第一録
だらだらと緩やかな道程が続く坂道を緩々(ゆるゆる)と歩きながら簑辺熾郎は、上着の胸ポケットから取り出した一粒の飴玉を口に放り込んだ。
梅雨も近しい時節だというのに空は見事な皐月晴れである。降水確率も極めて低く十パーセントを優に下回り湿気も差ほど感じない。そのせいか喉は渇々(からから)と乾き禁煙三日目とも相俟って必要以上に水分と糖分を軀が欲していた。
懐寂しい禁煙家にとってさもしい唇を癒すのは、子供が喜ぶような甘い甘い戯れのような味わいのする飴玉だ。コロコロと唾液に融然と溶かされていく黒糖味のそれは、実に疲れた心と軀に深深と染み渡っていく――とはいえ、そんな程度の甘露では、連日の激務で蓄積された疲労を一掃することはとてもできない。なのでせめて延々と続くこの道程を踏破する活力に少しでもなればと簑辺熾郎は、ただひたすら飴玉を舐め回すことに心血を注いだ。
結果として、
――飴玉ひとつで英気を養おうなんて我ながら安上がりだな。
などと心中で自己嫌悪に陥るのは、今に始まった話ではない。
燦然と輝く五月とは思えない太陽の放射熱に焦々(じりじり)と背中を灼かれ熾郎は、徐に羽織っていた上着の胸元に手を掛けた。そうしてどこか気合いを入れるかのような勢いで一気に上着を脱ぎ去ると疲労困憊の足を引き摺ってまた長い長い坂道を登り始める。
目指す先には、『鬼霖堂書房』と云う屋号の古本屋があるはずなのだ。
神保町を奔る靖国通りを北東に折れた路地の先には幽明坂と呼ばれる坂がある。一見して乳飲み子でも悠々と登れそうなほど緩やかなこの坂道は、実に登り始めると終わりが見えないほど豪く長く感じる奇態な坂として有名な道であった。
その道程がどのくらい長く感じるのかと云えば、椅子に縛りつけられた状態で酷く退屈な恋愛映画を延々二時間見せられる以上に長いときている。
しかしながら実際に長編映画並みの時間を登り続ける分けではない。飽くまで体感としてそれくらいの時間を掛けて登っているように感じるというだけの話だ。先を見据えて着実に歩を進めれば頂上には行き着くし現実的な時間に換算すれば十五分ほどの距離である。
長く感じるのは錯覚に過ぎない。緩やかな道形がそうさせている。ただそれだけのこと。そこには何の絡繰りもないし、況してや曰く憑きの道でもない。ただ緩やかな傾斜に誤魔化されて調子づいた一部の歩行者が己の体力も顧みず踏破しようと歩みを進めた結果、坂の途中で息衝いてしまうという滑稽な現象が度々起こっているだけのことなのだ。
その土地で暮らす地元民からすればそれは克くある快事として認知され別名〝無間坂〟と呼ばれる坂を有象無象の余所者たちと同様にひーこら云って登っているのが、本日の滑稽者、簑辺熾郎その男なのであった。
そうして息を荒々と切らせつつやっとの思いで登り着いた坂の上には、質素な外観をした木造二階建ての建物が一軒蕭然と建っていた。
起伏の少ない坂を踏破した熾郎の全身は汗でびっしょりである。しかるべく取出したハンカチでしとどに濡れた額の汗を拭い去りながら建物の前まで来てみると、それは実にこぢんまりとした古民家のような様相であった。
古本屋と云えど、とても客商売をしているような店構えではない。大々的に屋号が書かれた看板が吊されている分けでもないし人がいる気配など微塵も感じないのだ。
――草臥れている。
それが現前にある矮小な建物に持った最初の感想であった。
本当にここが目的としていた古本屋なのかと軒先で様子を窺っていると、ふと出入口と覚しき硝子戸に擦れた金文字で『鬼霖堂書房』と印字されているのが目に入った。
