婚約破棄された瞬間、私にかけられていた"国家封印"が解けました――今さら戻れと言われても、もう遅いです
シャンデリアの光が、白い石床に無数の花を咲かせていた。
王都ヴァルドリアで最も格式高いとされる王城の大舞踏会。百を超える蝋燭が天井から揺れ、貴族たちの宝石が光を反射するたびに、広間全体がゆるやかに呼吸しているように見えた。
クラリス・エヴァンスは、その輝きの中で壁際に立っていた。
淡い青灰色のドレスは、侍女が丁寧に選んでくれたものだ。地味すぎることも華美すぎることもなく、王太子の婚約者として相応しい落ち着きがある、と彼女自身は思っていた。しかし今夜、王太子ディルクの瞳は一度も彼女へ向けられていない。
その視線の先には、薔薇色の笑顔があった。
リゼット・モロー。伯爵家の三女で、今季の社交界に彗星のごとく現れた少女だ。小柄な体に巻きついた緋色のドレスは大胆に肩を露出し、くるくると変わる表情のひとつひとつが場の空気を甘く染める。笑えば周囲の男性が釘付けになり、少し眉を曇らせるだけで「どうしたのか」と人が集まる。そういう種類の美しさを、彼女は持っていた。
クラリスはそれを、羨ましいとも妬ましいとも思わなかった。ただ、少し疲れていた。
王太子殿下の婚約者という立場になってから三年。魔力の管理補佐、農業政策の統計整理、国境付近の結界定期点検への同行。名目上は「婚約者の学習」として課されるそれらの仕事を、クラリスは黙々とこなしてきた。褒められることはほとんどなく、気づかれることもほとんどなく、ただ淡々と、今日も明日も続くのだと思っていた。
「クラリス」
低く呼ばれて、彼女は顔を上げた。
ディルク王太子が、こちらへ歩いてくる。背が高く、金の刺繍が施された白の礼服がよく似合う。絵画から抜け出たような顔立ちをしていると、初めて会った日に思った記憶がある。今はもうそんなことを考えもしないが。
彼の後ろに、リゼットがいた。控えめなようでいて、しっかりとディルクの腕に手を添えている。
「申し上げたいことがある」
ディルクは広間の中央で立ち止まった。周囲の会話が、ぱたりと止まる。人々の視線が集まるのがわかった。
「本日をもって、クラリス・エヴァンスとの婚約を破棄する」
静寂が、波紋のように広がった。
クラリスは瞬きをした。聞こえた言葉の意味を、頭の中でもう一度なぞる。
「理由を、お聞きしても」
我ながら、ずいぶん落ち着いた声が出た。
ディルクは眉ひとつ動かさなかった。「君は地味だ。つまらない。王妃として、国を彩る華がない」
隣のリゼットが、わずかに目を伏せた。申し訳なさそうな仕草だったが、口元には微笑みが浮かんでいる。
「リゼットには、それがある。私は彼女を選ぶ」
それだけだった。三年間という時間に対する言葉は、それだけだった。
クラリスは深く息を吸い込んだ。傷ついていた。確かに傷ついていた。しかしそれよりも不思議なことが、その瞬間に起きていた。
胸の奥で、何かが、ほどけた。
縫い目をひとつひとつ丁寧にほどいていくような、静かで確かな感覚。ドレスの内側を流れる体温が変わったような気がして、クラリスは思わず自分の手を見下ろした。
何も変わっていない。白い手袋に包まれた、いつもの手だ。
「……承知いたしました」
彼女は膝を折り、礼をした。顔を上げたとき、ディルクはもう彼女を見ていなかった。
馬車が城門を出たあたりから、クラリスは自分の体がおかしいと気づき始めた。
正確には、「おかしい」というより「軽い」のだった。
肩に乗っていた何かが、消えている。長い時間をかけて慣れてしまっていたから気づかなかったが、確かに今まで、何かがそこにあった。重くはなかった。ただ存在していた。押さえつけるというより、包んでいるような。あるいは、縛っているような。
「お嬢様、大丈夫ですか」
向かいの座席で、侍女のマリアが心配そうに覗き込んでいた。二十歳そこそこの、そばかすの多い少女だ。クラリスより三つ年下で、エヴァンス家に仕えて五年になる。
「ええ、大丈夫よ」
クラリスはそう答えながら、窓の外へ目を向けた。
夜の王都が流れていく。石畳の街路、並ぶ建物、街灯の炎。そのどれもが今夜は少しだけ違って見えた。輪郭が、鮮明すぎる。石の色も、炎の揺らぎも、葉を揺らす夜風も、まるで初めて目にするもののように細部まで届いてくる。
馬車が王都の外縁を抜けて、エヴァンス家の領地へ向かう街道に入ったとき、クラリスは息を呑んだ。
道脇の花壇に、花が咲いていた。
