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「お姉様の婚約者は私が貰うわ。私のを差し上げる」と妹が言うので、婚約者だけでなく姉妹の全部をお取り替えいたしました――七日目、妹が「返して」と泣いております

作者: 月城 友麻
掲載日:2026/09/04

「お姉様の婚約者は私が貰うわ。私のを差し上げる」


 妹のリースロッテは、父の椅子の脇に立ってそう言った。私は帳を抱え、紙の匂いを連れたまま居間へ入ったところだ。


「妹の好きにさせてやれ」


 父はそう言って目を閉じる。


「え……? 本気……ですか?」


「こいつは言い出したら聞かない」


 椅子の背に体を預けたきり、夕日が頬をなぞってもこちらを見ない。


 私はユリアーネ・ヴァイスマン、二十五歳。六年、領の帳を回してきた跡取りだ。


 抱えた帳の角が肋に食い込み、息をするたび硬さを返してくる。夕日が窓の桟で細く折れ、床へ落ちた長い影は私の足元まで届いていた。


 私の婚約者は侯爵(こうしゃく)家の三男で、月に一度ここへ来て、私に優しい声を掛ける。その響きが私に向いているのか、この家の帳に向いているのかは、聞いたことがない。妹の婚約者は三十の辺境伯(へんきょうはく)で、戦で脚を痛めている。妹は十八だ。


 婚約者は、家の立場に付いている。


 私の婚約者は〈跡取りの婿〉、妹の婚約者は〈嫁ぐ娘の夫〉。届にはそう書いてあって、名は書かれていない。取り替えるなら、婚約者だけでは済まず、暮らしまで紙の上を移る。


