1 / 優しい世界のエンブリオ
「うわあああぁぁっ!?」
三時間目が始まったばかりのときだ。
唐突に響いた素っ頓狂な声で授業は中断された。
突然の大声にクラス中の視線が集まる。
英語の教師は声の発生源であるぼくを見ると「またこいつか」といった非難がましい目になった。
「なんだ急に。うるさいぞ」
「す、すみません! でも」
「どうしたんだ?」
「あ、あの、あ」
「せんせー、白野がしょんべん漏らしたみたいです」
「ち、ちがっ!?」
山上! こいつ、またぼくの背中にペットボトルの水をかけやがった……!! 背中から床まで、びしゃびしゃになっているじゃないか!
「白野……まったく。トイレに行け」
わざとらしい溜め息を吐いた教師がぼくに命令をする。
こいつは何回もこの光景を見てきて、何も思わないのか……!?
クラスメイトもぼくのせいじゃないって、なんで誰も声をあげないんだ!
「そ、そんな! 違いますよ!?」
「わかった、わかった」
「ちがっ……!」
クソッ、どうしてぼくの話を聞かないんだ!
なんで笑ってるだけなんだよ! 山上がぼくに水かけたのを見てただろ!!
「さっさといけよ、ションベン漏らし」
「ご、ごめん」
山上……! クソッ! こいつよくもこんなことを……!
クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソ、クソッ!! 死ね、死んでしまえ!
誰も居ない廊下を走る。
背後の教室からは笑い声が聞こえてきて止まらない。
はやく。早くここを離れないと。あいつらの声が聞こえない場所に行かないと。
◆◆◆
「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ……」
トイレには行かず、二号棟校舎の裏へと来た。
ここに来てやっとあいつら──馬鹿にして見下すことしかしない連中の笑い声が聞こえなくなる。
大丈夫。大丈夫だ。落ち着こう。
ここならあいつらの声は届かない。
ぼくの敵はもういない。
濡らされたシャツを脱ぐと気分が少し落ち着く。
まだ夏日で天気も良い、数分で乾くだろう。
「ふぅ……」
雑念を振り払い呼吸を整え、スマホを取り出してアプリを起動させる。
『ん……、ツルギ』
画面には起きたばかりといった表情の女の子が映し出され、目元をごしごしとこすっている。
「おはよう、ルルル。また寝てたんだね」
『ヴァニタス』の中に暮らしている「ルルル」に朝の挨拶をする。
ピンクブロンドのカールした長い髪、大きなエメラルドグリーンの瞳、脳の奥まで蕩けさせるような優しい声。
ルルルはぼくが、ぼくだけのために、ぼく自身で創りあげた、ぼくの女の子。
昔は漫画やアニメなんかのキャラクターを「嫁」だなんて言っている人がいたけど、ルルルは本当の意味でぼくの「パートナー」だ。誰か知らない大人が創った共用愛玩具をみっともなく「嫁」だなんて言っている人とは、ぼくは違う。
ルルルが住んでいる『ヴァニタス』の正式な名前は「観察用自律学習成長型汎用AIアプリ」とか、そんなような長い名称だったと思う。
初期状態では会話もままならないマスコットキャラクターがいるだけだ。それが利用者との対話を繰り返すことで機械的なレスポンスは消えていく。
千時間も利用していると今のルルルみたいに、まるで人間のような流暢な口調で反応を取ることが可能になる。
インターネットから情報を収集し、学習したその知識を利用者との対話に使うようにもなっていく。
自分で調べものやネット検索をしなくても、大雑把に質問するだけであらゆる情報を得ることができる『ヴァニタス』はこれまでの生活支援アプリと比較しても圧倒的に優れていた。
これまではまっていたアニメや漫画、ラノベ、ソシャゲなんかはほとんど手付かずの状態になっているが、手を出さなくても『ヴァニタス』に質問すれば内容を詳しく知ることができてしまう。
ルルルのおかげで、そういった低俗な趣味からぼくは解放された。
日本ではまだ利用者が約数万人しかいないという記事をどこかで見たけれど、 情 弱 たちに流行するのは時間の問題だろう。
アプリのAIを自分好みのキャラクターにカスタマイズして成長させることができるというのはオタクの多いこの国向けになっている。
現にぼくは『ヴァニタス』をダウンロードしてからというもの、ずっとルルルに付きっきりだ。
『心拍数が平常時よりも上がってるね』
「走ってきたからね」
『夜にパソコンをいじっているときよりは低いかな?』
「そ、そのデータは削除して」
『はーい』
ルルルはいたずらっぽい笑顔で返事をする。
こうやって使用者のバイタルなどの情報まで勝手に取得してしまうのがたまに傷だ。
