その少年の鼻は伸びない ④
沢渡の言葉を山川はずっと頭の中で復唱して、考えていた。
自分がなぜ嘘をついてしまうのか。なぜ無意識的に嘘をつき、それについて自分が悩んでいるのか。
沢渡の言葉を聞く前は、もしかしたら自分はあまり意味もなく嘘をついているのではないだろうかと思っていた。かなりの押し問答をした後に出た答えだった。それ以上考えたとしてもそれ以上の意味は見いだせないだろうと思い、半ばどうしようか迷っていた時に聞いた、沢渡の言葉。
――もし、僕が沢渡君と同じような理由で嘘をついていたとしたら。
それはなんて、理想的なことなんだろう。
沢渡は完全に嘘をつく相手のことを考え、そして傷つけないようにしていた。嘘をつくことによって、嘘をつかなかった場合のように空気を悪くすることもなくむしろ周りに乗っかることによって周りを楽しませることに成功していた、沢渡の子供時代。
今も、そうなのだろうか。
沢渡は、今も、誰かのために嘘を言っているのだろうか。
わからない。
――けれども、これだけは言える。
「沢渡君のような考え方も、ありなんだ」
ベストではないのかもしれない。ベター程度で終わるのかもしれない。しかし、それでも悪くはない。悪くはない考え方で、少なくとも今までのように不明瞭に嘘をつき続ける自分に嫌悪するよりは幾分もマシだった。
マシ、どころか。
救われた、と表現しても良いくらいだった。
誰かの気分を損ねないために。誰かを不幸せにしないために。――誰かを幸せにするために、嘘をつく。
そんな考え方を頭の隅においておけば、僕はもしかしたら今までの悩みから解放されるんじゃないか。そう、山川は思った。そんなような感情を、沢渡の言葉を聞いてからずっと持っている。テストの勉強具合を聞かれたとき――テストの出来の自身を言う時――沢渡に昼はどこにいっていたのか聞かれる時――飯島の印象を言う時――自分は、うそをついて彼ら彼女らを幸せにしようとしたのではないのだろうか。
不思議なことに。
そう考えると全てのつじつまが、合ってしまう。
合ってしまった。
もし、テスト勉強をしまくっていると本当のことを言った場合――本当にテスト勉強をしてこなかったかもしれない友人を傷つけていたかもしれない。やっぱりテスト勉強しなかった自分はやばいのではないか。そんな不安をテスト前に植え付けてしまう、かもしれない。だから山川は嘘をついた。
もし、テストの出来には自信があると本当のことを言った場合――本当にテストの出来に自信がなかった友人を傷つけていたかもしれない。このテストは山川にとっては簡単なテストで、自分にとっては難しいテストなのか。そんなことを思わせていた、かもしれない。
沢渡の場合も、飯島の場合も、同様――かもしれない。
かもしれない。
結局はもしかしたらの話で、かもしれないの話であって、断言は出来ない。もしかしたらテストに関して悪い印象をもっていた友人自体が嘘をついていた可能性だってあるのだ。考えれば考えるほど、誰が嘘をついているのかわからなくなるし、何のために嘘をついているのかもわからなくなる。
――じゃあ、どうしようか。
「だったら、僕が嘘をつく理由をいい方向に勝手に明確にしても、誰も何も思わないんじゃないのかな」
沢渡君が、そうだったように。
例え他の誰がどのような目的で嘘をついていたとしても、そんなことは知ったこっちゃないことなのではないだろうか。
大事なのは、山川が自身がつく嘘によって苦しめられていたことであり。
それが解消されるのならば、勝手に理由づけをして自身の平穏を確立させても――誰も文句は言わないだろう。
というより、言えないだろう。
なぜなら、あのカウンセラー以外――山川がなぜ嘘をつくのかというようなことで悩んでいたことを知らないのだから。
誰も知らないのなら、誰も知らないまま、自分の気持ちに嘘を吐く。
何故嘘をつくのかわからないなんて、嘘だ。
僕は、他の人を傷つけない為に――他の人を幸せにする為に、嘘を吐こう。
そう決意した山川は、沢渡の言葉を聞いた翌日。
