「お姉様の婚約者は私が貰うわ。私のを差し上げる」と妹が言うので、婚約者だけでなく姉妹の全部をお取り替えいたしました――七日目、妹が「返して」と泣いております
「お姉様の婚約者は私が貰うわ。私のを差し上げる」
妹のリースロッテは、父の椅子の脇に立ってそう言った。私は帳を抱え、紙の匂いを連れたまま居間へ入ったところだ。
「妹の好きにさせてやれ」
父はそう言って目を閉じる。
「え……? 本気……ですか?」
「こいつは言い出したら聞かない」
椅子の背に体を預けたきり、夕日が頬をなぞってもこちらを見ない。
私はユリアーネ・ヴァイスマン、二十五歳。六年、領の帳を回してきた跡取りだ。
抱えた帳の角が肋に食い込み、息をするたび硬さを返してくる。夕日が窓の桟で細く折れ、床へ落ちた長い影は私の足元まで届いていた。
私の婚約者は侯爵家の三男で、月に一度ここへ来て、私に優しい声を掛ける。その響きが私に向いているのか、この家の帳に向いているのかは、聞いたことがない。妹の婚約者は三十の辺境伯で、戦で脚を痛めている。妹は十八だ。
婚約者は、家の立場に付いている。
私の婚約者は〈跡取りの婿〉、妹の婚約者は〈嫁ぐ娘の夫〉。届にはそう書いてあって、名は書かれていない。取り替えるなら、婚約者だけでは済まず、暮らしまで紙の上を移る。
数える。部屋、侍女、持参金、届、婚約者、迎え。六つ。指の腹で、一つずつ数え終える。最後に触れた爪の硬さが残る。
「わかりました。では、全部お取り替えいたしましょう」
私は淡々と言った。
「え……? 全部?」
「婚約者は、跡取りの婿としてお迎えする方です。跡取りを取り替えないかぎり、婚約者は動きません」
妹の巻き毛が勢いよく揺れ、夕日をはじく。父の椅子の肘掛けに手を置いて、まっすぐ私を見上げてくる。私は目をそらさない。
「跡取りって、私が女伯爵になるってことなの?」
「跡取りは、跡取りです」
妹が肘掛けを叩く。短い音が、父と私の間へ落ちた。
「欲しいのは、エッケハルト様よ。呼び名なんて要らないわ」
「では、その内容で届を書き直しましょう。もう変えられませんけどいいですね?」
「いいわ! やったぁ! エッケハルト様ぁ」
妹は私の婚約者の名を、もう自分の側へ置いたように呼ぶ。響きは軽く、腕の中だけが重い。
「怒らないの、お姉様?」
「怒れば、手が止まります」
「ふふっ、あんな田舎の傷物、お姉様にちょうどいいわ」
父は目を閉じたままだ。眠ってはいない。私の声が落ちるたび、耳だけがわずかに動いている。
「父上。侯爵家と辺境伯様へ、手紙を二通出します」
「任せる」
「私の名前も、侯爵家への手紙に入れてねっ! ふふっ」
「では」
辺境伯様への手紙には、取り替えの次第と、七日目に迎えを、と書く。筆先が紙を離れても、白い余白が目に残る。封に蝋を落とすと、いつもの甘く焦げた匂いが立つ。
◇
夜。南の部屋の戸口で、まだ昼の熱を返している板を踏んで妹に言う。
「一つ目よ。部屋を交換しましょう」
「えっ? 交換って、どういうこと?」
「今夜のうちに、部屋を取り替えます」
「ちょ、ちょっと待って。今夜なの? 私、まだ何も片づけていないわ」
「片づけは、侍女がするわ」
廊下の燭台の灯が、妹の頬に明るさと影を置いた。足音が止まり、侍女頭は手燭を持ったまま少し離れたところに立っている。
「こ、今夜のうちに、でございますか?」
「はい。妹の衣装箱は北へ、私の机の物は南へ移すことにします」
「……本当に、よろしいのでございますか?」
「よろしいかどうかではなく、決まったことです」
「かしこまりました。すぐに人手を集めてまいります」
南の部屋には、昼に満ちた陽の匂いが残っている。光を吸った壁は、夜になっても指先へぬくもりを返す。私はこの窓を、開けたことがない。
北の部屋。寝台の横には、六年分の帳が机より高く積まれている。紙と埃と乾いた墨の匂いが、喉の奥へ薄く絡んだ。妹は戸口で足を止める。
