮かべていた。

 美雨は自殺をしようとした自分と同じ目をしているように感じた。しかし、同時に管が見せたような、もっと深い哀しみを知っている印象も受けた。

 風が美雨の歌を運んできた。


               生まれてきてすぐに 僕らは

                 泣くことを強要される


                 光満たされた 世界に

               産み落とされた はずなのに


               悲しみが望まれる世界ならば


             僕は何のために生まれてきたのだろう



              死への旅路を歩んでゆく 僕らは

               何を残すことができるだろう


               すべてが無に帰す運命ならば


                生まれてきたくなかった



               死があるから生が輝くなんて

                 死を美化する 綺麗事


                僕は死ぬことなく輝きたい



                   ねぇ、神様


              死を与えた理由を教えてちょうだい


            大切な人より先に 死ななければならない

                   その理由を


               大切な人が 僕を置いて逝く

                   その理由を


                   ねぇ、神様


               人生ゲームは 楽しめたかしら


 歌い終わり、月明かりに照らされた美雨の姿はおどけた笑顔に哀しい目であった。

 心配して美雨を探しに来ていた看護婦もまた哀しい顔をしていた。

「さぁ、帰りましょう」

看護婦は美雨の肩を抱くと、病院の中へと戻っていった。

 うつむく美雨の横顔は菅が父親の話をしたときに見せた表情によく似ていた。

(僕よりも哀しい思いをした人はきっと一杯いるんだね)

碧は途端に自分が小さく感じた。


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