ひとさじのお砂糖 03
紫煙がゆらりゆらりとたちのぼる。
ぼへっ、とだらしなく吐きだす煙が一筋、立ち上ぼったかと思うと空気に溶けてゆく。
それを見つめながら陵和泉は今日もくさっていた。
――退屈さねえー……。ほんっと。
☆
「……というわけで、この件の処理を君にまかせる。いいね和泉君」
まるで不意打ちのように背後からいきなりいわれて、陵和泉はおもわずくわえた煙草をぽろりと落としそうになってしまった。
「?」
怠惰な態度、緩慢な所作で振り返ると、そこには管理官のいかめしく不機嫌な顔がある。
しかし、彼――酒巻管理官が不機嫌なのはいつものことだったから、和泉は改めて回転する椅子ごと振り返って、しかし別段態度を改めるふうでもなく酒巻を見返した。
「すいません管理官。おれに何か、言いました?」
「……」
酒巻は、何もいわずに和泉のデスクの上にぱさりと書類の束を投げ出した。
だが、書類といっても大した量ではない。
「じゃ、その件は君に一任するから。頼んだよ」
「……はあ……」
それっきり、酒巻は踵を返し、忙しそうに部屋を出て行った。
それを見届けてから、和泉は気の抜けたしぐさで書類を取り上げた。
「ええ? ……ふんー……?」
捜査資料のようだった。
ここは警視庁捜査一課の片隅である。
陵和泉は、捜査一課の刑事だ。
歳は二十五、階級は警部――すなわち国家公務員だ。
和泉は、大学現役生であるうちに、国家公務員試験、外交官試験、司法試験のすべてに合格し、その中から刑事の道を選んだのだった。
和泉にとってそれらの試験に合格することはさして難しいことではなかった。
そのための勉強は和泉にとってどれも呆れるほど単純な記憶作業に過ぎず、ひとたび目に入れた物事を決して忘れることのない彼にとっては何ら労を強いられることではなかったのである。
果たしてそれらに合格した後、和泉は警視庁に就職した。
彼が刑事という職業を選択したのは、自分の生家である『陵家』とその一族に対する細やかな意趣返しだ。
陵家は明治時代から多くの警察官僚を排出している家柄である。そして和泉の父もまた、現在の警察官僚の一人だった。
それゆえに当然のことながら和泉にも、そうなることが期待されていた。しかし、国家権力をかさにきて親族同士でなあなあしながら生涯をすごすことは、和泉には耐えられなかった。
そこで、外野が煩いからいちおう程度にひと通りの資格を総嘗めにはしておき、それはそれとして、和泉は現場で働く道を自らに科したのだ。
いっぽう陵和泉は、人柄という点からいってもたいそうな変わり者だった。
和泉は、社会的地位や名声に少しも興味がない。それどころか面倒臭がりでいい加減、自堕落で怠惰、不抜けの権化――なのである。
キャリアの資格とバックに実家の権力があるのをいいことに、興味のない事件は担当してもほったらかし、捜査一課の窓際ではひねもす煙草を吹かし、遅刻はするが残業は絶対の絶対にしない主義。
おかげで現在、和泉のもとに回されてくる仕事といえば、名目上捜査本部を設置して捜査に乗り出さなくてはならない事件や、たらい回しにされてくる厄介ごとのような事件がほとんどだ。
家の面汚し、といわれればそれもよし。家のことを気にかける義理など、和泉はかけらも持ち合わせていなかった。
それに、東大を出て、取れるだけの資格を総嘗めにした人間に面と向かって刃向える人間は、少なくともこの組織には余り存在しない。
また、陵の家には特殊な事情があって、警察官僚だけでなく、国会代議士に弁護士軍団、医師と医大関係者、はては神社本庁の有力者がその身の回りを固めている。
そのため和泉がたとえどのように振る舞おうと、それを咎めることのできる者など、居はしなかったのである。
現状においてはせいぜい、問題を起こさないか遠巻きにするか、触らぬ神に祟り無しといった具合に放置するか、が精一杯だろう。
つまり悠々自適な税金泥棒――それが陵和泉なのである。
――で。今日のお仕事はっと……。
くわえ煙草で溜め息をつき、和泉は捜査資料を取り上げた。
退屈のあくびとともに。
「ふーんー……」
それがまともな事件でないことは、資料を見なくとも予想できた。日常的なことだ。ちなみにまともとは、功績となり出世の助けになるような、という意味である。
――殺人事件?
届出には、奇妙なことが書いてある。記憶喪失らしい女が、殺人を犯したと、どうもそう言っているらしい。
――記憶喪失なのに人を殺したことは覚えてるのか?
