第三録
「此処が小生の仕事部屋です」
と云って通された次の間は、
「仏間ですか?」
だった。
童遊麒助が、朽ちかけた貧のある襖戸を開け放って最初に熾郎が目したものは――、
仏壇だった。
敷居を入って左手の中央にそれは忽然と立っていた。
途轍もなく大きな仏壇だ。
しかし何というか、絢爛とは程遠い……そう、とても貧相な感じのする木箱のような仏壇だった。
そんな貧しかない大きな仏壇が、八畳ばかりの室内を我が物顔で大いに占拠していたのだ。
「ほ、本当にこちらが、先生の仕事部屋ですか?」
「ええ、勿論。ほらちゃんと文机もあるでしょう。書きかけの原稿もしっかりと」
そう云って童遊麒助が指差した部屋の隅には、慥かに小さな文机があった。
克く克く見れば、部屋の中で目立つのは、何も其処に坐した仏壇だけではないようだ。
抹香だか線香だかの芳香漂う室内には、店舗で目にした蔵書量に匹敵するほどの本が辺り一面所狭しと堆く積まれているのも目にできた――全く不思議な光景である。
この建物は外観に比べて中に入る許容量が明らかにおかしい。この建物は、何処も彼処もこうなのであろうか――などと驚懼を隠せないまま熾郎が呆然と立ち尽くしていると、
「さあ、どうぞお入りください。今、家内にお茶を煎れさせます」
という童遊麒助の声が掛かった。そうして童遊麒助が、廊下に出て元来た道を戻るのと入替わりに熾郎は、仏壇のあるその仕事部屋に足を踏み入れた。
やはり仏壇である。
近寄ってみると、その大きさは差して熾郎の背丈と変わりがなかった。
克く見ると、その骨格を形成する複数の板は、まるでどこぞの廃材屋から頂戴してきた板きれのように薄い――寧ろ襤褸である。これでは奉られる仏も堪ったものではない。
――と、そこで熾郎は、ふと勘繰った。
もしやこの仏壇の中に童遊麒助の人物像に迫る何かが隠されているのではないか――と。
それならば態々(わざわざ)仏壇が置かれた間を仕事部屋にしている理由がつく。きっと他人には知られたくない真実がこの仏壇には隠されていて、常に目の届く範囲に置いて於きたいから此処を仕事部屋に選んだのではないか。
そう思うや否や熾郎は、そそくさと仏壇の正面に廻った。
そうして中を覘こうと頸を伸ばした瞬間、熾郎の腰が僅かに引けた。
「うわッ……」
そこには思いも寄らぬ者が坐っていた。
――坊主である。
茶色に瘦けた木彫りの坊主が、仏壇の中で坐禅を組んでいたのだ。
吃驚した。思わず即身成仏か何かの死骸かと思った。
冷々させる。大きさは生後間もない赤子の身長よりやや低いくらいか――しかし善く出来た坊主の木彫りである。禿頭の皺。顔の皺。袈裟の皺に至るまで見事な彫込みだ。それを納める仏壇とは豪く違う精巧さである。
――しかしなぜ坊主なのだ?
