表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
君が好き  作者: 川本流華
1/8

出逢い

 暗闇の中、風の音が虚しく耳を撫でた。時折強い風に煽られると服がハタハタと音を立て、体が左右に揺さぶられた。

『……どうして僕を産んだの?』

『もともと私は子供を生む気なんてなかったのよ。おろす金がなかったから仕方なく生んだだけ。それを十八まで育てたんだから感謝しなさい。卒業したら働いて返しなさいよ』

台所で会話をした母親の姿が碧の頭に浮かんだ。

 一度も振り向かなかった母親、その背中をただ黙って見つめていた記憶が思い返された。

 碧はゆっくりと目を開けた。十二階建てのマンション屋上、向かいの高層ビルの窓に反射した夕陽に目を細めた。

 碧は目を伏せるようにしてすぐ近くにある公園を見下ろした。

 夏が近づき、外を出歩く人たちが多くなっていた。公園には複数の子供たちがボールを蹴って遊び、その脇で母親たちが話をしていた。母親たちは時折自分の子供に目を配り、手を振った。

(幸せって、あんな感じなのかな?)

ありふれた些細な光景さえ碧の胸を苦しくさせた。

(……もう、どうでもいい)

碧は顔を真っ直ぐ向けた。夕陽で赤く染まった街並み、最後の光景だと思うと、美しく儚く思えた。

 碧はフェンスから手を離すと、力強く地面を蹴った。

 さようなら、と零れる涙が空に舞った。

 風の音が次第に強くなり、途中で片方の鼓膜が破れたのを感じた。

 たった数秒で十八年の人生が終わる、やっと楽になれる、はずだった。

 横やりを入れるように吹いたビル風は落下の勢いを弱め、まるで夕焼けの光が碧を包み込んでいるように温かだった。

 頭から落ちていた碧の身体は横を向いた。そして、コンクリートに落ちるはずだった碧の体は木の枝をいくつも通り、花壇の柔らかい土の上に落ちることとなった。

 それは奇跡的に、悪意的に意識を絶つほどの衝撃さえなかった。ただ、全身を強く打ちつけた碧はその痛みに血を吐きながら悲鳴を上げた。

 碧は痛みと死に切れない悔しさで涙を流した。

 救急車のサイレン、やじ馬たちの声、いくつもの音が重なり、うるさいくらいに頭の中で響いていた。しかし、家にいるはずの母親の声は最後まで聞こえることはなかった。

 碧は担架に乗せられると、ようやく意識が途絶えた。


 次に意識を取り戻したとき、碧は柔らかいベッドの上にいた。

 心電図の音、呼吸器から返ってくる息、静かな空間の中で別の誰かを感じさせるものが一切なかった。

(……死ねなかった)

碧は力の入らない目蓋を持ち上げ、細い目で辺りを見回した。

 目に入ったのは点滴の針が刺さった腕と白い壁、扉だけであった。殺風景なその部屋は花はおろか自分の持ち物一つ置いていなかった。

(誰も来ていない……)

椅子が一つも出ていない部屋を見て、碧は涙を溜めた。

「……まったく、何て母親だ」

「最近の母子なんてこんなものですよ」

「お二方、病院なのでお静かに願えますか? それと意識がないとはいえ、患者の負担になる言動は禁止ですからね」

慌しく向かってくる足音に驚き、碧は咄嗟に眠っている振りをした。

 誰だろうかと、思いつつ碧は心のどこかで期待を持った。声からして男であることはわかっていたが、脳裏には母親の姿が離れなかった。

 トントン、扉を叩く音がした。応えるわけにもいかずにそのまま待っていると、静かに扉が開いた。

「碧くん、失礼するよ」

碧はあくまで眠っている振りをした。

 扉が開くと、複数の足音が碧に寄ってきた。

 看護婦が碧の脈を確かめ、心電図の確認をしているようだった。

「どうです?」

「ええ、安定しています。いつ目を覚ましてもおかしくない状態です」

「……そうですか」

椅子を引きずる音がした。二人の声が聞こえたが椅子の音が一つしかなかったことが気になった。碧は思わず薄目を開けようとすると、一人の深いため息が聞こえた。

「一週間も寝たきり。 ……可哀想にな」

「まぁ、自殺を図るくらいですから、目を覚ましたくないのでしょう。 ……目を覚ましても帰る家がなくなりましたしね」

慌てて目を閉じた碧だったが、不可解な会話に今度は眉間に皺を寄せてしまった。

(家が、ない?)

