千年桜の木
私が私を私と認識した時のことをはっきりとは覚えていない。気が付けばそこに立っていた。私の幹が何本でも入りそうな大きな大きな先住者たちが天を覆い尽くした緑の手を風になびかせている。私は木だ。まだ生えていくらもしない「しだれ桜」であった。
私はまだ小さい。鹿のひとかじりで主幹は倒れ、猪のひと踏みで地になぎ倒されるだろう。生きるために私は天を見上げ続けた。ただ力をくれる陽光に向かってその手を伸ばしていった。
そうこうしているうち、私の周りでは大きな変化があった。私が、背伸びした熊の頭の高さほどに大きくなった頃である。鹿でもなく猿でもない。二本の足で地を踏み、両の手で物を器用に操る者たちが現れた。
人と呼ばれたその者たちは、どんな太い木であろうと根元から切り倒し始めた。熊にも簡単に壊されそうな者たちが、熊にすら出来ないことを簡単にやってのける。私は戦慄した。自身も周りと同様の運命を辿るのではないかと。しかし人は私に手を掛けることはなかった。只、私の小さな手に咲き始めた花を嬉しそうに眺めていた。
私はさらに天へと伸びた。そよ風でも倒れそうだった幹は人の子が三人寄って抱いても一周できず、人の築き上げた村を高みから見渡せる程に。人の動きは見ていて飽きない。切り倒した木々の身体で組み上げた箱の上に草を乗せたものに住み、広大な土地で稲とやらを育てる。そして人同士で時に争い、時に手を取り合う。私は人のことが好きになっていた。
彼らは私の根元に石で作った家、ほこらを私のために用意してくれた。私意識が薄桃色の着物のを羽織って人の体をなしたのはその時である。もっとも人の目には見えないようであったし、大きさも花輪程度であったが、それでも私は嬉しかった。夏は私の作った木陰で共に休み、秋は人の作った稲の収穫を祝って踊り、冬はそれぞれの家でじっと春を待つ。そして春には私の体に流れる薄桃色の滝を共に眺めた。
楽しい時間、幸せな日々。しかし人は私に比べて生が短い。私の咲かせる花のように短い時間をめいいっぱいに輝いていた。私はそんな彼らがすこし羨ましかった。しかしそれは叶わぬ願いで、せめて私は彼らの生き様を見守ろうと決めた。
何度冬を越したか、どれだけの人の死を見届けたか。人はあれから増えに増え続けた。同時に私も成長してる。人の世に関する知識も増え、樹高も人のいう四〇メートル程になっただろうか。私の眼下には黒煙を噴き上げて走る汽車が走り、人の家の中には声の出る箱やらが置かれるようになった。
お天道様のような笑顔の少女に出会ったのはその頃である。その少女は毎日のように私の下を訪れ、その日あったことを話していった。何が楽しかったとか何が悲しかったとか。いつしか私は年端もいかぬその少女に初めて恋をした。見えないのをいいことに彼女の肩に乗り、彼女の話に枝々を揺らして相槌を打つ。
夏は彼女のために木陰を作り、秋は彼女のために葉を色付かせ、冬は彼女のために寒さに耐えた。そして春は彼女のために轟々と流れる桜色の大滝を咲かせた。馬鹿らしいとは思っている。私は木で、彼女は人だ。それに私の体は既に朽ち始めている。大きなムロだってこの身に宿している程。
それに反して彼女は日を追うごとに美しくなっていった。黒く流れる艶やかな髪も、光に満ちたその瞳も息を呑むほどに美しく、私はさらに叶わぬ恋心を膨らませていった。そんな秋の暮、恋人が出来たのだと彼女は言った。いつか来るだろうと思っていたこの時。私はそれを受け入れられた。ただ純粋に彼女の幸せを願い、良い人と巡り会えた彼女の溢れる微笑みに心から嬉しいと思えた。
それから数えたこともなかった年数を数え。それが一〇となった時、少し皺の入り始めた彼女が久しぶりに私の下を訪れた。優しげな夫と二人の面影を残した双子の兄妹。笑顔で身を寄せ合う家族が私に色々なことを話してくれた。ああ、幸せそうでよかった。
それから、この一家は毎年私の花を見にやってきた。それに私は減りつつある花を懸命に咲かせて出迎え続けた。それでこの家族が幸せで有り続けられるならと。
いつの間にか世の中は変わっていた。木が丸出しだった家は様々な色のものへと代わり、載っていた草は平たい石に変わった。黒煙噴き上げる汽車も今では電気とやらで走っている。彼女はもう杖をつく歳だ。子供二人はそれぞれに家庭を持ち、夫は少し前に旅立ったという。
彼女は昔のように毎日私の下で過ごすようになっていた。何も言わず、ただ風の流れを肌で感じる日々。私はそんな彼女の肩に乗り、風にしだれた枝を揺らめかせるだけ。そうした日々も長くはなく、じきに彼女は私の下に来ることはできなくなった。彼女の子供らによるともう老い先長くないらしい。人とはなんと儚いものか。私は初めてさざ泣いた。
その年の冬。彼女は子供の手によって押される車椅子に乗って再び私の下を訪れた。これが最後になるのだろう。彼女の命も私の命も。ならば花を咲かせよう。彼女の為だけに、たった一輪の花を。もう春になっても申し訳程度のの花しかつけられない私は、全身にある力を一点に集約する。
木枯らしの吹く中、彼女の目の前に薄桃色の小さな花が開く。咲くと同時に散りゆく花弁にありったけの想いを乗せ、彼女の元へと送った。五枚の桜色を纏った彼女は何も言わず、私の手の先をそっと握った。そうして流れ込んできたのは彼女の想い。ただ、ありがとうと。
その翌日、彼女は散りゆく枝垂れ桜のように静かに息を引き取った。ああ、人とはなんと儚く脆いものだ。そしてなんと眩しいのだろう。しかしもう私も潮時のようだ。願わくば来世というものがあるのなら、人としてまた彼女と会えんことを。