和泉はがりがりと頭を掻いた。
被害者不詳。事件概要も不詳。
――なァるほどね……。またまた皆さん、たらい回しってヤツですか……。
☆
水月としても、嫌な予感はしていた。
吉祥寺の自宅マンションに、その男が訪れたのは、その日――一月十六日の夕方
ドアチャイムの音に玄関のドアを開けると、ひょろりと背の高い男が、立っていた。
「あ、どうもお」
気の抜けたような発音で喋り、男は警察手帳を示す。
それは刑事だということの黙示である。
しかし、それにしてはらしくない。
青年のうなじのあたりで束ねられた長い髪は、思いきり刑事というには不似合いなだらしない雰囲気を醸し出している。着用する衣服もどこかよれよれで、まるで呑み歩いて終電に乗り遅れた出来の悪いサラリーマンのような有様だ。
水月は、警視庁の方から来ましたあ、などと惚けたことをぬかす男を白い目で睨んだ。
よく知っている、男だったのだ。
――陵 和泉、二十四歳、職業は刑事。
つきあいは嫌になるくらい長い。
うんざりしながら彼の顔を見返すと、和泉は愉しそうに唇を歪めて、わざとらしい口調で切り出した。
「ちょおっと、お話しなど伺いたいなあと思いまして。暁水月さんですね?」
「……なにそれ。訊かなくたってわかるでしょう。何よ?」
「私、警視庁捜査一課強行三係の――」
お決まりの台詞を、水月は途中で遮った。
「ああもう、能書きはいいっつってんでしょう。何なのよ、こんな時間に」
「まあまあ、水っちゃん。一応、決まりの挨拶なんだから聞いて聞いて」
そこまでいわれて、水月ははじめて眉を顰めた。
「ちょっと……冗談でしょ? 仕事?」
「もちろんでしょ」
水月は、遠慮容赦なく嫌な顔をした。
「最悪……。警察沙汰になってもあんたの世話にだけはなりたくないと思ってたのに……」
「光栄だわあ」
「けなしてんのよ、この警視庁のお荷物刑事が。何があったの?」
「……ああら。話がはやいわねえ」
「長い間、あんたと顔合わせてたくないのよ」
「……河上真希、って女知ってるね?」
――ああ。
嫌な予感はしたのだ。
――ああ……。もうっ。
あの痩せた女の顔が脳裏にフラッシュバックして、やっぱり、と訳もなくそう思えた。
あのコートの赤い色が、不意に意識の中に広がった。さしてめずらしい色彩ではない。それなのに何故か、あの鮮やかな赤い色が印象に残っていた。
ため息をつく。
「それが……何?」
「それでねえ。ちょっと、任意で話、聞かせてもらいたいわけね。新宿南署まで来てくれる?」
「嫌、とはいえない立場なわけかしらひょっとして」
その男――陵和泉という警視庁捜査一課に籍を置く刑事は、水月の長年来の知人だ。だが友人とは、あくまでも呼びたくない水月である。
「他人のふり、してくれたら行ってやらないこともないわね」
水月は仏頂面でそう答えた。
「そんないやな顔しないでよ、水っちゃん。おれだってさ、退屈な仕事にせっかく潤い見出だしてここまで来たんだからさあ。あ、潤いってのはもちろん水っちゃんのことね」
「……一生退屈してなさいよ」
「まあいやねえ。もう一回聞くわよお。……来るの、来ないの?」
「あら。このあたしに令状でも出るって言うの? 何があったか知らないけど被疑者を起訴してから言うのね」
「相変わらず強気なところがすてきねえ、水ちゃん。任意出頭かけられてんだよ、わかってる?」
☆
水月が警察署に到着すると、入り口近くの黒いソファに見覚えのある人物が腰掛けていた。
彼は煙草をくわえて、所在無げにしている。
明らかに警察関係者ではないとわかる空気がそこにだけあって、なにやらぽつねん、という雰囲気であった。
「あら……坂田先生?」
声をかけると、その人物が振り向いて水月を見た。
「やあ、暁先生。困りました」
そう言って、坂田は頭を掻いた。
「どうなってるんです?」
「いやあ……」
そして水月は、昨日から今日にかけての事情を聞くことができた。
坂田と水月は、捜査本部設置のため警視庁から出向してきた捜査一課の刑事である陵和泉と、有田と結城と名乗った所轄の二人の刑事によって、捜査本部となる予定だという部屋に通された。
陵和泉は、殺人事件の捜査について捜査本部を設けるか否か、これを検討するために出向してきた警視庁の刑事で、捜査一課の管理官から委託を受けているとのことだった。
陵本人の所属は、捜査一課は強行犯係の係長である。
通された場所が六畳ほどの狭い部屋だったので、事件自体の扱いは大きいものではないのだろうと、水月は見て取った。
