真夏の夜の
この街はかつて港町として栄えていた。
今でも微かにその名残はあって、それほど大きくはない港には、コンテナを積み下ろす船が時々停泊する。
山から海へとむかってなだらかな傾斜がついていて、海に向かう道が山側から扇子の骨みたいに放射状に広がる。多少蛇行はしているものの、その扇子の骨の一本は割と大きな川で、地図で見れば海の水が山へと吸い込まれているようにも見える。扇子の骨を横切るように線路が一本走っていて、港町によくある通り、線路から海側が市街地、山側が住宅街になる。標高が高くなるに連れて徐々に家がまばらになり、お寺や神社や教会が並ぶ。
山から見下ろした街は川と線路と大通りで区切られたモザイク画にも見えた。古い洋館が立ち並ぶような大きな港町ではないけれど、昔からある街で、雑多な家々が、それでも道の切り分けに従って整然と並ぶ。
海では港に停泊する大きなコンテナ船がランドマークのように立ちはだかり、大小の漁船が青い絨毯の上に白い貝殻を散らしたかのように点在していた。
さらにその奥の水平線を見渡せば、深青と薄青の境目はまさに世界の切れ目なのだと実感させられるのだ。
夏に蜃気楼が起きると水平線が揺らぎ空と海が混ざりあい、冬には海上の靄で水平線がかき消される。
都会の賑やかさはないけれど、静かな漁村でもない、そんな街が俺の地元だった。
その年の盆のことはよく覚えている。高校2年生の夏休みで、俺は初めて出来た彼女に浮かれていた。海沿いの道を自転車で二人乗りして走って、砂浜のある海岸まで行って、波打ち際で水をかけあって遊んで。夏休みの青春のテンプレートみたいなことをしてた。
「ねぇ、大輝、灯籠流し、一緒行こう?私、浴衣着たいし。」
上目遣いにされたささやかなお願いは、浴衣というキーワードがなくとも願ったり叶ったりの内容ですぐに頷く。この街、盆の入りには迎え火を焚くが、送り盆には山の寺の近くから灯籠流しをするのだ。地元で盆の夏祭りといえば、川沿いにやるものだった。いつもなら、夜遅くまで出歩ける口実としか楽しみにしていなかった夏祭りが、その年は何よりも楽しみにしていた。
その年のことをよく覚えているのは、それだけ心待ちにしていた夏祭りが台風で中止になったからだ。台風が来る前から雨模様だったのだが、夏祭りの日は直撃だった。それだけなら延期だったのだろうが、祭りの会場である寺の境内で、大きな木が一本台風で倒れて、中止になったのだった。なんといっても、台風一過の空は楽しみを奪われた悲しみを嘲笑うかのようにいっそ透き通った秋晴れの空だったのをよく覚えている。
朝に起きて清々しくも憎たらしい空を見上げた後に項垂れて朝食の席につけば、テレビのニュースで台風の行き先や被害が取り上げられていた。自分の身に起きた被害を悲しんでいた俺は、テレビから耳慣れた地名が聞こえて初めて意識をそちらに向ける。映されたのは見慣れた河川敷の風景。
『高校生が増水した川に転落し、今朝死亡が確認されました。』
―うわっ、そこの川かよ―
『死亡したのは、タカハシヒロキくん15歳で....』
一瞬、自分の名前が呼ばれてドキッとした。両親と兄がぎょっとしてこちらを見る。両親はきっと亡くなったタカハシヒロキの両親の心痛を思っていたのだろう。微かに辛そうな顔をしていたが、兄はふざけて
「足ついてるから、こっちのヒロキは幽霊じゃないな。」
なんて言っていた。足がついていることを思い知らせるように、兄の足を蹴って朝食を口に運ぶ。
「何で、台風の日にわざわざ川とか海とか近づくんだかなあ。毎回必ずいるよな、水路の様子見に行ったとか、山の様子見に行ったとかで死ぬ人。どうせ、見に行ったってしょうがないのにさ。」