 数える。部屋、侍女、持参金(じさんきん)、届、婚約者、迎え。六つ。指の腹で、一つずつ数え終える。最後に触れた爪の硬さが残る。


「わかりました。では、全部お取り替えいたしましょう」


 私は淡々と言った。


「え……? 全部?」


「婚約者は、跡取りの婿としてお迎えする方です。跡取りを取り替えないかぎり、婚約者は動きません」


 妹の巻き毛が勢いよく揺れ、夕日をはじく。父の椅子の肘掛けに手を置いて、まっすぐ私を見上げてくる。私は目をそらさない。


「跡取りって、私が女伯爵になるってことなの?」


「跡取りは、跡取りです」


 妹が肘掛けを叩く。短い音が、父と私の間へ落ちた。


「欲しいのは、エッケハルト様よ。呼び名なんて要らないわ」


「では、その内容で届を書き直しましょう。もう変えられませんけどいいですね?」


「いいわ! やったぁ! エッケハルト様ぁ」


 妹は私の婚約者の名を、もう自分の側へ置いたように呼ぶ。響きは軽く、腕の中だけが重い。


「怒らないの、お姉様?」


「怒れば、手が止まります」


「ふふっ、あんな田舎の傷物、お姉様にちょうどいいわ」


 父は目を閉じたままだ。眠ってはいない。私の声が落ちるたび、耳だけがわずかに動いている。


「父上。侯爵家と辺境伯様へ、手紙を二通出します」


「任せる」


「私の名前も、侯爵家への手紙に入れてねっ! ふふっ」


「では」


 辺境伯様への手紙には、取り替えの次第と、七日目に迎えを、と書く。筆先が紙を離れても、白い余白が目に残る。封に蝋を落とすと、いつもの甘く焦げた匂いが立つ。


       ◇


 夜。南の部屋の戸口で、まだ昼の熱を返している板を踏んで妹に言う。


「一つ目よ。部屋を交換しましょう」


「えっ? 交換って、どういうこと?」


「今夜のうちに、部屋を取り替えます」


「ちょ、ちょっと待って。今夜なの? 私、まだ何も片づけていないわ」


「片づけは、侍女がするわ」


 廊下の燭台の灯が、妹の頬に明るさと影を置いた。足音が止まり、侍女頭は手燭を持ったまま少し離れたところに立っている。


「こ、今夜のうちに、でございますか?」


「はい。妹の衣装箱は北へ、私の机の物は南へ移すことにします」


「……本当に、よろしいのでございますか?」


「よろしいかどうかではなく、決まったことです」


「かしこまりました。すぐに人手を集めてまいります」


 南の部屋には、昼に満ちた陽の匂いが残っている。光を吸った壁は、夜になっても指先へぬくもりを返す。私はこの窓を、開けたことがない。


 北の部屋。寝台の横には、六年分の帳が机より高く積まれている。紙と埃と乾いた墨の匂いが、喉の奥へ薄く絡んだ。妹は戸口で足を止める。


「なに、これ?」


「これが跡取りの部屋の景色です」


「明日、これ全部どかして」


「跡取りの物です。扱いは、跡取りが決めてください」


 妹は帳の山へ目を向ける。けれど、積まれた紙を見てはいない。その視線の先にいるのは、私だけだ。


「お姉様、私に意地悪しているの?」


「意地悪は、届に書けません」


「……明日、お父様に言いつけるわ」


「どうぞ?」


「ねぇ、お姉様って、やっぱり変よ」


 南の部屋へ戻り、初めて窓を開ける。夜の庭から、草と水と土が冷たく混じる匂いが流れ込む。壁一枚の向こうにありながら、私の知らなかったものだ。


       ◇


 翌朝。石床の冷たさが靴底から上がる廊下で、侍女頭に言う。


「二つ目。侍女の交換」


 侍女頭が、返す言葉を待つように私を見る。朝いちばんに顔を合わせ、墨で汚れた指まで知っている人だ。


「私は、リースロッテ様付きになるのでございますね」


「はい。妹付きの子が、私に付きます」


「……リースロッテ様は、朝がお遅うございますが」


「では、遅い朝に慣れることになります」


 妹付きの侍女は若く、櫛を握る指が柄の上を滑っている。その手が私の髪に触れた途端、弾む声が上がった。


「お嬢様の髪に触れるの、初めてです!」


「お任せします」


「はい! これから毎朝、結わせてください!」


 指が耳の後ろを通るたび、首の裏が細くくすぐったい。鏡の中で結い上がった顔は借りもののようで、目だけがこちらを確かめている。髪はこれまで自分でまとめてきた。数えるのと同じで、手が順を覚えている仕事だ。


 衣装部屋。妹の嫁入りのために父が積んだ箱がある。部屋の空気は、木と布の匂いで重い。


「三つ目。持参金」


 侍女頭が箱の錠へ目を落とす。鍵穴の縁が、朝の光で細く光る。


「嫁ぐ娘の物、ということでございますね」


「嫁ぐ娘は、私になりました。箱は南の部屋へ移します」


「……では、錠の鍵はどちらへ?」


「私が持ちます」


 受け取った鍵は、手のひらの熱を拒むように冷たい。男たちが箱を持ち上げると錠が鳴り、木の底を受けた肩がゆっくり沈んだ。その重さが、私の物になったと告げている。


 居間へ戻り、妹の名で書き直した跡取り届を父の前に置く。紙は薄いのに、腕がひどく重い。


「四つ目。跡取り届」


 書いたのは夜だ。六年、自分の署名で回してきた帳を、この手で妹へ渡す。筆先が止まり、紙の上に音のない間が生まれた。落ちた墨は、新しい跡取りの名の横でゆっくり滲んでいく。