それ自体は何もおかしくない。しかし彼女はよく知っていた。この花壇は今月の初めから土が乾いており、花が咲く気配がないと、先週馬車で通りかかったときに思ったばかりだった。それが今、白い小花をびっしりと開かせている。まるで時間を早送りにしたかのように。
「……マリア」
「はい」
「あの花壇、先週はどうだった?」
マリアは窓を見た。少し間があった。「枯れかけていた気がします。水不足だったのかと」
「そうよね」
クラリスは花から目を離せなかった。
馬車が進むにつれて、気づくことが増えた。街道沿いの草が、妙に青々としている。空気が、やわらかく湿っている。夜であるにもかかわらず、風が温かく、草の匂いが濃い。
何かが変わった。今夜、舞踏会の広間で。婚約破棄が告げられたあの瞬間に。
クラリスは手袋を外して、素手で窓枠に触れた。
指先から、何かが流れ出ていく気がした。川が水を運ぶように、ごく自然に。止めようとも思わないし、止める方法もわからない。ただ流れていく。
「……今まで何かが、抑えられていた?」
独り言だったが、マリアが聞いていた。「お嬢様?」
クラリスは首を振った。「なんでもないわ。少し疲れただけ」
エヴァンス家の屋敷に戻り、自室に入り、ドレスを脱いで寝台に横になった。天井を見上げながら、もう一度あの感覚を確かめようとする。
まだある。胸の奥で、何かが流れている。
眠れないだろうと思っていたが、気づいたら朝になっていた。
翌朝、クラリスが屋敷の窓を開けたとき、庭が変わっていた。
昨夜まで土が見えていた花壇に、緑が溢れている。雑草が伸びたというのではない。丁寧に育てられてきたはずの薔薇が、季節外れの蕾をいくつも持ち上げていた。まだ夜明けの光の中に、赤と白が滲んでいる。
クラリスは窓枠に手をついたまま、しばらく動けなかった。
「……おはようございます、お嬢様」
背後でマリアの声がした。着替えを手伝いに来たのだろう。彼女もすぐに窓の外へ目を向け、小さく息を飲んだ。「あの薔薇、昨日まであんなに咲いていましたか」
「いいえ」
クラリスはそれだけ答えた。
朝食を終えると、父親の執事であるオルドが血相を変えて食堂に飛び込んできた。白髪交じりの、実直で無口な老人だ。二十年以上エヴァンス家に仕えて、滅多なことでは表情を変えない。その彼が、顔を紅潮させていた。
「お嬢様、少しよろしいでしょうか。領地の、東区画のことで」
クラリスは立ち上がった。「何があったの」
「それが……見ていただいた方が早いかと思います」
馬車で小一時間かけた先にある東区画は、エヴァンス領の中でも土地が痩せており、毎年収穫に苦労している場所だった。三年前から土壌改良を試みているが、思うように成果が出ず、昨年の収穫は例年比で六割にも届かなかった。
馬車の窓から外を見た瞬間、クラリスは息を止めた。
麦が、育っていた。
信じられないほど青々とした麦が、畑一面を覆っている。まるで収穫直前のような穂の充実ぶりで、しかし種を蒔いたのはまだひと月も経っていないはずだった。農夫たちが呆然と畑の縁に立ち尽くし、互いの顔を見合わせている。
「いつから」
「夜明け前から、こうだったと。昨日の夕方に確認したときは、まだ発芽したばかりだったそうです」
オルドが低い声で言った。クラリスは馬車を降り、畑の縁まで歩いた。素手で土に触れると、昨夜と同じ感覚がある。何かが流れていく。根へ、土へ、草へ、染み込んでいくような。
農夫のひとりが帽子を脱いで頭を下げた。「お嬢様、これは……」
「わからない」
正直に言った。「でも、悪いことではないと思う。収穫できそうなら、していい」
農夫たちは再び顔を見合わせたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。東の果樹園も、北の牧草地も、昨夜から様子が変わっていると。
屋敷に戻ったクラリスは、書斎に閉じこもった。
エヴァンス家の書斎には、先代から受け継いだ古い文書が多く眠っている。父は政務に忙しく、クラリス自身は子供の頃から本を読むのが好きだったから、この部屋の棚の配置はほとんど頭に入っていた。
彼女が探しているのは、魔力と契約魔法に関するものだ。
昨夜からずっと、頭の隅で引っかかっていることがある。婚約が、ただの婚約ではなかったのではないかという感覚。あのほどける感触は、指輪を外したときのような単純なものではなかった。もっと深いところで、何かが解除されたような。