例え同じ年頃の高校生が水難事故で亡くなっていても。例え同じ街の中の出来事だったとしても。時折、そういえばと思い出すことがあったとしても。結局、俺にとっては他人事ですぐに日常の中に埋もれてしまうような些細なことだった。
でも、それは誰かにとっては掛け替えのない誰かで、失った人の代わりに残るのは一生の喪失感なんだと苦い教訓として後から思い知らされる。
かつてあった悲劇が日常に埋もれた頃。
大学に入ってモラトリアムを満喫していた夏。
盆の混雑を避けて早めに帰省しては地元に残っていた友人や、同じように帰省していた友人と毎日遊び歩いていた。夏休みとはいえ盆にはまだ早い平日に、海にいるのは小から大まで「学生」とつく類の人ばかり。その中で、昼間からビールを飲み、ゲラゲラ笑いながら馬鹿な遊びをしている俺達は間違いなく質の悪い部類にいた。
そのうち誰かが隣にいた女の子のグループに声をかけていた。ちょっと派手だけど可愛い子達ばかりで、海に着いた時から少し気になっていた。誰にでも声をかけるような性格が逆に災いしてか、俺らのグループで彼女がいたのは一人だけ。
一夏の恋でも良いから、女の子と遊びたいと思っていて当然だった。
だけど。
「なんで俺がビール買いに行ってる間に仲良くなっちゃってんの?」
女の子は三人、こちらは四人。一人あぶれる。
「タカヒロがいたら取られちゃうじゃん。だから、ちょっと早めにスタートダッシュしただけだって。」
「スタートダッシュ早すぎ。なんでもうスマホ振ってんの....」
完全に置いてきぼりを食らった。
―こいつらの分のビールも飲んでやろうか―
「タカヒロ君のも教えてよ」
一人の女の子が声をかけてくれる。
「あ、もちろん。」
そう言ってスマホをとろうとしたとき、後ろから声がかかった。
「ごめん、待たせて。間違って反対側行っちゃった。知り合い?」
「香奈!隣にいた人達だよ。大学行ってるけど、お盆で帰ってきたところなんだって。」
―オチた―
自分でも分かった。
突然、身体中の血の巡りが早まり、心臓がその存在感を主張する。彼女だけに色がついているかのように、周りに注意が向かなくなる。
綺麗な感じの子だった。言い方は悪いけど、少し幸薄そうな感じの美人。他の三人とはちょっとだけ雰囲気が違った。黒いウェーブがかった髪が、薄い水色のワンピースによく似合っていた。時折伏し目がちにする表情が、なんとも儚げというか悲しげで、目が離せなかった。陰のある笑顔が、庇護欲あるいは加虐心というべきか、雄の部分を煽るのだ。もし、その陰が計算された罠なのなら、躊躇いなく飛び込んでも良いと思う。
「タカヒロ!花火ってどれくらい買ってある?みんなでやろうよ。ね?」
こういう時、一番、調子がよいケンタが遠くから叫んでハッとした。
「結構大量に買ってあるから!どうする、ちょっと早いけどもうやっちゃう?」
頭が花火のことに取られたせいで、すっかり連絡先の交換を忘れていた。
太陽が半分以上海に沈み、急に薄暗くなって感じられると、花火が鮮やかに浮き上がってきた。
火を点けてから僅か十数秒。パッと勢い良く広がる火花は、徐々に色を変えて大きくなる。あるいは静かに花を咲かせていたものが、夏の盛りに勢いづけられるかのように大きな花を沢山つけた。けれどもつかの間の輝きは唐突に失われ、残像を名残惜しむように橙色の火の粉をはらりはらりと落として闇に消える。
うっすらと太陽が横に間延びして赤い線になり空と海の境目を生み出していたのだが、ちょうどその時。夏の一日が海の向こうに消えて、夜の帳が下りた。反対側では満月が顔を出そうとしている。