やはりここが『鬼霖堂書房』で間違いないらしい。そう判断した熾郎は、乱れた息をしばし整えてから屋号の印字された硝子戸の把手に手を掛けた。
そうして粛然と硝子戸を押し開けると建付けが悪いのか酷く耳触りな音が耳朶に響いた。
――ギィィィ……とまるで黒板を釘で掻き鳴らすような音である。
とんでもない異音だ。思わず耳を塞ぎたくなったが、そこは敢えて怺え少しばかり肩を竦ませて得体の知れぬ店内へと一歩足を踏み入れる。
店の中は、御多分に洩れず何とも云い難い古紙の匂いが満々と充満していた。
饐えているのか黴臭いだけなのか解らぬ匂いに一瞬の躊躇を熾郎は見せた。しかし先に進まなければ仕事も片付かぬと意を決し店の奥へと足を向けると、やや慣れたのか周囲に視線を遣れるだけの余裕が出て来た。
店の中は想像以上の混乱振りだった。
まず驚いたのは、その圧倒的蔵書量の多さだ。外から見た限りでは、こんな小さな建築物にこれだけの物が収まるのかと全く疑わしくなる程大量の本が辺りを埋め尽くしていた。
店の中央には、巨大な書棚が不動と鎮座し店の奥へと奔る通路をふたつに分断している。両側の壁も同様に巨大な書棚と化していてほぼ天井擦れ擦れにまで延びていた――というよりも上に見えているのは恐らく屋根を支えるための梁であろう。
元来二階建てであるはずの建物は、表向きの外観とは異なり一階から二階まで吹き抜けとなっていたのだ。なるほどそれならば店の許容量を超える書物を収納できるのは道理である。まさに立錐の地を上手く利用した収納術と感心するより外にない。見れば高所にある本を取るための木梯子もしっかりとあるではないか。
克く克く見てみると奥行きもそれなりにあった。明かり取りの窓がない分その先は目に見えて薄暗かったが、それでも前進するのに苦労しないだけの光量は慥かにある。
どうやら億かな吃驚行く必要もなさそうだ。
店に入った瞬間から少々鼻を遣られはしたが、まあこれもひとつの経験として踏ん切りをつけ熾郎は、更に店の奥へと歩を進めていった。
狭く薄暗い隧道のような通路を奥へ奥へと向かって行きながら熾郎は、書棚に陳列された本の背表紙を横目で瞥々(ちらちら)と覗いていった。
そこに収まった本の背表紙には『日本書紀』やら『古事記』やらと学校の教科書などで克く目にする題目から『慧琳音義』だの『三教源流捜神大全』だのといった克く解らぬものまで収まっている。察するにこの古本屋が主に取り扱っている種類は、民俗学や神話学などといった神智系のものであるらしい。それらの隣に目を転じてみれば、柳田國男や折口信夫の著作と覚しき書物も幾つか目に入ってきた。
なるほどなるほどと、ひとり勝手に得心し更に奥の書棚を覗き込んで行くと何やら今度は『ユング』だの『フロイト』だのといった錚々(そうそう)たる心理学者達の名前が目に映り、かと思えば『レヴィ・ストロース』や『デカルト』といった高名な哲学者の名前まであった。
――とここで己の推測が早計であったことに熾郎は漸く気がついた。奥へ奥へと進んで行くに連れ暗がりの中に浮かんでくる書物の数々は、実に様々な種類に及んでいたのだ。
民俗学に始まり心理学、宗教学に哲学、文化人類学に歴史学果ては陰陽道と云った如何わしい内容のものまで、およそ人文系と呼べる学問の書物が軒並み書棚には揃っていた。
結構手広くやっている――この瞬間、漸く熾郎は最初にこの古本屋に抱いた感想を払拭することができた。
中は思いの外広いし蔵書量も申し分ない。取り扱う本の質も悪くはないし何より面白味のある――元い興味の湧く本ばかりである。いやはやこれは見縊っていた。
改めて店内の様子を観望して見ると実に秩序立った暗がりが其処には形成されていた。