「なに、これ?」
「これが跡取りの部屋の景色です」
「明日、これ全部どかして」
「跡取りの物です。扱いは、跡取りが決めてください」
妹は帳の山へ目を向ける。けれど、積まれた紙を見てはいない。その視線の先にいるのは、私だけだ。
「お姉様、私に意地悪しているの?」
「意地悪は、届に書けません」
「……明日、お父様に言いつけるわ」
「どうぞ?」
「ねぇ、お姉様って、やっぱり変よ」
南の部屋へ戻り、初めて窓を開ける。夜の庭から、草と水と土が冷たく混じる匂いが流れ込む。壁一枚の向こうにありながら、私の知らなかったものだ。
◇
翌朝。石床の冷たさが靴底から上がる廊下で、侍女頭に言う。
「二つ目。侍女の交換」
侍女頭が、返す言葉を待つように私を見る。朝いちばんに顔を合わせ、墨で汚れた指まで知っている人だ。
「私は、リースロッテ様付きになるのでございますね」
「はい。妹付きの子が、私に付きます」
「……リースロッテ様は、朝がお遅うございますが」
「では、遅い朝に慣れることになります」
妹付きの侍女は若く、櫛を握る指が柄の上を滑っている。その手が私の髪に触れた途端、弾む声が上がった。
「お嬢様の髪に触れるの、初めてです!」
「お任せします」
「はい! これから毎朝、結わせてください!」
指が耳の後ろを通るたび、首の裏が細くくすぐったい。鏡の中で結い上がった顔は借りもののようで、目だけがこちらを確かめている。髪はこれまで自分でまとめてきた。数えるのと同じで、手が順を覚えている仕事だ。
衣装部屋。妹の嫁入りのために父が積んだ箱がある。部屋の空気は、木と布の匂いで重い。
「三つ目。持参金」
侍女頭が箱の錠へ目を落とす。鍵穴の縁が、朝の光で細く光る。
「嫁ぐ娘の物、ということでございますね」
「嫁ぐ娘は、私になりました。箱は南の部屋へ移します」
「……では、錠の鍵はどちらへ?」
「私が持ちます」
受け取った鍵は、手のひらの熱を拒むように冷たい。男たちが箱を持ち上げると錠が鳴り、木の底を受けた肩がゆっくり沈んだ。その重さが、私の物になったと告げている。
居間へ戻り、妹の名で書き直した跡取り届を父の前に置く。紙は薄いのに、腕がひどく重い。
「四つ目。跡取り届」
書いたのは夜だ。六年、自分の署名で回してきた帳を、この手で妹へ渡す。筆先が止まり、紙の上に音のない間が生まれた。落ちた墨は、新しい跡取りの名の横でゆっくり滲んでいく。
「任せる。わしは読まん」
父は署名し、印を押す。紙を見ず、いつもそうしてきた手つきだった。私の字が読まれたことは、一度もない。
「早馬で、王都へお願いします」
早馬の使いが駆け出し、蹄の音を石壁に響かせながら門の外へ消える。静けさが戻るより先に、妹が居間へ入って来る。
「北の部屋の帳、どかしてよ、お父様」
「あれは跡取りの物だ」
「跡取りは、私よ?」
「なら、お前が決めろ」
「え……? どうやって決めればいいの?」
父は椅子に沈み、声の届かないところへ引いてしまう。妹が私を見る。その視線を受けたまま、私はまだ数えている途中だ。
◇
次の日の昼、エッケハルト様が王都から馬車で来る。侯爵家へ出したほうの手紙を、握ったままだ。上等な紙は彼の手の中で皺を刻み、小さく鳴っている。
「ユリアーネ嬢。僕には、この手紙の意味が分からないんだが」
「跡取りは妹になりました。届は昨日、王都へ送りました」
「伯爵は、なんと言ったんだ?」
「任せる、と」
彼の指が、手紙の皺をもう一度押し潰す。かすかな鳴りだけが、言葉の空いた間を埋める。
「これは、まだ撤回できる話なんだろう?」
「書き直せるのは、当主だけです」
彼の目が私を外れ、広間の奥、領のある方角へ向く。まばたきが一度。その短い間に、見慣れていた優しさの形が静かにほどけていった。
「跡取りは、リースロッテ嬢か。……構わない。伯爵領は、伯爵領だ」
「五つ目。婚約者。婿入り先は、妹です」