普通なら観音様だとか弥勒様だとかの仏様が、仏壇には奉られている筈だ。それがなぜ坊主を奉っているのだ?――と独り頸を捻っていると、
「お待たせしました。おや?」
童遊麒助が戻ってきてしまった。
その姿を目にした瞬間、熾郎は、慌てて仏壇に手を合わせる振りをした。そうして、
「お、童遊先生、どうして仏壇に坊主――あ、否、お坊さんの木像が奉ってあるんです?」
と取繕うような話を振った。すると童遊麒助は、
「嗚呼、それですか。好きなんですよ、弘法大師」
と何も不審がることもなく朴訥とそれに答えた。
「弘法大師? 嗚呼、空海ですか。弘法大師空海。あの弘法は筆を選ばず――の」
「ええ、そうですよ。その空海です。しかしその諺には少し誤りがありますね。ご存じだとは思いますが、空海は、嵯峨天皇時世の三筆として有名ですが、決して筆を選ばなかった分けではなかったのですよ。その諺は、その道の名人や達人は、道具や用具の選り好みをしないという意味ですが、逆に弘法大師くらいの名筆家にもなれば、より良い筆を選んで然るべきなんです。肥えた舌を作るには旨いものを喰らうが一番いい、というでしょう? それと同じことでより完成度の高い作品を仕上げるには、それと同等のまたはそれ以上の道具が必然的に必要となってくるのが道理なのです。その諺は、後世の人間が弘法大師ほどの書の大家ともなれば、きっと筆を選ぶことなく芸術的な書を綴れただろう、という希望的想像が込められているのですね。まあ喩え書を書くことに失敗したとしても〝弘法〟も筆の誤り――などといった勝手な諺もあるくらいですから実にいい加減なものです」
「は、はあ……」
一気に捲立てられた。そんなつもりで訊いた分けでもないのだが、少し面白くも感じた。
「空海は真言宗でしたか?――とすると先生が入信されているのも真言宗で?」
「ええ、勿論。弘法大師を奉って置きながら別の宗派を崇めたりはできませんよ。罰が当たってしまいます」
「真言宗ですか。うちは曹洞宗ですね。真言宗と云えば、般若心経でしたか? が有名ですよね。あの色即是空だの空不異色だの、あと、それこそ般若波羅密多だの一体何の意味があるのかさっぱりです……あ、すみません。これではまるで宗教批判ですね、失礼しました」
「いえいえ、謝って頂く必要などないのですよ。真言宗を信仰している人でも般若心経の意味を理解されている方は少ないですから。他宗派の方が解らないのも無理はありません」
そう云うと童遊麒助は、優しく面から伸びた白髭を指で弄くった――癖であるらしい。
「童遊先生、それにはどういった意味があるのでしょうか? ひとつご教授願えませんかね?」
感心が湧く。ここで童遊麒助がどれ程の博学を振るうのか確認してみたくなったのだ。
あの怪作『凍螂』を書上げた原点を垣間見ることができるかもしれない。
勿論目的とする独占取材を忘れた分けでは決してない。ただの性分である。
まずはその性分を満足の行くまで突詰めて行こうと熾郎は思った。
訊けることは何でも訊こうと熾郎は、童遊麒助に薦められた座布団に腰を下ろした。
それを待ってから童遊麒助が云った。
「少し長くなりますが、宜しいですか?」
「勿論です」
そう熾郎が返事をすると童遊麒助は得得と語り始めた。
「『般若心経』は真言密教に於ける所謂経文のことです。その根幹には、この世のあらゆる存在を肯定し認めると云った老荘的な宗教精神があります。それは能の『山姥』という演目にも登場する文句【邪正一如と見る時は、色即是空そのままに、仏あれば世法あり、煩悩あれば、菩提あり、仏あれば衆生あり、衆生あれば山姥あり。柳は緑、花は紅の色色――】にも登用され、衆生にその存在の肯定を祈願するやや観念的思想となっています。それではここで『般若心経』の『般若』という言葉に焦点を絞ってみましょうか」
「童遊先生、般若とはあの般若ですか? あの角の生えた鬼面の般若――?」