「任せる。わしは読まん」


 父は署名し、印を押す。紙を見ず、いつもそうしてきた手つきだった。私の字が読まれたことは、一度もない。


「早馬で、王都へお願いします」


 早馬の使いが駆け出し、蹄の音を石壁に響かせながら門の外へ消える。静けさが戻るより先に、妹が居間へ入って来る。


「北の部屋の帳、どかしてよ、お父様」


「あれは跡取りの物だ」


「跡取りは、私よ?」


「なら、お前が決めろ」


「え……? どうやって決めればいいの?」


 父は椅子に沈み、声の届かないところへ引いてしまう。妹が私を見る。その視線を受けたまま、私はまだ数えている途中だ。


       ◇


 次の日の昼、エッケハルト様が王都から馬車で来る。侯爵家へ出したほうの手紙を、握ったままだ。上等な紙は彼の手の中で皺を刻み、小さく鳴っている。


「ユリアーネ嬢。僕には、この手紙の意味が分からないんだが」


「跡取りは妹になりました。届は昨日、王都へ送りました」


「伯爵は、なんと言ったんだ?」


「任せる、と」


 彼の指が、手紙の皺をもう一度押し潰す。かすかな鳴りだけが、言葉の空いた間を埋める。


「これは、まだ撤回できる話なんだろう?」


「書き直せるのは、当主だけです」


 彼の目が私を外れ、広間の奥、領のある方角へ向く。まばたきが一度。その短い間に、見慣れていた優しさの形が静かにほどけていった。


「跡取りは、リースロッテ嬢か。……構わない。伯爵領は、伯爵領だ」


「五つ目。婚約者。婿入り先は、妹です」


 妹が北の部屋から階段を降りて来る。髪はいつもほど整わず、束ねきれない後れ毛が首筋で揺れている。エッケハルト様が、その手を取る。


「リースロッテ嬢。改めて、婚約者としてご挨拶を」


「エッケハルト様!」


 妹へ向けられた顔は、月に一度私へ向いていたものと同じで、笑みの角度まで変わらない。私はそれを、遠い窓の外にある、触れようのない景色のように見ている。


「ユリアーネ嬢。君は、辺境へ行くことになるんだろう?」


「七日目に、迎えが参ります」


 彼は頷きもしない。妹の手を握り直す指にだけ、わずかに力がこもった。


「婿殿には、いつもの客間をお使いいただきます」


「跡取りの婿なら、部屋は跡取りの隣だろう?」


「跡取りの隣にあるのは、帳の山です」


 妹が、私と彼を交互に見る。エッケハルト様の口の端が下がり、広間の空気まで冷えていく。


「……まさか、冗談ではないんだろうな?」


「冗談なら、六年も積みませんわ」


 彼は、意味を知らない笑い方をする。妹も声を合わせて笑う。どちらも、まだ何も知らない。


       ◇


 三日目、妹は帳の前で泣いていた。


 北の部屋の床に座り込み、裾を直す手も止まっている。帳はどれも閉じたままだ。家令(かれい)が戸口から静かに声を掛ける。


「跡取り様。小作の陳情と、冬の薪の手配でございます。いつもどおり、私どもが動きます。お決めいただくだけで結構です」


「お姉様に決めてほしいの」


「お気持ちは分かりますが、決めるのは、跡取りです」


「ねぇ……。いいほうを教えてくれるだけでいいの」


「いや、教えることも、決めることになりますので」


 妹の膝の上で、指が組まれては解けている。家令は廊下との境を越えず、そこで静かに身を低くした。


「……お決めになるのは、明日でも構いません。ただ、薪は雪の前でなければ値が上がります」


「お姉様!」


 妹の手が帳の角に触れ、刃を避けるように引っ込む。紙の縁は薄く、冷たい。六年触っていれば力の逃がし方が分かるが、慣れない指はよく切る。


 早馬の使いが、王都からの受理の札を持って来る。表は道の埃でざらつき、指の腹へ細かな砂を残す。私が受け取って読む。


「受理されましたわ。跡取りはリースロッテ」


「……そんなの、嘘よ」


「王都の札です。嘘は書けません」


 妹が、喉を震わせて声を上げる。涙は頬から膝へ落ち、衣に吸われた。家令は目を伏せたまま、音を立てず廊下へ下がる。


 居間へ降りると、エッケハルト様が父の前に立っている。窓からの白い光が、向かい合う足元だけを照らしていた。


「持参金は、どこへ行った?」


「嫁ぐ娘の物だ」


「嫁ぐのは――」


「嫁ぐ娘の物です。嫁ぐのは、私ですので」


 彼の目が、初めてまっすぐ私を捉える。けれど、あまりに遅い。


「では、伯爵領の金は、跡取りの物だろう?」


「領の金は、領の物です。帳に書いてあります」


「帳は、リースロッテ嬢が」


「はい。跡取りですので」


 彼が父を見る。父は椅子に沈んだままだ。


「伯爵。あれに領を回せるとは、まさか思っていないだろう?」


「回すのは、跡取りですわ」


「……侯爵家には、なんと知らせればいい?」


「ご随意に。届は、もう王都にあります」


 彼の口が、言葉を探すように開きかけ、そのまま止まる。浅い息だけが唇からほどけた。


「……君は、いつからこんなことを考えていたんだ?」


「考えてなどおりません。妹の希望をかなえただけですわ」


 父が目を閉じる。窓の外では、風に揺れる枝の音だけが返事をしている。


       ◇


 七日目、辺境伯が自分の足で迎えに来た。


 ヴェスターマルクの馬車が門の前で止まる。車輪が地面を噛み、その音が背まで響いてから、庭は静かになった。御者が踏み台を置く前に、辺境伯は自分で車外へ降りる。杖。左の脚。こちらまで、歩いて来る。その先が砂利を突くたび、小石が淡い光をはじいて跳ねた。私は歩数を数えない。数えずにいるのは、この一度だけだ。