妹が北の部屋から階段を降りて来る。髪はいつもほど整わず、束ねきれない後れ毛が首筋で揺れている。エッケハルト様が、その手を取る。
「リースロッテ嬢。改めて、婚約者としてご挨拶を」
「エッケハルト様!」
妹へ向けられた顔は、月に一度私へ向いていたものと同じで、笑みの角度まで変わらない。私はそれを、遠い窓の外にある、触れようのない景色のように見ている。
「ユリアーネ嬢。君は、辺境へ行くことになるんだろう?」
「七日目に、迎えが参ります」
彼は頷きもしない。妹の手を握り直す指にだけ、わずかに力がこもった。
「婿殿には、いつもの客間をお使いいただきます」
「跡取りの婿なら、部屋は跡取りの隣だろう?」
「跡取りの隣にあるのは、帳の山です」
妹が、私と彼を交互に見る。エッケハルト様の口の端が下がり、広間の空気まで冷えていく。
「……まさか、冗談ではないんだろうな?」
「冗談なら、六年も積みませんわ」
彼は、意味を知らない笑い方をする。妹も声を合わせて笑う。どちらも、まだ何も知らない。
◇
三日目、妹は帳の前で泣いていた。
北の部屋の床に座り込み、裾を直す手も止まっている。帳はどれも閉じたままだ。家令が戸口から静かに声を掛ける。
「跡取り様。小作の陳情と、冬の薪の手配でございます。いつもどおり、私どもが動きます。お決めいただくだけで結構です」
「お姉様に決めてほしいの」
「お気持ちは分かりますが、決めるのは、跡取りです」
「ねぇ……。いいほうを教えてくれるだけでいいの」
「いや、教えることも、決めることになりますので」
妹の膝の上で、指が組まれては解けている。家令は廊下との境を越えず、そこで静かに身を低くした。
「……お決めになるのは、明日でも構いません。ただ、薪は雪の前でなければ値が上がります」
「お姉様!」
妹の手が帳の角に触れ、刃を避けるように引っ込む。紙の縁は薄く、冷たい。六年触っていれば力の逃がし方が分かるが、慣れない指はよく切る。
早馬の使いが、王都からの受理の札を持って来る。表は道の埃でざらつき、指の腹へ細かな砂を残す。私が受け取って読む。
「受理されましたわ。跡取りはリースロッテ」
「……そんなの、嘘よ」
「王都の札です。嘘は書けません」
妹が、喉を震わせて声を上げる。涙は頬から膝へ落ち、衣に吸われた。家令は目を伏せたまま、音を立てず廊下へ下がる。
居間へ降りると、エッケハルト様が父の前に立っている。窓からの白い光が、向かい合う足元だけを照らしていた。
「持参金は、どこへ行った?」
「嫁ぐ娘の物だ」
「嫁ぐのは――」
「嫁ぐ娘の物です。嫁ぐのは、私ですので」
彼の目が、初めてまっすぐ私を捉える。けれど、あまりに遅い。
「では、伯爵領の金は、跡取りの物だろう?」
「領の金は、領の物です。帳に書いてあります」
「帳は、リースロッテ嬢が」
「はい。跡取りですので」
彼が父を見る。父は椅子に沈んだままだ。
「伯爵。あれに領を回せるとは、まさか思っていないだろう?」
「回すのは、跡取りですわ」
「……侯爵家には、なんと知らせればいい?」
「ご随意に。届は、もう王都にあります」
彼の口が、言葉を探すように開きかけ、そのまま止まる。浅い息だけが唇からほどけた。
「……君は、いつからこんなことを考えていたんだ?」
「考えてなどおりません。妹の希望をかなえただけですわ」
父が目を閉じる。窓の外では、風に揺れる枝の音だけが返事をしている。
◇
七日目、辺境伯が自分の足で迎えに来た。
ヴェスターマルクの馬車が門の前で止まる。車輪が地面を噛み、その音が背まで響いてから、庭は静かになった。御者が踏み台を置く前に、辺境伯は自分で車外へ降りる。杖。左の脚。こちらまで、歩いて来る。その先が砂利を突くたび、小石が淡い光をはじいて跳ねた。私は歩数を数えない。数えずにいるのは、この一度だけだ。
玄関の段の上に、妹とエッケハルト様が並んでいる。扉は開いているのに、どちらもこちらへ来ようとしない。
「伯爵令嬢か?」
