第四録
「お、奥様ですか……」
そうして熾郎が振々(ぶるぶる)と震える指で童遊麒助の妻を指差すと般若――元い細君は、コクリとどこか恥ずかし気に首肯した。
その様子を目にして熾郎は人知れず脱力した。
――腰が抜けそうになった。
己が女は恐ろしい、女は恐ろしいと云っていたから、本当に恨んで出て来たのかと思った。
肝が冷えた。冷えっぱなしだ。
一体、この家はどうなっている。亭主は翁の面を被り妻は般若の面か――ならば子どもがいるならそれは狐の面でも被っているとでもいうのか。
やはり己は坂を登る途中、狐狸にでも化かされ夢か幻でも見させられているのではないか熾郎は思った。
それ程此処での体験は現実味を帯びていないように感じるのだ。
なので夢現となった熾郎は思わず、
「し、失礼ですが、何故そんな面を被っていらっしゃるんです……?」
と童遊麒助の核心に迫る重要な質問をこの土壇場で訊いてしまったのである。
「嗚呼、妻は根っからの人見知りでして、こうして面を着けないと碌に人前にも出られない性分なのです」
そう童遊麒助が云うと妻の香子は一言も発することなくまたコクリと首肯した――どうやら無口であるらしい。
……否、そうではない。それも気になるが細君の面容について訊いたのではないのだ。
飽くまで童遊麒助の面容について訊いたつもりだったのだが、当の本人は妻のことと勘違いしたらしく見事に己のことは棚上げである。
じれったい――そうして熾郎が苛々(いらいら)していると、徐に細君は立ち上がり出口である襖戸の方へと歩いていった。
ふう、何なんだ――とその背中を追っていくと、細君はまた徐な動作をして熾郎と亭主のいる室内の方向に振り返った……と思えば、
細君は、開けた襖戸に半分だけ身体を隠しその般若面だけこちらに出して覗き見を始めたではないか――。
「あ、あの……童遊先生、奥様がずっとこちらを覗いているのですが」
それを目にした瞬間、熾郎は恐る恐る童遊麒助に問い掛けた――すると、
「嗚呼、気になさらないでください。ただの日課ですから」
――と、これである。
そうして熾郎が呆気に取られていると襖戸がある方向から何か手裏剣?――のような物が飛んできて童遊麒助の面にコツン――と当たった。
熾郎がそれは何か?と尋ねると、
「嗚呼、折り紙ですよ。妻は折り紙が好きでしてね。よくこうして文字を綴った折り紙を手裏剣の形に折って小生に投げて寄越すのです。まあ一種の意思疎通道具ですね。ほらここには主人がお世話になります――と書かれています」
そう云って見せて貰った折り紙には、慥かに達筆な字で『主人がお世話になっています』と書かれていた。
――どこまで無口なのだ。
その奇妙な交流方法に遣り切れなさを感じた熾郎はひとり心の中で突っ込みを入れた。
「簑辺さん? 取材始めないのですか?」
そんな般若監視のもと童遊麒助はさも平然と熾郎にそう宣ってきた。
もう懲り懲りだ。度重なる驚懼の連続で胃に穴が空きそうである。
歩調はほぼあちらの手中にある。全くこちらに向く気配がない。ならば正面切って立ち向かうより外に術はないではないか――と熾郎は思った。この環境に順ずるには、それこそ郷に入っては郷に従う、という言葉通り順応するより外に道はない。屈することなど論外である。いち編集者としての矜恃がそれを許さない。
ならば主導権を握るには、ここで勝負に出るより外にないではないか――よし、
「そうですね。では取材を始めさせて頂きます。童遊先生、まずはその面を取って頂けませんか」
と、漸くその一言を口にすることができた。
「面を、ですか?」
「ええ、まずはご拝顔願えませんかね?」
少々強きな態度で熾郎がそう云うと、童遊麒助は「ははっ――」と笑って肩を竦めた。
「それは出来兼ねます」
「なぜです?」
逃がさない――。
「小生は、この通り赤面症でございます。それ故易々とこの面を取ることはできません」
この通りとはどの通りだ。確認のしようがないではないか。
「そこを何とかお願いします、先生。謎の覆面作家という触れ込みは重重承知しております。しかし私もいち編集として飯の種を頂戴している以上半端な記事は書けません。何より先生の担当になったからには、そのすべてを知りたいと思うのは道理ではないでしょうか?ですのでどうかこの気持ちを汲んでやってください。勿論、先程お話させて頂いた通り秘密は遵守させて頂きます。記事にもしません、ですのでどうか――」
そうして熾郎は頭を下げた。
「謎の覆面作家ですか……そういうつもりで被っている分けではないのですが。なるほどその熱心さには感服しますよ、簑辺さん……」