―こんな歌、あったな―
そう思っていたら、みんなの花火が消えて、あたりが一瞬静かになったとき、遠くから小さな子が、まさにその歌を歌うのが聞こえてきた。
再び誰かの花火に火がついて、また明るい夏の夜が訪れた。
ふと見れば、香奈と呼ばれた子は水色のワンピースを潮風揺らして、消えた花火を右手に持ったまま、ぼうっと海を見ている。花火の光で視界がチカチカしてたからはっきりとなんて見えなかったけど、泣きそうな顔をしていると思った。
「どしたの?はい。」
そう言って新しい花火を渡す。
声をかけられて初めて、自分がぼうっとしていたのに気がついたのかもしれない。随分と驚いた様子でこちらを見た。
「ありがとう。」
同時に火をつけた花火は、短命でいて美しい花を咲かせて砂へと消えて行った。その間、二人ともじっとその火花を見ていただけだった。みんながまだ長いタイプの花火をやっている内に、一足早く線香花火を手にとる。種火のろうそくを挟んだ向かいでは賑やかに花が咲き、俺達はその灯りから逃れるように影の中で線香花火に火をつけた。
パッ、パッと小さな金色の花が刹那の輝きを見せる。その花を眺めながら、波の音を聞いていると、先ほどの子供の声が蘇った。
隣から小さな歌声が聞こえた。
「今、俺も同じ歌、思い出してたよ。」
そう言うと、小さな灯りに照らされた悲しげな表情が恥ずかしそうにくすりと笑った。
ぽとりと力を失った線香花火の玉が落ちて、二人の間に沈黙が満ち、波の音と潮風が通り抜けて行く。もう一本、線香花火を点けて、そこから立ち上る火薬の匂いと玉が出すじりじりという音に耳を澄ませた。隣でも、また線香花火を火にかざしていたが、火薬が丸まって出来た玉は花を咲かせることなくぽとりと落ちた。砂の上でただの黒い粒になったそれをじっと見つめていたその子が口を開く。
「タカヒロ君は、海の向こうには何があると思う?」
「え?」
聞かれている内容が分からず、一瞬戸惑った。やけに潮の匂いが鼻につく。
「もちろん、地球が丸いってのは知ってるよ?そうじゃなくて。夢とか想像とか。」
大した返事が思いつかず、そのまま素直に
「分かんない」
と、答えた。
そんな事を言って来るような女は正直好きじゃなかったし、頭がどこかおかしいと思う側の人間だったけれど、気がつくと聞き返していた。
「何があると思うの?」
夜の波音と闇に浮かぶ悲しげな表情のせいで、俺自身が驚く程、静かに答えを待っていた。
その子はまた新しく線香花火を取りだしたけれど、それもまた火花が散る前に玉が落ちてしまった。
ただの紙くずになった線香花火を見てふっと笑うと、種火にしている蝋燭に線香花火の反対側を近づけた。ひらひらと金魚の長い尾ひれのようなそれは、思いの外簡単に炎に包まれる。花を咲かせることも無く消えた線香花火は、花を咲かせるはずだった未来を主張するかのように明るい炎を上げた。手元に宿ったオレンジ色の揺らめきに照らされたその子は、一体炎の中に何を見ていたのか。やがて、炎がゆっくりと線香花火をつまむ白い指先へと降りてくると、おもむろにその指先は咲くはずだった花を手放し、夏の夜を彩っていた色鮮やかな紙はただの灰になって潮風に飛ばされて行った。夏の夜の灰もきっと砂に混じって消えてしまったのだろう。
またさっきと同じように長い髪を揺らしながら、夏の夜の欠片が消えた暗闇をしばらく見つめていたが、
「私ね、きっと天国があると思う。」
静かにそう言うとゆっくりと顔を反対側へと向け暗い海を眺める。釣られる様に俺も海へと視線を向けた。