母と過ごした家での日々が頭を駆け巡った。そして、キッチンでの光景に行きつこうとしたその時、太い声が部屋中に響いた。

「おい、止さないか」

一人は恐縮して肩をすくめた。そして、それをごまかす様に両肩を持ち上げ、やれやれとため息をついてみせた。

 一瞬の緊張感の後、部屋は静けさを取り戻した。

 碧は自分の頬に涙が伝うのを感じた。泣くつもりは微塵もなかったが、それは自然とこぼれ落ちた。

「碧くん?」

看護婦の声を聞き、碧はゆっくりと目を開いた。

「いつから?」

「……入ってくる少し前から」

中年の男性がもう一人の少し若い男性を睨みつけたが、彼は面倒くさそうに頭を掻くだけだった。

「こちらはね。警察の方よ。ちょっと待って、すぐに先生を呼んでくるから」

看護婦が紹介すると、中年の男性は腰を上げ、手帳を開いた。

「中村警察署の菅です」

菅は坊主頭であごひげを生やしていた。一見怖そうな容姿だったが、目がとても温かく、きっと良い人だと直感した。

「そして、こちらが部下の井本です」

菅が顔を向けると井本はため息交じりで頭を下げた。井本の容姿は細身で眼鏡をかけていた。一見は一流のビジネスマンで少し冷たい印象を持った。

「さっきの話」

涙も拭わずに碧は小声でつぶやいた。

「ん?」

「帰る家がないってどういうこと?」

呼吸器越しで聞き取りづらかったが、その場にいる全員が意味を理解できた。

「大丈夫。気にしなくていい。それより君は身体を良くすることを考えて」

菅が言うと、部屋を出ようとしていた看護婦も振り返り大きくうなずいた。

 碧は井本の顔を見つめた。井本は落ちている薄汚れたものを見るような冷たい目で碧を眺めていた。

「家がないって……」

繰り返し尋ねる碧に対して、口を開いたのは井本だった。

「君はね、碧くん。捨てられたんだ。アパートが引き払われていて、お母さん失踪中です」

予想できた内容だったが、碧の心の奥深くで糸が切れるような音がした。

 軽い調子で答える井本の頬を菅の平手が飛んだ。

「いい加減にしろ。何だ、その言い方は」

菅は井本の胸ぐらを掴むと、部屋の外へと連れ出した。

 碧の瞳から涙が出ることはなかった。怒りもなく、悲しみもなく、心には空虚感が満ちていた。

「大丈夫よ。今、警察の方がお母さんを捜してくれているから」

いくら慰めの言葉を聞いても、碧の心には届かなかった。

 菅は一人で戻ってきた。そして、看護婦と菅は極力明るく振舞った。しかし、碧は何一つ聞いていなかった。碧は自分が空気に溶け込むような感覚を持ちながら、いつの間にか眠りについていた。


 碧が意識を取り戻して一週間が経った。リハビリを行うつもりはなかったが、半ば強引に体を動かされ、一人で身体を起き上がらせることくらいはできるようになっていた。

 自殺未遂をした碧は一般病棟とは別の病室に入院させられていた。部屋にはベッド以外に固定された椅子が一つあるだけ。ナースセンターからは一番近く、碧は看護婦が慌しく働く音を聞きながら、四六時中、十センチ程度しか開かない窓から外を見ていた。

 緑の多い病院で、病院の敷地には一面芝が広がっていた。入院患者の多くが木陰になったベンチに座り、外はまるで公園のように明るい雰囲気だった。

 それは今の碧にとって不快に感じる光景だった。笑い声は自分への嘲笑に感じ、幸せそうな姿は自分に孤独を突き付けた。

 それを物語る様に病室を訪れるのは菅と看護婦だけであった。一度だけ高校の担任が訪ねて来たが、プリントされた退学届けにサインを書かせると、何も言わずに去っていった。

 未だ母親は見つからず、碧は孤独と不安の中で震えて過ごした。今度こそ自殺をしてしまおうか、そう思うも、あの時の痛みが思い返されて怖くてできなかった。

 碧は毎日のように布団を握り締め、涙を溢した。

 生きる意味は何なのだろうか? そんなことを思いながら単調に過ぎる日々を過ごした。次第に感情がうまく働かなくなっていき、周りの人が皆案山子のように思えてきた。

 そんなある日の昼下がり、穏やかな光が窓から射しこんだ。


                    生きているのがつらいって

                    死のうだなんて 思わないで


 碧は心をなくしたように呆然と過ごしていると、風に乗って外から歌声が聴こえてきた。

 碧は追いかけるように、外に目を遣った。

 病院の隅の方、一番大きな木の影になったベンチ下。そこには黒い服に真っ白なカーディガンを羽織った車椅子の少女が鳥たちと一緒に歌っていた。

 時折フワリ舞い上がるカーディガンはまるで羽根のように柔らかく宙を舞い、その天使のような姿に空っぽになったはずの碧は思わず見とれていた。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