ビルと占い師
わたしはここを知っている。
誰もいないビルの屋上に佇んでいる私。後ろから力が加わって、前のめりになりバランスを崩して、転げ落ちてしまう。
息をつめ、激突の瞬間の痛みを想像するが、地面にはなぜか風呂が置いてあった。大きさからして、一人分の小さな風呂だ。その横には、人が一人いた。 人にぶつかっても、受け止めてくれるどころか、二人して、大怪我してしまう可能性のほうが高い。 地面に激突するよりも、風呂に飛び込んだほうがましと無駄な足掻きと知りつつ小さな的に向けて体の向きを調整する。
ばしゃーんと派手な水しぶきを立てて、風呂の中に落ちる。
「人が落ちているってのに、何のんきに携帯を見ているの?」
目の前に髪を真っ黄色に染めた男が、携帯片手に立っていた。
なんで人が落ちているところを、携帯を構えて写真に撮っているんだ。
人が落ちているなら、他にすることあるでしょ?
「いや。写真撮っといたほうがわかりやすいから。で……風呂か」
すごく険しい表情で風呂に入った私を見つめる。
「勝手に見るな!もう、なんでお風呂がこんなところにあるのよ!」
「自分が死ぬ夢なんて人は見たくないものだろう。大抵、そういう夢は死にきる前に、目が覚める。もし、悪夢から目覚めなければ、当然、次の救済手段が出てくるんだが……。風呂から出てくれないか」
言われて、『ああ、夢なんだ』と初めて知った。それも、ここ最近何度も見ている夢の中。
そして、黄髪の男の正体もわかった。
髪がペンキで塗ったくったような黄色ではじめはわからなかったが、それは『サジ』だった。
確か、普通の黒髪だったはずだが。 指輪も首ではなく、左手の薬指にはめられている。
「撮ったりしないでよ!っていうか、さっきまで服着ていたのになんで裸になっているのよ」
「風呂に入る時は服を脱ぐって、当たり前のことに縛り付けられているんだ。出たら、多分、おそらく、きっと、服かバスタオルが出て……くれたらいいな」
「出てくれなかったら、どーすんのよ!」
「そこで否定すると本当に出なくなるぞ。……仕方がない。自分のものじゃない夢の事象をいじくるにはかなり精神力を削るんだがな。……出て大丈夫だぞ」
特に何をしたわけでもないのに、黄髪の男はそんなことを言う。
「後ろ向いてて」
「はいはい」と言いながら、彼は後ろを向く。
恐る恐る風呂から出てみると、水面から出た端から服が着用されて出てくる。
水の中では、確かに服を着ていなかったのに。
「すっごい! これ、サジが出してくれたの? けれどすごいふりふりで私の趣味じゃないんだけれど」
クリーム色の花柄レースチュニックと白のカーデガンと短めの黒のパンツ。
黒のパンツがなければ、全体的に淡いイメージの服だ。
「いや、女の子にはかわいい服を着てもらいたいじゃないか」
なに、女の子はかわいい服を着るのが義務みたいな言い方は。
「もう一回やり直し」
「どんなのがいいんだ」
ため息混じりに黄髪の占い師が聞いてくる。
「パーティードレスみたいな」
「できるか!」
やー、せっかくの夢なら服ぐらい普段着れないような服を着てみたいじゃない。
「だけれど、あんた私の夢の中に服を着て携帯持って現れているじゃない。さっきも服を出してくれたのに、なんで?」
「夢の中の登場人物は基本的に服を着ているだろう?
それは人は服を着るものだっていうイメージが君の中にあるからだ。
君、パーティードレス実際に着たことある?もしくは細部までイメージできる?」
ふるふると首を振る。
パーティードレスを着たことがないから、着てみたいと思っているのに、端から端まで完璧にイメージできるわけない。
「君の夢の中にあるものを引き寄せるのは簡単だけれど、無い物を持ち込むのは大変なんだ。
携帯を持ち歩くのが習慣になっている人の夢に行くと、大抵最初からポケットの中に携帯が入っている。
けれど、携帯を持ち慣れていない人の夢の中に入ったりすると登場人物の誰一人持ってないってこともあるから、携帯だけは意識して君の夢の中に持ち込んだ物だ」
ふーん。よくわからないけれど、夢には夢の法則があるのね。
普段なら、いろいろ疑問に思うことも「まっ。夢だから」と素直に納得してしまう。
「そういったものは自然じゃないから、不具合が起こる可能性が高い。携帯が開かなかったり、ボタンを押してもメールや通話ができなかったり……
その女物の服も、かなりしっかりイメージしないと前だけの張りぼて服になってしまう」
つまり、夢の中だからって、全部が全部思い通りになら……って、前だけ!?
私は、慌てて背中に首をねじったが、どこもおかしいところはなかった。
「そんなにドレスが欲しいのなら、そこらのデパートに入って、服を買ったほうが早いと思うが。 たぶん、細部がぼやけているだろうが……」
そういえば、レースの細部まできっちり表現されているこの服に比べて、今、目の前にいるサジの服は良く見てみると、コンタクトを外した時のようにぼやけて見える。ちなみに私、近視。
遠くの景色ははっきり見えているのに。
「でも、夜だよ」
デパートも閉まっている。
「じゃあ、あきらめるんだな」
サジはとろりとした液体の中に指先をつけるが、すぐ顔をしかめ指を水から抜く。
お風呂は、冷たくも熱くもなかったはずだが・・・? 先ほどのことだと言うのにそもそも温度なんてものがあったのか。
「やはり・・・川か」
「何、一人で納得しているのよ。大体、どこに川があるって言うのよ」
サジはそれには答えず、「俺はもう帰る。明日、あのファミリーレストランで」と言い置いて、彼はズボンに手を突っ込み、闇の中に消えていった。