黒く蠢く波間では時折きらりきらりと漁船の光が星を挑発し、すっかり闇色に覆われた空では負けじと、あるいは月が姿を現す前にと一等星や二等星がきらめきを競う。古では人は死ぬと魂になり、魂は天に召されて星になったとも言うが、果たして星が海に落ちたのか。それとも海から空へと吸い上げられたのか。
蜃気楼などなくとも、今日の海と空は一続きで、水平線の向こうに天国があっても不思議でなかった。
でも、どうしてそんな風にと尋ねようとした時。
「うわっ。」
「きゃっ。」
ひゅんと何かが飛んできた。
「おい、タカヒロ!何二人でイチャイチャしてんだよ!」
「香奈も!ロケット花火やろう!」
飛んできたねずみ花火は飛び回った勢いで自ら海に飛び込んで行った。呆気に取られて、思わず顔を見合わせて笑うと、最後はロケット花火を打ち上げながら皆で大騒ぎして、笑い疲れて海を後にした。
「楽しかったよ、またみんなで遊ばない?盆の間はいるんでしょ?」
ケンタが後ろ向きに歩きながら言った。海岸から家へ向かう道は必然的に上り坂になる。小学生の時はよくふざけて後ろ向きに歩いて帰ったものだ。大体、一人くらい電信柱にぶつかって…なんて思い出していたら、案の定ケンタがぶつかった。
「うん。みんなもいる?」
女の子の一人が他の三人にも尋ねれば、三人とも頷いていた。思いがけず楽しい盆休みになりそうで、心が躍る。そういえば、俺だけが連絡先を知らないんだったと思い出し、
「ねっ、連絡先教えてよ。」
そう言ってスマホを出す。が。
「げっ、電池切れてる。」
「いいよ、後でグループ作って入れとくから」
友人の一人が、慰めるように肩を叩いてきたが、また出遅れた気がして釈然としなかった。
次はスイカ割をしようとか、夏祭りに行かないか、なんて騒いでいる内に徐々にみんなが散っていく。最後まで坂を上っていたのは俺と彼女だった。自分の運の良さに日頃の行いを改めようと思う。
「あ、上側なんだ?俺も近いし送っていくよ。」
「ありがとう。」
家が近いだけあって、実は中学が一緒だったと知り、ひとしきり中学時代の想い出話で盛り上がった。山に向かっていた道を右に曲がり、住宅街へと入った時、彼女のスマホが震えた。
「あ、タカヒロ君ってこれ?」
表示されたアイコンはサングラスをかけた星が笑っている画像。
「そうそう、それ。」
―あれ?―
「そう言えば、名前ちゃんと聞いてなかったね。」
「鶴見香奈子だよ、みんな香奈とかてきとーに呼んでるから任せるよ。」
「じゃあ、香奈。」
「いきなり、呼び捨てとか軽いね~。ま、いっか。タカヒロ君は?」
「俺?あ、高橋大きいと輝くでタカハシヒロキ、略してタカヒ...」
途端に彼女の顔が強張った。
「どうした?香奈...」
「名前で呼ばないで!!」
叫び、と言うよりは懇願だった。
夜更けの住宅街の静けさが身体を切り刻むようだ。しばらく俺は動けなくて、呼吸の音でさえ苛立ちの対象なのではないかと息を潜める。
「ごめん。」
ぽつりと零れた声はどこか震えていて。
「ごめん。もう家、そこだし、一人で大丈夫だから。送ってくれてありがとう。」
丁寧な謝意は拒絶と同義で。暗い道をふわりと走り去った水色の残像を俺はいつまでも眺めていた。
最初、歌の歌詞を入れていたんですが、「まさか」と思って調べたら、なんと2024年まで著作権があると知って驚きました。
意外と新しい歌だったんですね。
それから、描写としては意図的ですが、調べもせず適当に満月とか書いていたので、こちらも調べてみたら、話として矛盾しないくらいの日付が今年の八月は満月だった様でまた驚きました。