だいだい所轄にこのぐうたら破戒刑事が回されてくるあたりからして捨て事件であるはずだ。
新宿南警察署は、庁舎が新しくなったばかりであるらしく、部屋も綺麗で明るい。
部屋の中、パイプ椅子をすすめられて、坂田と水月はそれに腰を下ろした。
「さて。まず、河上さんと名乗った女性を、病院に運ぶために救急車を呼んだのは、貴方ですよね?」
すました顔で、あくまでも刑事然として机の向かいから和泉が尋ねる。
水月は頷いた。
「そうです。道を歩いていたら、突然倒れた人がいて、それで救急車を呼びました」
「そのあと、病院に付き添った?」
「ええ。一応責任がありますでしょう」
それがなにか、と水月は問う。
すると、水月の隣で、刑事ではなく坂田の方が肩を竦めた。
「実は、あれから、あの患者さん――自分が殺人犯だと言い出しましてね」
「……はあ? 」
「殺人犯、です」
坂田はくりかえした。
「殺人、犯???」
「はい。それで、今日になって病院で、警察の方を呼んだんですよ……。ところが、そうしたら、彼女の身元を知る唯一の手がかりになったとこちらのお医者さんがおっしゃる免許証がなくなっていたというのです」
「――免許証?」
「貴方、その免許証は見ました?」
和泉に向けられ、水月は横に首を振った。
「いいえ。私は容体を聞いて、大丈夫だということだったので、入院手続きのとりあえずの保証人になることだけ了承して、そのまま病院を出たので」
「そうですか」
免許証がない? とは?
どういうことだろうか。
言葉の感じから考えて、自分たちが窃盗を疑われているのだろうか、と水月は考えた。
「で、その河上さんは、どうなったのです?」
「それがですね。ちょっとおかしいんですよ」
結城、という所轄の刑事が身を乗り出して、言う。
「彼女、自分は河上真希に間違いない、と言うのですが……」
「調べてみたところ、河上真希、という名前の女性は、この近辺でひとり、別にいるのです」
別の刑事が、そう言った。
「……別に、いる?」
水月が顔をしかめると、部屋の中を歩きながら行ったり来たりしていた和泉が、にやりと笑った。
一枚の写真が、差し出される。
そこに写っていたのは、病院で見た女性とはまったくの別人であった。
写真の女性は、髪が短く、活発な雰囲気で、肉付きもよく、あんなに痩せていない。
「さきほどこの写真の本人にも会ってきました。中野区のアパートに一人暮らし、二十三歳。職業は、フリーターのようです。それで、困ってしまいましてね……」
「私も困ってしまいました」
坂田が、そういって水月を見る。
水月には、まだ、話がややよく見えない。
「ですから、あの女性は、河上真希ではないという可能性が高いわけです。もちろん、同姓同名の別人、という可能性も残りはしますから、捜索範囲を広げてみてはいますがね」
「その上で、病院に搬送された時に『河上真希』名義の免許証があったというのなら、なんらかの理由で免許証を偽造した可能性もあります。そして、後で密かに処分した――とか」
刑事たちはなんともいえないような顔で、水月と坂田の顔を見比べるように見てきた。
しかし、そんな顔でこちらを見られても困る。
「……だから? 免許証とか、別の人間については私は何もしりません。で? その、河上真希――というか、病院にいるその女性を逮捕した、とかいうんでしょうか? その、彼女が言い出したとかいう、殺人で?」
「いいえ。そもそも話があやふやすぎますし、そこの坂田さんの同僚の方が、まだちゃんした取調べは無理だろうといいましたので。それにじゃあ誰が被害者なのかといえばそれはわからない、覚えてない、なんて話では何某かの令状も取れませんし……現状、逮捕はできませんよ」
「まあ……それはそうかもだけど」
「ただ、患者の鞄の中にはもうひとつ、鍵も、入ってまして」
坂田が言う。
それを受けて和泉が頷き、
「それは任意で提出してもらいましたが、家の鍵であることは確かです。これを調べれば、あるいは家が特定できるかも知れません。ですが、それには一ヶ月ほどの時間を要します。そのうえ、捜査員の絶対数が足りません」
「所轄から人員を割けたとしても、あと、一人か二人がいいところですしてね」
そして、有田、結城と名乗った刑事はお互い顔を見合わせてから、あらたまって水月を見た。
「……何、でしょう」
「それでひとまず、ですね。明日、患者の精神状態について、警察署の鑑定医の診察を受けていただきたいと思うのですが……」