「まさしくその〝鬼女〟の般若です。般若の『般若』とは、真言密教で〝知恵〟というを意味を持つ仏教用語です。ご存知ありませんか?」
「いえ今の今まで噸と――」
知りませんでした――否、今まで考えてもみない事実だった。
「そうですか。ではまず、『般若心経』の『般若』がなぜその鬼女の般若となったのかからお話しましょうか。我々がよく目にする般若――所謂〝般若面〟は『葵上』という謡曲の演目で使用される能面をその起源としています」
「あおいの、うえ……」
「はい。この物語の鍵は、女の愛執にあります。その原点は『源氏物語』の『葵』を元としているのですが、これを簡潔にお話しますと、光源氏の愛人である六条の御息所が嫉妬に狂い、愛執の生き霊となって、源氏の本妻である葵上に物の怪となって取り憑いて、死に到らしめる――といった内容なのですが、ここで問題となるのが、その生き霊となった六条の御息所の容貌なんです。六条の御息所は、生霊となり物の怪となり憎き女に取り憑き殺すといった過程の中で次第に人間から逸脱していきます――がここではまだ般若の面容を獲得するに至っていません。六条の御息所が般若の面容を獲得するには、まず加持祈祷などによって祓われることを前提としなければならなかったのです。その様子を意訳すると次のようになります。【さても左大臣のおん息女葵の上のおん物の怪以つての外にござ候ふほどに、貴僧高僧を請じ申され大法秘法医療さまざまのおんことにて候へどもさらにそのしるしなし】と葵上に取り憑いた悪霊を祓おうと高僧を読んで加持祈祷、医術をほどこしたが一向に効き目がない。あるとき梓弓の音に惹かれて現れた悪霊に名を問うと、【これは六条の御息所の怨霊なり、…ただいつとなきわが心、ものうき野べの早蕨の、萌え出て初めし思ひの露、かかる恨みを晴らさんとて、これまで現れ出でたるなり】つまり光源氏の君の訪れが途絶えるようになったので、物憂さに閉ざされていった私の心に、いつしか葵上を憎む気持ちが湧いてきて、その耐え難い恨みを晴らすためにでてきたのです、と答えたのです」
そこで童遊麒助は一拍置いた。
「そうして、物の怪と化した六条の御息所の生き霊を祓うため、横川の小聖が呼ばれ、密教の五大尊明王の助力を求める呪文を唱えるのです。するとその効力で、六条の御息所の生霊はこう云うのです――【あらあら恐ろしの、般若声や。これぞ怨霊、この後また来るまじ】」
「般若声……般若だ」
「般若ですね。そうして六条の御息所の悪鬼の心は消え物の怪ではなくなるのですが、この横川の小聖が唱えた呪文こそ『般若心経』だったのですね。そこから裏切りの愛に対し嫉妬深い未練をないまぜにした情念に支配され、復讐の鬼に変貌した女の姿こそ鬼面の〝般若〟となったのです」
「はあ、鬼となったのですか。昔から女は恐ろしかったのですね。愛に狂い怒りに燃えた女の情念――、大変背筋が凍る思いですね」
「般若面は、何も女の怒りだけを顕わしているのではありませんよ。あれは妬みや苦しみ、哀しみなどを表現した悲哀の面容なんです」
「私からすれば女の哀しみは怒りとどっこいですよ」
「はっはっは。まあ、そう云った経緯で『般若心経』は鬼面の〝般若〟となったのですが、またここで『般若心経』の意義に立ち返ってみましょう。『般若心経』の『般若』の意味は――」
「〝知恵〟ですよね」
「その通りです。それも仏教に於ける最高の〝智慧〟を表す言葉それが〝般若〟です」
そう云うと童遊麒助は、近くにあった紙に〝知恵〟から〝智慧〟と書込んだ。
「『般若心経』には衆生――つまり凡ての生物、特に人間にその存在を肯定して欲しいという観念が込められています。そして般若の智慧とは、仏法の真理を認識し悟りを開くはたらきをいい、これを以てその道に到ろうとする得脱の真理でもあるのです――とするならば葵上に取り憑いた六条の御息所の【あらあら恐ろしの、般若声や】という叫び声は、『般若心経』の唱文によって見事に得脱し〝智慧〟を授けられたことによって理性を取り戻すことに成功した結果、人間に戻ることができたのではないか、とも考えることができます」