三時間ほどかけて埃っぽい棚を漁り、クラリスはようやく一冊の薄い冊子を見つけた。王国建国期の魔法体系を記した手書きの文書で、羊皮紙が黄ばんでページの端が欠けている。文字は古い書体で読みにくかったが、辛抱強く読み進めると、ある項目で手が止まった。
「……契約封印法」
声に出して読んだ。
魔力の強い人間を王権のもとに置くために用いられた、古代の契約魔法。婚約や臣従の誓いに組み込むことで、相手の魔力を緩やかに制限し、王家や主君側へ一定量を「供給」させる仕組み。本人はほとんど気づかない。封印されている側は魔力が「普通」であると認識したまま生き続け、制限が解除されて初めて、以前の状態が異常だったことを知る。
クラリスは冊子を閉じた。
静かな書斎に、彼女の息だけが聞こえた。
「私はずっと、縛られていたの?」
誰も答えない。
でも、答えはもうわかっていた。三年前、婚約の儀式で交わした言葉。指輪を受け取ったあの瞬間から、彼女の中に眠っていた何かは、ずっと押さえ込まれていたのだ。王家のために。王国という仕組みを支えるために。本人が知らないまま。
怒りが来るかと思ったが、来なかった。
代わりに、ひどく静かな気持ちになった。
三年間、自分が無能だと思っていた。魔力量は平均的で、貴族令嬢としての才覚も特筆すべきものがない。ディルクが退屈そうにしているのは、自分に魅力がないからだと信じていた。結界の点検でいつも少しだけ足りない感覚があったのも、農業政策の統計を眺めていると何かが見えそうで見えない感覚があったのも、全部そこから来ていたのかもしれない。
蓋をされていたのだ。ずっと。
クラリスは深く息を吸い、ゆっくりと吐いた。
それから三日で、噂が広がった。
エヴァンス領の作物が、異常な速度で育っている。収穫量が倍になるどころか、痩せていたはずの東区画が肥沃な土地に変わりつつある。果樹には実がなり、牧草は青く茂り、井戸の水位が上がった。
農夫たちはひそひそと話した。「お嬢様が戻ってきてから」と。
領地の外にまで話が漏れるのに、それほど時間はかからなかった。
隣接するカルフ侯爵家の管理人が視察に来た。その翌日には王都の商会から代理人が訪ねてきた。クラリスは会わなかった。まだ、何も整理できていなかったから。
代わりに、毎日領地を回った。
馬に乗って、端から端まで。土を触り、水路を確かめ、農夫たちの話を聞いた。するとわかったことがある。彼女が立ち寄った場所が、翌日には変わっている。川の流れが少し変わって水が均等に行き渡るようになったり、ずっと虫に悩まされていた区画から虫が減ったり。意図していないのに、体が自然に何かを調整しているようだった。
「お嬢様の魔力が、土地に馴染んでいるんだと思います」
五日目の夜、書斎でオルドが言った。彼はクラリスが見つけた古文書を自分でも読んでいたらしく、老いた目に珍しく興奮の色がある。「この文書によれば、国家維持系と呼ばれる希少な能力がございます。結界を安定させ、土地を豊かにし、経済の流れを整える。国の基盤そのものを支える力です。しかしあまりに強大であるがゆえに、古来より王家が独占し……」
「封印してきた」
クラリスが続けると、オルドは頷いた。
「私は知らなかった」
「無論でございます。知らせれば、抵抗なさるでしょうから」
しばらく、ふたりとも黙っていた。
クラリスは窓の外を見た。夜の庭に、薔薇の白が浮かんでいる。三年分の花が、一気に咲いたかのようだった。
「これから、どうなさいますか」
オルドが静かに聞いた。
クラリスはすぐには答えなかった。
どうなるか、ではなく、どうするか。彼はそう聞いた。初めて自分の意志を問われているような気がした。三年間、婚約者として課題をこなし続けた日々には、誰もそれを聞かなかった。
「少し、考える時間をちょうだい」
そう言いながら、心の中では既に何かが決まりかけていた。
七日目に、隣国の外交使節団がエヴァンス領を通過した。
それ自体は珍しくない。北の隣国ガルネット王国との外交ルートは昔からこの街道を通っており、エヴァンス家は通過の際に宿を提供する慣習があった。クラリスは当主代理として挨拶に出た。父は王都に残っていたから。
使節団の先頭に立っていたのは、クラリスが想像していたより若い男だった。
二十代半ばといったところか、淡い灰色の外套を着て、馬上から周囲をゆっくりと見渡している。整った顔に感情は薄いが、目だけが鋭く動いていた。品定めをするのではなく、何かを読み取ろうとしているような目だ。