何とも意味あり気な余韻である。もう一押しか。
「では見せて頂けるのですか?」
「いいえ、お見せすることは決してできません」
「なぜですッ……!」
熾郎はまだまだ食い下がった。はいそうですか、とは口が裂けても云うつもりはない。
童遊麒助も強情である。
童遊麒助は云った。
「では問いますが、簑辺さん。あなたは小生の前で裸になることができますか?」
「できますッ!」
その言葉を耳にした瞬間、熾郎はやや食い気味に即答した。
裸になる――それを以て童遊麒助の素顔が見れるのであれば、安いものである。
「できないでしょう? 小生がこの面を外すことができないのはそうゆうことです……えっ?」
「裸になればいいのですね。判りました。先生がそう仰るのであれば、文字通り一肌脱ぎましょう。後は煮るなり焼くなり好きにしてください。嗚呼、まさか先生にそういった趣味嗜好がおありだったとは思いませんでした。否、そうと解っていれば会社の若い衆も連れてくればよかったですね。ま、ここは一先ず私で我慢してください。こんなことで先生のご尊顔が賜れるのであればお安い御用です。では――」
と熾郎が半ば本気で服を脱ぎ掛けると童遊麒助は非常に慌てた。
「あ、否、簑辺さん。小生はそういったことを云っているのでは……」
そのとき、新たにコツン――と童遊麒助の面に折り紙の手裏剣が当たり解いてみるとそこには、達筆な字で一文字『変態』とだけ書かれていた。
「ほらっ簑辺さん、妻からも小生変態扱いされてしまったではないですかっ! 兎に角止めてください。小生が裸になれるかと云ったのは、そうゆう意味ではないのです」
「え、違うのですか?」
「違います。簑辺さん。あなたは恐ろしく曲解なさっています」
その童遊麒助の悲痛な叫びに熾郎は、脱ぎ掛けた服から手を離した。
――くっ、ではどうしろというのだ。どうすればその面の下が見れる。
そうして熾郎が目に見えて肩を落とすと童遊麒助は云った。
「簑辺さんの熱意や行動にはとても目を瞠るものがありますよ。作家としてひとりの人間としてその思いを買うこともできます。しかし小生がこの面を外すか外さないかは、また別の問題なのです。簑辺さんは小生に己の気持ちを汲んで欲しいと仰いましたが、それは小生にも云えることなのです。ですからどうか、小生の気持ちを汲んでやってください。この面はどうしても取ることができないのです」
――そんなのは詭弁だ、方便である……しかしそこまで云われたら仕方がない。返す言葉もなかった。
そう考えると熾郎は、途端に諦めがつくようになった。なぜか、ふと――。
それでも理由だけは訊いておこう。なぜ面を外すことができないのか、きっと己には思いも点かぬ壮大な理由があるはずである。
「そうですか、そうですね……無理を云って申し訳ないです。しかしその、理由だけでも教えて頂けませんか? それだけが訊きたいのです」
と熾郎が慨然とそう乞うと童遊麒助は、どことなく爽爽し始めた――そして、
「あ、それは、その」
と実に歯切れの悪い様子で胸の前に軽く拳を握った。
「先生、どうしました?」
そう熾郎が訊くと童遊麒助は、とても小さな声で、
「……愧死してしまいます」
と云った。
「は? 愧死?」
「はい、この面を取ったら小生、恥ずかしさのあまり愧死してしまいます」
「愧死って、あの恥ずかしさのあまり死ぬっていうあの愧死ですか?」
「はい、云いましたよね。小生、赤面症だと」
……否、否、否そんな筈はない。そんなことで死ぬ人間がどこにいる。
一体この男は、何を云っているのだ? 面を取ったぐらいで死んでしまうだの馬鹿げているではないか。そんなことはない、これもまた秘密を隠そうとするただの逃げ口実である。
「そ、そんなただの赤面症で死んでしまうなど訊いたことがありません。第一そんな格好では外にも出ることができないではありませんか。日常生活に支障を来しますよ」
「嗚呼、それについては大丈夫です」
と童遊麒助は云った。
「小生は、この店で本を読んでいさえすれば外の事実など知らなくてもいいのです。それに全く外さない分けではありません。妻と子どもの前ではしっかりと外しますし、常連のお客の前でも外すことはあります。決して絶対に取れぬ、という分けではなく気心の知れた相手の前でしか取らないだけです」
ということは、己は未だ気心の知れた相手ではない――ということか。まあ、当然だ。
熾郎は、ここに来て未だ一時間あまりしか滞在していない。遭ったばかりの人間同士そう簡単に信頼関係が結べないことを熾郎は知っていた――否、社会的常識か。