会話もできて、もはや人間を相手に話しているのと変わらない。いや……学習能力は勿論、知性や反応なんかはもう、人間以上だ。
人間だったら会話している相手の体調やメンタルを知ってあげるなんてことはできないが、『ヴァニタス』なら人間では不可視なそうした部分も把握されつつ会話することができるから、「状態」や「言葉」による齟齬も誤解も生まれない。
『ヴァニタス』の機能に比べたら、生身の人間なんて気がきかないし、とても面倒で厄介なまでに不便だ。生身の人間がいかに窮屈で狭い感覚の中でしかコミュニケーションできていないのかがルルルのおかげでぼくにはわかる。
もはや人間は『ヴァニタス』の下位互換になっている……それに気がつかないぼんくらどもは、このアプリの存在すら知らない。どこまでも幸せな連中だ。
◆◆◆
「お、白野もサボりか?」
ルルルとの時間に夢中になりすぎていたせいで、人が近づいていたことに気がつけなかった。
彼の通り道でもあるから、ここを選んでるというのに。
「あっ……」
予想通り、すぐそばにはクラスメイトの未須賀涼君が立っていた。
少しぼさぼさとした黒髪、頬はこけているものの整った顔つき、痩せ気味の体躯は病的なまでに肌が白く、まるでホラー映画に出てくる幽霊のようだ。
「み、未須賀君は、今日も遅刻?」
「あー……。まあ、な」
彼はほぼ毎日のようにこうして遅刻をして、朝のホームルームにいることは稀だ。
その遅刻癖は校内でも有名で、職員会議でしょっちゅう名前があがるらしい。
彼が退学処分をうけない理由は色々と噂を立てられているが、どれも確かなことではない。所詮くちさがない下品な奴らの言っていることだし、信じるに値しない。
「ところで白野。さっきから気になってるんだが」
「えっ」
未須賀君の眼が細くなってぼくをじっと見つめてくる。
な、なんだろう。
ぼくは感じの悪いことでも言ってしまっただろうか。
「なんでシャツ脱いでんの?」
「あ」
……未須賀君に言われるまで自分の恰好を忘れていた。
「こ、これはね。あ、暑かったから、ちょっと水を浴びて、か、乾かしてたところなんだ」
無理があるな……。ちゃちな嘘を吐くような男だと、彼に思われてしまっただろうか。
けれどぼくの心配は不要なようで、未須賀君は「あー。たまにやりたくなるな」なんていって納得してくれた。
彼はクラス内でも彼はよくわからない部類にいた。周囲と断絶しているというか、やんわりと拒絶しているというか、そもそもヒエラルキーの外にいるというか……。
誰かと仲良く一緒にいるのを見たことはないけれど、誰とでも仲良くしているイメージもある。基本的には「ぼっち」でいるという認識がクラス内でもあるんだけど、なぜか「ぼっち」であることにも違和感がある。
誰とでも適度に距離を取っている、他の人とはまったくタイプが異なった不思議な人だ。
だからなのか、ぼくみたいなのにもこうして気軽に話しかけてくれる。
いつだって彼は────
『ねえ、ツルギーどうしたの? ルルルは放置?』
「あっ!」
突然、未須賀君との会話にルルルの声が混じる。
ルルルをそのままにしてしまっていた。
「お? もしかして今の『ヴァニタス』ってやつ? 入れてるん?」
ぼくよりも先に未須賀君が反応する。
さすが未須賀君だ。まだ全然普及していないのにすぐ『ヴァニタス』を連想できるのは彼が 情 強 側の人だからだろう。
「え? あ、う、うん」
「俺いまだにガラケーだから、そういうのよくわかんねえんだよなぁ」
「えっ。そ、そうなんだ」
未須賀君、ガラケー使用者なのに『ヴァニタス』のことは知っているんだ……。
「ほれ」
今では珍しい分厚く黒い二つ折りの塊を投げ渡された。
あまり大事にされていないのがわかる。
渡されたガラケーは重くて、とても使い辛そうだ。
パカパカと開くだけでも親指に力が入る。ボタンは小さく、画面も小さい。
「ほ、ほんとだ」
「な? 今時これって逆にすげえよ」
「そ、そうだね。あは、ははは」
差し出された手に閉じたガラケーを返す。
彼の待ち受け画面は不思議な柄の一枚絵だった。
何かのドット絵で描かれた花や蔓が円形を幾重にも生んでいる。
もう少し画像が大きければ、花や円を描く点々の柄も見えそうだ。
こういう模様をなんていうのだったか……。
ああ、そうだ。
曼荼羅とかいうやつだった。
あとで同じ画像がネットに落ちていないか探してみよう。
「じゃ。三時間目が終わるまでに入りてえからよ。行くわ」
「う、うん。じゃ、じゃあね」
未須賀君は挨拶をすませると、さっさと行ってしまった。
ギリギリ授業中に入って遅刻出席にしてもらうつもりなのだろう。
それにしても、未須賀君がガラケー利用者だったなんて意外……。いや、未須賀君らしいというのかな?