「ガルネット第二王子、ルーファス・アルデンと申します」
馬を降りて礼をした声は、落ち着いていた。「エヴァンス侯爵令嬢、クラリス様ですね。初めてお目にかかります」
「ようこそいらっしゃいました。粗末なものですが、宿と夕食をご用意しております」
定型の言葉を返しながら、クラリスは彼の視線に気づいていた。
話しかけてくるわけでも、じろじろ見るわけでもない。しかし確実に、何かを観察している。領地の様子を、土地の色を、空気の質感を、そして彼女自身を。
夕食の席で、それは確信に変わった。
ルーファス王子は食事の途中でふと顔を上げ、真っすぐにクラリスを見た。「一つ、聞いてよいですか」
「どうぞ」
「この領地は、最近何か変わりましたか」
クラリスは手を止めた。「……何故そう思われますか」
「街道に入ってから、土地の気配が違います。空気が生きている。作物の育ち方が普通ではない」彼はグラスを置いた。「ガルネットでは古い文書に記録があります。国家維持系の能力を持つ人間が本来の力を発揮したとき、土地がこうなると」
沈黙が落ちた。
「……詳しいのですね」
「我が国は、そのような力を封印することをしなかったので」
さらりと言った言葉の意味を、クラリスは受け取った。
ルーファスは少し間を置いてから続けた。「単刀直入に申し上げます。あなたは今、どういう立場にいますか」
「婚約を解消されました。五日前に」
「では、身分は自由ですね」
「そうなります」
王子は静かに頷いた。そして、テーブル越しにクラリスを見て言った。「あなた一人で、国が成り立つレベルの能力だ。それをわかっていますか」
クラリスは答えなかった。
しかしその夜、初めて、自分の価値というものについてまともに考えた。
寝台に横になりながら、天井を見上げる。ルーファス王子の言葉が、頭の中で繰り返されていた。
国が成り立つレベル。
三年前、婚約の儀式でディルクに言われた言葉を思い出す。「君のような能力の者が妃候補に挙がるとは思わなかった。まあ、家柄は悪くないから」。そのときは傷つきもしなかった。最初からそういうものだと思っていたから。愛情ではなく政略、感情ではなく役割。それが貴族の婚姻というものだと、幼い頃から叩き込まれていた。
でも本当は、違った。
役割があった。大きな役割が。ただ、誰も教えてくれなかっただけで。
クラリスは目を閉じた。
怒りは、やはり来なかった。代わりに、静かで冷たい何かが胸の中心に沈んでいく感触があった。怒りより長く続く種類の感情だと、なんとなく思った。
使節団は翌朝、北へ向けて発った。
見送りの場でルーファスは馬上から振り返り、クラリスに向かって短く言った。「近いうちに、また」
それだけだった。しかし彼の目が、約束の形をしていた。
使節団の馬蹄の音が遠ざかったあと、クラリスはしばらくその場に立っていた。風が南から吹いていて、領地の麦畑を揺らしている。青い波のような穂の揺れを眺めながら、彼女は今後のことを考え始めた。
本格的に、今度こそ。
王都で異変が起き始めたのは、それから十日後のことだった。
最初に報告が来たのは結界のことだ。
王都を囲む魔力結界は、建国以来一度も途切れたことがない難鉄壁と呼ばれるものだ。外敵の侵入を防ぎ、内部の魔力流動を安定させる。その結界が、先週から出力が落ちているという。魔法省の技師たちが総出で点検したが、結界石そのものに異常はない。ただ、何故か魔力の供給量が落ちている。
次に来たのは農業省からの報告だ。
王都近郊の農地で、今月の収穫見込みが例年を大きく下回る見通しとなった。理由は不明。土壌に問題はなく、天候も例年並みだ。にもかかわらず、作物の育ちが悪い。農夫たちは口を揃えて「土地の元気がない」と言うが、元気というのは計測できるものではないので、省の役人たちは困り果てていた。
さらに一週間後、王都の市場から活気が消えた。
商取引の量が突然落ちたわけではない。値段が上がったわけでも下がったわけでもない。しかし何故か、流れが滞る。商人たちは「なんとなく仕入れを控えたくなる」と言い、消費者は「なんとなく今は買いたくない」と言う。目に見える原因がないまま、経済の血流が緩やかに澱み始めていた。
王太子ディルクがそれらの報告を並べて見たのは、三つの問題が出揃った日のことだ。
「なぜだ」
執務室で、彼は言った。宰相補佐と魔法省の長官と農業省の次官が居並ぶ前で、珍しく眉間に深い皺を寄せている。「同時に三つの問題が出るというのは、偶然ではないはずだ。原因は何だ」
