ひとさじのお砂糖 02
☆
――なにかしら。そわそわするわ。
彼女は、唇を噛み締めた。
何か忘れているような気がしていた。
毎日毎日、考えている。
だが時折、自分が何を考えているのかさえわからなくなってしまう時があった。
――大切なこと。
大切な事とは、なんだろう。
何を、忘れてしまったのだろう。
苛々した。不快だった。
☆
人を殺してしまった――河上真希は、確かにそう言った。
しかし、それを軽く問いただすと、今度は錯乱して泣き出した。
それから、わけのわからないことを呟きはじめ、それもなにやらよく聞き取れなかったので、仕方なく坂田が鎮静剤を射って彼女を眠らせた。
救急担当の坂田は、その日の夜も当直だったので、翌朝になってからの交代前の回診で再び彼女の様子を診た。
しかし、やはり彼女は舌足らずな声で繰り返すのだった。
――わたし、ひとごろしなんです。
しかし誰を、とか、何処で、とか尋ねると、やはり錯乱してしまうようだった。
人を殺した、という以外は、わからない、わからないの一点張りなのである。
殺人とは穏やかではない。
だが、患者の様子からして、精神状態の面で少し健康を害している可能性もなくはなく、この時点で、安直に警察に通報したものだろうか、と病院のスタッフは考えた。
しかし――だからといって放っておくわけにもいかず、結局一応警察を呼ぼうということで、意見が一致した。
それから刑事が二人、やってきた。
昼過ぎのことである。
昼間の診療担当の医師たちが病室へ案内すると、刑事たちはそれぞれ、新宿南警察署の結城と有田であると名乗った。
刑事といってもずいぶんと若い。
二人は、病室に案内されると義務的な感じで河上真希に質問を始めた。
六人用の病室には他に三人の患者がいる。
過剰なまでに暖房が効いていて、少し暑いくらいだった。
「人を殺した、とおっしゃっているようですが――」
そう言われると、彼女は急に怯えたような顔をした。
「本当ですか?」
「……はい。あの……本当なんです」
二人の刑事は、顔を見合わせる。
有田という刑事が、手帳とペンを取り出した。
「どこの、誰をですか?」
「わかりません」
「では、いつ?」
「わかりません」
「誰かを殺したということは、わかるのですか?」
「はい、わかります。私が殺したんです」
彼女は無表情に答えていた。
まるで、自分が口にしている言葉の意味が、わかってないようである。実際、わかっていないのではないか、と立会いの医師は思った。
「河上真希、というのは、貴方の名前に間違いないのですね?」
「……」
少しの沈黙があった。
「それもわかりませんか?」
「いいえ。……いいえ、わかります。私は河上です。河上真希です」
枕元に置いてあったハンドバッグを、医師は示した。
「その中に、免許証が」
「ちょっと失礼しますよ」
刑事たちは、そうことわって、鞄を取り上げた。
しかし、すぐに不審な顔になる。
「……ありませんよ、なにも。免許証……ですか?」
「え?」
医師は、驚いて刑事たちの肩越しに鞄を覗き込んだ。
確かに、免許証らしき物はその中に入っていなかった。
だが、医師は首を振った。
そんなはずはない。
彼は、昨日、同僚の坂田と免許証を確認していた。
そして確かに鞄の中に戻した。
看護婦も見ているはずである。
彼はそれから非番となって、今日の昼に、また、坂田と入れ替わりに出勤してきたわけだが。
「その、同僚の方が持っていかれた?」
「いいえ、そんな。それはありません。そもそも彼はこの女性とは何の関係もありませんし、救急医がそんなことをする必要がないでしょう、第一」
ふむ、と刑事は唸った。
「一応――昨日の経緯を詳しく聞く必要があるようですね」
「いや……それは、かまいませんけど……」
「貴女のことも、一応調べなければならないでしょう――」
真希、という名であることは確からしい、その女性は、刑事にそういわれて彼らの顔を見上げた。
「この鞄、……お借りしてもよろしいでしょうか?」
所持品の任意提出を求められ、彼女は頷く。
「どうぞ……」
やはり、どこかぼんやりとしている。
彼女はそして、いまさらのように悲しそうな顔をした。
「私……どうすればいいのでしょう…………?」