やはり面の下の顔を拝むことは叶わぬのか――しかしまだ諦める分けにはいかない。
「解りました。もう結構です。時間も滞っていますので、早急に取材を始めましょう。童遊先生、お好きなものはなんですか? 特に食べ物などは?」
一計を案じた熾郎は次にそう切り出して取材を再開させた。
「食べ物ですか? そうですね。小生は特に干し芋などが好物です」
「干し芋――」
地味な好物だ。
「はい、干し芋はいいですよ。噛めば噛むほど味がでます。顎も鍛えられますから痴呆になりませんし集中力も高まります。何よりあの素朴な味が実に良いですね」
その言葉を聞いて熾郎は締めたと思った。では次に舌先に乗せる言葉は決まっている。
「良いですね、噛めば噛むほど味が出る。なるほど鯣と一緒ですね。鯣もまた噛めば噛むほど味が出ますしそれでいて旨い、とくれば酒の一升や二升開けたくなってくるってもんです。あれほど旨い酒の抓みはありません。嗚呼、考えただけで酒が吞みたくなってきました。どうです先生。このあと色街に繰り出して一杯やると云うのは? 勿論、勘定は私が持ちますので外へ出やしませんか?」
これが熾郎が次に案じた一計である。
その狙いは、酒の力を借りて童遊麒助の素顔を暴こうとする企みだった。
酒を呑ませて酔わせれば、幾ら童遊麒助が拒否したところで面の下の顔を隠すことはできない。丸裸である、否、丸裸にしてやる。それこそ、その下半身すらも。
――などと善からぬ企みを熾郎が心中でしていると童遊麒助は、とても申し訳なさそうに云った。
「申し訳ないです、簑辺さん。小生、恥じるほどの下戸でしてとても酒が吞めないのです。それに外に出るつもりもありませんし、妻がなんと云うか――」
などと云い訳がましいことを云っているとまた襖戸の方から紙手裏剣が飛んできた。
熾郎がぐびりと唾を呑み込んでそれを見守っていると童遊麒助が一言、
「『行ってもいいが、帰ってくる場所はないと思え』――だそうです」
と云った。
恐い。見た目通りの恐妻である。
恐る恐る細君がいる方に頸を向けると、其処には炫ついた眼をした般若の面が仏間に坐ったふたりの男を凝然と睨みつけていた。
その光景を目にして熾郎の心は折れた――ぽっきりと。
あれはもう己が太刀打ちできる相手ではない――というか歯向かえば逆に返討ちにあってしまうのではないかというくらい恐ろしい存在だった。
――やはり女は恐い。鬼や蛇になるのも頷ける――と熾郎はひとりでに納得し、もう作為的な方法で童遊麒助の素顔を暴くことはやめようと心に誓った。
己が持つ信念は人が思うそれより軽いのだ。
諦めよう――しかし、面の下の顔を目にできる機会はきっとあるはずだ。それまでは真面目に取材に徹しよう、と熾郎は率直に思った。
「酒を口にできない先生のことを心配してらっしゃるのですね、奥様は。それならば仕方がありません。お誘いの件は忘れてください。私が悪かったのです」
「いえいえ本当に申し訳ないのはこちらの方です。折角お誘い頂いたのに断ってしまって。妻もあんな鬼瞼をしていますが見た目ほど恐くはないのですよ。ただ小生のことを思っての発言です。どうか許してやってください」
童遊麒助はそれだけを云うと僅かに頭を垂れた。
どうやら熾郎が香子に恐怖の念を抱いていることは暴露だったらしい。
その面に空いた小さな穴は、決して節穴などではなかったのだ。
小説家特有の観察眼という奴か。ならば先程までの遣り取りの裏に隠された己の邪な妙計も見透かされていたに違いない。それを判った上で童遊麒助は、己の言葉に便乗してくれていたのだ――全く恐れいる。
浅はかな己の精神は、童遊麒助なる人物像を見事に見誤っていたのだと熾郎は、そのとき漸く自覚した。
……気を取り直そう。取材はまだ始まったばかりなのだ。
「いえ、寧ろ話の腰を折り余計なことを舌先に乗せてしまった私の方にこそ全体的な非があります。誠に申し訳なく思っています……童遊先生、取材の続きを行ってもよろしいでしょうか?」
「そうですね。お互い謝ってばかりでは折れた話の腰を元に戻すことはできませんしね。まずは、その折れた腰を元の位置に正しく矯正することが第一だと小生も考えます」
「腰の矯正ですか。なるほど、面白いことを仰いますね」
「洒落なだけに洒落てみました」
そう童遊麒助が云うとまた例の如く紙手裏剣が飛んできた。
そこには『つまらないこと云ってないで、さっさと仕事をしたら?』という尤もな意見が書かれてあり、童遊麒助と熾郎は向かい合わせた膝の折り目をきちんと正すことにした。