誰も答えられなかった。
「調べろ。早急に」
最初に気づいたのは、ディルクの側近のひとりだった。
エルン・ヴァッツという名の、三十代の文官だ。能吏として知られており、感情よりも数字を信じる人間だった。彼は三つの問題が出た時期を調べ、それより少し前に何があったかを遡り、ある一点で手が止まった。
舞踏会の日だ。
もっと具体的に言えば、婚約破棄が告げられた日。
エルンは一日かけて各省の記録を洗った。結界の出力低下が始まったのは婚約破棄の翌日。近郊農地の生育不良が報告されたのは五日後。市場の流動性が落ち始めたのは一週間後。全てが、一点から広がる波紋のように日付が並んでいた。
彼はさらに調べた。エヴァンス家の領地の近況を調べると、逆のことが起きていた。作物が異常な速度で育ち、土地が豊かになっているという噂が商人たちの口から集まってきた。
エルンは書類を束ねて、執務室へ向かった。
ディルクは窓の外を見ていた。
「殿下、少しよろしいでしょうか」
「なんだ」
「例の三件について、調べてまいりました」エルンは書類をテーブルに広げた。「全て、婚約破棄の直後から始まっています」
「……それが何だというんだ」
「エヴァンス令嬢が、国家維持系の能力を持っている可能性があります」
沈黙が落ちた。
ディルクが振り返った。その顔に、初めて見る表情があった。「何だと」
「古い文書に記録がございます。この能力を持つ者が王家の婚約者として契約を結ぶと、能力の一部が王国全体へ供給され続けます。結界の安定、土地の豊穣、経済の流動。全てが、その供給によって支えられていたとすれば……」エルンは一瞬躊躇したが、続けた。「殿下、彼女が原因では」
ディルクは何も言わなかった。
長い沈黙の後、彼はゆっくりと椅子に腰を下ろした。
テーブルの上に並んだ書類を見る。数字が、日付が、全てひとつの方向を指している。
「呼べ」
低い声だった。
「は」
「クラリスを呼べ。今すぐ」
使者が来たのは、クラリスが領地の水路の点検から戻った日の夕方だった。
王家の紋章が入った封筒を、マリアが不安そうな顔で持ってきた。クラリスは封を開けて、中を読んだ。
短い文面だった。王城への出頭を求める内容で、署名はディルクの名だ。
「どうなさいますか」
マリアが聞いた。
クラリスはしばらく文面を眺めていた。
「行くわ」
「ですが」
「大丈夫」
封筒を丁寧に折って、テーブルの上に置いた。今の自分と、三週間前の自分は違う。それだけははっきりわかっていた。
王城の応接室は、初めて来たときと何も変わっていなかった。
白い壁、青いカーテン、金縁の椅子。クラリスが腰を下ろして待っていると、ほどなくしてディルクが入ってきた。後ろに宰相と側近が続く。
彼の顔を見るのは、婚約破棄の夜以来だった。
あのとき迷いのなかった顔に、今は何かが張り付いている。焦りを押し隠した、取り繕いの表情だ。クラリスにはわかった。三年間、この人の顔を隣で見てきたから。
「来てくれたか」
「呼ばれましたので」
ディルクは椅子には座らず、立ったままクラリスを見た。「単刀直入に言う。王城へ戻ってきてほしい」
クラリスは何も言わなかった。
「王妃にする。正式に」彼は続けた。声に、力を込めようとしている。「婚約破棄は撤回する。婚礼の日取りも、君の望む時期に合わせる。どうだ」
応接室が静かだった。
クラリスは視線をディルクから外さなかった。
この男は今、何を言っているのか。三週間前に大勢の前で告げた言葉を、今日は誰もいない部屋でなかったことにしようとしている。地味でつまらないと言った口で、今は王妃にすると言っている。
おかしくはなかった。怒りが込み上げてくるかと思ったが、こみあげてきたのは別の感情だった。静かな、明確な、拒絶の形をした何かだ。
「殿下」
クラリスは口を開いた。
「先日の婚約破棄の理由を、もう一度おっしゃっていただけますか」
ディルクがわずかに眉を動かした。「……それは」
「地味でつまらない、王妃として国を彩る華がない、とおっしゃいました。私の記憶では」
「あれは、その、言い過ぎた部分もあった」
「言い過ぎ」
クラリスは静かに繰り返した。「大勢の前で婚約破棄を宣言して、他の女性を選ぶと告げた。あれが言い過ぎ、ですか」
ディルクは口を閉じた。
「殿下が捨てたのは、地味な婚約者ではありません」
クラリスはゆっくりと立ち上がった。椅子を引く音だけが室内に響く。
「あなたが捨てたのは、国そのものです」
