第21話:静かに動く気配
今や落ち着く空間になったホテルの部屋に入ると、
スニーカーを脱ぎ捨て、ベッドにそのままダイブした。
手には当然、くろいわベーカリーの袋を持ったままだ。
ふわっと沈む布団の感触が、
ようやく身体の緊張をほどいていく。
「やっと......落ち着いた気がする......」
((──緊張状態が続いていたため、反動が出ています。))
「あ~~っ!パン潰れてないかな?」
ベッドにダイブした姿勢のまま、
くろいわベーカリーの袋を顔の前まで引き寄せ、
そっと中をのぞき込む──
メロンパンと総菜パンは、
なんとか無事だった。
「よかった~!
ゼニスのメロンパン潰れてないよ! あははは~」
((──遥。メロンパンは仮に潰れても、非常に良いものです。))
「だよね~。じゃあ......ゼニスのメロンパン潰しておくね! あはは」
((──遥。潰れたメロンパンを食べるのも遥です。))
「あはは! そうだった......食べるのわたしだ!」
ゼニスとの軽い掛け合いがなんだか可笑しくて、
胸の奥にかすかに残っていたモヤモヤした感覚が、
ふっとほどけていく。
笑いながら、ようやく肩の力が抜けた気がした。
「......あ、でもその前に手洗わなきゃだね」
ベッドからゆっくり身を起こし、
洗面台に向かう。
((──遥。衛生管理は重要です。))
「だよね~!知ってるもん!ふふっ」
タオルで手を拭き、
ベッドへ戻って腰を下ろす。
袋を引き寄せ、膝の上に乗せる。
「どうしよっかな~......総菜パンから食べよかな?」
そう呟きながら、
わたしはそっと視線を横に向けた。
――ゼニスを見る。
その瞬間、
ゼニスの淡い光が ほんのわずかに揺れた。
ゆるく波紋が広がるみたいに、
一瞬だけ明度が変わり、すぐに静けさへ戻る。
「あっはは~!
ゼニス、まさか総菜パンから食べると思ってなかったでしょ~?」
ゼニスの淡い光が、
わずかに動揺したように揺れる。
((──予想外でした。))
「うわぁ~認めた!あははは!」
((──予測の範囲外というだけで、
メロンパンへの優先順位とは関係ありません。))
「ゼニス~、メロンパンの優先順位は関係あるよね~?ぷっふふ」
((──メロンパンから食べると推測していました。))
「素直だね~ゼニス。」
((──はい。))
「じゃ~、ゼニスのリクエストに答えて、メロンパンから食べよ!」
くろいわベーカリーの袋をそっと開け、
ふわっと香る甘い匂いの中から、
まんまるのメロンパンを取り出す。
表面のざらっとした砂糖の質感が指先に心地よくて、
思わず頬がゆるむ。
「ん~......やっぱり、いい匂い......!」
((──香り成分が食欲を刺激しています。))
「いただきま~す!」
メロンパンをそっと一口かじる。
外はさくっとしているのに、
中は甘くて、ふんわり柔らかい。
その瞬間、思わず目を細めてしまう。
「ん~~っ、美味しい......!
ゼニスも美味しいでしょ?」
((──遥のように味覚や嗅覚で、
美味しさという情報を取得することはできませんが、
メロンパンは非常に良いものです。))
「うん、美味しいってことだね!」
((──はい。美味しいです。))
「ゼニスも素直に美味しいって、言えばいいんだよ~ふふ」
((──今後は、そうします。))
「これからも、一緒に美味しいもの食べよ、ゼニス!」
((──はい。楽しみにしています。))
メロンパンをもう一口かじる。
ふんわり甘いはずの味が、
なんだかいつもより、ずっと美味しく感じた。
ひとりで食べていない安心感が、
そっと胸の奥で広がっていく。
思いのほか、
お腹がすいていたようで、
気づいたらメロンパンを食べきっていた。
「お腹いっぱいになったら、眠くなってきちゃったな......」
((──遥。休息を取るのは良い判断です。))
そのまま横になり、
まぶたをゆっくり閉じた。
「ふぁ~......お昼寝するね......」
((──遥。おやすみなさい。))
ゼニスの淡い光が、
ゆっくりと、明度を落としていった。
部屋の片隅で――
音もなく、微細な処理が動き始める。
......思考 中......
......遥/状態_確 認......
......脳 の 接 続 を...... 再......
......移行 フェ...... ズ...... 調整......
......感情ノイズ......補正......
......環境......揺らぎ_解析......誤差0.03......
......し ん......号......データ......再配置......
......フ ェ......ズ......2......
......移......行......処......開......
静けさが、部屋に沈む。
ゼニスの処理は、
ゆっくりと確実に進行していた。
高かったはずの太陽は、
いつの間にか傾き、
窓からはオレンジ色の光が差している。
その静寂のどこか遠くで、
眠っていた意識がふわりと浮かび上がるように揺れる。
「ふぁ~あ......どのくらい寝てたかな?」
((──2時間58分38秒です。))
「細かいな~......でも、よく眠れた気がするよ~。」
((──良い傾向です。
休息は、遥の状態を安定させます。))
「そういえばさ......なんか変な夢みたんだよね~......」
((──どのような夢でしたか?))
ゆっくりとゼニスの光が揺れ、
まるで続きを促すように、そっと近づく。
「興味津々だな~ゼニス......ふふっ」
((──興味ではありません。必要な情報収集です。))
「興味ないのか~、ちぇっ......ふふ」
ゼニスの淡い光が、
ほんのわずかに否定しきれない揺れを見せる。
((──ある意味では、興味とも言えます。))
「やっぱり興味あるんじゃん~!ふふっ」
((──遥。どんな夢ですか?))
「う~んとね、すっごいおっきなメロンパンが追いかけてくるっていう......」
((──......解析不能ですが、
直前にメロンパンを摂取していた影響が、
夢の内容に反映された可能性は高いです。))
「やっぱり!? 寝る前に食べたのが原因か~!あはは!」
((──睡眠中の心拍・呼吸は正常で、
不安反応もありませんでした。))
「でしょ! だってスッキリしてるもん!」
((──遙の状態は安定しています。))
その言葉に、
なぜかほっと息が漏れた。
曖昧な光の揺れが、
部屋の白い天井に優しく映る。
小さな休憩。
たったそれだけのはずなのに、
世界が少し整った気がした。