 玄関の段の上に、妹とエッケハルト様が並んでいる。扉は開いているのに、どちらもこちらへ来ようとしない。


「伯爵令嬢か?」


「ユリアーネです」


 私は恭しくあいさつをする。


「手紙は読んだ。取り替えの次第も、迎えの日も」


「七日目、と書きました」


「今日だ」


 声が低く、砂利の上をまっすぐ渡ってくる。日に灼けた顔は、目のあたりだけが深い影に沈んでいた。


「迎えは、俺の役目だ」


「恐れ入ります」


「取り替えの品で……よいのか?」


「品ではございません。夫ですわ」


 杖の音がきっぱり止まる。残った静けさが、私の言葉をそのまま抱えている。


「最初にあなたをと、お願いしたのだが、伯爵が跡取りは出せんと言ったのだよ」


 六年で初めて、自分の名で欲しがられていたと知る。数える指は途中で止まり、喉の奥へ熱がせり上がった。飲み下すまでに空いた間を、杖の先が黙って待っている。


「……嬉しゅうございますわ」


「ユリアーネ殿。帳を、一冊持ってきた。道中の暇つぶしに」


 辺境の帳だ。表紙は日に焼け、長く使われた角が丸い。受け取ると、紙に外の風と墨の匂いが染みていた。開けば、字が大きい。


「拝見します」


「薄い。ユリアーネ殿の帳とは、比べ物にならん」


「わたくしが厚くいたしますわ。オスヴァルト様」


 辺境伯の眉がわずかに動き、影になった目元へ細い光が差す。


「辺境は寒い。書く指が、かじかむ」


「火を焚きますわ」


「……薪はある」


「では、数えさせていただきますわ」


 段の上から、妹の声が細くほどける。門を渡る風にさらわれそうな響きだ。


「お姉様、その人――」


「辺境ヴェスターマルクからいらっしゃった、私の夫ですわ」


 妹の顔を見る。エッケハルト様はその横に立ちながら、もう彼女へ視線を向けていない。門の外の馬車を、車輪から窓枠まで値踏みする目つきだった。


「妹御か?」


「はい。この家の跡取りです」


「……分かった。俺は明日の朝に発つ。今夜は、伯爵の客だ」


       ◇


 夜――。


 南の部屋で、持参金の箱と辺境の帳を荷にする。紐を掛ける手へ木の重さが返り、結び目を引くたび掌が熱を持つ。窓は開けたままで、庭の冷たい匂いが紙の間へ入ってくる。


 戸口に妹が立つ。北の部屋から来た彼女は髪を下ろしたままで、細い束が頬に絡んでいる。侍女頭は、まだ新しい主人の結い方を覚えていないらしい。


「お姉様」


 初めて、お姉様の後が続かない。この子が私を呼ぶときには、必ずその先があった。欲しい物か、嫌って遠ざけたい相手か。今は、開いた窓を抜ける風だけが間を満たしている。


「エッケハルト様、今日、家令と帳の話ばかりしていたの。薪の手配に署名しろって、私に言うのよ」


「跡取りですので」


「私が署名したら、本当にそれで決まってしまうのよ? いいの?」


「はい。署名すれば決まります。その後は、家令が動かします」


 妹の指が戸口の枠をなぞり、木へ細い音を立てる。爪の先だけが、押しつけたように白い。


「お姉様は、これを六年、ずっとしていたのね」


「決める日だけです」


「でも、その決める日が毎日あるのよ」


「はい。ですから、帳が山になります」


 夜の庭で虫が鳴き、開いた窓から細い声が流れ込む。


「あの人、怖くなかったのね」


 辺境伯のことだ。砂利の上で止まった杖の音が、まだ耳の奥に残っている。


「私の夫です」


「……ごめんなさいとは、言わないわよ」


「知っています」


 妹が南の窓を見る。開いたままのそこから夜の風が入り、下りた髪を持ち上げた。声より先にこぼれた涙が、頬の上で冷たく光っている。


「ねぇ、返して! 部屋も、侍女も、全部! 全部よ!」


 数える。六つ。一つも欠けていない。指先は迷わず止まるのに、妹の頬を伝う雫だけが、どうしても数の中へ入らない。


 私は大きく息をつく。


「あなたの希望通り、お取り替えは済みました。お返しは、承っておりません」

連載版はこちらです

https://ncode.syosetu.com/n1976ms/


短編で描けなかったところも丁寧に書いていきますので、ぜひお楽しみください(●´ω`●)


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妹はアホで父親は馬鹿だなぁ。
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