応接室の空気が変わった気がした。宰相と側近が、互いに視線を交わしている。ディルクの顔から表情が消えた。
「結界を安定させていたのは私でした。近郊の作物の収穫を支えていたのも。経済の流れを整えていたのも。婚約という契約魔法に組み込まれた封印によって、私の能力が王国へ供給され続けていた。殿下はそれを知っていましたか」
「……知らなかった」
「では、知っていた者が王家にいたということです」
ディルクの顔が、わずかに青くなった。
クラリスは続けた。目の前の男から視線を外さずに、落ち着いた声で。「三年間、私は何も知らされずに縛られていました。力を使われ続けていました。それに対する謝罪は、この場にありませんね」
「……クラリス」
「戻りません」
はっきりと、言った。
「王妃の座には興味がありません。あなたの隣にも、戻るつもりはありません」
「しかし国が」
「国のことは、国が考えてください」クラリスはディルクの目を見た。「私はこれまで、ずっとそうしてきました。今度は、私自身のことを考える番です」
ディルクが何かを言おうとした。しかしクラリスはすでに向きを変えていた。扉へ向かって歩き出しながら、一度だけ振り返る。
「一つだけ申し上げます。次に同じ能力を持つ人間を見つけたとしても、同じことはできません。そのような文書が残っているならば、私が全て回収します。どうぞ、他の手段をお考えください」
扉を開けて、廊下に出た。
後ろから声はかからなかった。
王城を出たとき、空は夕暮れで橙色に染まっていた。
クラリスは馬車に乗り込みながら、自分の手を見た。震えていない。驚くほど、落ち着いている。
マリアが心配そうに「大丈夫でしたか」と聞いた。
「ええ」
クラリスは窓の外を見た。王都の石畳が夕陽に光っている。「帰りましょう」
それから王国が傾いていくのに、そう長い時間はかからなかった。
結界の出力は回復せず、魔法省の予算は底をつき始めた。近郊農地の収穫は三割減で終わり、冬に向けての食料備蓄が不安視された。市場の流動性は戻らず、商人組合が王家への陳情書を提出した。
民の間では、婚約破棄のことが囁かれるようになった。
あの夜、王太子が捨てた婚約者は、実は国を支えていたのではないか。そういう話が広がるのに、噂というのは驚くほど早い。
ディルクへの風当たりは急速に強くなった。
政務での判断の遅さや、リゼットへの肩入れを露骨にすること、エヴァンス令嬢への仕打ちが話題にのぼるたびに、貴族の間での評判は削れていく。かつて彼の周囲に集まっていた取り巻きたちが、少しずつ距離を置き始めた。
リゼットは、ある朝突然体調を崩して社交界から姿を消した。
華というのは、照らす光がなければ輝けない。その光が、静かに王都から遠ざかっていたから。
エヴァンス領では、その頃から本格的な変化が始まっていた。
収穫が安定した。それだけではない。隣接する領地からの視察が増え、クラリスの元へ直接話を聞きに来る貴族が現れるようになった。彼女の能力のことは、既に王都の一部では知られていた。口を閉じておく理由が、もうどこにもなかったから。
オルドが訪問者の対応に追われる日々が続いた。
「お嬢様、本日はグレイン侯爵家とトルバ商会から使者が参っております。それと昨日お断りしたカルフ侯爵からも再度」
「わかった。午前中に二件、午後に一件。それ以上は断って」
クラリスは地図の前に立ちながら答えた。領地の水路の改修計画を立てているところだ。以前は統計の整理だけを任されていたが、今は自分で図面を引いている。やってみると、驚くほど自然に手が動いた。どこに水を通せば土地全体が潤うか、どこを補強すれば流れが安定するか、考える前に体がわかっている。
これが本来の自分なのだと、少しずつ飲み込んでいった。
ルーファス王子が再びエヴァンス領を訪れたのは、最初の訪問から一ヶ月が経った頃だった。
今度は外交使節団ではなく、少人数の供を連れただけの私的な訪問だった。事前に短い手紙が届いており、クラリスは断らなかった。
「領地が変わりましたね」
馬を降りながら彼は言った。一ヶ月前と同じく、周囲をゆっくりと見渡している。ただ前回より、その目が穏やかだった。「遠くからでもわかる。土地が息をしている」
「大げさですね」
「事実です」
クラリスは彼を館へ案内しながら、前回より少し話しやすいと感じていた。理由を考えて、すぐにわかった。今の自分には、隠すものがない。婚約者という肩書きも、王家への義理も、何も。