曰く根暗な本好きが好みそうな雰囲気である――勿論頗る善い意味で、だ。
しかしながら店内には全で客の姿が見当たらない。幾ら質の善い品を揃えても客がいなければ商売として成り立たぬではないか。それとも目録販売を主な収入源としているのか、と過ぎた邪推をしていると前方に見えた勘定台らしき机にひとりの人影が座っているのに気がついた。
何やら俯き加減に本を読んでいるようだ。この距離からでは、それしか解らない。
そこで漸く熾郎の注意は本から逸れた。
勘定台に座った人影に声を掛けようと雀の涙程の光量しかない店内を慎重にまた歩んでいく。
件の人物は、まだ何かしらの本を読んでいた。
店の勘定台に座っている以上決して客であるはずがない。かといって店員であるならば客に対する応対のひとつもあって然るべきだ――まあ、客ではないのだが。
今日この店を訪れたのは、飽くまで仕事のためである。仕事柄この手の店に出入りすることは儘あるが、ここまで圧倒的な書林は今まで足を踏み入れたことがない。
周りに犇めく蔵書量から考察するにこの店の亭主はかなりの書淫家であるはずだ。きっとそうに違いない……などど心中で密かに推度していると程なくして勘定台の前に到着した。
「…………。」
そうして正味五秒ほど勘定台の前で穆然と立ち尽くしていたのだが、店員と覚しき人物は一向に顔を上げる素振りを見せなかった。
まさか気づいていないのか?――
漠然と熾郎はそう思いもしや寝ているのではないかと注視していると不意にその人物の指先が微かに動いた――読んでいる本の頁を捲ったのだ。
――醒きている。余程読んでいる本の内容が面白いのか見事な集中振りだ。仮に目下読書に耽っているこの人物が、目当ての亭主であるならば矢張り熾郎の推度は間違っていなかったことになる。
とんでもない書淫家だ――曰く本の虫か。
何も聴かず何も聞こえずただ黙々と本を読む作業だけに没頭するその尊厳な姿勢に熾郎は、兎角鬼気迫るものを感じた。
そうして怵然と間の抜けた面持ちで立ち尽くしている間にも一頁また一頁と紙の擦れる厳かな音が沈とする店内に鳴り響いていく――気がつくと三分余もの時間が経過していた。
――如何、このままでは仕事に支障を来す。
そこで唐突に我に返った熾郎は、聞くからに態とらしい咳払いをした。あわよくば眼前に居坐る人物の気を引こうと試みた所作であったのだが、如何せん並外れた相手の集中力の方が幾許か上回っていたようだ。
やはり瞭然した声を出して呼び掛けてみるべきか。奇しくも先程の咳払いで、埃に塗れた喉の調子も善くなったことだし――では……、
「あ、あの、すみません。童遊麒助先生はいらっしゃいますでしょうか……?」
と、喉を突いて出た言葉は、熾郎の意に反して途轍もなく嫋々(なよなよ)と震えていた。
「…………」
しかし非常に恐縮して押し出された声は眼下の人物の耳朶を打つことはなかった。忸怩たる熾郎の思いを余所に狂れることなく凝然と本を読み続けている。
この儘では、埒が明かない――と思った熾郎は、腹筋に込める力を強くした。そして、
「あの、すみません! 童遊麒助先生はいらっしゃいますでしょうか!」
と聞く耳が劈けんばかりの大声でもう一度尋ねてみると、眼下の人物の肩が幽然と動いた。そうして、
「――嗚呼、申し訳ないです。お客様のご来店に全く気がつきませんでした」
そう云って持上がった顔を目にした瞬間、熾郎は心底懼然とした。
なぜなら――こちらを見上げたその貌は、皺深い翁の面容をしていたからだ。
「……あ、あの、童遊先生は……」
暫くの困惑の後、唖然と熾郎がそう問い掛けると翁面の男は、
「嗚呼はい。小生が童遊麒助です――」
と、くぐもった声で実に克い返事をした。