「理性を取り戻しても女は滅法恐いです」
「まあそう云わずに。さてここで簑辺さんお待ち兼ねの色即是空やらの意味ですが、これは『般若心経』に於ける智慧の究極『一切是空』の真理を説いた一節、つまり【観自在菩薩、行深般若波羅密多時、照見五蘊皆空度一切苦厄、舎利子、色不異空、空不異色、色即是空……】に中りすなわち、いっさいはすべて空なのであって、それを悟るときは、あらゆる魂の苦患をまぬがれる――という教えに基づくものなのです」
「ほう、何だか解るような解らぬような――」
というより理解の範疇を超えている。
総じて一般庶民にとって仏教をはじめとする宗教などは、ただ生きているうちに盲目的に崇め奉る行為の対象に過ぎない。そこに得脱だの悟りだの真理だの云われてみても嗚呼、そんな意味もあるものか、と思う程度である。
かくゆう熾郎もその内のひとりだった。
童遊麒助は云った。
「では今度は何故、般若が鬼の面容をしているのか考えてみましょう。それは一説に依れば謡曲『葵上』に使用される鬼面は、般若坊なる面打ち職人が創作したものであると云われまた〝般若〟という言葉自体もこれを起源としているのではないかとも云われています」
「般若心経が元ネタではないのですか?」
「ですから一説に依ればです。『葵上』の元となった『源氏物語』の『葵』には、六条の御息所が生き霊や悪霊、物の怪になって葵上に取り憑いたという記載はありますが、実のところその面容などについては一切記載がないのです。般若という鬼女は『源氏物語』を読んだ後世の人間によって形作られた想像上の存在に過ぎません。妬みや苦しみ、哀しみや怒りといった負の感情をどう表現すべきかと考え抜かれた結果生まれたものなのです。きっと面打ち般若坊の目には、愛執に狂った女の面容がそう映ったのでしょう」
「恐かったんでしょうね」
克く判る――と熾郎は、かつての面打ち職人に思いを馳せた。
「それと〝般若〟は、〝半蛇〟が訛ったものである――という説もありますね」
「は、はんじゃ?」
「ええ、そうです。半蛇は言葉の通り半分蛇の身体となった女のことを云います。これは『今昔物語集』巻の十四『紀伊国道成寺僧、写法花救蛇語 第三』に登場する蛇女の話なのですが、これもやはり男の裏切りによって半獣半身の化け物となってしまう。この場合恨みの対象は、約束を破った男に向けられ且つその男を殺すことに成功します――と同時に女も一緒に死んでしまうので、得脱して人間に戻るという要素は入っていません。しかし恋慕によって情炎の炎に巻かれ人を逸脱した化け物となってしまうことから〝半蛇〟イコール〝般若〟という図式が成り立ち同一化されていくことになります。まあ、しかしどちらも成立年が前後しますので、どちらが先だったかは解り兼ねますがね」
「はあ、蛇になったり鬼になったり女は兎角恨みがましいものですな」
そのとき不意に閉まっていた仏間の戸が開いた。
「嗚呼、お茶が入煎ったようです」
童遊麒助がそう云うと、ふたりの眼前に湯気の立ったお茶が悄然と置かれた。
「嗚呼、こりゃどうも――」
とお茶が差出された手を顔の方に辿っていくと――今度こそ熾郎の心臓は止まり掛けた。
「は、」
そこには〝般若〟がいた。
あの角を生やし口が耳まで裂け恨みがましい眼つきをした白い貌の女の鬼が、熾郎の現前にしっかり瞭然と出現したのである。
「は……、ん……にゃぁ……お、童遊せ、せんせ……」
その予期せぬ衝撃に熾郎は縋るような言葉と視線を童遊麒助に投け掛けた。
すると童遊麒助は、
「嗚呼、ご紹介します。これは小生の妻、香子です」
と実に飄々(ひようひよう)とした調子で己の細君を紹介した。