夕食の席で、ルーファスは本題を切り出した。
「我が国の王から、正式な打診を預かってきました」
クラリスはワインのグラスを置いた。「聞かせてください」
「ガルネットへ来ていただきたい。能力を発揮できる環境を整える用意があります。土地の管理、経済政策への参与、結界の維持。何もかもを強制するつもりはない。あなたが望む範囲で、望む形で」
「封印はしない、と」
「いたしません」ルーファスは静かに言った。「ガルネットにはそのような慣例がないと、先日申し上げた通りです。古い文書も残っておらず、従ってそのような技術も伝わっていない。あなたの能力はあなたのものです」
クラリスはしばらく考えた。
ガルネットへ行く。それは、この国を出るということだ。生まれ育った土地を、父の領地を、慣れ親しんだ街道を、後にすること。
「父の領地はどうなりますか」
「エヴァンス家との関係は、別に協定を結ぶことができます。交易の優遇や、魔力供給の部分的な継続も検討できる」
「私の意志で、自分の能力の使い方を決められますか」
「当然です」
「誰かの婚約者や妻として、能力を差し出すのではなく」
ルーファスは少し間を置いた。「あなたは今、私を疑っていますね」
「当然です」
クラリスは率直に言った。「一度、同じことをされました。疑わない方がおかしい」
王子は静かに頷いた。怒る様子も、弁解する様子もない。「もっともです。だから、急ぎません。あなたが納得できるまで、時間をかけて話しましょう」
その言葉が、奇妙なほど胸に届いた。
急がない、という言葉を、誰かに言われたのはいつ以来だろう。三年間、常に何かの期限があった。結界の点検も、統計の提出も、婚約者としての振る舞いも、全部に期限と形式があって、クラリスはそれをこなし続けていた。
「では、何度か話しましょう」
彼女は言った。「あなたのことを、もう少し知ってから決めます」
「それで構いません」
ルーファスは微かに笑った。初めて見る表情だった。硬い顔が少し緩んで、年齢相応の顔になる。
その夜遅く、彼が客間へ引き上げた後、クラリスは書斎のひとり掛けの椅子に座って、暖炉の火を眺めた。
迷いはある。それは正直なところだ。全てを手放して新しい場所へ行くことへの、抗いがたい怖さがある。しかし同時に、胸の奥に温かいものもあった。怖さと同じくらい確かな、前へ向かう感触。
この三週間で、自分は随分変わった。
いや、変わったというより、戻ってきたのかもしれない。ずっとそこにあったものが、ようやく日の光の中へ出てきた。
ルーファスはその後、三度エヴァンス領を訪れた。
一度目は農業政策の話をした。ガルネットの土地の状況、水の問題、冬に弱い穀物の品種。クラリスは地図を広げて一緒に眺め、気づいたことを遠慮なく言った。ルーファスは黙って聞き、時折鋭い質問を返してきた。話していて心地よかった。否定されないし、過剰に称賛もされない。ただ対等に、言葉が交わされる。
二度目は結界の技術的な話だった。ガルネットの技師がひとり同行してきて、三人で夜遅くまで議論した。クラリスが感覚的に理解していることを言葉にすると、技師が目を丸くして「それは我々が十年かけて研究していた問題の答えです」と言った。そのときルーファスが傍らで、ほら、と言いたげな顔をした。言わなかったけれど。
三度目は、特に議題がなかった。
午後に到着したルーファスは、夕食まで領地を歩いてみたいと言った。クラリスが案内した。麦畑の間の細道を並んで歩きながら、特に重要でもない話をした。ガルネットの秋の祭りのこと、クラリスが子供の頃に読んでいた本のこと、どちらの国の料理が好きかということ。
畑の縁で立ち止まって夕陽を見ていたとき、ルーファスが言った。
「あなたは今、幸せですか」
唐突な問いだった。
クラリスは少し考えた。「まだ途中だと思います」
「途中」
「今まで自分というものをあまり考えてこなかったから、まだ全部は見えていない。でも」彼女は麦畑を見渡した。「悪くない、とは思っています」
ルーファスは何も言わなかった。ただ頷いて、また夕陽を見た。
その横顔を、クラリスは少しの間眺めた。
急がない、と言った人だ。本当に急がなかった。三度の訪問を通じて、一度も焦らせなかった。それが、じわじわと信頼に変わっていた。打算かもしれないと疑う自分もいたが、打算だけであの顔はできない、とも思った。
「一つ、聞いてもいいですか」
「どうぞ」
「あなたは、私の能力に興味があるのですか。それとも、私に」