「ユリアーネです」
私は恭しくあいさつをする。
「手紙は読んだ。取り替えの次第も、迎えの日も」
「七日目、と書きました」
「今日だ」
声が低く、砂利の上をまっすぐ渡ってくる。日に灼けた顔は、目のあたりだけが深い影に沈んでいた。
「迎えは、俺の役目だ」
「恐れ入ります」
「取り替えの品で……よいのか?」
「品ではございません。夫ですわ」
杖の音がきっぱり止まる。残った静けさが、私の言葉をそのまま抱えている。
「最初にあなたをと、お願いしたのだが、伯爵が跡取りは出せんと言ったのだよ」
六年で初めて、自分の名で欲しがられていたと知る。数える指は途中で止まり、喉の奥へ熱がせり上がった。飲み下すまでに空いた間を、杖の先が黙って待っている。
「……嬉しゅうございますわ」
「ユリアーネ殿。帳を、一冊持ってきた。道中の暇つぶしに」
辺境の帳だ。表紙は日に焼け、長く使われた角が丸い。受け取ると、紙に外の風と墨の匂いが染みていた。開けば、字が大きい。
「拝見します」
「薄い。ユリアーネ殿の帳とは、比べ物にならん」
「わたくしが厚くいたしますわ。オスヴァルト様」
辺境伯の眉がわずかに動き、影になった目元へ細い光が差す。
「辺境は寒い。書く指が、かじかむ」
「火を焚きますわ」
「……薪はある」
「では、数えさせていただきますわ」
段の上から、妹の声が細くほどける。門を渡る風にさらわれそうな響きだ。
「お姉様、その人――」
「辺境ヴェスターマルクからいらっしゃった、私の夫ですわ」
妹の顔を見る。エッケハルト様はその横に立ちながら、もう彼女へ視線を向けていない。門の外の馬車を、車輪から窓枠まで値踏みする目つきだった。
「妹御か?」
「はい。この家の跡取りです」
「……分かった。俺は明日の朝に発つ。今夜は、伯爵の客だ」
◇
夜――。
南の部屋で、持参金の箱と辺境の帳を荷にする。紐を掛ける手へ木の重さが返り、結び目を引くたび掌が熱を持つ。窓は開けたままで、庭の冷たい匂いが紙の間へ入ってくる。
戸口に妹が立つ。北の部屋から来た彼女は髪を下ろしたままで、細い束が頬に絡んでいる。侍女頭は、まだ新しい主人の結い方を覚えていないらしい。
「お姉様」
初めて、お姉様の後が続かない。この子が私を呼ぶときには、必ずその先があった。欲しい物か、嫌って遠ざけたい相手か。今は、開いた窓を抜ける風だけが間を満たしている。
「エッケハルト様、今日、家令と帳の話ばかりしていたの。薪の手配に署名しろって、私に言うのよ」
「跡取りですので」
「私が署名したら、本当にそれで決まってしまうのよ? いいの?」
「はい。署名すれば決まります。その後は、家令が動かします」
妹の指が戸口の枠をなぞり、木へ細い音を立てる。爪の先だけが、押しつけたように白い。
「お姉様は、これを六年、ずっとしていたのね」
「決める日だけです」
「でも、その決める日が毎日あるのよ」
「はい。ですから、帳が山になります」
夜の庭で虫が鳴き、開いた窓から細い声が流れ込む。
「あの人、怖くなかったのね」
辺境伯のことだ。砂利の上で止まった杖の音が、まだ耳の奥に残っている。
「私の夫です」
「……ごめんなさいとは、言わないわよ」
「知っています」
妹が南の窓を見る。開いたままのそこから夜の風が入り、下りた髪を持ち上げた。声より先にこぼれた涙が、頬の上で冷たく光っている。
「ねぇ、返して! 部屋も、侍女も、全部! 全部よ!」
数える。六つ。一つも欠けていない。指先は迷わず止まるのに、妹の頬を伝う雫だけが、どうしても数の中へ入らない。
私は大きく息をつく。
「あなたの希望通り、お取り替えは済みました。お返しは、承っておりません」
連載版はこちらです
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短編で描けなかったところも丁寧に書いていきますので、ぜひお楽しみください(●´ω`●)