「どうでしょう。お二人にも立ち会っていただきたいのですが」
いかがでしょうかといいながら、口調はやや高圧的だった。
職業柄、不可避なことなのだろう。
とはいえ、そういう意味での立ち会いを、いま、ここで求められるのは、何ら不当なことではなかった。
坂田は患者の診察をした医者なのだし、水月は――彼女が本当に殺人犯なら、雑踏を行く彼女を目撃し、かかわりあいになったことで何か重要な証拠を握ってしまったかもしれないのだ。そして、精神分野の医師でもあり、行きがかり上とはいえ身元保証人も引き受けてしまっている。
水月は、少し顎を反らして尋ねた。
「それ、許可状による精神鑑定、ではないということよね?」
「そういうことになります。証言を信用するべきなのかどうかも現状ではなんともいえない状態なので、確認のため。それでお二方に立ち会いをお願いしたいのですが……」
「……わかりました。でしたらそれには、同意しますわ。明日、なんですね?」
「ご協力感謝いたします」
刑事たちは、安心した様子で小さく頭を下げた。
しかし、じゃあ、と続けて彼らが言うことに、
「それで、ですね。ここからが本題なのですが……その、河上真希を名乗っている患者さんのことについて、最初から詳しく思い出して欲しいのです」
今度は、水月と坂田の方が、顔を見合わせてそれから大きくため息をついた。
「……でさ。なんで!? ……なんで、あんたなのよ、よりによってもう!」
坂田を見送り、刑事たちと別れて警察署を出て、人目がないのを確認すると、水月は青年に食ってかかった。
陽はすっかり暮れており、警察署の窓からもれる明りが、駐車場を照らしている。
入り口の所には、庁舎警備の警察官がが警杖を手にたたずんで二人を見ていたが、そこまではかまっていられなかった。
「もう! もう! 信じられない!」
手にしたショルダーバッグの革紐を握り締めてぐるぐると振り回す。
「しょうがないでしょう。俺のせいじゃないよう。管理官からの命令だもんさあ」
署内にいたときとはうってかわって力の抜ける口調で、陵和泉は水月に反駁した。
「どうせ暇だったんでしょうが」
「まあね」
即答である。
「俺はいっつも暇なのよう」
「じゃあ、暇なあんたが! 悪いんじゃないのよ!」
「ひどおいなあ。水っちゃあん」
「みっちゃんいうな!」
ぎゃあ、と水月は喚いた。
「この、不良刑事! 大体何よその長髪! 服務規程違反なんじゃないの? どうなってんのよ日本の警察は! あ、ちょっとこっちこないでよ!」
水月が必死に嫌がるので、和泉は面白がっている。それはまさしく、逃げ回る子供に飛び付いていこうとする犬、の光景だ。
警察署の駐車場の真ん中である。
「水っちゃんたら、相変わらず冷たいなあ。仲良くしよおよお。俺と水月ちゃんの仲じゃないのう」
どんな仲か、と水月は思った。
そんなものがもしもあるなら斬って捨ててくれるというものだ。
「ちょっと、傍によんないでよっ!」
「いやあね。邪険にしないでよう」
「嫌いなのよっ、あんだがっ」
「またまたあ。無理しなくてもいいのよう、水っちゃんたら」
暁水月は、この男が苦手だ。
とてもとても苦手だ。
和泉とは、生まれた家同士の付き合いもあって、子供の時からの、知り合いである。ほんの小さい頃から、一緒に遊んで育った仲では、ある。
しかし、水月は和泉が嫌いだった。
この、何となくぐにゃぐにゃした感じがたまらなく嫌だった。
男だが女だが判然としないぶにゃぶにゃした喋り方も大嫌いだった。
なにより、子供の頃から周りのどんな男でも水月の言いなりにならない奴などいなかったのに、この男だけは小さい頃から絶対に水月の思い通りにはならなかった。
馬が合わない、といってしまえばそれまでなのだが――腐れ縁は断ち切れないし、面白がって和泉が水月を追いかけ回すものだから、成長の過程で水月は和泉に拒絶反応を示すようになってしまったのだ。
以来、和泉は水月の天敵だ。
「みーっちゃーん」
「こっちくるなっ」
この関係は、子供の時分からちっとも変化していない。
成長の跡がない、ともいえる。
本人たちに自覚は無いようなのだが。
「送ってあげるわよう、マンションまでさあ」
ぎっ、と水月は和泉を睨み返した。
「歩いて帰るわよ!」
「遠慮しなくてもいいのにい」
「してない! 遠慮なんてしてないから構わないでよっ」
「冷たいのね、水っちゃんたら」
水月は、たまらずその横腹に、思い切り、遠慮容赦なく、ショルダーバッグを叩きこんだ。
「手術刀で三枚におろすわよ!?」