ルーファスが振り返った。
少し間があった。風が麦を揺らす音だけが続く。
「両方です」
彼は正直に言った。「最初は能力への関心が先でした。それは否定しません。しかし今は、あなたという人間の方が、より興味深い」
「どこが」
「恐れを飲み込んで動く人だから」
クラリスは眉を上げた。
「大勢の前で婚約破棄を告げられた翌日、あなたは領地を歩いていた。王城へ呼ばれれば一人で乗り込んでいった。怖くなかったはずがない。でも動いた」ルーファスは静かに続けた。「そういう人が、私は好きです」
夕陽が、麦の穂を金色に染めていた。
クラリスは少しの間、その色を見ていた。それから、ゆっくりと息を吐いた。
「わかりました」
「何が」
「ガルネットへ行きます」
ルーファスが少し目を細めた。「今、決めたのですか」
「今、決めました」
彼は何かを言いかけて、やめた。代わりに小さく頷いた。その頷き方が、どこか安堵を含んでいるように見えた。
出発までの二週間、クラリスは忙しく動いた。
父へ話をした。父は黙って聞いていたが、最後に「お前が決めたなら」とだけ言った。それ以上も以下もなかったが、エヴァンス家の父としてはそれが精一杯の祝福だとわかった。
オルドには領地の管理を任せた。彼は涙をこらえているような顔をしたが、「御意」と一言言って頭を下げた。
マリアが「私もついて行っていいですか」と聞いてきた。クラリスは笑って頷いた。
荷物は少なかった。ドレスと書物と、古い文書の写し。それだけで十分だと思った。
出発の前日、クラリスは一人で領地を歩いた。
東区画の麦畑、北の果樹園、川沿いの牧草地。全部を見て回るのに半日かかった。土に手を触れるたびに、いつもの感覚がある。何かが流れていく、柔らかく確かな感触。
ここに、三年分の力が眠っている。
しかしもうここだけが、自分の場所ではないのだと思った。
力は場所に縛られない。自分も、場所に縛られない。それが今の自分の理解だ。
出発の朝は、よく晴れていた。
街道に馬車を出すと、領地の農夫たちが道の両脇に立っていた。オルドが何も言わずに集めたのだろう。帽子を脱いで頭を下げている者、手を振っている者、子供を抱きながら黙って見ている者。
クラリスは馬車の窓から顔を出して、一人ひとりを見た。
見知った顔が並んでいた。三年間、婚約者として外にいた間も、この領地が自分の根っこだった。それは変わらない。どこへ行っても変わらない。
馬車が動き出した。
窓の外を流れていく景色を、クラリスはずっと見ていた。
麦畑が終わり、街道が続き、やがてエヴァンス領の境界を示す古い石標が見えてきた。子供の頃から何度も通った石標だ。苔むして、少し傾いている。
通り過ぎる瞬間、クラリスは小さく息を吸った。
指先に、いつもの感触。流れていくもの。今度はこの石標に向かって流れていく。根を張るように、あるいは別れを告げるように。
「お嬢様」
マリアが向かいから呼んだ。「大丈夫ですか」
「ええ」
クラリスは窓から顔を引っ込めて、背もたれに身を預けた。天井を見上げて、一度だけ目を閉じる。
大丈夫かどうか、と聞かれれば、正直なところまだわからない。ガルネットの土地が自分に合うかどうか。力がうまく使えるかどうか。ルーファスとの関係がこれから先どうなるかどうか。何もかもが、まだ途中だ。
でも、途中でいい、と思った。
答えが全部見えてから動けるほど、人生は親切ではない。それはこの三週間で学んだことだ。怖くても、まだわからなくても、動いた先に初めて見えるものがある。
封印されていた三年間、クラリスは何も選ばなかった。選ぶ力があるとも、思っていなかった。
今は違う。
目を開けると、窓の外に青い空が広がっていた。街道の両脇に並ぶ木々が、朝の光を受けてそれぞれの色で輝いている。土の匂い、草の匂い、遠くの川の匂い。全部が、鮮やかに届いてくる。
前方から蹄の音がして、ルーファスが馬で並んできた。窓越しに目が合う。
「調子は」
「悪くないです」
「それは何よりです」
彼はそれだけ言って、馬を進めた。先行して街道を確認するつもりだろう。振り返りもしない。急かしもしない。ただ、隣にいる。
クラリスは、また窓の外を見た。
遠くに、ガルネットの山並みが霞んで見えた。
「私はようやく」
声に出すつもりはなかったが、言葉が出てきた。
マリアが「え?」と聞いた。
「なんでもない」
でも続きは、心の中で最後まで言った。
私はようやく、本来の私として、生きていく。
終幕