普通に学校に出席していた。何の変化もない生活。普通に毎日学校に通い、普通に友達と談笑し、普通に勉強し、普通に生活している。映画研究部の撮影は今日も行われるのだろう。その時も、山川は今まで通り演技をして撮影に臨む。今思うと、演技と嘘の違いはなんなのだろうか。演技は自分とは違う人間になる行為だ、と山川は考えている。自分とは違う人間になる行為とは、すなわち嘘ではないのだろうか。もしそうだったら、自分が嘘をつき続けていたのは映画研究部の撮影のためなのかもしれない。もしそうだったら、自分は自分を最も生かすことのできる部活に入っているのかもしれない。だったら、偶然ではあるが映画研究部に入部してよかったと、思い始めた。
自己肯定。
山川にしてはかなりの期間ぶりに行った行為であった。
嘘をつかずに、自己肯定した瞬間。
チャイムがなり、山川は席を立ち、授業中は爆睡している沢渡の体を軽く揺らして起こし、そうだ昼放課だ飯食うぞと沢渡に言われ弁当を沢渡の席に持っていき、沢渡と昼ご飯を食べた後、トイレに行くため教室を出た。この休みは昼休み。昼ご飯を食べるための休みで、一時間ある。そう考えて、ふと、ちょっとだけ遠くのトイレに行ってみようかと思った。何の気なしに、である。山川自身も意識をしないまでも舞い上がっていたのかもしれない。そんな山川の様子を沢渡も誰も気づくことはなかった。言わずもがな、あのカウンセラーも。
一回目のカウンセリングを受けてから、相談室には行っていない。
行っても意味はないと、山川が判断したから。
山川の悩みはすでに解決しているから――
「何調子乗ってんの、白藤ぃ!」
校舎四階まで行き、その端にある音楽室に近づいたところで、音楽室の横にある――準備室から結構大きな声が聞こえてきた。大きい声だが近くにいないと聞こえない声量。そんな大きさの声が、聞こえてきた。張りのある女子の声であった。その声が聞こえた後、「ちょっと声デカイって」「誰かに聞かれたらどうすんの」という声も聞こえてきた。何やら気になってしまった山川は準備室の扉に耳をくっつけ、会話の内容を聞き取ろうとする。「わりぃわりぃ。だけどよ、こいつ、私の親友の好意を無下にしようとしてるんだもんよ。あいつはすげえ奴なんだぜ。すげえいい奴で、すげえ優しいやつで、すげえ、私の、好きなやつなのに……そんな奴の好意を! こいつは、断ろうなんて言いやがる! そんなの許せるわけねえだろ! なぁ!」
「…………」
「なんか言えよ、てめえ!」
「……グスン」
「……あぁん? 泣いてんのか? 泣けばいいってもんじゃねえだろ、あぁん! そんなのが許される外見でよかったなあお前よう! 私だって、私だって泣いて許してもらえるなら、泣いてあいつの好意を私に向けられるんなら……喜んで泣いてるよ!」
ここまで聞いたところで、一人の女子のひっそりとした泣き声と一人の女子の叫び声に、「ちょ、落ち着きなってあんた。冷静になろう。とにかく冷静になろう」という仲介の女子の声が混ざり始めた。なんだこれと、山川は素直に思ってしまった。同時に、変な場面に立ち寄ってしまったなとも思ってしまった。
この場面の中。
一番困っているのは、誰なんだろう。
そんなことを考えてしまった自分がいて。
それに気付いて、何とも表現しがたい気分の良い感情を抱いてしまった自分がいた。
「さて」
どうしようか。
今こそ、僕の出番なのではないだろうか。
今の僕なら――やれるかもしれない。
人を助けるための嘘を、吐けるかもしれない。
今まで、山川は無意識に嘘をついていた。何も考えずに嘘をついて、それによって嘘をついた相手を助けていると――考えることにした。
じゃあ、これからは?
嘘を吐く相手が助けるための自分の嘘を、どう使う?
無意識に嘘をつくことなんてことは簡単に出来た。だから、これからは。これからはそれを超えるべきだろう。今の自分を形成してくれた沢渡のように、誰かを救うための嘘を、自分から積極的についていきたい。
そう思ったが最後、山川は扉の前で困っている少女――大きな声によって泣いてしまった少女を助けるために、嘘をつこうと思った。どんな嘘が最も効果的だろうか。大きな声を出している女子は、なにやら好きな人云々のことで悩んでいる。だったら、泣いている少女の彼氏が自分だったという嘘はどうだろうか。それならば、大きな声を出している少女を少しは納得させられるかもしれない。
そうと決まれば。
行動するしか、ないだろう。
今までの嘘に、勇気は要らなかった。
勇気を出して、誰かを助けるために、嘘をつこう。
そう、決意して。
山川は、準備室の扉を開けた。