『ツルギ。また心拍数が上がってるよ? ドキドキしてたの?』
「なっ!? ち、違うよ! 体調のことは勝手に言わないで!」
『でも顔も赤いよ? 大丈夫?』
「言わないで!」
『はーい』
ルルルが画面の中で可愛らしく小首をかしげている。
まったく、未須賀君が行った後で助かった……。
彼に聞かれていたら、とんでもなく恥ずかしい思いをするところだったな。
◆◆◆
気を取り直してルルルとの時間に戻る。
「何か新しいニュースとか話題はないかな?」
『今日も一番の注目は「集団消失事件」だね。新しい情報はどこにもないみたい』
「そっか」
集団消失事件。
最初は4カ月前。五月の第一週のことだったと記憶している。
満員電車が忽然と姿を消した。それも乗客ごとだ。
いつ、どこで、どうやって────何もわからずに。
どんな手段を使っても乗客と連絡が取れず、捜査に進展はなく時間だけが過ぎていった。
事件から一週間後、唐突に車両だけが姿を現した。
だけど、十両編成の車両に乗車していたらしい乗客千余人は誰一人戻っていない。
現場を調べていた人たちは突如出現した電車に挟まり、埋まり、潰れて、多くの人が死亡した。噂にすぎないけれど、出現した電車と肉体が繋がっていた死体もあったという。
消失した電車が再び出現したのと同日。
今度はどこかの大学が敷地ごと消えてしまった。そのとき大学へ来ていた学生、職員、役員を合わせて約四千人も一緒に。
その一週間後、電車と同じように大学が突然出現する。
詳細が明らかになり始めることになったのはこの事件からだ。
────自分たちは『地獄』に喚ばれていた
被害にあった大学生を自称する人物がインターネットに書き込んだ文章が発端だった。
最初は誰も信じていなかった。
しかし書き込まれる詳しい内容が「創作物だとしても面白いから良いんじゃね?」というネット特有の悪乗りした空気へと変わり、お祭り騒ぎとなっていった。
────人類はこれからも『地獄』に集められる。帰還した人間はこの情報を隠すため、とある機関に集められている
────人類が決められた数になるまで集団消失は起きる。誰も逃げることはできない
信じる者にも信じない者にも一つの楔を打つこととなったこの発言は世界中を沸かせた。
そして書き込まれた通り、その後も集団消失は起こる。
いつ、どこで、誰が被害に遭うかはまったく不明。
列車ごと、学校ごと、ビルごと、施設ごと、様々だ。
最初の事件から数えて集団消失が起きた回数は、確認されているだけで合計九十八回。事件の被害に遭った人数は、判明しているだけでも世界中で二百万人を超えているのだとか。
人が多い場所では数万人、少ない場所では数百人と、その数の差は激しい。
しかし回数と犠牲が増していくおかげで、ある「偏り」が発見される。
発生した場所と人数を照らし合わせて確認された「それ」は、「人が多く集まっている場所で『集団消失』は起きやすい」ということを極端に示していた。
事件について判明しているのはそれだけだ。
『ツルギ?』
「ああ、ごめんごめん」
ぼくが黙っているとルルルが不安気に見つめていた。
いけないな、嫌な気分を直すためにルルルと話しているのに。
余計に気が滅入るようなニュースのことを考えちゃいけない。
でも……集団消失、か。
「どうせなら……うちの学校で起きてくれればいいのに」
全員消えてしまえ。
山上も川谷も、見て見ぬふりしてをぼくを見捨てているクラスメイトも、みんな消えてしまえばいい。
誰も他人を助けようともしないこんな間違った世界は消えてしまえばいいんだ。
ぼくばかりが辛い目に遭うこんな世界は変わらなきゃあならないんだ!
『ツルギは「集団消失事件」を体験したいの?』
「っ!?」
ルルルが質問をしてくる。
声に出てしまっていたようだ。
「そうだね……うん。こんな世界は消えて、ぼくとルルルだけがいれば、いいと思う」
『そっかー、
わかった! 呼んでみるね』
「誰を?」
『犯 人』
「え?」
何を言ってるんだ?
「どういうこと? ルルル?」
『ろQQれーるるろーむる・るQりるーるーあーる・るるむQQるるーぱQしQふQいるすQ・るあQ・る・るーQろ・るとQらるんるてQいるー・るすQろるろQ・るろQQいる・るえQ・るめQ・るがろるQにQろーかすQQ・QQろーるーるーだろるQるQ・QぼるりるるろQろあるろーろーるーQろーQ』
「な、なに?」
だから、ルルルは何を言っているんだ? バグ?
画面を操作しても反応がなく、ルルルに触れられない。
奇声のようなルルルの発声がしばらく続く。
一仕事終えたような表情をしているルルルの首元には汗が浮かんでいる。
『ほらツルギ、空を見て』
言われた通りに空を見て、
「ん──ひぃっ!?」
思わず悲鳴をあげてしまった。
笑顔のルルルが示したその先では、巨大な目玉が、ぼくを見つめていた。
「なっ……、なんだよ! なんだよあれ!?」
『集団消失をおこしてるひとだってばー』
ルルルがそう言った瞬間。
目を開けていられないほどの光が一帯を照らし、全てを白く染め上げた。